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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

いちゃりばちょーでー

2015-11-12 | 言の葉
「いちゃりばちょーでーの気持ちでお付き合いさせてください。お手伝いさせてください」
今、とてもお世話になっている沖縄の友との昨夜のメールのやり取り。あまりの優しさ、ご親切に私がお礼の言葉を送ると、こんな言葉が返ってきた。

沖縄でしようとしていることの準備が思うように進まない。分からないこと、ここからではどうにもならないこと、次々と問題が浮上してくる。
時間がない、焦り、苛立ち、トゲトゲとして冷え込んだ心が、沖縄の友の温かさ、温かい言葉にじぃんと芯からぬくもった。

「いちゃりば、ちょーでー」とは、
「行き逢えば、兄弟」のこと。
ウチナンチュの人がなまるとこうなる。

行き逢った人はみんな兄弟、ご縁をいただいた方は、みんな兄弟のように仲良くという意味。
その昔、異国の人、異国の文化を受け入れ共に生きて行かなければならなかった琉球王国時代の流れをくむ沖縄独特の精神である。

今、この星には71億人以上の人がいる。その中で、私たちは一生の間にいったい何人の人と出逢うのだろう。
奇跡の人はいったい何人いるのだろう。

今、隣にいる人も、今日仕事で出逢った人も、道を尋ねられた人も、みんな奇跡の人だ。

出逢いはかけがえのない財産、宝物。

「いちゃりばちょーでー」この言葉を胸に刻んで、残りの人生を心豊かに歩んでゆこう!そんな気持ちにさせてもらった。

ちなみに、その沖縄の友とはまだ出逢っていない。
友から繋がった友。
まだお顔も知らない。
ご縁の輪、奇跡の輪が広がる。











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ちやほや

2015-09-17 | 言の葉

昨日、実家の玄関の垣根で巨大なアゲハチョウに遭遇した。どれほど近づいても、シャッターの音にも微動だにしない。
大きさもさることながら、佇まいがまさにお姫様の風格。お召し物の白黒赤青と迷いのない色遣いもさすが!

こんなに間近で、しかもこんなに長い時間アゲハチョウを観察したのは生まれて初めてである。
模様もフサフサとした毛も見れば見るほどグロテスク極まりない。この世で一番苦手なものは蝶々だと言う妹の気持ちがわからないでもない。

その昔から、見目麗しき花や蝶は、愛でられ大切にされるものの象徴で、親が子供をこの上なく可愛がり育てる様に「花と蝶」が例えに使われていた。

平安時代には「花や蝶やと」、江戸時代にはひっくり返って「蝶や花やと」、それが明治時代になって「蝶よ花よと」に変化してきた。

興味深いのは「ちやほや」は「蝶や花や」の略語として生まれたと言うこと。
つまり「蝶よ花よと」は褒め言葉ではない。
 

「あなたはきっとご両親に蝶よ花よと大切に育てられたのですね」
と言われたら決して褒められたのではない。
「ちやほや甘やかされて育てられた世間知らずなんですね」と言われたのと同じ。

いずれにしても見目麗しき蝶やお花にはご用心。


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ぽんぽん…天花粉

2015-07-31 | 言の葉
「ぽんぽん」がなくなったから買ってきてと義父。

ふと思った。「ぽんぽん」と言われてどれだけの人がすぐに分かるのだろう。
「ぽんぽん」とは「天花粉」のこと、もっと分かりやすく言えば「ベビーパウダー」


「天花粉」はもともとは「天瓜粉」と表記されていた。「天瓜」とは黄烏瓜(キカラスウリ)の異称で、日本古来の「天瓜粉」は黄烏瓜の根から取れる澱粉で作られていた。

雪のことを「天花」とも言うことから、真っ白い粉を雪に見たて、やがて「天花粉」と表記するようになったとか。

我が家では「天花粉」でも「ベビーパウダー」でもなく、子どもが小さい時からずっと「ぽんぽん」

一時、不純物が混入したことで皮膚に良くないと評判が立ち、一気に店頭から姿を潜めてしまったが、今でもその数は少ないもののちゃんと陳列棚に並んでいる。もちろん、厚生労働省の定めた試験にパスした安全な製品である。

