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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

葛湯 ー歴史街道「宇陀松山」を歩く

2016-11-01 | 旅の風景
昨夜からちょっと風邪気味で、宇陀松山で買ってきた吉野本葛で葛湯を作り、ふーふーしながら飲みました。


お湯呑みに葛を小匙1杯、同量程度のお砂糖を加え、まず少量のお水で溶き、木匙でよく混ぜながら沸騰したお湯を注ぎます。
すると白く濁ったサラサラの汁が、透明なトロトロに変わります。


風邪を引いたり、お腹の調子が悪かったりすると、我が家はこの葛湯が登場したのですが、この優しい味とトロトロの食感が子どもの頃から大好きで、風邪の振りして母にせがんでよく作ってもらったものです。

近年は、葛以外のデンプンが混じったものや、外国産のものが出回り、混じりけのない国産のた本葛はとても貴重なものになってきました。

この「吉野本葛」は、先日、宇陀松山の葛屋さん「黒川本家」で買ってきたものです。ここでは、今でも昔ながらの方法で、真冬の冷たい水に何度も晒して、この真っ白い葛を作っておられます。


文豪・谷崎潤一郎は小説『吉野葛』の執筆のために吉野を歩いた際、この黒川家に逗留されました。
文豪が愛した吉野葛は、その後もずっと自宅に送られていたそうです。
昭和天皇もお元気なころから、こちらの葛を愛され、晩年、床に伏せられてからも、この葛で作る葛湯を召し上がっておられたと言います。
創業400年、タイムスリップしたような店先で、奥様が物静かな口調でお話をお聞かせくださいました。




宇陀松山は、古くから城下町として発展し、その町並みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。
2006年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

宇陀松山が城下町として発展した一つの理由は交通の要衝の地であったということ。
すぐ北を通る伊勢街道、すぐ南を通る紀州街道、この大きな二つの街道を繋ぐのが松山街道です。
古代には、壬申の乱に際し、大海人皇子ら一行がここを通ったといいます。


町並みには前川と呼ばれる水路が走り、せせらぎの音と共に独特の景観を作っています。


宇陀松山をゆったり散策した後、造り酒屋「久保酒造」に立ち寄り、店主おすすめの辛口「初霞」を購入!


宇陀川にかかる橋の上から造り酒屋さんを臨みました。
実に風情があります。


この日は観光客も殆どなく、秋晴れの空の下、歴史街道を堪能させて頂きました。

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上野天神祭で鬼見物

2016-10-24 | 旅の風景


400年の伝統を今に伝え、町人文化の栄華を偲ぶ伊賀上野最大の秋祭、国指定重要無形民族文化財にも指定されている「上野天神祭」に行ってきました。

雲一つない祭日和、念願の鬼行列を目の前で観てきました。
悪鬼(あくき)、般若(はんにゃ)、赤小鬼、役行者(えんのぎょうじゃ)など、百数十体もの鬼たちが行列をつくり、古来から決められた順番に並んで、上野の城下町を練り歩きます。

重さ120キロあるという大御幣の向こうに鬼の先頭、悪鬼の姿が見えました。


悪魔を降伏させ疫病を退散させる悪鬼。
お顔もさることながら、歩き方が怖い。


無面の可愛らしい小鬼達の列が続きます。
この中には去年まで沿道で鬼を見て泣いていた子がたくさんいるんでしょうね。
みんな習った通りの鬼歩き。お顔まで凛々しい。


役行者(阿古父尉-あこぶしょう)


お面を付けた子ども達の列が続きます。
大きな無表情の顔にアンバランスな体が妙に不気味。




名物、ひょろつき鬼の登場。大きな釣鐘を背負って右に左にひょろつき、滑稽な仕草で沸かせます。
沿道の子ども達の泣き声や悲鳴もピークに。
鬼に泣かされると、かんの虫が落ちるとかで、泣かない我慢強い子どもを抱いて、鬼を追いかける親御さんの姿も。



