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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

暖簾の向こう

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 可愛がってくれた叔母が急逝した。一人息子が家を離れてからの約70年間、女一人で気丈に生きた叔母の楽しみは着物であった。その叔母の着物が私の元にやってきた。
 一枚一枚着物を眺めていると、それぞれの着物に刻まれた物語、想い、そして色柄の好みやセンスが見えてくる。それはまるで叔母の暖簾を見ているようであり、その暖簾の向こうには叔母の歩いてきた遥かな道、女の歴史が見えるような気がした。
 私は改まった席へは叔母の着物で出かけるようになり、着付けとヘアセットは手貝(てがい)町にある美容室にお世話になるようになった。 今年87歳になられるお母さまが創業され、大切に育ててこられた美容室の暖簾を、今は娘さんが受け継いでおられる。着物は今もお元気なお母さまが着せてくださる。
 暖簾の向こうには幼いころ母に着いて行った懐かしい美容室の風景がある。何十年来の常連さんに愛される、歴史の町「きたまち」の美容室である。

 その昔、京都山城と大和を結ぶ京街道沿いに開けたこの辺りは、奈良の北の玄関口として京都や大阪からやって来た多くの旅人が行き交い、旅籠や商店の立ち並ぶ活気あふれる町であった。中世より東大寺郷として栄え、商工業が発達し、江戸時代には奈良代官所や奈良奉行所がおかれた政治の中心でもあった。
 幸か不幸か、観光地としては「ならまち」ほど洗練されていない「きたまち」には、平城京以来の痕跡、歴史の欠片がそこかしこに転がり落ちている。

 春の日差しに誘われて「きたまち」散策に出かけた。東大寺転轄(てがい)門のすぐ近くの醤油醸造元を訪ねると、五代目のご主人が、もろみの甘い香り漂う蔵を案内してくださった。壁や天井、年季の入った樽など、道具一つひとつが醤油造りの歳月を物語っている。
  約2年間毎日かき混ぜ、もろみに呼吸させることで醤油ができるのだという。大きな樽の中をのぞき込むと、もろみの息遣いが聴こえてくるようだ。140年近く守られてきた暖簾の向こうには、生きている人間が生きている醤油をつくる、命を賭けの風景がある。

「昔はこの近くに醤油屋が幾つもあったのに、ここだけになってしまいました」別れ際のご主人の淋し気な表情が忘れられない。

 そういえば、原料の節を炭火で焙って手で削るという、創業当時からの手法で香り高い鰹節を売っていた鰹節屋さんも、一昨年創業67年の暖簾を下ろした。ガラスの陳列ケースの前でどれにしようか迷っていた私に、「出汁なら宗田節がいいよ」と出汁の取り方まで教えてくださったおじさんも、あの香ばしい鰹節の匂いも、この町から消えてしまった。
 町屋の人々の営みと共に生き続けてきた銭湯も、昨年85年の歴史に幕を下ろした。暖簾の向こうでは、木製のロッカー、脱衣籠、創業当時から大切に使われ続けてきた道具たちが、意気揚々と活躍していた。古い町の景観を引き立てていた昭和の銭湯の暖簾は、広い駐車場の下に葬られてしまった。
 歴史の町の暖簾が一つ、また一つと消え、代わりに駐車場や無表情な建物が増えていく。歴史の町で暮らした先人たちの心が、無粋な開発に潰されていくようで残念でならない。

 般若寺桜門前の古い民家が軒を突き合わせている奈良坂を下ったところ、「北山十八間戸」の少し手前に、高さ2m近くある夕日地蔵と呼ばれるお地蔵さんが立っておられる。
 その昔、コスモスの広野原で夕日を受けておられるお姿にこの名が付けられたのだろうか。初めてここを訪れた時、民家に挟まれた暗い空き地に隠れておられるお地蔵さんを探すのにうろうろした。

「ならざかの いしのほとけのおとがいに こさめながるる はるはきにけり」

立て札には、奈良をこよなく愛した会津八一のこの言葉が書かれている。
八一はまた、このお地蔵さんにこんな言葉も遺した。

「その表情、笑ふがごとく、また泣くがごとし」

お地蔵さんが八一に見える春の日に…。

(新聞掲載日 2016年3月25日)

 


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ふる里

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 奈良に春を告げる東大寺のお水取り(修二会)がクライマックスを迎える。天平の昔から一度も絶えることなく連綿と引き継がれてきた壮大な伝統行事である。十一面観音にお供えする一年分のお香水(こうずい)を若狭井から汲み上げるという夜の儀式には、行を勤める練行衆の道明かりとして、大きなお松明に火が点される。
 このお水取りに使われるお松明は、お隣の伊賀国からやってくるのだそうだ。その昔、名張の黒田は東大寺の荘園で、その古い関係により、今でも名張市赤目の極楽寺を起点として、黒田坂から笠間峠を通り東大寺に調進されているという。
 
 このお松明調進の歴史街道の山腹に、美しい里の原風景が開けている。奈良と三重の県境のふる里、雲に浮かぶまほろばの山々と、眼下に名張平野を一望する深野である。
 ササユリが咲く里の原風景を守ろうと、住民が一丸となり活動してこられた努力が実り、2009年には「ササユリ守る県境の里」として全国二千カ所以上の候補地の中から「にほんの里100選」(朝日新聞社他)に選ばれた。
 神明神社を中心に、日本の原風景が広がる雪解けの深野を案内していただいた。手入れのよく行き届いた斜面の棚田が、今もこの地に人々の健やかな営みが息づいていることを物語っている。
 川のない深野であるが、古来より豊かな湧水に恵まれ、溢れ出る湧水が今も棚田や、点在する民家を縫うように走り抜けている。この水が何百年もの間、このふる里の暮らしを支えてきたのだろう。

 6月には、希少となった日本原種のユリ、ササユリをこの里では見ることができる。近年、多くの野生の動植物が、人間の無秩序な採取や乱獲などにより絶滅の危機に直面している。野生の動植物はこの地球の自然環境そのものである。ササユリを守ってきたということは、自然環境を守ってきたということなのだ。
 案内してくださった深野の方の、この地に生きてきた自信と誇りに満ちた笑顔が忘れられない。

