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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

いずれ菖蒲

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 今年も、雨の帝の前に紫の姫たちがずらりと居並んだ。ここ大和民俗公園の花菖蒲園でも、女たちが静かに美を競い合っている。さて軍配はどの姫に…水車の音が、その緊迫感をあおり立てる。
 粋な着物を着こなす女性を彷彿とさせる江戸錦。その上品な紫は、江戸紫というより二藍に近い。やや小ぶりな花には無駄がなく、凛とした立ち姿は、大勢の美女たちの中でも、ひときわ垢抜けている。決して口にはしないが…。

 古来より、日本人は、曇天をあでやかに彩るこの花に心奪われてきた。舞うように花弁を変化させながら咲くその花には、時として、魔性の匂いを感じる。
 「我が恋は人とる沼の花菖蒲(はなあやめ)」、底なし沼に咲く花菖蒲に恋をしてしまったと言う泉鏡花、京紫の美人妻にでも恋をしてしまったのだろうか。
 一方、妻のいる男に恋されて困っているのは、女神ヘラの侍女イリス。ヘラの夫ゼウスは、美しいイリスに何度も言い寄るが、イリスは固く拒み続け、そのことをヘラに打ち明ける。そして、ゼウスから自分を遠ざけてほしいと懇願する。ヘラはイリスの清らかな心に感動し、イリスに虹色の首飾りと大空を渡る翼を授け、神酒を三滴ふりかけた。その時、イリスの身体から一滴の神酒が地上にこぼれ落ち、そこに美しい花が咲いた。その花がIris、フランス語・イタリア語読みでイリス、英語読みならアイリス、日本のアヤメである。

 先月、イタリアの作曲家マスカーニのオペラ『イリス』を鑑賞した。19世紀末のヨーロッパで流行したオリエンタリズムの流れを汲むもので、このオペラに触発されて、プッチーニはあのオペラ『蝶々夫人』を書いたという。つまり『イリス』はジャポニズム・オペラの先駆けとなった作品である。
 舞台は江戸、盲目の父親と暮らすイリスが、騙されて遊郭に売られていくという物語。純真で美しい日本の娘・イリス、好色な金持ちの男・大阪、吉原の女衒(ぜげん)・京都、奇妙な名前の登場人物が、吉原、富士山麓など、想像上の日本を舞台にエキゾチックな物語を展開していく。
 二幕に登場する通称「蛸のアリア」は、葛飾北斎の浮世絵『蛸と海女』にインスピレーションを得たものだという。故郷を偲び、この美しい歌を涙ながらに絶唱するイリスの背後には、紫紺のアヤメと北斎の絵が大きく映し出された。
 当時の西洋の人たちが抱いていた日本のイメージには苦笑するが、日本女性を、他でもないIris・アヤメに重ねたところなどは、なかなかの審美眼である。

 その昔、源頼政が怪獣・鵺を退治した褒美に菖蒲前(あやめのまえ)という美しい女性を賜ることになった時のこと。12人の女性を並べられ、この中から菖蒲前を選ぶように言われたが、どの女性も優劣つけがたく美しく選ぶことなどできない。そこで頼政は、

「五月雨に沢べのまこも水越えていづれ菖蒲と引きぞわづらふ」
 、(雨でかさの上がった水の中に隠れてしまい、どれが菖蒲か引き迷ってしまう)こう詠った。これが、慣用句「いずれ菖蒲か杜若」のもとになっているという。

 厳密な「菖蒲」以外の種別である「花菖蒲」や「杜若」も、総じてアヤメと呼ぶ習慣が一般的に広まっているのも、これらの花の見分けが難しいからなのだろう。
 余談であるが、この頼政という人、女の扱いを実によく心得ていらっしゃる。窮地をしのぐあのお歌は、あっぱれである。

 「最後のお花になりそうだから見にいらして」、うれしいお電話をいただいた。
 「折鶴」の名は、この花を愛された光格天皇(1771年~1840年)の命名によるもの。ひっそりと長い時を生き抜いてきた貴重な品種だという。ほんにその花の姿は、千代紙の折鶴そのものである。
 「不思議な花でね、蕾のころ一旦深く頭を下げたかと思うと、ぐいっと立ち上がってこうして花を咲かせるんですよ」
 そのお話を聴きながら、踊りを舞う女性の姿を想像していた。白地に桔梗紫の着物の、初々しい舞妓さんのような菖蒲…いやこれは杜若であった。

 「いずれ菖蒲か杜若」、いやはや、紫の姫たちの扱いは難しい。

 (新聞掲載日 2017年6月23日)


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想いの雨

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 和菓子屋さんの店先にも、雨の季節がやってきた。白と紫のそぼろに散りばめられた琥珀糖の雨のしずく、涙に愁う女性にも見える紫陽花一輪、目と舌で堪能させていただいた。
 
これほど雨の似合う花はないだろう。紫陽花は、雨が似合う日本を象徴している花なのかもわからない。己が花の盛り、雨の季節に「和菓子の日」なるものを置いているところなど、さすが雨の女王たる花の風格である。
 
ひと雨ごとにその色を深める紫陽花、雨露に濡れた瑞々しい花びら、洗練された職人技と、繊細な和の食材との響演に、ため息がもれる。移ろう季節の中で磨き上げられた感性と、元来の手先の器用さ、和菓子そのものが、日本人を象徴しているのかもわからない。

 古来より、この島国の雨の季節に寄り添いながら、丁寧に暮らしてきた日本人である。洒落た小物、粋な設え、目にも美しいお料理などで雨の暦を彩る技は、世界でも卓越しているものであろう。

 それは、雨の日をとことん愉しむ雨女の技にも、どこか通じるものがある。
 
雨の日には例えばこんな音楽、「雨の歌」のニックネームで親しまれるブラームスのヴァイオリンソナタ第一番作品78
 
生涯独身であったブラームスであるが、実は彼にはずっと慕い続けていた女性がいた。クララ・シューマン、作曲家ロベルト・シューマンの妻で、当時、ヨーロッパでも屈指の女流ピアニストである。
 
すでに音楽家としての地位を築いていたロベルトは、若き音楽家ブラームスの才能を見出し世に送り出した恩人である。よりによってその恩人の妻、しかも自分より14歳も年上の女性に恋をしてしまったのだ。
 
誕生日にブラームスからプレゼントされた『雨の歌』(作品59-3)をとても気に入っていたクララのために、ブラームスはこの歌の旋律を織り込んで、新たにこのヴァイオリンソナタを作りクララにプレゼントした。この曲は思慕の念を音楽で綴った、想いの人への恋文であった。
 
生真面目で不器用なブラームスも、音楽の中では心解き放たれたのだろう。そのヴァイオリンは、叶わぬ恋の想いを雨の歌にのせて、天にも昇るような声で歌い上げている。

 秋篠川の桜並木の土手に差しかかった辺りで、雨粒がこぼれてきた。久しぶりの雨に、土は盛んに雨の匂いを放ち、草木は気持ちよさそうに葉を伸ばしている。田んぼではカエルの聖歌隊が雨の歌を輪唱してご機嫌である。それに合わせて、雨粒も水面で輪踊りを見せる。
 
心地よい秋篠川のせせらぎとも平城中山付近で別れ、秋篠町の中に入っていく。入り組んだ細い道の脇の「歴史の道」の道標辺りまで来ると、すぐ先に見える森が秋篠寺である。土塀に添って南門の方へまわる。
 
門が切り取るカンバスの絵の中に足を踏み入れると、そこは静謐な空気に包まれた神秘の森。樹々の足元一面には、上質な苔の絨毯が敷き詰められている。瑞々しい光沢を放ちながら波打つ様は、女神のまとう絹の衣がつくるドレープに見まがう艶やかさである。
 
雨の中では小鳥たちも声をひそめ、雨はやわらかな苔に吸い込まれて音を立てない。静まり返った緑深い森を抜けると、突然空が抜け、おおらかな奈良の時代の息吹を漂わせる本堂が目に飛び込んでくる。
 