私の横の2歳ぐらいの男の子は、小さな手で目を覆い、震えながらも懸命に泣くのをこらえていました。
親御さんは少々がっかりな様子でしたが、いやいや偉い!思わず拍手。


ひょろつき鬼たちは行列を先導して、道いっぱいによろけながら、沿道の見物客を下がらせる役割もあるとか。
確かに、目の前にやってくると、思わず身を引いてしまいます。
幾つになっても鬼はやはり気持ちの良いものではありませんね。

紺屋町の集会所で行列の出発を待つ小さな女の子…と分かっていても、やっぱり怖い。


このお祭りは、毎年10月23・24・25日に行われます。絢爛豪華なだんじりの巡行も見ものです。
伊賀城下町の伝統のお祭り、ぜひお出かけ下さい。オススメです!

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日本画家関雪入魂の庭園で頂いた至福の一杯

2016-09-23 | 旅の風景
大文字山の麓、銀閣寺のそばに静かに佇む白沙村荘橋本関雪記念館を訪れました。

こちらの庭園内の新美術館で、デミタスカップの国内最大級のコレクターである村上和美さんのコレクション約1600点から選りすぐりの500点のカップを鑑賞させて頂きました。



繊細かつ煌びやかなデミタスカップ達が織りなす空間は、まるでおとぎの国に迷い込んだよう…
心の奥底にしまい込んでしまっていた懐かしい美意識が呼び覚まされたような不思議な気持ちになりました。
いつの頃からでしょうか、「白がいいね」「土の匂いのするもの、土の肌触りがいいね」という風潮に流されてしまったのは。


白も土の感触も好きです。
でも、やっぱり美しいものは理屈抜きで美しい、いつまでもこんなカップが似合う女でいたい…そんなことをあれこれ想いながら、夢のような時間を過ごさせて頂きました。




会場に入ると、いきなり「この中から3点お好きなカップを選んで下さい」とアンケート用紙を渡されました。
『500点の中から3点⁈選べるわけないでしょう…』と思っていましたが、選べるものなんですね。
「自分の好み」を改めて認識する貴重な機会となりました。(どれを選んだかは秘密です)

コーヒータイム。
和美さんがコーヒータイムのために選出された限定カップの中から好きなカップを選んで、それでコーヒーを頂きながら和美さんのお話を伺うという嬉しい企画。

私が選んだのはこれ。




雨の庭園を眺めながら茶室で頂く至福の一杯。
この日の和美さんの品の良い白と紺の装いがカップの華やかさを一層引き立てていました。



さて、最後にこの美しい庭園について少しだけ触れさせて頂きます。

日本画家の橋本関雪が1913年から30年以上の時を費やして築いた庭園で、存古楼と呼ばれる関雪の大画室や、茶室、持仏堂などの建物が点在し、また庭園には平安から鎌倉期に制作された数々の石造美術品が配されています。
石の配置ひとつに至るまで関雪の好みが随所に反映された、日本画を見るような見事な空間が広がっています。
「庭を造ることも、画を描くことも一如不二(いちにょふじ)のものであった」とは関雪の晩年の言葉。
雨に濡れる日本画家入魂のお庭で素晴らしい一日を過ごさせて頂きました。








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長浜 旧開智学校

2016-05-23 | 旅の風景
長浜の町を歩いてきました。
母が生まれ育った町で、私も小さい頃から何度も何度も行った懐かしい町です。

祖父も祖母も他界、親戚もみなこの地を離れてしまい、すっかり遠のいていたのですが、先日、明治初期に建てられた「擬洋風建築」を探していると、なんと長浜にその貴重な建物が残っているということを知り、さっそく長浜へ!

改めて見ると何とレトロな町並み、子ども頃はただ古いと思っていた町が、実はこんなにモダンでノスタルジックな魅力溢れる町だったとは…。

さて、色々気になりますが、今回のお目当は「旧開智学校」、時間もないので目的の建物に直行です。

開国と同時に訪れた洋風建築ブーム。それは瞬く間に日本中に広まり、地方の洋風建築は地方の宮大工らの手に委ねられました。
伝統の技が光る「和」と宮大工らの創意工夫が盛り込まれた「洋」が入り混じる独特な洋風建築「擬洋風建築」が次々と地方に生まれて行きました。そのひとつが、ここ長浜に今も残る「旧開智学校」です。

