可愛がってくれた叔母が急逝した。一人息子が家を離れてからの約70年間、女一人で気丈に生きた叔母の楽しみは着物であった。その叔母の着物が私の元にやってきた。
一枚一枚着物を眺めていると、それぞれの着物に刻まれた物語、想い、そして色柄の好みやセンスが見えてくる。それはまるで叔母の暖簾を見ているようであり、その暖簾の向こうには叔母の歩いてきた遥かな道、女の歴史が見えるような気がした。
私は改まった席へは叔母の着物で出かけるようになり、着付けとヘアセットは手貝(てがい)町にある美容室にお世話になるようになった。 今年87歳になられるお母さまが創業され、大切に育ててこられた美容室の暖簾を、今は娘さんが受け継いでおられる。着物は今もお元気なお母さまが着せてくださる。
暖簾の向こうには幼いころ母に着いて行った懐かしい美容室の風景がある。何十年来の常連さんに愛される、歴史の町「きたまち」の美容室である。
その昔、京都山城と大和を結ぶ京街道沿いに開けたこの辺りは、奈良の北の玄関口として京都や大阪からやって来た多くの旅人が行き交い、旅籠や商店の立ち並ぶ活気あふれる町であった。中世より東大寺郷として栄え、商工業が発達し、江戸時代には奈良代官所や奈良奉行所がおかれた政治の中心でもあった。
幸か不幸か、観光地としては「ならまち」ほど洗練されていない「きたまち」には、平城京以来の痕跡、歴史の欠片がそこかしこに転がり落ちている。
春の日差しに誘われて「きたまち」散策に出かけた。東大寺転轄(てがい)門のすぐ近くの醤油醸造元を訪ねると、五代目のご主人が、もろみの甘い香り漂う蔵を案内してくださった。壁や天井、年季の入った樽など、道具一つひとつが醤油造りの歳月を物語っている。
約2年間毎日かき混ぜ、もろみに呼吸させることで醤油ができるのだという。大きな樽の中をのぞき込むと、もろみの息遣いが聴こえてくるようだ。140年近く守られてきた暖簾の向こうには、生きている人間が生きている醤油をつくる、命を賭けの風景がある。
「昔はこの近くに醤油屋が幾つもあったのに、ここだけになってしまいました」別れ際のご主人の淋し気な表情が忘れられない。
そういえば、原料の節を炭火で焙って手で削るという、創業当時からの手法で香り高い鰹節を売っていた鰹節屋さんも、一昨年創業67年の暖簾を下ろした。ガラスの陳列ケースの前でどれにしようか迷っていた私に、「出汁なら宗田節がいいよ」と出汁の取り方まで教えてくださったおじさんも、あの香ばしい鰹節の匂いも、この町から消えてしまった。
町屋の人々の営みと共に生き続けてきた銭湯も、昨年85年の歴史に幕を下ろした。暖簾の向こうでは、木製のロッカー、脱衣籠、創業当時から大切に使われ続けてきた道具たちが、意気揚々と活躍していた。古い町の景観を引き立てていた昭和の銭湯の暖簾は、広い駐車場の下に葬られてしまった。
歴史の町の暖簾が一つ、また一つと消え、代わりに駐車場や無表情な建物が増えていく。歴史の町で暮らした先人たちの心が、無粋な開発に潰されていくようで残念でならない。
般若寺桜門前の古い民家が軒を突き合わせている奈良坂を下ったところ、「北山十八間戸」の少し手前に、高さ2m近くある夕日地蔵と呼ばれるお地蔵さんが立っておられる。
その昔、コスモスの広野原で夕日を受けておられるお姿にこの名が付けられたのだろうか。初めてここを訪れた時、民家に挟まれた暗い空き地に隠れておられるお地蔵さんを探すのにうろうろした。
「ならざかの いしのほとけのおとがいに こさめながるる はるはきにけり」
立て札には、奈良をこよなく愛した会津八一のこの言葉が書かれている。
八一はまた、このお地蔵さんにこんな言葉も遺した。
「その表情、笑ふがごとく、また泣くがごとし」
お地蔵さんが八一に見える春の日に…。
(新聞掲載日 2016年3月25日)