本堂の小さな入り口をくぐると、仏像たちがささめき合う声に一瞬耳を疑ったが、それは、屋根を打つ雨の音で、その音にろうそくが小刻みに炎を踊らせている。伎芸天は、その仄かな灯りの中にひっそりと佇んでおられる。
 
愁いを帯びた美しいお顔は奈良の時代のもの、首元から下の優美なお体は鎌倉時代に補修されたものという、いわくつきのお方である。
 
首を傾け、腰をくねらせた艶やかなお姿は、み仏というより、高貴な女性の姿を連想させる。ひょっとしたら、補修にあたった仏師の脳裏に、想い焦がれる女性の所作がよぎったのではないだろうか。

 ブラームスの雨の歌が聴こえる。降りしきる想いの雨の中に…

(新聞掲載日 2017年6月9日)

 

 

 

 


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茨の道

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 大きな国と小さな国が肩寄せ合う国境。春には野ばらが白い花を咲かせるその国境に、それぞれの国から兵士が一人ずつ見張り番として派遣された。大きな国の老人兵と小さな国の青年兵はいつしか仲良くなった。平和で穏やかな日々が続いていたが、両国間で戦争が起こり、二人は突然敵同士になる。青年は戦場に行き、老人はひとり国境に残される。やがて野ばらは枯れ、青年も…。

 子どもの頃に読んだ小川未明(びめい)の『野ばら』を読み返し、改めて、隣国同士で争う悲しさを思う。国境に咲く花に、なぜ未明は野ばらを選んだのか、そのわけが、今やっとわかったような気がする。
 
「だれが植えたということもなく」という物語の中の野ばらは、おそらく野生種の、俗に茨と呼ばれるものだろう。

 茨とは、棘のある野生のバラ属の総称で、主にノイバラのことを指して言う。その歴史は古く、万葉集にもその名前が登場する。登場すると言っても、萩や梅が100回以上であるのに対し、茨の登場はわずかの2回。しかもそのどちらもが、ロマンティックなものでも、美しい自然を詠ったものでもない。生息の長さと同じだけ、敬遠されてきた歴史をもつ、哀れな茨である。
 
その一つがこれである。
 
「道の辺の茨(うまら)のうれに延()ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」(丈部鳥『万葉集』12-4352)
 
道のほとりの野茨の上に這う野豆のように、私に絡みついて別れを惜しむあなたを、剥ぐようにして私は行くのだろうか―最愛の妻を振り切って、今生の別れになるやもしれぬ、防人としての出で立ちの折に詠われたものだ。にじみ出る哀切の念が痛々しい。
 
この先、この夫婦はどんな道を歩んだのだろうか。

 野ばらと言えば、やはりこれだろう。シューベルトなどでお馴染みの『野ばら』、ゲーテの詩による歌曲である。実は、この詩には、ゲーテ自身の恋が秘められているという。
 
友人と共にゼーゼンハイムという村に遊びに行った折、ゲーテはそこの牧師の娘フリーデリーケと恋に落ちる。しかしゲーテは、結婚を望む彼女との恋を、無情にも断ち切ってしまう。

童はみたり 野中の薔薇 
清らに咲ける その色愛でつ
飽かずながむ 紅におう野中の薔薇
手折りてゆかん 野中の薔薇 
手折らば手折れ 思い出ぐさに君を刺さん
紅におう野なかの薔薇  
(訳詞 近藤朔風)
 
「童」とはゲーテ自身、そして「野中の薔薇」は恋人フリーデリーケのこと。なるほど、事情を知って読むと、愛らしい旋律とは裏腹に、歌詞にはチクリと棘がある。
 
この中に登場する薔薇は、ロサ・カニーナと呼ばれる品種で、広くヨーロッパなどに自生する野生種の薔薇だそうだ。花はほんのり赤みを帯びていて、イヌバラとも呼ばれる。この名は英名の「dog rose」に由来し、「犬の薔薇」すなわち「無価値な薔薇」という意味が込められているという。
 
可哀想なフリーデリーケ。ゲーテに捨てられた彼女は、どんな道を歩んだのだろう。生涯独身を通したというが…。

 小学校、中学校の敷地の裏に、車一台がやっと通れる細い道がある。その途中に、茨が荒れ地を覆って薮を作っているところがある。ちょうどその薮の辺りで、この道は傾斜の急な長い坂道となる。
 
転ばないように足を踏ん張りながらゆっくり下り、帰りは、足元をしっかり見て、一歩ずつゆっくり上る。他に道があるのに、少し近道であるこの道を、仕事場へ、そして子どもたちの学校へと、何十年も歩き続けてきた。
 
長い人生には色んなことがあった。特に子育ての頃には思い悩むことも多かった。辛い思いを抱えて、時に涙を落としながら歩いた茨の道である。
 
この前はまだ堅い蕾だった茨が、今日、五月の眩しい陽光をいっぱいに浴びて、一斉に小さな白い花を咲かせ、辺り一面にやさしい香りを漂わせていた。
 
栽培種の薔薇とはおおよそほど遠い地味な花であるが、この花が茨の花ゆえに、愛おしい。

 この道は 茨の道
しかし茨にも ほのかにかおる花が咲く
あの花が好きだから
この道をゆこう (星野富弘)

(新聞掲載日 2017年5月26日)


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アーケード街のツバメ

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「去年主人が亡くなって、砥ぎは他の方にお願いしているんです。少し日にちがかかりますが、それでもよろしかったらお預かりします」
 
主のいなくなった店で、独り店番をするおばあさんの姿がいたたまれない。昔ながらのショーケースに、包丁やハサミを並べただけの無駄のない設えには相変わらず背筋が伸びるが、明らかに以前のような凛と張り詰めた空気がなくなっている。

 下御門商店街の「菊一文字」の暖簾を初めてくぐったのは5年前のこと。結婚した時に叔母にもらった包丁の柄がガタついてきた。刃も砥いで砥いで随分小さくなっていたが、30年余り使ってきた愛着のある包丁である。何とか修理できないものかとここを訪れた。
 
店番のおばあさんが、栗の皮を剥く手を休めて対応してくださった。持ってきた包丁を、鞄から取り出そうとした時、奥の暖簾がまくれて男性の顔が覗いた。
 
気難しそうなおじいさんの登場に、私は一瞬たじろいだ。「この人にあんな包丁を見せたら、使い方が悪いと怒られるのではないだろうか」
 そんな心配もよそに、おじいさんの顔はもう消えていた。
 
おばあさんと1時間近く話しただろうか、傷みが酷くて修理は無理ということだったので、思い切ってちょっと贅沢な包丁を購入した。今からまた20年も使えば安いものだと、自分に言い訳した。それ以来、その包丁はここへ持ってきて、おじいさんに砥いでもらっていた。

 「若い人には可哀想ですわ。こんな店では食べていかれしませんしね…」
 
おばあさんの口から漏れた言葉は、自分に言い聞かせておられるようにも聴こえた。後継者はおられないそうだ。三代続いた100年の老舗の暖簾はどうなるのだろう。

 東向き商店街、餅飯殿商店街、そして下御門商店街と続いているアーケード街、近鉄奈良駅側を入口と考えると、下御門商店街は一番奥ということになる。少し前まではいつ来ても閑散としていたが、最近は海外からの観光客や、先の「ならまち」を訪れる観光客が増えて、賑わいを取り戻しているように見える。
 
しかし、私の記憶の中のアーケード街の賑わいとは少し趣が違う。こ洒落たカフェやお土産屋さんが並んでいたわけではなく、そこには生活の全てが並んでいた。

 昭和40年前後の約10年間、京都伏見の納屋町アーケード街付近の商店街は、もっぱら我が家の台所であった。人が溢れるアーケード街の光景を、焼き魚やコロッケの匂い付きで、今も鮮明に思い出すことができる。
 
先日、母を誘って納屋町商店街を訪れた。伏見城の城下町として町が発展していく中で、納屋町は、明治には早くも「鉄柱アーチ型全覆式日覆い」を完成させ隆盛を極めていたという。
 