明治7年に建てられた木造3階建、八角の塔屋、白壁に緑の木枠の上下窓、アーチ型の玄関に優美な木柱、交差点にぽつりと立つ文明開化の名残り。

開国当初の情報不足の時期に生まれた「擬洋風建築」の貴重な建物、長浜「旧開智学校」、大切にしたいものです。

「旧開智学校」から東に歩くこと7~8分、同じ大通りに面する藤本屋さんで、今回のもう一つのお目当「がらたて」を購入して、帰路につきました。



子ども頃から何気なく食べていた「がらたて」。長浜にしか売ってないと知ったのは大人になってからのこと。母へのお土産も忘れずに!中はあっさり美味しい粒あんです。


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針江 生水(しょうず)の郷を訪ねて

2016-02-18 | 旅の風景
春の足音が聞こえてきそうな温かな陽射しの中、滋賀県高島市針江、生水(しょうず)の郷を現地の方に案内していただきました。

澄み渡る豊かな湧き水と、その水を守り生かす人々の生活、意識の高さ、素晴らしき「かばた文化」に触れ、感動、感動の一日でした。

針江地区では、各家々に美しい水が湧き出す水場「かばた(川端)」があります。
湧き出した水は「壺池」に注ぎ、隣の「端池」に溢れ出します。「壺池」の水は飲料水などに、「端池」の水は食器や野菜を洗ったりするのに使われます。
「端池」には鯉が泳いでいて、ご飯粒など食器の汚れをきれいに食べてくれます。
その他、「かばた」を利用する集落の人々の間には厳しいルールや、川の掃除などの面倒な作業があり、そのお陰で、流れる水はどこを覗いても限りなく澄み渡り美しく保たれています。

昨日の宇陀市室生「深野」、そして今日の高島市「針江」、二日連続で訪問した2つの地区が教えてくれたこと、それは、かけがえのない水や自然、それらを守るということは、水や自然と人との繋がり方を守るということ。
それはまた、人と人との信頼の絆がなければ成しえないということ。
そして、守ることは時に大きな攻めであるということ。

今回、新聞の取材で訪問した「深野」「針江」の皆様、温かくお迎えくださり、また、丁寧に分かりやすくご説明、ご案内してくださり本当にありがとうございました。

今も目を閉じれば、二つのふる里の清らかな水のせせらぎの音が聴こえてきます。


生水の郷、針江。澄み渡る豊かな湧水が集落を勢いよく流れます。


各家々には「かばた(川端)」という湧水の水場があり、飲料水、生活用水として利用されています。鯉が苔や食べカスのお掃除に大活躍です。


こちらの「かばた」には、大きな鯉に混じって少し小ぶりの鱒の姿も見えます。水がどれほど美しいかがよくわかります。


道端の水路、溝にも、いたるところに悠々と鯉が泳いでいます。


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地方の時代…故郷を愛する人たち

2015-10-31 | 旅の風景
コンビニもない、信号もない、しかしどこにも負けない美しい自然がある、生まれ育った故郷、京都府美山町を心から愛していた友がいた。今は亡き高校時代の親友。

彼女は都会で学び、そして故郷美山町に戻り小学校の教師になり、そして…そして、彼女を愛した数え切れないたくさんの人々に見守られ天国に旅立って行った。

私は四季を通してどれほど美山町を訪れたかしれない。様々な施設、生徒数20名前後という点在する小学校も全て訪問させて頂いた。日本の原風景の中で、温かい人々に触れ、丁寧な暮らしに触れ、親友の闘病時期などは、このまま美山町に住み着きたいと思うほどだった。

当時は、正直、よくこんな不便な田舎で…と心のどこかで思っている自分がいた。しかし、今は違う。

通信技術、交通がこれだけ発展しているのだから、仕事なんてやろうと思えばどこでだってできる。そこが、都会に出ていかなければ何もできなかったひと昔前と今との大きな違いだ。
我が故郷を大切にできる、我が町の発展に尽くせる、そんな時代がまた巡って来た。地方の時代がやって来た。