 深野を訪れた翌日、滋賀県高島市針江を訪れた。針江の生水(しょうず)は2008年に「平成の水百選」(環境省)に選ばれた。
 まず目に飛び込んできたのは針江大川の水である。その圧倒的な美しさに息を飲んだ。川底には清流にしか生息しない梅花藻が揺れている。
 川上の朽木のブナの原生林に落ちた一滴の水、その水が山にしみ、小さな流れや伏流水となり、下の大地を潤す。そしてやがて琵琶湖に注ぐ。
 針江は、その水の流れの途中にある。各家々にはカバタ(川端)があり、人々は今もその水を利用して生活している。

 こんこんと水の湧き出る元池の水は飲料水や炊事に、坪池に溢れ出た水は野菜洗いに、食器を洗うのは端池の水、そして端池に活けられている鯉が苔や食べかすなどを処理する。カバタには古くから守られてきたルールがあるのだ。
 水を共通の財産として大切に守るこのふる里には、都会の暮らしの中で忘れ去られた隣近所への思いやり、信頼の絆などが今も当たり前のように息づいている。
 人の営みに生かされて、尚も美しい水のまま母なる湖に返す。そのご苦労を話される針江の方々の笑顔は、この地に暮らしているという感謝と誇りに満ち溢れている。

 長野県の安曇野、穂高町あたりの雪解けのふる里の風景に感銘を受け、吉丸一昌は『早春賦』の詩を書いた。安曇野の遅い春を歌った吉丸の詩に中田章が作曲した『早春賦』は、2006年に「日本の歌百選」(文化庁他)に選ばれた。

「春は名のみの風の寒さや、谷の鶯、歌は思えど、時にあらずと声も立てず」

 この詩を刻む歌碑が立つ保高川の土手沿いでは、毎年春に『早春賦音楽祭』が開かれる。この歌がこの地を歌ったものであるということへの、安曇野の人たちの喜びと誇りが伝わって来る。

受け継ぐべきは、何よりもまず「我がふる里への誇り」なのだろう。

(新聞掲載日 2016年3月11日)


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路地裏

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 板塀の土蔵、格子の古い家並みに縁取られた路地、遠い記憶の世界に迷い込んだかのように、複雑に入り組んだ路地を夢中で歩き回る。
 集落の中ほどにある造り酒屋が、辺りに甘い香りを漂わせている。路地を抜けるとそこは土手で、その向こうには佐保川が流れている。どこまでも幼いころの記憶と重なる町、大和郡山の番条。
 大和盆地に点在する環濠(かんごう)集落は、近年、殆どの環濠は埋め立てられ、都市化などにより輪郭も曖昧になってしまっている。しかしここ大和郡山の番条は、同市の稗田(ひえだ)と共に、当時の環濠集落の佇まいをそのままに、今もほぼ原形をとどめている。

 小学校4年生までを伏見桃山城の城下町、酒蔵の並ぶ伏見で過ごした。幼少期の記憶の背景には、決まって白壁に黒い腰板の酒蔵、高瀬川、土手、そして路地が出て来る。ただ、私たちはその路地を「ろーじ」と呼んでいた。
 学校から帰ると、一人また一人、私たちは路地に出てきた。大きい子も小さい子も、皆が一緒になって路地で遊んだ。かごめ、ゴム飛び、下駄隠し、めんこ、けんぱ、その他にも遊びがいっぱいあった。棒切れ、石ころ、そして地面があれば、私たちは遊びには事欠かなかった。路地は鬼ごっこにはうってつけの場所で、角で鬼と鉢合わせをするあのスリルは、今思い出してもドキドキする。
 夕刻、家々から煮物の匂いがしてくるころには、蝋石(ろうせき)の跡も薄れ、一人また一人と私たちは家に帰っていった。
 路地裏といったどこか閉鎖的な空間は、子どもたちにとって大切なコミュニケーションの場所であり創造の場所であった。そして、大人にはちょっと内緒の場所でもあった。
 その小さな社会には、ちゃんとルールがあった。子どものころ路地裏で育まれた生きる力が、今の自分の根っこにある。
 未だに整然とした場所より、入り組んだ路地裏の食堂、居酒屋、喫茶店などに足が向くのもそのせいかもしれない。片隅に追いやられているようで、都会のぬくもりや原動力は、今もこうした路地裏の中にあるような気がする。

 大和西大寺の南側に昭和の香り漂う国見小路という小さな路地がある。路地の両側には小さな飲食店が肩を寄せ合っている。ネオンの灯るころには、疲れた羽を休めにやってくる仕事帰りの客たちで賑わう、生命力に満ち溢れている路地だ。
 その昔、この路地の奥にあるジャズを聴かせる店に連れて行ってもらったことがある。窓のない暗い部屋には煙草の匂いが染みつき、壁には見たこともないLPレコードがぎっしりと詰まっていた。当時まだ高校生だった私を、路地裏のこの猥雑な世界に一気に惹き込んだのが、そのとき店に流れていた音楽だった。帰り、オーナーさんにお願いして同じものを取り寄せてもらった。

 ステレオの針が擦り切れるほど聴いたそのアルバムは、デューク・ジョーダンの『Flight To Denmark』、端正なタッチにそこはかとなく漂う寂寞(せきばく)感、翳りある生命力、この感覚は路地裏のあの世界にどこか通じるものがある。
 録音の少ないピアニストが後世に遺した貴重な一枚は、私が初めてジャズに出会った貴重な一枚である。

 番条の帰り、大和郡山駅までの商店街を歩いた。かつては郡山で一番賑わっていた場所も、シャッターの下りた店舗が目立つ。所々に、看板だけが昭和の残骸のように残っている。
 しかし、番条にしても駅前の商店街にしても、城下町特有の細い道や建物が、取り壊されずによく形を残している。とりわけ洞泉寺町の路地裏に軒を連ねる遊郭跡を保存されている懐の深さには感動する。あれほどの建物はもう二度とつくることはできないだろう。
 取り壊すことより、実は保存することの方が知恵もパワーも必要なのだろう…そんなことを考えながら歩いているうちに駅に到着。