そんな歴史を誇るアーケード街にも、容赦無く時代の波が押し寄せていた。アーケードも新しくなり、近代化が進んでいるが、活気がない。当時のお店の多くが無くなっていた。やはり大型スーパーマーケットの進出の影響だろうか。途中、遠目に見た、見慣れたスーパーマーケットの看板のことを思い出していた。
 
主婦現役時代、毎日のようにここに通った母への親孝行のつもりだったが、返って寂しい思いをさせてしまった。 

 砥ぎ上がってきた包丁を受け取りに、観光客で賑わうアーケード街をぶらぶらと歩いていた。すると、どこかから甲高い鳴き声が聞こえた。ツバメだ。今年もこのアーケード街にツバメが戻って来た。夫婦のツバメなのだろう。ヒナを迎える準備に忙しそうに飛び回っている。
 
自然と隣接したアーケード街は、餌に恵まれ、風雨を凌げ、人通りが天敵のカラスなどから守ってくれる。電灯の温もりも、まだ夜の冷えるこの時期には丁度いい塩梅だ。子育てにはうってつけの場所なのだろう。
 
夜の早い古都の静かなアーケード街、淡い電灯のそばに巣を作る。何という知恵だ。はるばる2000km3000kmの海を越えて、また同じ所に戻って来る。なんという行動力だ。

 人間にも、あのツバメたちのような知恵と行動力があれば…。

(新聞掲載日 2017年5月12日)

 

 

 

 

 

 

 


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2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「国が若く、あぶらのように浮き、クラゲのように漂っていたとき、葦が芽を吹くように勢いよく神が現れた。その名を宇麻志阿斯訶備比古遅神(うまし-あしかび-ひこぢ-のかみ)という」こう語るのは古事記である。
 
日本は「ひょっこりひょうたん島」さながらに海を放浪していたらしい。そして、日本最古の歴史書に最初に登場する生物の名が「葦」である事も興味深い。

 「アシカビ」は漢字にすると葦芽(葦牙)、「カビ」は「黴」と同源で、発酵するもの、芽吹くものを意味する。大地を突き破り勢いよく伸びる葦の芽は、生命力の象徴とされ、堂々万物創世の神の名を飾ったというわけだ。
 
同じく古事記に「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)と記述される我が国は、太古の昔から葦や稲穂が豊かに茂る、水辺の景観の美しい国だったのだろう。

 ところで、葦をアシともヨシとも呼ぶのは、アシは「悪し」に通じ縁起が悪いとされ、ヨシと言い換えられたという経緯がある。
 中が空洞で軽くて丈夫な葦は、古くより(よしず)や茅葺屋根の材料として使われてきた。茅の中でも葦は断熱や保温に優れ、特に耐久性においては群を抜いているという。
 日本では神の名や国の古称にまでにその名を刻み、古くより暮らしの中に活かされてきた葦は、西洋ではどんな存在なのだろうか。
 

 チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形』の第二幕、クララが魔法のお城で観た妖精たちの多彩な踊りの中に「葦笛の踊り」という曲がある。物語はよく知らないという人でも、このメロディには聴き覚えがあるのではないだろうか。
 
この曲は、白い犬でお馴染みのテレビCMに起用され、たちまち日本中に広まった。改めて聴くと、何と不思議な曲だろう。軽妙でどこか妖しいこの笛の音は、確かに一度聴いたら耳に焼き付く。そういう意味では、この選曲は成功なのだろう。

 木管楽器の祖先は葦笛だと言われている。その振動体であるリードは葦の英名reedに由来するもので、オーボエ、クラリネット、サクソフォーンなどの木管楽器のリードは、今でも葦から作られている。
 
リードを作るための葦を、わざわざ南フランスまで買いに行くオーボエ奏者の話を聞いたことがある。南フランスには葦の茂る池や沼がたくさんあるそうだ。葦はラテン語でカンナ、南フランスの都市「カンヌ」は、葦の生い茂る沼地が広がっていたことからこの名が付けられたという。どうやら、フランスと葦との歴史は深そうだ。

 「人間は考える葦である」あまりにも有名なこの言葉を残したのは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルである。人間は葦のように弱い存在であるが、思考するという偉大な能力で無限の力を発揮することができるのだと言う。
 フランスの詩人、ラ・フォンテーヌの寓話『オークと葦』では、川辺で風に揺れる弱い葦をバカにしていた傲慢なオーク(樫の木)は、あるとき強風で根こそぎ倒れてしまい、葦は自らしなって根を守り、生き続けた。
 材料としては優れた性能を誇る葦も、西洋文学の中では弱いものの象徴として扱われている。しかし、ただ弱いわけではない。弱いぶん知恵を働かせる。弱いけれど柔軟さや粘り強さがある。嫋(たお)やかに生きる、そんな葦を称賛しているのだ。

 それにしても葦は驚くほど粘りが強い。枯れているのに、折れ曲がっても手では切れない。1本の葦を取るのに思いがけず時間がかかった。
 
池の畔で枯葦と格闘しているすぐ側を、一羽の鴨が通り過ぎた。見ると、鴨の周りには葦がいっぱい芽を吹いている。鴨も緑の葦原が待ち遠しいのだろう。

 帰り道、おじいさんに声をかけられた。女が4mもの棒を片手に前から歩いてくるのだ、声も掛けたくなるだろう。私が近寄ると、おじいさんの犬は後ずさりした。
「えらい長い棒ですなあ」
「大渕池の葦なんですよ。葦ペンでも作ろうと思って」

 その葦は、葦ペンになることはなく、
我が家の軒に立てかけられ、ひ弱いゴーヤの助人となった。

(新聞掲載日 2017年4月28日)

 


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琵琶湖に棲むもの

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 堀切港(近江八幡市)を出た船は、体を大きく揺すりながら沖島へと向かった。
 豊かな水を湛える雄大な風景に、大海に漕ぎ出でるような錯覚を起こすのだが、頬を打つ澄んだ風が、そこが湖上であることを思い出させる。静かな湖面が、水しぶきを飛ばし大きなうねりを見せた。まるで船の行く手を阻んでいるかのようである。

 湖面を見つめていると、ふと父の顔が浮かんだ。父はまた「竹生島まで泳いで渡ったんだ」と得意満面である。琵琶湖の話をするときの父は、いつも少年のように目を輝かせる。
 父は本当にこの湖を泳いで渡ったのだろうか。湖面は不気味なほどに底を隠して見せない。

 滋賀出身の両親の元に生まれた私は、琵琶湖との心の距離が近い。映画『マザーレイク』の制作の一端を担った滋賀の友人が、ロケ地を巡るツアーに誘ってくれた時も、私は迷うことなく飛びついた。
 全国での封切りを前に、瀬木直貴監督と共に沖島を巡り、その後、島の漁業共同組合で地元の人たちと一緒に映画を鑑賞するというツアーだった。映画は、昨年大津で観て二度目の鑑賞となるが、沖島、いや琵琶湖の浮島に上陸するのはこれが初めてである。

 沖島は日本で唯一、世界でも希少な定住者がいる湖沼に浮かぶ島である。そのことを謳うだけでも観光スポットになりそうなものであるが、島の人たちはそんなことには興味を持たなかった。ただ小さな島の漁村の暮らしを守って生きてきた。
 この島には車は一台もない。コンビニもない。通りには生活の道具が無造作に顔を出し、漁の仕掛けと並んで洗濯物が堂々と風になびいている。琵琶湖の水が、この島を都会の喧騒から切り離し、ここに湖辺の原風景を残した。
 何をもって、人はこの島を「何もない島だ」というのだろう。ここには、私たちがうっかり手放してしまったものが、今もたくさん残っている。

 この『マザーレイク』は、滋賀を活性する目的で制作されたものだと聞いていたので、勝手に小規模なローカル映画を想像していた。しかし予想は大きく外れた。
 琵琶湖を舞台に繰り広げられる温かいヒューマンドラマの陰には、汚れなき子どもの心と、歪んだ大人社会との葛藤が見え隠れする。映画を観ながら、私はその両方を行ったり来たりした。何度も涙が頬を伝った。
 この映画は、滋賀という枠を越えて、多くの人に感動を与えることだろう。