都会に憧れて田舎から都会へ人が流出する、そんな時代の終焉が見えて来たような気がする。都会に出た人が勝ち、田舎に残った者が負け、そんな時代はもう終わったような気がする。

冬の足音が聞こえ始めた美山町は今まさに美しい紅葉の季節を迎えている。人の手の入らない自然の紅葉である。
木々がそのあでやかな葉衣を落とすといよいよ美山町に長い冬がやって来る。
その閉ざされた世界がまた何とも言えず美しい。

そんな美山町を、亡き友の意思を継ぐかのごとく、心から愛しその人生を捧げている若き友がいる。そのお仲間がたくさんおられる。
我が町、我が故郷を心から愛する人たち、そこで頑張る人たち、その眩しい姿から多くを学ばせてもらう今日この頃である。



















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米軍基地の町「北谷」…日本一グローバルな町

2015-10-05 | 旅の風景
北谷町を歩いていると、ふとアメリカにいるような錯覚を起こすことがある。

ここには、嘉手納飛行場、キャンプ・フォスター(瑞慶覧)、キャンプ・レスター(桑江)、陸軍貯油施設などがあり、また過去には(1945年4月の沖縄戦)米軍の上陸地点となり即時に村全域が占領されるという歴史を持つ、まさに米軍基地の町である。

レストランやバーなども、気がついてみたら周りは全員アメリカ人ということもよくある。
もちろん町のスーパーマーケットでも、米兵やそのファミリーが普通に買い物をしている。住宅街の細い道路では、肌の色も髪の色も違う子どもたちがみな入り混じって楽しそうに遊んでいる。

朝の散歩で出会うジョギングしている人の8割はアメリカ人。
道で出会う人も、スーパーやレストランで出会う人も、とにかくみんなフレンドリーで温かい。これだけ北谷町に滞在していても、嫌な想いなど一度もしたことがない。

北谷町では日本人もアメリカ人もごく自然に仲良く暮らしている。おそらく日本一グローバルな町ではないかと思う。
これも現地に来て町を歩いてみないと分からない。誇張された噂だけを信じてはいけない。

さて、大好きな沖縄も、長期滞在となると高級なリゾートホテルや増してやお年頃の息子の家にずっと居候というわけにはいかない。

そこでありがたいのが気軽に長期滞在ができるコンドミニアムやBBの存在。
今年7月に1人で沖縄を訪れた時、往復の飛行機と5日間の宿泊費にかかった全費用は、新幹線で大阪と東京を往復する運賃のみとほぼ同じであった。

何と言ってもLCC飛行機の運行で低価格運賃が実現したことは大きい。しかも「低価格」競争で、当初と違って、各社とも乗り心地もサービスも結構良い、というか、あれ以上のサービスはたかだか2時間ほどのフライトに全く必要ない。

運賃、宿泊費を抑えられることで、本来の目的にお金をかけることができる。
しかもコンドミニアムやBBを利用することで、知らない人と触れる機会が断然多くなり、地元の人とも仲良くなれたりする。これも旅の楽しみの一つである。

観光名所を駆け足でたくさん周るより、一つの目的を達成させる、あるいは何の目的も持たない行き当たりばったり、そんな旅が楽しい。

旅行会社の想いに動かされる旅から、自分の想いで動ける旅へ、旅の概念も大きく変わった気がする。


北谷町「塩谷橋」
小さな川の水が東シナ海に注ぐ河口に架かる橋。朝はジョギング、散歩をする地元の人がたくさん行き交う。日暮れ時にはアラハ(安良波)ビーチの美しい夕日を見ようと恋人たちが集まってくる。

(2015.10.02撮影)






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サトウキビ畑の中で

2015-10-04 | 旅の風景
今でも、サトウキビ畑を見ると、車を止めて畑の中を歩きたくなる。

数年前の沖縄での平和公演の時のこと。依頼を頂いたものの、うちなんちゅ(沖縄の人)でもない私が偉そうに沖縄のことを歌ったり語ったりすることへの抵抗がどうしても拭い切れず困っていた。『お前に何がわかる』こんな声が夢の中まで襲って来た。