 駅前のコロッケ屋さんの匂いが空腹に堪える。学生に混じってコロッケを頬張りたい衝動を何とか抑え、家路に着く。

(新聞掲載日 2016年2月26日)

 

 


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道化師

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 鶴岡八幡宮を彷彿させる階段を、一段一段踏みしめながら上る。多分これで最後。「鎌近」の愛称で親しまれてきた神奈川県立近代美術館鎌倉館が1月31日で閉館した。
 貴重な建物の保存を望む多くの声に、建物は取り壊しから保存へと舵が切りかえされた。そのニュースに安堵していたファンの一人だったが、訪れてみて思いは複雑だ。老朽化が想像以上に進んでいる。
 戦後の混乱と再生の中で、文化芸術の指針を示し、65年間人々に夢と希望を与え続けてその役者の引退を潔く拍手で送ってあげたい気もする。鶴岡八幡宮の境内に建てられた日本で最初の公立の近代美術館、日本のモダニズム建築の先駆けとなった誇り高き姿は、取り壊されたとしても、多くの人々の記憶の中で生き続けるに違いない。

 この絵の前に立つのも最後かもわからない。古賀春江の絶筆『サアカスの景』。病巣は脳にまで広がり、精神状態もままならぬほど画家の体を蝕んでいた。手が震えて書けなかった署名は、古賀の筆跡をまねて後輩の高田力蔵が書き込んだ。「無銘でもいいじゃないですか」と言う高田に、古賀は「サインがないと絶筆のようで嫌だ」と言った。その年の夏、古賀は39歳の若さで息を引き取った。
 共に前衛を目指した天才画家のあまりにも早い死を悼み、親交の深かった川端康成は、古賀の絵を後世に伝えるべく、『窓外の化粧』と共に、この『サアカスの景』を買い戻し「鎌近」に寄付した。
 サアカスの猛獣たちは、みな人形のようにおとなしく、楽しそうなタイトルとは裏腹に、絵はしんみりと静まり返っている。闘病の苦しさなど微塵も感じない。痛々しいほどに静かなこの絵には、画家としての覚悟がそこはかとなく漂っている。

  『サアカスの景』の中には道化師はいない。しかしこの絵からはあの道化師の歌が聞こえて来る。レオンカヴァッロの歌劇『道化師』の悲痛なあの歌が。
 旅回りの一座の座長カニオは、一座の女優でもある妻ネッダが浮気をしていることを知る。道化師を演ずるカニオは、間もなく始まる芝居を前に、怒りと悲しみのどん底からこの歌『衣装をつけろ』を絶唱する。
 「我慢してやるんだ、お前は道化師なんだ。衣装をつけろ、おしろいを塗れ、お客はここにお金を払って笑いに来るんだ。さあ笑うんだ、道化師よ。苦悩と涙を道化に変えて」
 いよいよ芝居が始まる。くしくも、ストーリーは妻のネッダ演ずる女が浮気をするというもの。カニオの迫真の演技に観客は大興奮である。カニオはもう芝居なのか現実なのかわからなくなってくる。
 「愛人の名前を言え」と詰め寄るカニオに「嫌だ」とネッダが挑発的に断って来ると、カニオは逆上して近くにあったナイフでネッダを刺す。そして観客の中から飛び出てきたネッダの浮気相手も刺し殺してしまう。悲鳴を上げる観客、カニオは握りしめていたナイフを床に落とすと「喜劇は終わりました…」とつぶやく。
 画家も役者も、誰もがみんな悲しい道化師なのかもわからない。

 山の辺の道、檜原(ひばら)神社を西に少し行ったところに、井寺池という周囲に歌碑が立つことで有名な池がある。
 その池を上下に区切る堤の中ほどの道の辺に、腰の低い川端康成揮毫の歌碑がある川端は「遠足に来た子どもたちが腰を掛けて弁当でも食べられる高さの歌碑をここに建てて欲しい」と言った。そしてその歌碑には、ヤマトタケルが死を迎えた時に、故郷の大和を偲んで歌った歌を書くと決めていた。

 その三か月後、川端はその字を書かずして逗子の仕事部屋で自殺した。歌碑の文字は、ノーベル賞授賞式での記念公演の原稿『美しき日本の私』から文字を拾い集めて刻まれた。なるほど、言われてみれば歌碑に刻まれている文字は、毛筆ではなくペンの書体だ。

「大和は国のまほろば たたなずく青垣 山ごもれる 大和し うるわし」

日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した幸せな作家は、一体何を抱えていたのだろうか。

(新聞掲載日 2016年2月12日)

 


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清白

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 不気味なほどの静けさに目が覚める。カーテンの隙間から信じられない光景が目に飛び込んできた。純白の雪が一夜にして都会を覆い尽くしている。深夜1時過ぎ、スタンドの灯りを消した時に見た闇の風景の中には、どこにも白いものなど見当たらなかった。一体いつの間にこれほどの雪が降ったのか。
 横浜で迎えた真白い朝の風景に、ある民話を思い出した。

  「ひと晩泊めてくださらんか」婆さまが戸を開けると、顔は痩せこけてぼろぼろの法衣を着た坊さんが立っていた。婆さまは坊さんを中に入れてやった。何か温かいものを食べさせてやりたかったが、村一番の貧乏な家には米粒一つ青菜一枚残っていなかった。
 婆さまは「必ずいつかお返ししますから」と手を合わせると、隣の地主の畑から大根一本と、わずかばかりの稲を拝借し、坊さんに温かい大根汁を食べさせてやった。地主の畑には、足の悪い婆さまのものとわかる足跡がくっきりと残っていたが、暗い夜のこと、婆さまはそんなこと知る由もなかった。
 翌朝、坊さんを見送ろうと戸を開けると、外は一面の雪景色。一晩のうちに驚くほどの雪が降り、婆さまの足跡は真白い雪にすっぽりと隠された。

 誰も家に入れようとしなかったみすぼらしい坊さんは、修業中の弘法大師であった。これは京都丹後に伝わる『跡隠しの雪』という民話である。

 清白は、「すずしろ」と読めば大根のこと、「せいはく」と読めば行いが清いこと。婆さまの清白な行いに、天が真白い雪を降らせたのだろう。
 白は、古代より聖なるものに捧げる彩りとして崇められてきた。その昔、妊婦は白い衣を着て出産に臨んだ。産着も白なら、死装束もまた白。花嫁も純白の衣に身を包み嫁いでゆく。白は、心して纏わねばならない神聖な衣であることを改めて想う。