 昨年、湖西の針江を訪ね、琵琶湖辺の自然を守る人々の暮らしを目の当たりにした。人々の「水を守る」意識の高さがとにかく凄い。町中を巡る豊かな湧水は、各家々が使い終えてもなお澄み渡り、川はその美しい水を集めて、琵琶湖に注ぐ。
 琵琶湖に抱かれた自然を巡る水は、湖辺の人々の生活だけではなく、京都から大阪へ至る各地を潤し、数え切れないいのちを育んでいる。上流から下流への水のリレー、それは思いやりのリレーでもある。

 夕方になって波が少し高くなったのだろうか、沖島港に繋がれたたくさんの船が、盛んにどこかにぶつかるような音を立てている。
 往きの船でも感じたことが、湖とはいえ船が思いのほか揺れる。島の人の話によると、船が出せないほど荒れる日も結構あるという。琵琶湖を侮ることはできない。

 和銅5年(712年)、当時まだ無人であったこの島に社を作り、航行の安全を祈願した人がいた。今から1300年余り昔、琵琶湖の中に神社を建立したその人は、藤原鎌足の息子、奈良に興福寺を創設し、藤原氏栄華の基礎を築き上げた藤原不比等である。
 出航までにあと少し時間があるというので、神社に走ることにした。細い路地を走り抜け、丘の中腹の斜面にへばりつくように建てられた奥津嶋神社の急な階段を一気に駆け上がった。

 息の上がった私を迎えてくれたのは、社殿が見下ろす神秘的な琵琶湖の光景であった。中で何かがうごめいているのだろうか、湖面は刻々と表情を変えていく。

 無意識に、私は手を合わせていた。

(新聞掲載日 2017年4月10日)

 


 


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山の神

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 別れと出会いの季節、何かと飲み会の機会も多くなる。

「うちの山の神のご機嫌がよろしくなくて、今日のところは…」とばつが悪そうに飲み会の誘いを断る男性。身に染みているのか「それではまた今度」と苦笑する誘った男性。
 もはや死語となりつつある「山の神」、どれぐらいの人がわかるだろうか。実はこれが「かみさん」の語源、妻のことなのである。
 古来、子を生み子孫を繫栄させる女性は、穀物を生む大地とともに、豊穣の源として崇敬された。「母なる大地」とは、正に女性と大地を一体化している言葉である。
 豊穣の大地の高みである山には、豊穣の山の神が宿っていると信じられ、山は信仰の対象となっていった。山の神はもちろん女性である。
 日本神話や古事記に登場する女神、イワナガヒメ(石長姫)、コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)に代表されるように、古来より山そのものが女神、また山には女神が宿ると信じられてきた。女人の入山が禁制されるのは、山の女神の嫉妬による災難を避けるためであるという伝承もある。
 相撲の土俵の女人禁制も事情は同じ。土が高く盛られた土俵の山には女神がおられる。つまりは、女神の手のひらの上で、修験者の験競べのごとく、男どもが力を競い合っているのが相撲というわけだ。
 自分より美しい者には、あまりいい気がしないのは女神様とて同じ。山登りの無事を願って、入山前に、山の神を喜ばせるための顔が醜いオコゼをお供えする習慣が残っているところもあるそうだ。思わず「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しい人はだあれ?」と鏡に問うた『白雪姫』の物語の中のあの人のことを思い出してしまう。

 五行説によると春は東の方角になる。つまり、平城京の東側に位置する佐保山が春の象徴となり、その佐保山に宿る神霊「佐保姫」が春の女神というわけだ。
 「佐保姫の糸染めかくる青柳を吹きな乱りそ春の山風」 
佐保姫が染めて青柳にかけた糸を、風で乱さないでおくれ、春の山風よ。糸がもつれると織物をする佐保姫が困るだろうから―と詠んだのは、平安時代の歌人、平兼盛である。「佐保姫」は、染色と織物がお得意。
 染色と織物と言えば、もう一人この人を忘れてはならない。五行説で西の方角に当たる秋は「竜田姫」の出番である。竜田山の見事な紅葉は、秋の女神「竜田姫」の秀作である。
 二人の姫君はそれぞれ色の好みが違う。「佐保姫」は桜の薄桃色をなど、やわらかいパステル色に野山を染め、一方「竜田姫」は、目にも鮮やかな赤や黄色に野山を染める。対照的な二人の姫君によって、日本の季節は彩り豊かに染め上げられる。
 ちなみにその他の季節にも、それぞれ神様がいらっしゃる。夏の神様は「筒姫」、冬の神様は「宇津田姫」、つまり日本の四季を司る神様はみな女性なのである。中国の四季の神様はみな男性というから面白い。たおやかな日本の四季には、やはり女神がよく似合う。

 佐保路は、奈良坂から西へ不退寺の辺りまで連なる、佐保山の麓に開かれた平城京一条南大路の名残の道である。
 この辺りは、かつては天平文化が花開いた平城京の中心地であったが、今はすっかりその影を潜めてしまっている。しかし、軒の低い格子造りの家が連なる法蓮の町をぽくぽくと歩けば、往時の面影を残す尼寺や仏像に触れることができる。
 途中、法蓮橋の架かる小さな川が、万葉人が愛した佐保川である。春日山に源を発し、東から西へと平城京を縦断するように流れる清流は、折に触れ、豊かな四季の風情が詠われた。
 その佐保川は、今や「佐保姫」のここ一番の腕の見せ所となっている。春の女神の吐息に一斉に花開いた桜は、佐保の川岸に数キロにわたって薄桃色の花のトンネルを成す。見事な春の万葉絵巻に、行き交う人はみな足を止め、ため息を漏らす。
 
 夜毎灯される花見ちょうちんの明かりが、艶やかな花の下で酒宴に興じる男たちを照らし出した。

 どうぞ、山の神のご機嫌を損ねませんよう、ほどほどに…。

(新聞掲載日 2017年3月24日)

 

 

 

 

 


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SPRING

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 春の語源には、天気の「晴る」、草木の芽が「張る」などの諸説がある。しかし、ここはあえて英語のSPRINGが醸し出す春が好きだ。

 SPRINGの原義は「突然湧き出る」、そこから「地面から水が湧き出ること」や「跳びはねること」へとつながり、そして「泉」や「ばね」を意味するようになる。さらに「芽が出ること」へと広がり、草花が芽を吹く季節「春」を意味するようになったのだという。

 「〽春のうららの…」、こんなのどかな春の定番ソングの影響もあってか、春というと、私たちは、うららかで、おぼろげで、ゆるやかなイメージを抱きがちである。
 しかし、春は私たちが思うほどゆるやかな季節ではない。自然界が一斉に芽吹き活動し始めるのだ。エネルギーが跳びはねるように湧き出る、極めて活気に満ちた、旺然たる季節である。
 日照時間が長くなりはじめると、まだ凍てついている大地の下では、冬の懐の中でエネルギーを溜め込んだ生き物たちが、ゆっくり助走に入る。そして、春めく光や風を感じ取ると、一気に加速し大地から飛び出す。
 滑走路を走る飛行機がふわっと地面から浮き上がるあの瞬間のように、びっくり箱のふたを開けるあの瞬間のように、SPRINGはやってくる。

はなをこえて しろいくもが 
くもをこえて ふかいそらが
はなをこえ くもをこえ そらをこえ
わたしはいつまでも のぼってゆける。
はるのひととき 
わたしはかみさまと しずかなはなしをした
(『はる』谷川俊太郎 詩/團 伊玖磨 曲)

 谷川俊太郎は「神とは人間の姿から離れ、むしろ目に見えないエネルギーのようなイメージである」と言う。確かに「かみさま」の登場するこの歌には、目に見えないエネルギーがほとばしっている。ひとたびこの『はる』を歌い出すと、私はふわりと風に乗り、上へ上へと昇って行く。春の風が吹き渡り、春の光に満ち溢れるこの音楽の中で、私はSPRINGの弾けるエネルギーを体中に感じる。