昔は、首筋が「ぽんぽん」で真っ白けの子どもをよく見かけたものだが、今はそんなものでサラサラにしなくても涼しいお部屋でサラサラなのか、やはり毛嫌いされているのか、そんな子どもは見なくなってしまった。

ちなみに、私の親4人みな「ぽんぽん」の愛用者である。

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「めっちゃ」

2015-07-24 | 言の葉
「めっちゃ美味しい!」
今日、鰻を食べて思わず発してしまった。

昔「その〈めっちゃ〉って変な言い方やめなさい!」とよく二男を叱ったものだ。

二男がホームステイしていたオーストラリアのファミリーを訪問した時、ファミリーの子どもたちが〈めっちゃ〉を連発していたのにビックリ仰天!

それは正しい日本語じゃないから日本に来ることがあっても絶対使ってはいけない、一部の人間にしか通じないし、それにあまりお行儀の良い言葉じゃない、と言うような内容のことを、私は身振り手振り片言英語で彼らに必死で説明した。
今から15年ほど前の話である。

それが今、いい年して私も〈めっちゃ〉の連発。
鰻を一口食べた後の「めっちゃ美味しい」の他にも「めっちゃ暑い」「めっちゃ眠たい」…少なくとも今日一日で〈めっちゃ〉を3回は口にした。

15年前のあの日、二男の口ぐせ〈めっちゃ〉がうつってしまっているオーストラリアのファミリーの子どもたちに
「あなたたちは〈めっちゃ〉の意味がわかってる?」と私が尋ねると、彼らは
「もちろんわかっている」と答えた。

てっきり「very」と言うかと思いきや、彼らは口を揃えて「exciting」というようなことを言った。

なるほど「exciting」か…。

今日、15年も前のあの日の会話がふと頭をよぎった。

今日のような暑さは「めっちゃ暑い」がピンとくる。たいへん暑い、すごく暑い、とても暑いでは何か言い足らない気がする。

鰻もしかり。
「めっちゃ美味しかった」わけで、たいへん美味しかった、すごく美味しかった、とても美味しかったでは伝え切れていない気がする。

そう〈めちゃくちゃ〉美味しかったのだ。

〈めちゃくちゃ〉を〈めっちゃ〉と最初に言った関西人(恐らく)は本当に凄いと思う。

今や老いも若きも、関西人は、友だち同士など気楽な仲間との会話では〈めっちゃ〉を連発する。

全国に拡散するのも時間の問題か…。



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スイートルーム

2015-07-23 | 言の葉
東京のホテルが大変なことになっている。以前はインターネットで気軽に取れた割安な部屋がどこも満室。
外国人観光客の急増でどこもいっぱいと聞いてはいたが、ここまでとは思っていなかった。

そんな中、目に付いたのがスイートルーム半額セール。この際、東京の夜を優雅に過ごしてみるのもいいかもしれない。
その話を友人にしたら「一人でスイートルーム?そりゃ淋しいね」と返ってきた。

スイートルームと言うと「sweet room」、カップル、新婚さん向きの豪華であま~いお部屋と勘違いしている人がまだまだいるようだ。ちょっと残念な和製英語である。

スイートルームは英語で表記すると「suite room」、この「suite」は洋服の「suit(スーツ)」と語系は同じで「一続き」「一組」「一揃え」という意味。
つまりスイートルームとは居間と寝室が一続きになった部屋のことを言う。

旅館に泊まると、居間があって障子の向こうに寝室という二間続きの間取りになっていることが結構多いが、そういう意味ではあれもれっきとしたスイートルームである。

残念な和製英語をついでにもう一つ、これも最近あった話。
ソフトクリームのコーン。あのコーンは「corn(トウモロコシ)」ではない。英語で表記すると「cone」で、小麦粉で作った円錐形の容器のこと。工事現場に置かれている赤いコーン、あれと同じ意味のコーン。