 もう一つ、今朝の清白な朝の風景に重なる朝がある。グリーグの組曲『ペール・ギュント』の『朝』。イプセンの戯曲『ペール・ギュント』の劇音楽として作曲されたもので、この『朝』は第四幕に登場する。
 いかにもノルウェーの作曲家の手による澄み渡る北欧の朝を連想させる曲であるが、意外にも舞台はモロッコの砂漠。主人公のペールが朝起きると、長旅で手に入れた財宝の全てが奪われ、砂漠に独りぽつんと残されているという場面である。主人公が迎えた最低最悪の朝に、グリーグは、清々しい光を放つ、清白な音楽を流した。
 一攫千金を夢見て世界に旅立った人間が、流浪の変転を繰り返すこの物語は、欲に溺れた人間の醜い生き様を見せつけながら、「人間はどう生きるべきか」そんなことを我々に問いかけてくる。

 神田明神(東京都千代田区)の参道を下ったところの大鳥居の脇のお茶屋で、ちょっと温まることにした。明神の脇で甘酒を飲ませるこのお茶屋は、京都丹後の武士・天野新助が、ここでどぶろくを飲ませたのが始まりであるという。
 天野は弟の仇を打つために、明神の門前に店を構えて仇が現れるのを待ったが、結局仇には出会えず、待ち伏せのための店は、いつしか家業となっていた。現在で六代目、門前の甘酒の名店は、今日も雪道の初詣の客たちの冷えた体を温めていた。
 「あの民話も確か京丹後…」白い甘酒をすすりながら、この店の先代と、今朝の清白な風景が連れてきたあの民話が偶然にも同郷であったことをぼんやりと考えていた。
 すると窓越しに、先ほど神前ですれ違った男性の一団が下りてくるのが見えた。江戸城の表鬼門守護の場所である現在の地に鎮座して四百年。下町神田界隈から、日本の経済を支えるビジネス街に至る百八つの氏子町を束ねてきた、商売繁盛の神を祀る神社ならではの光景である。
 彼らのホワイトカラーが、雪の白と相まってひときわ眩しい。

「どうか覚悟と責任を持ってその白を纏っていただきたい」ふとそんなことを思った。

(新聞掲載日 2016年1月22日)

 


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行く水

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 遠く瀬音を乗せた温かい海風が耳元を通り過ぎる。この坂道の下に湧水(ゆうすい)場があるというのだが、本当だろうか。
 島の人がシチャンカーと呼ぶ垣花樋川(カキノハナヒージャー)を訪れた。村の人々が生活用水、農業用水として大切に守ってきたこの湧水場は、沖縄県南城市の垣花村の崖の中腹に位置し、「日本の名水百選」にも選ばれた名水が、今も豊かに湧出している。

 その昔、女性はこの村に嫁に来ることを嫌ったという。百㍍もあるこの急な坂道を往き来して、村まで水を運ばなければならなかったからだ。長い坂道の途中、二カ所に残る休み石が、当時の水運びの過酷さを物語っている。今は楽に行ける別の道があるらしいが、村の女性たちが重い水を苦労して運んだこの石畳の道を辿らないわけにはいかない。

 樹齢を重ねたアカギやガジュマルの木がつくる鬱蒼とした緑の回廊を行くと、突然トンネルを抜けたように視界が広がる。
 湧き出る水が、小高い斜面一帯に激しい瀬音を轟かせている。南の島に似合わない風景に一瞬目を疑う。
 源泉から溢れ出た豊かな湧水は、溝を勢いよく走り抜け、激しく音を立てながら落下する。しばし清水の池で流れを休めた水は、また斜面を縫うように下っていく。人間の声をも阻んだあの激しかった瀬音がやわらかい音に変わるころ、水はクレソンの棚田に流れ込む。

 この情景の中を歩いている間にも、頭の中にはしきりとラヴェルのピアノ曲『水の戯れ』が流れる。森の奥深く湧き出た水、その水がつくる細い川は次第に勢いを増し、森の中を這うように駆け下りる。滝のように流れ落ちたかと思うと、淀みで流れを休める。やがて川は、豊かな水を湛えながら悠々と大海に注ぎ込む。水の動き、水の立てる音、水面に踊る泡、揺れ動く木洩れ日や影、躍動する水のいのちが、ピアノの音に乗って心深くに伝わってくる。
 「スイスの時計職人」とも形容されたラヴェルは、その繊細な音楽描写と超絶な技巧で、行く水の情景を、見事にピアノで表現した。

 遠く奈良の時代、宮廷歌人として天皇の御代を讃える壮大な歌を数多く詠んだ男が、ふと素顔をのぞかせる、抒情的で色めいた一連の歌を残している。
 男は勤めを終えると、黒い馬に乗って人知れず都を抜け出し、愛する妻のいる山辺の山峡の村里、巻向(まきむく)に通った。男は妻を、そして妻を育てた巻向の風土のすべてを心から愛した。山も草木も、渡る風も鳥の鳴く声も、そして岩を噛むような穴師川(巻向川)の瀬音も。やがて二人の愛の証として男の子が生まれたが、その喜びも束の間、妻は産後の肥立ちが悪く、その数か月後に遥か雲の上に旅立ってしまった。男は、残されたみどり児を抱え、部屋に閉じこもり幾日も嘆き明かした。

「巻向の山辺とよみて行く水の水沫(みなあわ)のごとし世の人われは」(『万葉集』巻七-1269
 巻向の山辺に瀬音を響かせながら流れて行く水の泡のようだ、この世の人である我は―最愛の人を亡くした歌人は、その寂しさをこう詠った。

 行く水とは流れる水のこと。「流れる水は腐らず」ということわざは、努力を怠らず、常に活動して停滞しないように、という戒めである。
 川は長い年月そこを流れ続けているが、その水は同じであることがない。垣花樋川も穴師川もずっとそこに在り、その地の歴史を見据えているかのように見えるが、実はその時を流れていた水は、とうに流れ去ってしまってそこには無い。
 行く水は一瞬たりと同じところにとどまっていることなどない。行く水の水面で勢いよく踊っていた泡も、一瞬にして消えてしまう。儚いことのように思えるが、それはまた、常に新しく在れるということである。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明『方丈記』)