 実は今この瞬間にも、私の周りには弾けるようなSPRINGが溢れている。重いお尻を持ち上げる椅子のSPRING、叩かれても叩かれても跳ね返してくるパソコンのキーボードのSPRING、マウスの中で電池を抱えているのもSPRINGだ。クリップ、ボールペン、時計、ソファ、ベッド、電化製品、自転車、自動車、鉄道車両、建物…私たちの暮らしは、もはやSPRINGの弾けるエネルギーなしには考えられない。

 心の中のSPRINGも忘れてはならない。もし心の中にSPRINGがなかったら、私たちは些細な失敗や悲しみからすら、立ち直ることができない。絶望のどん底でぺしゃんこに押しつぶされても、私たちはいつの間にか立ち上がっている。
 神様は、人間の心の中にSPRINGを仕組むことも忘れなかった。SPRINGとは、春とは、そういうものなのだ。

  3月に入って東大寺の修二会の行法が始まった。13日の未明、二月堂下の若狭井から、ご本尊にお供えするお香水が汲み上げられる。この行法が「お水取り」と呼ばれる由縁である。
 練行衆の道明りとして、夜ごと火がともされていたお松明に加え、「お水取り」直前の12日の夜には、巨大な籠松明が登場する。

 奈良に住んで長いが、今年初めて、この幻想的かつ原始的な荒行をすぐ目の前で見せてもらった。
 お松明が次々と上堂し、勢いよく二月堂の暗い回廊を駆け巡る。天をも焦がす勢いの炎は、パチパチと弾けながら、埋め尽くす何万もの群衆に火の粉を浴びせかける。その度に、群衆からは地響きのようなどよめきが湧き上がる。僧たちの読経の声も、群衆のどよめきも、遠く鐘の音も、燃えたぎる炎の熱気と渦巻く白煙と共に、漆黒の天に昇っていく。

 奈良の時代に始まり、大火事で伽藍が焼け落ちた時ですら、修二会だけは「不退の行法」として、ただの一度も欠けることなく連綿と今日まで受け継がれてきた。1200年以上も続く古都の儀式が放つ圧巻のエネルギーを前に、私たちは胸をたかぶらせる。

この巨大なエネルギーを放つSPRINGが、大和に春を呼んでくる。

(新聞掲載日 2017年3月10日)


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猫の恋

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している」(『吾輩は猫である』)

 実家の物置の裏のじめじめしたところで、ただ1匹ニャーニャー泣いていたことを、我が家にやって来た黒猫も記憶しているのだろうか、この主人公のように。

 猫は苦手だった。しかし、「今日は日曜日であいにく保健所がお休みみたいで、明日になれば…」隣の奥さんのこの言葉を遮るように「私が連れて帰ります!」と勢いで連れて帰ってきてしまった。生後3日目ぐらいの触るのも怖いような仔猫を、である。
 我が人生にまさかの登場人物、いや登場動物。「面倒見てやろうじゃないか!」と腹をくくってちょうど8カ月になる。

 猫が日本史の中に登場するのは飛鳥時代、1400年ほどの昔のこと。その猫は中国からの船に、荷物と一緒に乗ってやって来た。ネズミから荷物を守るためだ。
 正式には、宇多天皇の日記の中に「唐から黒猫をもらった」という記録(889年)が残っているらしい。というわけで、『枕草子』や『源氏物語』の中で、位の高い猫やいたずら猫たちが、我が物顔に宮中を闊歩する。

 人間と猫とのこの長い歴史を思えば、猫にまつわることわざ、慣用句の多さにも合点がいく。猫に小判、猫の手も借りたい、借りてきた猫、猫の額、猫も杓子も、猫をかぶる、猫に鰹節、鳴く猫はネズミを捕らぬ、猫にまたたびお女郎に小判、猫の子一匹いない、猫の子をもらうよう、猫を追うより皿を引け、猫なで声、猫可愛がり、猫もまたいで通る、泥棒猫、猫ばば、猫舌、猫っ毛、猫背…枚挙にいとまがない。

 時々、見透かされているような黒猫の目にぎょっとする。「そんなこと気にすんなよ」という目で、しょぼくれている私を励ましてくれたりもする。
 長い共存生活のせいだろうか、猫は人間の心を読むことができるのではないだろうか、と思うことがある。

 「貧困の辛い時代を彼らが支えてくれたから今の自分がある。今は猫に恩返しをしているのだ」そう語るのは魂のピアニスト、85歳にして未だ現役で活躍するフジコ・ヘミングである。
 彼女はパリの家で猫5匹と、東京の家では猫30匹と暮らしているという。「演奏して得たお金の殆どを、児童福祉施設や動物愛護団体に寄付しているから、猫たちの面倒を見るためにも、私はまだまだピアノを弾き続けて稼ぐ必要があるのだ」と彼女は語る。
 クラシック界異例の大ヒット記録を打ち出したファーストCD『奇跡のカンパネラ』、その200万枚を超える売り上げも、恵まれない子どもや猫たちのために使われたのだろう。
 波乱万丈の彼女の人生を支えていたのは、猫だったのだ。

 長い歴史の中で猫の役目も変わった。ネズミを捕る必要もなくなった猫たちは、厄介ものになれば捨てられ、町をうろつけば、たちまち捕まり施設に放り込まれる。
 野良猫も住みにくい世の中になったが、かといって驚愕の値札を付けているペットショップのガラスケースの中の猫たちも、幸せそうには見えない。

 春の足音が聞こえてくると、猫たちの恋の季節が始まる。そういえば何年か前までは、猛り狂ったような鳴き声の応酬に、夜中よく目を覚ましたものだ。
 「羨まし 声もをしまず野良猫の 心のままに妻恋ふるかな」(藤原定家)
 理性がつきまとう人間の恋愛事情からみれば、あからさまに性欲をぶつけ合う猫の求愛をふと「羨まし」と思うのも分からなくもない。

 我が家の黒猫にも恋の季節がやって来た。雌猫どころか、親も兄弟も知らない孤独な生い立ちの猫の恋、震えるような切ない声が哀れで聞くに堪えない。
 去勢手術が終わって家に帰って来くるなり、彼は勝手口の隅っこに小さく丸まった。そして、恨めしい眼つきで私をじっと睨みつけるのだ。
 そうか、私はこの猫の恋を奪ってしまったのだ。

 最期のその時まで、家族として大切に守ってやることで、少しでもその罪を償いたい。

(新聞掲載日 2017年2月24日)


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お稲荷さん

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 奈良にも小雪がちらつく冷たい午後のこと、何気なく開いた雑誌の中で、懐かしい童話に出会った。
 「里にいでて手袋買いし子狐の童話のあはれ雪降るゆふべ」
 美智子皇后陛下がこのお歌をお詠みになられたのは平成4年、秋篠宮家に内親王がお生まれになられた翌年のことである。

 「お母ちゃん、お手々がちんちんする」と子狐がさし出した雪で牡丹色になった手を、母狐は、はーっと息をふっかけて、ぬくとい手でやんわりと包んでやる。そして、夜になったら町まで行って、子狐に毛糸の手袋を買ってやろうと思う。―皇后陛下のお歌の中の「子狐の童話」とは、この新美南吉の『手袋を買いに』、母子狐の心温まる童話のことである。