公演の前日、私は辺野古(へのこ) のサトウキビ畑の中を延々歩き続けた。

「ざわわざわわざわわ…昔、海の向こうから戦がやってきた…あの日、鉄の雨にうたれ父は死んでいった…そして、私の生れた日に戦の終わりがきた…知らないはずの父の手に、抱かれた夢を見た…お父さんて呼んでみたい、お父さんどこにいるの…」

『サトウキビ畑』の歌詞を一言一言噛み締めながら、夕日が海に沈むまで延々歩き続けた。
こんなことで沖縄の甚大な傷跡を理解できるわけがないことはよく分かっていたが、私にはそうするより他なかった。

図書館に足繁く通い、本や資料、インターネットでかなり勉強してついに迎えた公演前日、沖縄入り。

今までやっていたこと、そんなものしょせん机上の空論に過ぎなかった。
この地に立たないと分からないこと、感じられないことがたくさんある。

戦後70年目の年、唯一地上戦を体験した日本、沖縄。
今、この地に足を運んで、自分の目で見て、聴いて、触れて、感じてみるということはとても有意義なことだと思う。


本部から古宇利島に向かう途中のサトウキビ畑にて(2015.10.02)
沖縄の初秋の風に緑の波がうねる。









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大和めきたる苗字の禁止令

2015-07-18 | 旅の風景
「名前?当ててみてください!沖縄の苗字で知ってるのを3つ言えば当たると思いますよ、僕の苗字」
「比嘉さん?…。金城さん?…。島袋さん?」
「当たりー!」

というわけで焼き鳥屋さんの沖縄のかた独特の目鼻立ちの男前のオーナーさんは島袋さんでした。

ちょっと変わった沖縄の苗字事情には歴史的な出来事が関わっている。

1609年、薩摩藩の琉球侵略以降、琉球は薩摩藩の属国となるわけだが、その時、薩摩藩は琉球国の体裁を整えるために「大和めきたる苗字の禁止令」という通達を出したのだ。それは中国との交易を継続する上で琉球国に敢えて異国情緒を漂わすための政策の一つだったと言われている。

「大和めきたる」つまり「日本風の」の苗字を名乗ることを禁止した布令なのである。

この布令により、日本風の苗字は改められたり、当て字を換えて三文字表記にしたりなどされた。
例えば前田さんは真栄田さんに、東さんは比嘉さんに、国上さんは国頭さんに、 福山さんは譜久山さんに…

仲間さん、仲村さんのように沖縄では「中」ではなく「仲」の字が用いられるのにも実はこんな歴史事情がある。
17世紀後期の国王「尚貞(しょうてい)」が世子のときに中城王子を称するに伴い、王家以外のものが苗字に「中」の字を使用することを禁止じたためだという。

沖縄の難読苗字、地名には未だに悩まされる。運転中に目にする看板はローマ字表記無しには読めないものが多い。

東江(あがりえ)、東風平(こちんだ)、南風原(はえばる)、北谷(ちゃたん)、西州(いりじま)、後原(ぐしばる)、中城(なかぐすく)、今帰仁(なきじん)…

金武(きん)、1字不要としか思えない!
保栄茂(びん)、これはどう考えても反則!

沖縄の異国情緒は戦後アメリカの影響を受けたからではなく、今から400年も昔に薩摩藩が琉球国の体裁を異国風に整えたところに端を発しているのだ。

逆に今、琉球王国の異国情緒が徐々にアメリカ風に塗り替えられてしまっているのかもしれない。













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琉球ガラス…苦悩が生み出した美

2015-07-17 | 旅の風景
薄手のガラスがもてはやされる中、私はこの分厚いぼってりと手のひらに馴染む琉球ガラスのグラスが好きだ。気ままに混じり合う赤や緑の色鮮やかなガラスに心奪われる。

沖縄は琉球王国時代にはすでにガラス製品が持ち込まれその技術も伝わっていた。その歴史は実は本土より古い。

しかし、太平洋戦争を経て沖縄は極端な物資不足に見舞われた。もちろんそれは本土も同じであったが、朝鮮戦争特需などを機に本土は急速に復帰していった。
しかし沖縄はその波に乗れなかった。