新しい年の初めに想う、行く水のごとく生きたいと。

(新聞掲載日 2016年1月8日)

 


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炉端

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「僕はある家庭を夢見ているんだ。暖炉には火が揺らめき、猫と犬がいて、友の足音があふれて、そして、アン、そこにはきみがいるんだ」―少女のころ胸をときめかせて何度も繰り返し読んだ物語『赤毛のアン』の中の、ギルバートがアンにプロポーズをするくだりである。  

 暖炉は幸せな家庭の象徴なのかもしれない。やわらい炎の揺れる炉端に愛しい人たちが集う、私たちはそんな情景に幸せを想うのだろう。

 人間は火を手に入れてからその生活を大きく変えた。枯れ枝を燃やし、家族や仲間がその火を囲むようにして暖をとった。火であぶった温かいものを食べるようになり、火はまた外敵から身を守ってもくれた。仕事にも火は欠かせなくなった。人間は火を畏れ、火に祈り、火と暮らし、火と共にその歴史を築き上げてきた。
 弾ける音を立てながら赤々と燃える薪木、静かに揺れるろうそくの炎、火はどれだけ見ていても飽きることがない。それは火と共にあるという安堵感なのかもしれない。

 今年の春、奈良県室生深野の古民家で一晩宿をとる機会があった。棚田にまだ頼りない稲の苗が並んだばかりのころで、田に張られた水が、刻々と表情を変える山里の夕暮れの風景を映し出していた。陽が沈むと山は一気に冷え込み、棚田に点在する民家から細い煙が上りはじめた。
 宿の囲炉裏(いろり)にも火が入った。誰が声をかけるでもなく、みんなが炉端に集まってきた。その日初めて出会った人たちと囲炉裏を囲んでの夕飯と聞き、私は少々緊張していた。
 炉縁から身を乗り出すようにして、みんなが見つめる先は囲炉裏の炭。灰の奥で真っ赤にいこった小さい炭が炎を揺らし始めると、その上の黒い大きな炭の下方が赤くなりだした。火箸で炭を動かすたびに、火の粉がパチパチと飛び散る。
 炭の火がいよいよ勢いづいてくると、自在鉤(じざいかぎ)につるした鉄鍋がぐつぐつと音を立て始めた。静まり返る山里の夜、余分な照明のない薄暗い板の間、やわらかい炭火の灯りと温もりが、炉端をやさしく包み込んだ。
 美味しいお酒も手伝って、趣味のこと、故郷のこと、家族のこと、恋のこと、箸がすすむほどに会話が弾んでくる。
 火の粉が弾ける度に、大きな口を開け、目じりに皺を寄せた、屈託のない笑顔が炉端に浮かび上がった。そこには、何も取り繕う必要などない、やわらかい空気が流れていた。
 その夜、年齢も、性別も、仕事も、住んでいるところも、家庭の事情も、何もかも全く違う五人が、微かに暖を残す炉端に身を寄せるように雑魚寝(ざこね)した。

  「雪の降る夜はたのしいペチカ」この歌詞が1番から5番の冒頭で5回も繰り返される童謡『ペチカ』、この歌のお陰で、ペチカのある居間にどれほど憧れたかしれない。
 日本が中国大陸の東北地方(満州)を支配していたころ、ここにはたくさんの日本人が暮していた。そしてその家々にはペチカがあった。
 北原白秋は、満州に旅行した際に目にした風景を詩に綴った。その詩に山田耕筰が曲をつけた。それがこの童謡『ペチカ』である。この歌は南満州教育会のために作られたもので、大正13(1924)年発行の「満州唱歌集(尋常小学校一・二年用)」に載せられた。
 ペチカとはロシア語で暖炉のことである。そのせいか、この歌をロシア民謡と勘違いしている人が多いようだが、歌に登場するペチカは、歌人が満州の日本人の家庭で目にしもの、正真正銘日本の童謡である。今なお多くの人に愛唱される、冬の歌を代表する日本の名歌である。

 先日、この歌を一緒に口ずさんだご婦人が「気温は零下30度。まつげまで凍ったんですよ」と、満州の冬の思い出を笑顔で語ってくださった。
 雪の降る夜、炉端には愛しい人たちが集い、おだやかな時が流れていたのだろう。

(新聞掲載日 2015年12月25日)


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麦踏み

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 日の出と共に活動を開始し、陽が沈むと活動を終える。灯りなどなかった太古の記憶が細胞のどこかに残っているのか、まだ薄暗い冬の朝は、体が思うように動いてくれない。
 覚めきらない頭が、香ばしいコーヒーの香りとパンの焼ける甘い香りで徐々に冴えて来る。パン食で始まる朝のこの習慣は、どうしても変えられない。「日本人なのに」と、長い間どこか後ろめたさを感じていたが、ある日本人の存在を知り、パン食への概念が大きく変わった。

 今、小麦は世界の80ヶ国で栽培され、その栽培面積も2.3億㌶と、正に超大物作物である。全世界の食卓を小麦が支えていると言っても過言ではない。
 一方、日本では、小麦の需要は高まるものの、栽培面積はめっきり減少し、その殆どを輸入に頼っている。小麦というと、何やら肩身の狭い日本である。
 ところがである。現在50ヶ国で栽培されている約500品種の小麦は、ある日本人が改良を重ね、苦労の末に完成した品種「小麦農林10号(ノーリン・テン)」の血を引くというのだ。
 世界の農を拓いた人、稲塚権次郎。世界に農業技術の革新を起こした、世にいう「緑の革命」の功労者である。彼が完成した「小麦農林10号」が、世界の小麦栽培の歴史を大きく変えた。そしてアジアの途上国の人々を深刻な食糧不足、栄養失調から救い出したのだ。小麦の歴史の中で燦然と輝く英雄、それは誇り高き日本人だった。