先日、ラングドシャー、つまりクッキー生地でできたコーンに入ったソフトクリームを食べている私の写真を見て、これじゃコーンとは言えないね、と言った友人もコーン=トウモロコシと思っていた派。

さて再びスイートルームの話。
スイートルームが「sweet room」じゃなくて「suite room」であったとしても、確かに一人じゃ淋しい。

一人で行動するのは平気な私だが、さすがにこれはちょっとハードルが高い…。

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心のお薬

2015-07-05 | 言の葉
「無事のお帰り、ありがとうございます」
遠出から戻ると必ずこんな言葉で私を迎えてくれる仲間がいる。言葉の奥に満面の笑みが見える。あたたかさに疲れが吹き飛び、帰って来てよかったと思う。
自分がただ生きているのではなく、何か少しでも人の役に立っていることを感じさせてくれる。大袈裟に言えば、自分が生きている価値を感じることができる。

年に数回しか訪れられないのだが、必ず玄関で「ありがとう!」と満面の笑みで迎えてくれる友がいる。玄関にはいつも私の好きな花が一輪。帰りももちろん「ありがとう、ありがとう!」といつまでも手を振ってくれている。

昨日、五日市剛さんは、この「ありがとう」を「魔法の言葉」と言われたが、私は「心のお薬」だといつも感じている。
真心のこもった「ありがとう」は心を元気にしてくれる最高の「心のお薬」である。

91歳の義父の「ありがとう」には時に涙が出る。嬉しいからではない。どこか「当然のこと」と思えていない私のやましい心が情けなくて涙が出る。ちょっとキツ過ぎる「心のお薬」…

昨日の五日市さんのお話の中で、とりわけ「自分が口にした言葉が必ず自分の身に返ってくる」という言葉が印象的だった。
吐いた言葉が必ず自分の身に…。
それが言霊の見えない力。

陰口、悪口は言うまい。言霊は必ず相手の心に辿り着く。感情に任せて暴言は吐くまい。その汚い言霊は必ず自分に返って来る。

昨日は、キラキラきらめく言霊で心にできてしまっていたたくさんの空洞が一つひとつ満たされていくのが分かった。

心が生き返ったような清々しい日曜日。

「無事のおかえり、ありがとうございます」
彼女の声が聞こえる。

……………

鮮やかな水色だった玄関の紫陽花、最後の力を振り絞って滲み出している色の美しいこと。
長い間楽しませてくれてありがとう!












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白い家

2015-06-12 | 言の葉
幼い頃、何かの絵本の中で見た「白い家」にとても憧れていた記憶がある。

壁もキッチンも家具も、庭を囲む板塀もみんな真っ白の家。
「それじゃあまるで病院じゃないか」と幼い頃の私に突っ込みたくなるが、絵本の中の「白い家」は幼い私を夢の世界に連れて行ってくれた。

「白い家」、スペイン語で「casa blanca」。
映画「カサブランカ」の舞台にもなったモロッコの都市「カサブランカ」は実はこんな意味を持っている。

映画「カサブランカ」は今から70年以上も昔の映画であるが、この映画から生まれた名台詞の数々は、今でも全く遜色がない。

「心はひとつさ。さあ行って。君の瞳に乾杯!」とハンフリー・ボガード。

「こんなに愛さなければよかった…」とイングリッド・バーグマン。

愛し合う二人の悲しい別れ、ラストシーンの名台詞だ。

こんな言葉、今までの人生で、言われたこともなければ言ったこともないが、まだ諦めてはいない。今からでもこんな恋をしてみたいと思う乙女な私である。

さて、この名を持つ百合がある。
あの豪華な白い百合「カサブランカ」、「白い家」とはなるほどの命名である。
百合の花を見ると『何かいるんじゃないかしら?』と中を覗いてみたい衝動にかられるのも「白い家」だからかも知れない。