そんな状況の中で沖縄の人は知恵を絞り工夫して沖縄独自の様々なものを生み出していった。
その一つが琉球ガラスであった。

アメリカ軍の基地で捨てられていたビールやコーラのビンを再利用することを思いついた。
それらを溶かして再生する。鮮やかな色の混じり合い、再生の際に入ってしまう気泡がまた涼しげでいい持ち味を出した。

そんな廃品利用が生み出したのがこの琉球ガラスなのだ。

ガラスの向こうに見える風景、琉球ガラスの美は人々の苦悩が生み出した美なのである。



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フィジー 回想

2014-07-30 | 旅の風景
先日「世界ナゼそこに?日本人」という番組で、フィジーの秘境の地に暮らす日本人が紹介された。見られた方もおられるのではないだろうか?

「えっ?えーーっ?堤さん‼‼ 」

私は入院中の病院の談話室のテレビの前で思わず叫んでしまった。
その人は十数年前、1ヶ月近く私がフィジーに滞在したときに、離島に渡る船の中で知り合った男性で、当時、日本人の超有名な画家が所有する島の管理を任されておられて、船の上で聞いたその島の自然や施設の話は、まるで夢の国のようであったことを今でもはっきり覚えている。

堤さんと知り合ってからの一週間ほどは、原住民の方と交わり、何故か現地のインドの方の結婚式にまで参列し、観光客としてではない本来のフィジーの生活を堪能させてもらった。泥水のようなカバを飲んだのもこの時である。

「では明日の朝9時に…」と約束して別れたあと、私はコンドミニアムに堤さんはどこに帰られるのか、奥様がおられるのか恋人がおられるのか、お一人なのか、一切素性の分からない実に不思議なおじさんでした。

それがこの番組を見て、ちょうどその頃、日本に残してこられた奥様と離婚された頃だったということがわかった。奥様とお嬢様をフィジーに呼び寄せられたのだが、とても無理!着いて行けないと愛想をつかされたのだとか。

堤さんは、現在タベウニ島のブナ村に住んでいるという。2年前にその島の先住民ティコティコザー族の首長の娘、エレノアさんと結婚しその村と本島のナンディを行き来するという生活だという。ご自分のお嬢様と同年齢のような若くて可愛い奥様。
堤さん、おめでとうございます!

堤憲次郎さん64歳。公務員を辞めてフィジーに渡って以来波乱万丈な人生を送る。今は現地の人々に愛され、素敵な奥様とそして奥様のご家族と共に大自然に囲まれた楽園で幸せに暮らしている。

人生何が起こるか分からない、一見失敗のようなできごとも新しい人生の始まり、成功の兆しかも分からない。
捨てることで始まることがある。
人生に設計図は不要!いや、設計図など書くことは絶対できないのである。
この日、私は大きな勇気をもらった日となった。


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やんばる

2010-04-08 | 旅の風景
 昨夜、沖縄でカメラマンとして、またフォトセラピストとして活躍されている女性から何枚かの写真がパソコンに送られてきました。フォトセラピーの意味がもうひとつ分かっていなかった私でしたが、それらの写真を見て納得、写真であることを忘れて、壮大な大自然に吸い込まれていく私がそこにいました。
 中でも「やんばる」は圧巻!「やんばる(山原)」とは「山々が連なり鬱蒼とした森が広がる地域」という意味でもともと沖縄北部をさす言葉だったのだそうですが、次第に「やんばる」と呼べる範囲は狭くなり、現在では名護市以北が「やんばる」の概念となっているそうです。その名の通り、上から眺めると広大な山の原っぱです。モクモク連なる熱帯雨林の山々は、じっとみているとまるでブロッコリーのようで、どこかユーモラスでもあり、思わず「山笑う」という言葉を思い出しました。
 「やんばる」「やまわらう」「がんばる」雄大な大自然の風景は、姿だけではなく、その名前からも「元気」を発信しています。
 6月に沖縄と奈良で開催するコンサート「清ら地球(ちゅらぼし)」のチラシ用に送っていただいた写真なのですが、「やんばる」からたくさん元気をもらって頑張れそうです!

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