 奈良県和爾(わに)・森本遺跡から古墳時代の小麦が出土されている。そして、麦縄、索餅(さくべい)、手束麦(たつかのむぎ)という言葉が初めて正倉院文書にあらわれる。
 大神神社伝承によると、大神神社の大神主・穀主(たねぬし)が、大和地方の飢饉の際、保存食として小麦をひいて棒状に練り乾燥させた素麺状のものを作った。これが三輪素麺の始まりだという。
 今でもこの地方では小麦が栽培されているが、その生産量は激減し、しかも素麺には適さない品種であるため、極細の素麺を作るのに適した、主に北米産の小麦を使っているとのお話だった。なるほど、小麦にもそれぞれの特質があることを教わった。

 この秋、山梨のミレーの美術館で『種をまく人』を見た。広大な畑の斜面を、勢いよく走り抜けるように麦の種をまく若い農夫が、まるでキャンパスから飛び出てきそうな勢いである。その荒々しい筆致や明暗の対比が、農民の生活の厳しさ、労働の過酷さを浮き彫りにしている。「ミレーの作品はその畑で採れた土で描かれたようだ」と言ったゴッホの言葉を思い出す。
 しかしどうだ。大股の力強い足取りといい、農夫の姿は自信に満ちている。麦の種を撒く、命の糧を育てるということへの農夫の誇りが、画面から迫って来る。
 この後にミレーが発表した『鍬を持つ男』の農夫の疲れ切った表情には避難が集まった。ミレーは農村の辛く厳しいところばかり描いていると。都市生活者は農民の過酷な現実を理解しようとしなかった。しかし彼は、農民のその過酷な労働により豊かな実りが得られ、命が繋がっているということ、それを伝えることを辞めなかった。
 軽率な日常を過ごす我々は、ミレーの絵の前に身が引き締まる思いである。日々の糧をいただけることへの感謝、我々にとって農業がいかに大切か、そんな思いが込みあげて来る。

 秋撒きの麦が目を出し始めた。冬枯れの季節に初々しい緑が眩しい。やっと5㌢ほどに背丈を伸ばした麦は、間もなく踏み倒されてしまう。霜柱によって浮き上がった土を押さえ、麦の不必要な生長を抑制し、根張りをよくするという麦踏みである。
 弱々しい小さな体は、折り曲げられ、傷つけられ、地面にねじ伏せられる。そして、踏まれる度に、麦は葉の色を濃くし、茎を太らせ、強い根を大地に張っていく。
 厳寒の季節に、踏まれるほどに逞しく育ったその麦は、やがて私たちの命の糧となる。

(新聞掲載日 2015年12月11日)


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襲の色目

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 夕闇の迫る繁華街、足早に地下鉄の駅へと向かう。一瞬だれかに見られているような気がして足を止めた。振り返ると、鮮やかな黄色のコートを纏ったショーウィンドーのマネキンと目が合った。ガラスに顔をすり寄せて目を凝らすと、黄色一色に見えた彼女のコートは、ブラウンとシルバーグレーの細い縦縞の地模様に、黄色い葉っぱが一面に浮き出るように織られている。
 冬を連れてきた木枯らしに、葉衣を潔く脱ぎ捨てたイチョウの木が、足元一面に広げた黄色い絨毯。末枯れた北国の森で心奪われた、あの日の風景が頭をよぎった。

 古くより日本人は、四季折々の豊かな自然と密接な関係を築き、その美を表現することに努力を惜しまなかった。中でも染織に見られる高い美意識は、巡る季節の中で、身の回りに生ずるわずかな変化をも敏感に感じ取ることで培われてきたものであろう。
 まだ模様を染める技術のなかった時代、古の人は色を幾つも並べ、その配色で、季節の草花、自然の様、その季節の気分などを抽象化して表現していた。それが襲(かさね)の色目である。

 平安時代、位の高い姫は、おいそれと姿を人目にさらすことはできなかった。この時代、姫にとって恋は一世一代の大仕事。容姿端麗、頭脳明晰ないい男を自分の目でしかと見極めたいところであったろうが、そうはいかなかった。殿方が訪ねてきても、顔を一目見ることも、自分をアピールすることもできない、御簾(みす)の奥から出られなかったのだ。
 そこで登場するのが襲の色目。御簾の下から衣の裾の美しい配色をのぞかせ、自分の美的センス、教養の高さ、性格などをアピールしたのだ。
 襲の色目には春夏秋冬、植物の色を表現する様々なグラデーションなどにより、おびただしい数の種類がある。それらは季節や行事などにより、着用のマナーが厳密に定められていた。季節感を無視した襲をしようものならたちまちマナー違反、センスも教養のない女とみなされたのだ。女たちが、いかに襲の色目に工夫を凝らしていたかは、当時の物語や日記などに垣間見ることができる。
 十二単の重なる襟もとの一番下は単衣(ひとえ)の襟。その上に五枚重ねて着用する五衣(いつつぎぬ)の襟もとの襲の配色に注目してみると、秋の襲には、五衣の真ん中に黄色をもってきているものが圧倒的に多い。「楓紅葉」「青紅葉」「捩(もじ)り紅葉」「紅(くれない)紅葉」「散紅葉」などの襲がそうである。「黄紅葉」に至っては五衣全てが黄色である。単衣の紅い襟の上に黄色い襟が重なることなんと五枚!