いよいよ奈良も百合の季節を迎えた。ただしこちら和風建築、白壁の楚々とした「白い家」だ。

一昨日、高畑の帰り、ちょっと足を伸ばして「白毫寺」に立ち寄った。奈良の町が一望できる大好きなお寺である。
萩の季節、五色椿の季節には賑わいを見せるが、普段はひっそりとした山寺風のお寺である。

静かな境内で、1本のササユリが祈るように本堂の方を見つめていた。何を祈っているのだろう…。






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あづさい … 集真藍

2015-06-05 | 言の葉
「移り気」「あなたは美しいが冷淡だ」こんな意地悪な花言葉もアジサイが花色を移していくところに由来するのだろう。

緑色の蕾が次第に青くなりそして赤味を帯びてきたりする様は、どこか成熟していく女のようである。
土壌によって花色を変えるところなどは、付き合う相手の男性の色に染まる可愛らしい女を思ったりもする。

私ならアジサイにこんな花言葉をあげたい。

「あなたの色に染まります」

万葉集の中で大伴家持がアジサイを歌っている。ただし「紫陽花」ではなく「味狭藍」という漢字が使われている。1300年もの昔の奈良の都の人々もこの花を目にしていたとは、自然の歴史の奥行きに驚くばかりである。

「あじさい」の語源として最も有力なのは、「藍色が集まったもの」を意味する「集真藍」(あづさい)がなまったものとする説らしい。
「あづさい」がなまって「あじさい」とは。「あじさい」をなまって「あづさい」と発音する地域があったりなどして、なにやらややこしい。

いずれにしても、アジサイが日本生まれの日本特有の花木であることが誇らしい。海を越えて品種改良されたものが世界に広まって行ったわけで、諸外国にはその野生種は存在しない。

この春にいただいた原種のアジサイの花が咲いた。
その細い首筋、素朴で清楚な花はどこか古の女性の姿のようでもある。

子供の握りこぶしほどのまだ緑色を帯びた若水色の花が、世の雨に打たれてどんな風に変化(へんげ)していくのか楽しみである。










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白い十字架

2015-06-01 | 言の葉
「あなたのせいよ!あなたがいるだけでお荷物なのよ!今すぐ出て行って!」
朝からえらい言葉を耳にした。白熱の演技だ。

現実にこんな言葉を耳にしたら、たとえ当事者でなくとも冷静な気持ちではいられない。

こんな言葉を口にする人の心情はいかなるものだろう、本当は辛いんだろうな…演技だと分かっているからか、少し距離があるからか、トゲのある言葉も冷静に聴くことができる。

普段の会話やメールのやり取りも、ヒートアップしそうになったら、一歩さがって、一呼吸おいて、ちょっと距離を置いて冷静になればトゲトゲしい言葉のやり取りをしなくても済むのかもしれない。

数年前、何が原因だったのか未だによくわからないような理由で仲が気まずくなった人がいる。私のことを妹のように可愛がってくれた女性である。

彼女は好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという白黒はっきりした性格の人で、媚びたりすることは大嫌い、いわゆる「歯に絹着せぬ」ものの言い方をする人であった。
彼女のそういうところが苦手という人もいるが、私はそういうところが好きであった。何より、第一印象とは裏腹に、お花の世話が大好きで、とても繊細で優しい人であることをよく知っていた。

そんな人と気まずくなったままなのがずっと気になっていて、二ヶ月ほど前に長い沈黙を破って思い切って手紙を書いた。すると昨日、

「あなたの好きな花が今年も咲きました」

というメールとドクダミの花の画像が彼女から送られてきた。
画像を見ると、彼女のお宅の大きな庭の一角をドクダミがドンと占領していた。そして、
「可愛く育てます」
と、メールは締めくくられていた。

まるで白い十字架のような花、ハートの形をした葉っぱ、人付き合いは苦手ですと言わんばかりの臭い、でも私でお役に立つなら…と人のために薬となる、そんなドクダミの花が好きだと私がいつも言っていたことを覚えていてくださったのだ。
きっと、私の好きなドクダミがいっぱい花をつける時期を待ってお返事をくださったのだろう。