 一方、こちらの母狐が子狐に買ってやったのは、手袋ではなく綿入れの帽子。
 昔、郡山城下町の柳二丁目に帽子屋があった。寒い冬の夜、ひとりの婦人が綿帽子を買いにやって来た。そして「代金は源九郎稲荷神社に取りに来てくれ」と言って立ち去った。後日、帽子屋が神社に代金の取り立てに行くと、誰も心当たりがないという。押し問答をしていると、境内に綿帽子をかぶった可愛い3匹の子狐たちが顔を出した。―源九郎稲荷神社に伝わる綿帽子を買った狐のお話である。
 大和郡山の洞泉寺町にある源九郎稲荷神社は、豊臣秀長により、郡山城の鎮守として創建されたと伝えられている。
 「源九郎」とは、文楽や歌舞伎の『義経千本桜』に出てくる源九郎狐のことである。この狐は、静御前が持つ初音の鼓が自分の両親の皮でできていたことから、その鼓を慕って、源義経の家臣・佐藤忠信に化け、兄の頼朝に追われていた義経と静に寄り添い、二人を守り通す。途中で義経に狐であることを見破られるが、義経は狐と自分の身の上とを重ね合わせ、親慕う狐を憐れむ。そして、その神通力で自分たちを守り通してくれたことに感謝し、自分の名である「源九郎」をその狐に与えた。

 シャープな小顔に切れ長の澄んだ眼、流麗な体つき、その怜悧さゆえ、善くも悪くも言われてきた狐である。しかし、昔話や童話に登場する狐たちは、古くから日本人に親しまれてきたその証拠に、みなどこか愛嬌がある。

 稲穂の垂れるころ、親子狐が里に下りて来て、親狐は田んぼの近くで子狐たちのために食物をあさる。食物は稲穂を狙う害獣、野ネズミなどだ。農村に生きる人々にとって、豊かに実る稲穂と同じ黄金色の毛並みを持つ狐たちは、まさに田の守り神であったのだ。
 お稲荷さんの主祭神、穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)には、御饌都神(みけつがみ)というもう一つの名前がある。その「けつ」が狐の古名「ケツ」に想起され「三狐神」と誤って書かれたことが始まりで、お稲荷さんの大神様たちと共に、狐が祀られるようになったのだという。
 こうして、古くより田の守り神であった狐は、五穀豊穣、稲の豊作を司る神の使いにまで上り詰めることになる。

 難しい話はよく分からないが、お稲荷さんと言えば狐、狐と言えばお揚げさん、お揚げさんと言えば母の作る「おいなりさん」を想う、京都伏見育ちの私である。
 なぜ二月にお稲荷さんにお参りするのか、子どもの私はそんなこと知ったことではない。稲荷山の頂上まで連なる朱色の鳥居を数えながら、長い階段を登ることが楽しみであった。
 その日が「初午の日」で、あれは初午詣をする参詣者の賑わいであったこと、そして春の農事の前に豊作を祈るお祭りであったことを知ったのは、大人になってからのことである。

 昨年の「白狐源九郎」うた語り公演がきっかけで、源九郎稲荷神社とのご縁をいただいた。大和のこのお稲荷さんが日本三大稲荷の一つ、さらには、あの『義経千本桜』に登場する白狐源九郎が祀られていると聞き、30年以上も近くに住まいながら、そんなことも知らなかった自分に呆れるやら、こうはしていられないと奮い立つやら。

 今年の初午の日は、大和のお稲荷さんに出かけよう!綿帽子をかぶった子狐たち、そして源九郎さんに会いに。

(新聞掲載日 2017年2月10日)


 


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用の美

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 冬のやわらかい風に誘われて、座喜味(ざきみ)城跡近く、緑濃い山間の里に「やちむん」を訪ねた。
 「やちむん」とは沖縄の言葉で「焼き物」のこと。たくさんの陶芸家たちが集まるこの里には、3つの登り窯、15の工房、そしてギャラリーや売店などが点在している。
 「やちむん」は、島独特の絵柄や色合いがどれもよく似ていて、一見みな同じように見えるのだが、よく見れば、違う手、違う筆の動きが見え隠れし、さらに人間の力では制御することができない自然の力が、一つひとつの器に個性を生み出している。
 シンプルな形、おおらかな色柄、ぽってりとした厚み、素朴で実直な器たちは、日々の暮らしの中で使い込まれるほどに、さらに美しさを増してゆくのだろう。
 沖縄の風土、長い歴史、そして日常の暮らしの中から生まれた器たちは、どれも堂々とした「用の美」を漂わせている。


 「やちむん」の手の感触に、毎日のように我が家の食卓に並ぶ器たち、下田焼の器のことを思い出した。
 山並みの続く近江の湖南にひっそりと佇む伝統工芸館、近江下田焼の陶房はその中にある。折に触れその陶房を訪れては、一つまた一つと陶器を買い揃えることが楽しみのひとつである。
 陶房の隣の小さな売店では、お馴染みの顔ぶれの陶器たちが「ごきげんさん」といつも気さくに迎えてくれる。毎日使う日用雑器だけを並べるのに大きなスペースはいらない。
 江戸時代からの歴史を持つ、「呉須」(ごす)と呼ばれる藍色の色合いが特徴の近江下田焼は、今はたった一人の職人さん、小迫一さんの手によって受け継がれている。
 どんなお料理にも合う、使い勝手の良い素朴で飾らない形や柄は、長い年月を経ても少しも変わらない。何もかもが目まぐるしく変化していく中で、今、ずっと変わらないモノの存在感が凄い。その様が、繰り返される大自然の巡りに似ているからだろうか。
 長い歴史がありながら、今様の新しさも感じるのは、作り手の「用の美」の意識が少しもぶれないからだろう。
 器でも何でも、モノは用いられるほどにその価値を高めていく。使うほどに手に馴染み、あたたかみを帯び、美しさを増していく。「用の美」とは、そんな美しさのことを言うのだろう。

 古代中国に、鐘に柄がついた甬鐘(ようしょう)という楽器があった。「用」という漢字は、この甬鐘の象形文字なのだそうだ。甬鐘は柄を手に取り持ち上げて使うことから「取り上げる」「もちいる」を意味する「用」という漢字が成り立ったのだという。
 一方「美」という漢字は「羊」と「大」が組み合わされたもの。古代より神聖な儀式や裁判に使われたヒツジはとても大切にされ、またその肉も、皮、毛、乳、内臓も、捨てるところがないほど人の役に立ってきた優秀な動物である。
 そのヒツジの象形から生まれた「羊」という字は、ヒツジ以外に「善い」「役に立つ」という意味をもっている。

 「羊が大きい」と書いて「美」。善く役に立ってこそ「美しい」というわけだ。私たちは「美しい」という言葉を、少々軽く扱い過ぎているのかもしれない。

 仕事が一段落ついて、年末にできなかった片付けをやり始めた。
 断捨離という言葉が少々乱暴な気がして馴染めない私は、片付けは、この「用の美」を心がけて進めることにしている。いくらしたか、どこのブランドか、ではなく、どれだけ手に取って用いるか、どれだけ使い心地がいいか、それが片付け・処分の目安である。
 今日は、やかんからスタートして、鍋、調理器具、食器などの台所のモノ、洗面所のモノ、皮の手帳カバー、ペンケース、万年筆など仕事で使うモノ、長い年月を共に暮らしているモノたちを、朝から手にしたモノから順番に、丁寧に磨いていった。

 今、私の手元を照らしている電気スタンドは、学生の頃から使っているものである。半世紀近く私の手元を照らし、私の心の裏側まで知り尽くしているこの電気スタンド。

人生の相棒でもあるこのスタンドを念入りに磨いて、本日は消灯。

(新聞掲載日 2017年1月27日)


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赤い実と赤い鳥

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  寒さの中で点、点と赤い実が目をひく。
 「難を転ずる」という南天、そして、いかにも金運が上がりそうな千両、万両などは、お正月には付き物の、赤い実を付ける木である。千両、万両の隣に一両があればさらに良いそうだ。一両というのも赤い実をつける常緑の低木で、正式にはアリドオシと呼ばれている。つまり「千両、万両、有り通し」というわけだ。