 二月堂の急な階段を降り、ひなびた土塀の裏参道の石畳を下り、大仏殿の真裏、芝生に点在する講堂跡の礎を右に見ながらさらに下っていくと、大仏池が見えて来る。大仏殿、その後ろに春日山、若草山が稜線を連ねるという贅沢な風景を借景に、池の畔の樹々が、その水面に色鮮やかな紅葉を反転させている。水鏡に映し出された自然が織りなすあでやかな秋の襲の色目に思わず息を飲む。
 群青色の東の空に気の早い星がまたたき始めるころ、畔のイチョウの鮮やかな黄色が浮かび上がる。それはまるで、ランタンの黄色い光に照らし出される、あの絵の中のカフェテラスのようである。
 その画家は、この絵のことを、妹に宛てた手紙の中でこう説明した。
 「ランタンが素晴らしい黄色の光を放ち、店の正面やテラス、歩道、道路を照らしている。切り妻造りの家々は、星が散りばめられた青い空の道が暗がりへ続くように、暗い青やすみれ色、そして緑の木が配されている。この夜の絵には黒は使われていない。美しい青、すみれ色、緑、周辺は淡黄色と淡黄緑色を用いた」
 南フランス、アルルの秋の星空の下、人で賑わう『夜のカフェテラス』。

 今から120年前に苦悩の生涯を終えたゴッホも、秋の襲に、眩しいばかりの黄色を幾重にも重ねた。

(新聞掲載日 2015年11月27日)


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葡萄紅葉

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 神の仕業に息を飲むことがある。池でオシドリのつがいを見た時も、羽を広げたまま微動だにしないアゲハチョウをまじまじと観察した時もそうだった。斬新なデザイン、大胆な色使い、高貴な質感、あの圧倒的な美はどのようにして生まれるのだろう。神様のスケッチブックをこっそり覗いてみたいものだ。

 葡萄畑で拾った葉を一枚、部屋に持ち帰ってきた。朱、深紅、紫、黄、茶、藍、緑…色とりどりに煌めくモザイク模様には、豊穣の物語が写し出されている。務めを終えたものの命の終焉(しゅうえん)に神が与えたそのガウンの美しさに、思わず息を飲んだ。

 ワインの発祥の地であり、その生産量も日本一を誇る勝沼に葡萄を伝えたのが、我らが奈良の英雄・行基さんだというから、その地を訪れないわけにはいかない。

 養老2(718)年、行基が甲斐の国を訪れたときのこと、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修業をしたところ、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れた。行基は嬉しくて、夢に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで、柏尾山の大善寺に安置した。そしてその地に薬園を作り、村人に法薬であった葡萄の作り方を教えた。それがこの地の葡萄栽培の始まりとなり、やがて甲州ワインを生み出すこととなる。  
 そのお礼として勝沼から奈良の都に葡萄酒が献上され、都のお偉方は美女にお酌などさせて、旨い葡萄酒を嗜んだ ―とまあ最後のくだりは、ワイン造りの歴史も考古学的考察も全く無視しての、私の妄想であるが…。

 平城京跡から発掘される土器の中に、平底で細身の体部に長い首がついたビール瓶のような形の、長頸瓶(ちょうけいへい)と呼ばれる土器がある。その中のある瓶に「九合三夕」と墨書きがされているという。何か液体が入っていたに違いない。しかも9合3夕は約750ml、そう、ワインのフルボトルの容積である。
 そもそもどうしてワインのボトルは750mlなのか。ボルドーワインの最大の消費国であったイギリス、当時、そのイギリスで使われていた単位・ガロンへの変換時の利便性から生まれた数字ではないかと言われている。750mlのボトル1ダース(12本)で9ℓ、即ち2ガロン。船の運搬で使われる大樽の容積は900ℓ(200ガロン)。それは750mlのボトル1ダースのケース、ちょうど100ケース分に当たる。
 平城京跡で見つかった何本もの長頸瓶の土器の容積は、なぜ切りよく9合、10合とかではなく、わざわざ9合3夕、750mlなのか。遥か勝沼から奈良の都へ、ちゃぷちゃぷ葡萄酒が運ばれていた、そんな妄想をしてみたくもなる。

 ワインのお膝元、西欧の音楽家たちの中には、バッハやベートーヴェンをはじめとするワイン愛好家がたくさんいた。モーツアルト自身がどれほどのワイン愛好家であったかはよくわからないが、彼は歌劇「魔笛」の登場人物、鳥刺しのパパゲーノにワインを飲ませて、こんな歌を歌わせた。

「恋人か女房が、このパパゲーノにひとりでもあれば、さぞや幸せだろう、だれも好いてくれず、だれもかまってくれない、死ぬほどつらいよ、恋の病だよ、誰か看ておくれ、口づけひとつで病は治るよ、可愛い口を寄せて愛してもらえば、病は治るよ」

 モーツアルトが人生の最終幕で作曲した歌劇「魔笛」、この歌劇の最終幕でパパゲーノがワインを飲みながら歌った歌が、モーツァルトの命の終焉の歌になった。ワインの季節になると、パパゲーノのこのほろ酔いの歌を思い出す。

 なだらかな丘に、赤や黄色の大きなパッチワークの布を広げたような勝沼の葡萄紅葉(ぶどうもみじ)、沈む夕日にゆっくりとその表情を移してゆく魅惑的な風景の中で、今年は一つ年を重ねさせてもらった。

人生のスケッチブックの中で、ひときわ色鮮やかな1ページである。

(新聞掲載日 2015年11月13日)

 


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お 櫃

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 今年も友人から新米の便りが届いた。袋を開けると、精米したての甘い香りが部屋中に広がった。お米の中に手を突っ込むと、ほんのり温かい。お米を育てた人たちの手のぬくもりに触れた気がした。 

 新米の便りが届くようになってから、新米を初めていただく時は、土鍋でご飯を炊くというのが我が家の習わしになっている。水加減、火加減が絶妙で、火を消すまで気が抜けない。
 この日ぐらい丁寧にご飯を炊く。これは丹精込めてお米を育ててくださった人たちと自然へのせめてもの感謝の気持ち。そして、炊きあがったご飯はお櫃(ひつ)に移す。これはまだ始まったばかりの我が家の習わしである。

 母方の曽祖父が桶職人だったことを知ったのは、つい最近のことである。思いがけないご先祖の登場に私は舞い上がった。身振り手振りで、母があんまり臨場感たっぷりに話して聞かせるものだから、私の頭の中は会ったこともない曽祖父のことでいっぱいになっていた。
 器用に動くごつごつした職人の手、少し丸くなった無口な背中、薄暗い仕事場に立ち込める爽やかな杉の香り、耳元で曽祖父の息づかいが聞こえたような気がすると、もう居ても立っても居られない。さっそく、私は吉野杉のお櫃を購入した。

 炊き立ての熱々のご飯も美味しいが、杉の香りがほんのり移った人肌に冷めたご飯がまた何とも言えず美味しい。お櫃が炊き立てのご飯の余分な水分を吸収し、時間の経過とともに、またその水分をご飯に戻してくれる。杉の木のこの水分調節のお陰で、お櫃の中のご飯は冷めても固くならず、いつまでもふっくらしている。しかも腐りにくいときている。これにはマイコンも真っ青である。