ほんの一言が人を幸せにしたり地獄に陥れてしまったりする。
神様は人間にだけに言葉を与えてくださったのだ。私たちはもっと丁寧に大切に言葉を扱わなくてはならない。

今日も原稿用紙に向かいながら、書いたり消したり書いたり消したりの繰り返し。
言葉の扱い方に四苦八苦している。

(我が家の庭の今朝のドクダミの花)



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「満ちる」

2015-05-06 | 言の葉
日本には干潮の時にのみ渡ることができるという島がけっこうある。

沖縄の安室島もその一つで、大潮の干潮時、潮がかなり引く時期・時間にのみ一筋の道が現れ、座間味島から歩いて渡ることができる。しかしこの海峡の流れはかなり速いため、少しでもタイミングを間違えると戻れなくなる。

潮が「満ちる」と動けなくなる。

「満ちる」というと、エネルギーをいっぱい貯め込んだいかにも動けそうな状態を想像するものだが、人間「満ちる」と意外と動けなくなるものだ。

農林水産省は今年度から地球温暖化対策として、暑さや水不足に強い農作物を作る研究を強化し、2019年度までの5年間でコメや野菜、果物などで10種類以上の新品種開発を目指すという。

このところ、5月に入ったばかりとは思えない気温、真夏を思わせる暑さの日が続く。確実に温暖化は進んでいるのだろう。
温暖化ストップ対策ももちろん大切だが、温暖化に強い農作物の開発も「満ちる」前にしてより万全である。

伝統の「型」に何とか収めようたって「型」が古臭過ぎて中身が収まらないことがある。時には中身ではなく「型」を新しくする勇気も必要だ。
収まり切らず、満ちて溢れ出してから慌てていては遅い。

政治だって憲法だっておんなじ気がする。

何かが起こってからでは遅い。
満ちてからでは遅い。潮が「満ちる」前に、道が見えている間に動かないと!

お金が貯まったら?
時間がたっぷりできたら?

いや、きっとお金も時間も満ちてしまうと動けなくなるのだろう。
そんな経験したことがないから分からないが、そう信じて今できる限り動こう!








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ミルフィユ

2015-05-05 | 言の葉
突然降り出した雨、マロニエの木陰で雨宿り。
そんな今日の〈パリな夕暮れ〉の中でふと頭に浮かんだのが昔パリのカフェで食べた「ミルフィユ」のこと。

フランス発祥のお菓子「ミルフィユ」はフランス語で表記すると「mille-feuille」、「千枚の葉っぱ」の意。
なるほど、幾重にも折り重なったパイ生地がいかにも葉っぱが何枚も重なっているようである。

これを「ミルフィーユ」と発音してしまうと「mille filles」というフランス語の発音に近くなってしまう。意味は「千人の女性」。

パリのカフェで「ミルフィーユ下さい」と言うと「千人の女性」を注文してしまったことになる。

先月逮捕された元中学校長がフィリピンでのべ1万2千人以上の女性を売春していたというから、「千人の女性」と言っても笑えないのが悲しい。

呆れて開いた口がふさがらないが、まあ女好きもここまでくるとご立派である。

この男、一人ひとりとの行為を全て写真に残し、おまけにご丁寧に女性に番号をふっていたというからこの恐ろしい数字が浮かび上がったわけだが、写真も番号も残していないというだけで、のべ千人なんて殿方も意外とおられるのかも分からない。

せっかくの〈パリな夕暮れ〉がとんだ話に脱線してしまったが、いずれにしても日本語化された外来語を外国で使う時は注意しなければならない。
変な意味で伝わるぐらいなら、全く伝わらない方がましかもわからない。

ちなみに「チップ」は英語で表記すると「chip」、「切れ端」という意味になる。
私たちが言いたい「チップ」は英語で表記すると「tip」、「ティップ」こう発音すれば「心づけ」の意味になる。