 普段はその存在すら忘れられているこれらの木も、赤い実を結ぶこの時期には、何だかんだと縁起をかつがれては、もてはやされる。
 しかし、木は何も人間のために赤い実を結ぶわけではない。鳥たちの目を惹くのが一番の目的なのだ。実は鳥たちに食べられ、あちらこちらに運ばれ、糞と一緒に撒き落とされる。そして新しい地に根を下ろす。自分で移動することのできない木たちが、子孫を拡げ増やすための知恵、自然の仕掛けなのだ。
 幼い頃、赤い鳥は赤い実を食べて赤くなるのだと思っていた。そんな馬鹿なことがあるわけがないと大人は理屈を並べる。しかし、大人が鳥の何を知っているというのだろう。自然の仕掛けの何を知っているというのだろう。
 赤い実の赤色を色覚できるのは鳥類と霊長類だけで、実を噛み砕いて食べてしまう昆虫などには色覚できないということ。赤い実は鳥のお腹を経ることで、より発芽しやすくなるということ。鳥たちは次の世代の森林を作ることを助けているということ。生命の誕生から38億年、進化を遂げてきた大自然の仕掛けの何を知っているというのだろう。

 文学者鈴木三重吉は、愛娘すずへの思いから、子どもたちにもっと質の高い童話や童謡を与えたいと考えた。そして、芸術として真価ある童話や童謡を創作し、それを紹介していくための子ども向け文芸雑誌「赤い鳥」を自ら発刊した。
 その童謡部門の担当を任されたのが北原白秋である。白秋が小田原に居を移した1918年(大正7年)、白秋34歳の時のことである。
 大正ロマン、大正デモクラシーと呼ばれるころの鷹揚な時代の中で、子どもの純性を育むための、香気高い芸術性豊かな優れた作品が次々と生まれていった。
 「赤い鳥」創刊号に掲載された白秋の『赤い鳥小鳥』は、最高の技法で近代童謡に昇華し得た芸術童謡であると賞賛され、白秋自身も「私の童謡の本源である」と語る、まさに「赤い鳥」の申し子ともいうべき童謡である。
 小田原の伝肇寺の一室の間借りからスタートした白秋の赤貧の生活も、「赤い鳥」のお陰で暮らし向きが良くなり、翌年には、その境内に茅葺屋根に藁壁という庵のような風情ある家を建てた。入り口が鼻、その両側の小窓が目、まるでとぼけた木兎(みみずく)のように見えるその家を、白秋は「木兎の家」と呼んでいた。そしてその翌年には、その隣に赤い屋根の洋館を建てた。
 白秋が生涯に創作した約1200編の童謡作品の半数が、この小田原時代につくられている。『赤い鳥小鳥』『雨ふり』『あわて床屋』『かやの木山の』『からたちの花』『この道』『砂山』『ペチカ』『待ちぼうけ』などの名作が、次々と世に送り出されていった。
 創作活動においても、また私生活においても、小田原で過ごした8年間は、白秋の生涯の中で最も生気みなぎる幸せな時代であった。

 小田原の伝肇寺を訪ねた。小田原駅で箱根登山鉄道に乗り換え、板橋駅で下車。入り組んだ住宅街の一角に佇む伝肇寺に到着すると、狛犬ならぬ狛木兎のお出迎えである。他にもたくさんの木兎たちが、年の瀬の訪問者を温かく迎えてくれた。
 しかし、残念なことに「木兎の家」も、赤い屋根の洋館も跡形もない。白秋が心を寄せた、かやの木と、『赤い鳥小鳥』の石碑、そして「木兎の家」の跡地に建てられた「みみずく幼稚園」が、わずかなよすがである。
 寂しい想いの中で、嬉しいことを耳にした。「みみずく幼稚園」の園歌は『赤い鳥小鳥』であるという。
 百年経った今も、子どもたちが澄んだ心で、白秋の魂を歌い継いでいる。

〽赤い鳥 小鳥
なぜなぜ赤い
赤い実を食べた

(新聞掲載日 2017年1月13日) 


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モミの木の想い出

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 子どものころを過ごした京都の家の庭に、1本のモミの木があった。
 毎月、弘法大師の月命日である21日に東寺で開かれる縁日には、骨董品、古着、植木などの露店が所狭しと軒を連ね、境内はたいそうな賑わいをみせる。特に12月の縁日は「終い弘法」と呼ばれ、遠方からもお正月用品を買い求める人々が押し寄せ、普段の縁日にもまして人で溢れ返る。
 その日も歩くのがやっとという大混雑で、こんなことなら留守番していればよかったと、私は母に着いてきたことを後悔していた。とその時、植木屋さんの片隅に数本のモミの木を見つけた。「どこの森から連れて来られたんだろう」子どもの私は、絵本の中の遠い外国の雪の森を思い浮かべていた。私は自分が持つからと母にせがんで、中でも一番小さいモミの木を買ってもらった。
 家に帰ると、さっそく植木鉢に植え替えてやり、クリスマスの飾り付けをし、最後に雪に見立てた白い綿をたっぷり枝にのせてやった。その夜は、部屋の明かりを消し、雪の枝の奥でやさしく瞬くドロップのような灯りを、いつまでも眺めていていた。

 翌年、植木鉢が小さくて苦しそうにしているモミの木を庭に下ろしてやった。モミの木は気持ち良さそうに枝を広げた。
 それから数年後、私たち家族は引っ越すことになった。モミの木は随分大きくなっていたが、父が何とか掘り起こしてくれて、一緒に宇治の家に連れて行くことができた。広くなった庭に存分に根を張ったモミの木は、見る見る大きくなっていった。

 それから10年が経ち、私は自分の背丈より遥かに大きくなったモミの木を見上げ、「ありがとう」と声をかけると、奈良へ嫁いで行った。
 年老いた両親が、私の側に引っ越して来ることになった時には、モミの木は庭一番の大樹になっていた。モミの木は両親を送り出すと、自分はその庭に残った。私はそれ以来そのモミの木に会っていない。

 シベリウスのピアノ曲『樅の木』に出会ったのはその数年後だった。交響詩『フィンランディア』(1900年初演)で大成功を収めたシベリウスが選んだ家は、贅沢な邸宅ではなく、ヘルシンキ郊外の小さな村の、森に囲まれた質素な家だった。
 『樅の木』は、スケッチブックに描きとめた水彩画のような小さな作品である。しかし、渋いロマン性に満ちたその音楽には、シベリウスの祖国の森への愛、モミの木への畏敬の念が溢れている。

 ふいに吹く風に誘われて森に足を踏み入れると、孤高に佇む一本のモミの木が現れる。モミの木は森に迷い込んだ者を諭すかのように語り出す。するとまた風が舞い始め、モミの木はまだ何か言いた気な強い余韻を残しながら、固く口を閉ざしてしまう―この曲が醸すとてつもない孤独感は一体何だろう。私は庭に残してきたモミの木のことを想い出していた。どうしようもなく淋しい。孤独なのはモミの木なのか、それとも自分なのか。この曲には、幾度となく厳しい冬を耐え抜いたモミの木の魂の声が静かに流れている。

 「生まれた所を一歩も動かず風雪に堪え、逃げもせず他を攻めず、静かに己れを律して命をつなぐ植物を私は尊敬する。何百年も生きた古木の厳粛な姿には生物の王者の風格がある」画家・堀文子さんのこの言葉と、シベリウスの『樅の木』が重なり合う。
 フィンランドでは、モミの木を生と死、永遠に輪廻する命の象徴として大切にされてきた。そしてクリスマスには、モミの木の傍らに家族が集い、神聖な時を心鎮かに過ごすのだという。

 「川上村のモミの木でクリスマスのリースを作ったから」と、吉野上市の友人から嬉しい報せが届いた。そう言えば、川上村の滝を見に行ったとき、滝のそばに立派なもみの木があった。あのモミの木も、そろそろ白い綿のような雪をのせているころだろうか。

 緑豊かなモミの木に、イチリョウ(一両)の赤い実ひとつだけのクリスマスリース飾って、遠い日のモミの木に想いを馳せる、心鎮かなクリスマス・イヴ。

(新聞掲載日 2016年12月23日)