明日はミルフィユを食べよう^ ^




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男時 女時

2015-05-02 | 言の葉
今年は実の成りが悪いのか、去年はもっと成っていたのに…今朝そんなことを思いながら庭の梅の木を眺めていたら、ふとこんな言葉が頭をよぎった。「男時 女時」。

「男時 女時」(おどき めどき)とは、世阿弥の能楽論書『風姿花伝』に出てくる
能の言葉で、「男時」とは運が向いているとき、「女時」とは運が離れているときを言う。

すべての時と事象には「男時」と「女時」がある。
「男時」と「女時」は誰にも交互に訪れる時の流れであるから、逆らわず宿命として受け入れよ。「女時」にいたずらに勝負にいっても決して勝つことはできない。そんな時はやがてやってくる「男時」をじっと待ち、そこで勝ちにいけ、と世阿弥は言っている。

誰しも何をやっても上手く行かないときがあるものだ。仕事運、金運、健康運、恋愛運…運という運すべてに見放されたかと思うような時が。

そういう「女時」には無茶をせず、やがてやってくる「男時」を静かに待て。「女時」こそが我を磨く研鑽のときだと世阿弥は言うのだ。

人間「女時」のあり方がどれほど大切か、世阿弥が言いたかったことが「男時 女時」という言葉から静かに伝わってくる。

「初心忘るべからず」これもまた世阿弥の言葉である。

600年の時を経て、世阿弥の言葉が心に響く。










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虎の威を借る狐

2015-04-20 | 言の葉

虎が捕まえた狐を食べようとしたときのことだ。その狐はこう言った。
「わたしは神様から百獣の長に命じられたので食べてはいけません。嘘だと思うのならわたしの後からついてきなさい。動物たちはわたしを見たらみんな逃げ出すでしょう」
虎は言われた通り狐の後からついて行くと、ほんに動物たちみな逃げ出していった。


これは「虎の威を借る狐」のお話である。
他の動物たちは決して狐を恐れたわけではなく後ろの虎を見て逃げ出したのだ。
虎はそのことに気づかず、動物たちは狐を見て逃げ出したと勘違いしたのだ。
いくら虎の威を借りたところで狐は狐にしか見えない。それどころか動物たちにはよけい情けないヤツに見えたことだろう。

この話を人に置き換えるとどうだろう。
どれだけ凄い人物の威を借りて威張ってみたところで、ちっぽけな人間はちっぽけな人間、威を借りたことでよけい情けない人間に見えてしまうのかもしれない。

誰かの力を借りなければいけないことはあるだろう。そういう時は頭を下げて、思い切り甘えるのも一つの方法だと思う。
しかし「威」を借りるのはよくない。なぜなら「威」はその人の生まれ、生き方、努力などに釣り合って与えられたその人固有のモノだからだ。他者ががその「威」を借りて威張ってみたところでそんなもの直ぐに見破られてしまう。

さて、百均ショップの文具売り場に行くと、日本のメーカー品の色やデザインを装った偽モノの多さに驚いてしまう。
お客はもはやうっかり騙されて買うわけではなく、偽モノであることを承知の上で百円の魅力で買っている人がほとんどであろう。
それにしてもあまりの「やりたい放題」、どうしてこんなことが公然と許されているのかとずっと不信に思っていたが、やっと今月一日に商標法改正されてイメージカラーなど商品の「色彩」まで商標登録できるようになった。
早速、三菱鉛筆は自社の高級鉛筆「uni」の軸色である日本の伝統色である「えび色」と高級感のある「ワインレッド」を掛け合わせた独自の色を出願した。大塚製薬はポカリスエットの「青」を、タカラトミーはプラレールの「青」を出願した。

悪知恵に長けた狐もだんだん住み辛い世の中になってきた。






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やさしい嘘

2015-04-19 | 言の葉
「それを言っちゃあお仕舞いよ」
と言えば寅さんの名台詞。もともと渥美清がアドリブで放った言葉であったが、この言葉の持つ意味深さに感心した山田洋次監督は、寅さんの決め台詞としてその後の脚本に多用されるようになったそうだ。

人付き合いの中には「それを言っちゃあお仕舞いよ」ということが結構ある。平静な時は理性がはたらいて「それを言っちゃあお仕舞いよ」ということはたいてい口にしないものだが、ケンカをしたりすると、いわゆる「売り言葉に買い言葉」みたいな勢いで言ってしまうことがある。私もこれで苦い経験をしている。一発殴ったのとはわけが違って、言葉から受けた傷はそう簡単に癒えるものではない。

「正直」も下手すれば大人社会では上に「バカ」がつく。「歯に衣着せぬ」人にも「そんな素っ裸で…。下着ぐらい着けはったらどうですか」と言いたくなることがある。

親子、夫婦、恋人、親しい友人、仲間、例え上司と部下、先生と生徒であっても、「これを言っちゃあお仕舞いよ」ということがある。

MISIA の「Everything」の中に「やさしい嘘ならいらない」というくだりがあるが、「やさしい嘘」も時には必要だ。何でも正直に言えばいいというものではない。正直に言わないやさしさとうものが必ずある。

認知症の父は今や兄弟、親戚、我が子も孫もみんなごちゃ混ぜになって分からなくなっている。
先日施設を訪問した時、からかって父に母の名前を言うと「それはわしの嫁さんや」と即座に返って来た。「会いたいなぁ、元気にしてるかなぁ…」と言葉を続けた。それには絶句してしまった。
父を施設に入れたことに未だに罪悪感を抱き苦しんでいる母には「お父さん、お母さんの名前を聞いても全然分からへんのよ。何もかもすっかり忘れて施設で楽しくやったはるわ。幸せな人やなぁ」とその日のことを報告した。






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ゆびきりげんまん

2015-04-18 | 言の葉

ゆびきり げんまん
うそついたら
はり せんぼん のます
ゆび きった

今やわらべ歌調に歌いながら大人も子どもも誰もが口にするこのフレーズ、出処を知るとギョッとしてしまう。

昔、遊郭の遊女が客に普遍の愛を誓う証しとして小指を切断したというのが出処。そして切断したその小指を渡したのだとか…。
遊女はたくさんの男性とお付き合いするのがお仕事。嘘を交えて言葉巧みに客を誘惑するのでいくら口で言っても信用されず、そこで誠意を見せるために指を切り落としたそうだ。

「げんまん」とは「拳万」、つまり握り拳(こぶし)で1万回殴ること。
「はりせんぼんのます」とはその通り針を千本飲ますこと。
指を切り落とすだけではまだ信用ならず「拳万」と「針千本」が付け足されたというわけだ。

女の私が言うのもおかしな話だが、たとえ指を切り落とさせたところで女なんて怪しいものだ。信じる男が単純過ぎる。

もう20年近く前の話、ある女性から物凄い剣幕で電話がかかってきた。
よくよく話を伺うと、ご主人の浮気がばれて、相手を突き止めようとご主人の名刺、携帯のアドレスの中の女性に片っ端から電話をされているということがわかった。
私はお仕事で一度お目にかかりお名刺交換をしただけの方なのでその疑いはすぐ晴れたのだが、すぐに電話を切らしてはもらえなかった。お目にかかったこともない奥様の涙ながらのお話を聞かされるハメになった。
「だいたいね、女の浮気はバレないけど、男の浮気なんて絶対バレるんだから!」
延々と聞かされたお話の内容はほとんど忘れてしまったが(元々ちゃんと聞いていない)この言葉だけが頭に焼き付いて離れない。

さて、我が家には今日ゴルフの約束を破ってしまってぐったり肩を落としている男がいる。決して約束を破ったわけではなく、土曜日と日曜日を勝手に勘違いし明日だと信じ切っていたわけであるが、約束を果たせなかったのには違いない。行くと言って行かなかった、うそをついたことになる。

拳万?針千本?さてどんな罰を受けるのか…。



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