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お天道様

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「お天道様は何もかもお見通し」

 誰も見ていなくても、お天道様が見ているから悪いことはできない。
 太古の昔より、人々は太陽を神格化し崇めてきた。農耕を営むようになると、五穀の成長と豊穣をもたらす太陽は、崇拝の対象となった。
 誰人(たれびと)も手の届かない遥か彼方から暗闇を照らし、地球上のすべての生命を産み育てる太陽は、自然の中で生きる人間にとって、畏れ多い自然神であった。もし太陽がなかったら地球は氷に覆われた暗黒の世界で、生命も何も存在しない孤独な星だったに違いない。神様の正体は太陽、お天道様に違いないと、わたしは常々思っている。

「ほしがき」
ほしがきのなかは あまかった
しぶがきを そとにほしただけで
あまがきになるなんて ふしぎだなあ
ぼくは おひさまをあびて あまくなるのだとおもう
おひさまのこころが あったかいので
しぶがきのきもちも あったかくなる
(『一年一組せんせいあのね』鹿島和夫/灰谷健次郎)
 この小学一年生の男の子の詩に出会った時は本当に衝撃的だった。「お日さまの心」「渋柿の気持ち」、宗教のことも科学のことも、難しい理屈など何も知らない子どもの心の目の確かなこと。教育とは何だろう。私たちは教育受けて、本当に心豊かな大人になっていくのだろうか、とさえ思ったものだ。
 大人になるほどに知恵がつき、理屈っぽくなる。理屈で片付けようとすればするほど、心の目は見えなくなる。そして、目に見えているものだけで判断しようとする。大切なものほど目に見えないのに…。
 椎茸も大根も海藻もお茶も、お米だって天日に干すと美味しくなり、栄養価も高くなる。とんがっていた渋柿も、おひさまのあったかい心に包まれて、甘くてやさしい干し柿になる。理屈っぽい説明など必要ない。全部お天道様のお恵みなのだ。自然の中で生きているものは、みんなお天道様のお陰で生きているのだから。

 ところでこの柿は、「Diospyros kaki Thunberg」(ディオスピーロス・カキ・ツンベルグ)という学名をもっている。「Diospyros」は、ギリシャ語のDios(神)とpyrps(穀物)に由来し、「神の食べ物」というような意味になる。「Kaki」は日本語の柿、そして「Thunberg」は、カキの発見者のカール・ベール・ツンベルグ博士 の名前である。
 日本を訪れたツンベルグ博士は、日本で出会ったあまりにも美味しい果実に、「神の食べ物」という名を与え、讃えたのだろう。
 「神の食べ物」と讃えられたのはその味だけではない。「柿が赤くなると医者が青くなる」と言われるように、柿は滋養に富んだ果物である。例えば柿1個で、人が一日に必要なビタミンCが摂れてしまうという。実だけではない。葉にも殺菌作用や抗酸化作用などの効能がある。さらに葉には、蛋白質を凝固させる性質があり、その香りは魚などの臭みをとってくれる。奈良の柿の葉寿司は、これらの効能にあやかるものである。
 この「神の食べ物」に、さらにたっぷり天日が注がれてできる食べ物が干し柿である。中には、糖分が羊羹以上にもなるものもあるという。砂糖が簡単に手に入らなかった時代、干し柿は庶民にとっては貴重な甘味源であった。正にお天道様のお恵みだったのだ。

 11月中旬、吉野川に沿って上市から奥吉野へと歩いた。目的地の国栖(くず)の里に着いたころには、山々は傾きかけた日に、その衣の赤をいっそう色濃くしていた。
 この国栖の里の和紙作りは、壬申の乱の中心にいた大海人皇子によって伝えられたという言い伝えがある。この地の手漉き和紙の歴史の深さを物語るものである。
 窪垣内(くぼがいと)の集落のこの和紙屋の庭先で、何百年も天を仰ぎ続けて来た松の板の上で、この日も何枚もの真白い和紙が、天から注がれる日をいっぱいに浴びていた。何と神々しい光景であることか。
 神に与えられし錦の衣を纏う晩秋の吉野。旅の終わりに、そっとお天道様に手を合わせた。

新聞掲載日 2016年11月25日

 

 

 

 


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お乳

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 深く透き通るインクブルーの空に、天青石の欠片のような星が瞬き始めた。北海道の冬には夕方というものがないのか、いきなり夜がやって来る。つい先ほどまでキャンパスを行き来していたたくさんの人影も、あっという間に消えてしまった。
 誰もいないバス停でタクシーを待っていると、雪夜の静寂をかき分けるように、何かがカタカタと音を立てながら近づいてくる。サンタクロースのそり?いや、それにはまだ少し早い。
 やがて街灯が一人の青年の姿を捉えた。青年は大きな集乳缶を2本積んだリヤカーを押し、凍てついた雪道を足早に通り過ぎて行った。見送りに来てくださった先生が、あの中には寮生が飲むお乳が入っているのだと説明してくださった。その日の当番の寮生が、自分たちが飲むお乳を牛舎までもらいに行き寮に運ぶ、それが代々寮に伝わる習わしだという。遠ざかる青年の後ろ姿に、この日牛舎で見た様々な光景が重なった。

 全国から集まった若者たちが、全寮制のこの学び舎で酪農を学んでいる。酪農を通して、大自然のしくみ、その厳しさ、大切さを学び、そして決意と大きな希望を持って郷里の牧場へと帰って行く。
 生命と向き合う仕事だ。練習だから学生だからなどという妥協はここには一切ない。彼らが搾るお乳は、大手乳業メーカーに納められ、牛乳として、またバターやチーズ、赤ちゃんの粉ミルクなどに加工されて全国のスーパーマーケットなどに並ぶ。些細なミスも許されない。教える方も学ぶ方も常に真剣勝負だ。
 子牛の誕生を目の当たりにした学生は、自分が生まれた時のことを想うだろう。ふと母親が恋しくなるだろう。人間の糧としてこの世に生を受ける動物たちの運命(さだめ)も識らなければならない。趣味でペットを飼っているのとはわけが違う。
 牛舎に暖房はない。まだ日も昇らぬ早朝、日没後、冬の作業は一段と厳しい。寒さと緊張で張り詰める牛舎の中では、いつもと変わらず坦々と作業が進められている。
 後ろ髪を引かれる思いで夜の牛舎を後にした。寮にお乳を運ぶ青年の姿を見たのはその直後のことだった。

 「今日も一日がんばったね」
我が子の健康を、遠く離れた地から祈ることしかできない母親に変わって、母牛が学び舎の子どもたちに優しいお乳を飲ませてくれる。そんな風に思うのは、私もまた、息子たちの健康を、遠くから祈ることしかできない母親だからかもしれない。
 帰り道、何かで読んだ「無知は罪である」という言葉が頭を過った。
旅で観光地を訪れるのも良いだろう。しかし、旅はその地の農に触れることができる絶好のチャンスである。それを逃すのは実にもったいない。
 生命の糧である農のことを、私たちはどれほど知っているだろう。農の大切さは教科書だけでは分からない。現地に足を運び、実際に見聞きしないことには、真の農の姿を知ることはできない。

 そう言えば、私はこんなことも教科書では習わなかった。日本の酪農の原点が奈良にあるということ。
 仏教の教えと共に、牛乳の知識・薬効、乳牛の飼育法、搾乳技術などが大陸から伝わった。7世紀ごろには天香久山の麓で牛が飼育され、お乳を搾り、そのお乳から「蘇」なる古代チーズを作っていたという記録が残っている。
 渡来人であった智総の子・善那は、孝徳天皇(在位645~654)に牛乳を薬として献上し、その後も朝廷内で乳製品の普及に努め、天皇から薬を管理する医者の「和薬使主」(やまとくすしのおみ)という姓(かばね)を授かった。
 私たちが牛乳を飲み乳製品を食べるのは、一概に食の欧米化とは言えない。なぜならば、それは1300年以上も昔の飛鳥の時代から、日本にあった食文化なのだから。
 今朝は、ご飯にお豆腐のお味噌汁、納豆という和食に、温めたミルクをいただいた。ミルクの湯気の中に、北海道の牛舎の分娩房で嗅いだ甘いお乳の匂いがした。

「今日も一日がんばってね」
お乳は、優しい母の声がする。

(新聞掲載日 2016年12月9日)

 


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