 遥か千年の時を越えて、天平の至宝を私たちに届けてくれたのもまたお櫃である。こちらは唐櫃(からびつ)という奈良時代に中国から入ってきた脚のあるもの。聖武天皇の遺愛の宝物など、繊細な細工や染織が鮮やかな色や形を損なうことなく残っていたのも、調温、調湿、殺菌を得意とする杉でできたお櫃の中に収められていたからだという。そして、校倉づくりの部材である檜が、それらのお櫃を風雨や腐食からしっかり守り通したというわけだ。

「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんびわ)などの見事な螺鈿細工を眺めていると、「何が何でもこの美しい宝物を守り抜いてみせる」と覚悟した、杉や檜たちの心意気が伝わってくる。

 街角の正倉院展のポスターが大和にまた秋が巡ってきたことを告げている。千年の至宝に彩られる大和の秋には、ショパンの夜想曲(ノクターン)がよく似合う。とりわけ卓越した美を湛えている8番などは、まさにピアノの詩人ショパンが書いた秋風の叙情詩である。
 かくも美しいピアノ曲を数知れず生みだしたショパンであるが、その生涯は決して幸せなものではなかった。絶えず病に苦しめられ、それが仕事と私生活に与えた影響は甚大であった。友人のリストはこう言った。
「ショパンは自分の技を、自分の悲劇を映すために使った」と。
 確かに絶え間なく調を変えながら音色を移してゆく旋律は、まるでショパンの浮き沈みの人生を映し出しているかのようである。
 その音が放つ愁いを帯びた輝きは、貝殻の内側が放つ輝きに似ている。過酷な海で生きた貝が、内に秘めたあの色めいた輝きに。精緻な螺鈿細工を想わせる『夜想曲8番 27-2』は、聴く人の心によって、美しくも悲しくもその音色を変える。
 166年前の10月17日、秋深まるパリで、ショパンは39年の悲劇に幕を下ろした。

 間もなく杉のお櫃の蓋が開く。錦秋の大和に、千年の時を越えて、今年も天平の風が吹き抜ける。
 秋風の調べとともに。

(新聞掲載日 2015年10月23日)

 

 

 

 

 


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着せ綿

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 小学校の校庭の隅に一本の金木犀の木があった。だいだい色の小花をこぼれ落とすその木の横に整列して、出番を待つのが恒例となっていた。
 今日、道を歩いていたら、どこからか運動会の匂いがしてきた。靴ひもを何度も結び直しながら徒競走の出番を待った、あの時の緊張感が一瞬蘇った。
 秋の匂いは、遠い日の記憶を呼び起こす。

 スタンドの灯りを消すと、急に虫のすだく声が大きくなった。窓のわずかな隙間からは、夜露を含んだ冷気がひたひたと流れ込んできた。
 種を蓄えた草木は、盛んに花を咲かせていた頃とは微かに匂いを変えている。春から夏にかけて駆け抜けるように生きてきた草木たちも、そろそろ活動を緩め冬支度に入っているらしい。灯りを消した部屋に流れ込んできた冷気は、そんなことをそっと教えてくれた。闇の中では、聴覚のみならず、臭覚も敏感になるらしい。

 ファッション界の女帝ココ・シャネルは、ロシアバレエの音楽家イゴール・ストラヴィンスキーの才能に惚れ込み、彼と彼の病の妻、そして彼の子どもたちを自分の別荘に招き入れた。やがてシャネルとストラヴィンスキーは恋に落ちる。
 同じ屋根の下でのひた隠しの恋。闇の中で炎を上げる恋の想いを、二人は互いに仕事で昇華させた。ストラヴィンスキーはピアノに指を滑らせ、シャネルは香りを作ることに専念した。
 この時に生まれたのが「Chanel №5」、シャネルが初めて世に送り出した香水である。マリリンモンローがこの香りをまとって寝たという世界一有名な香水は、闇の恋に研ぎ澄まされた、女の臭覚が生み出したのか…

 日本に香が伝わったのは飛鳥時代、仏教と共に海を越えてやってきた。当時は供香(ぐこう)として用いられる宗教的な意味合いの強いものであったが、奈良時代になって鑑真和上がもたらした沈香(じんこう)や、白檀などの香薬の知識、そしてそれらを調合して薫物(たきもの)を作る技術を、貴族たちは唐様の教養として学び始めた。
 彼らは、自ら調合した薫物を炭火でくゆらせ、部屋や衣服などへの移り香を愉しむなど、香を生活の中に取り入れていった。
 また宮中には、重陽(ちょうよう)の節句の前夜、菊の花の上に真綿をのせ、夜露と菊の香を移し取り、翌朝その真綿で体や顔を拭う着せ綿という習慣があった。古くから愛でられていた菊は、霊力が高く、生命力の象徴とされ、菊の香の移った着せ綿で体や顔を拭えば、老いが去り、長寿を保つと信じられていた。

 「あなたも年なんだから、この着せ綿で老いをよく拭き取りなさいよ」妻はこんな手紙を添えて、亭主の浮気相手の女に着せ綿を送りつけた。女は「あら、私はあなたと違って若いからそんなもの結構よ。着せ綿は本当にそれが必要なあなたにお返しするわ」と突き返そうとした。しかし使いの者がもう帰ってしまっていたので、その辺に放っておいた。
 ちょっとおだやかではないこのお話、亭主とは時の権力者藤原道長、妻は倫子(りんし)、そしてその浮気相手の女とは、道長が長女(一条天皇の中宮・彰子)の家庭教師として雇い入れた紫式部である。
 紫式部の日記をちょっと斜め読みさせてもらった。女同士の熾烈な戦いもさることながら、千年前の女性たちのアンチエイジングが気になるところだ。

 一桁の一番大きな奇数(陽)九が重なる重陽の節句は、菊の節句とも言われ、旧暦の頃は盛大に祝われていたが、新暦の採用で徐々に廃れてしまった。着せ綿をしようにも、新暦の九月九日では、さすがに菊も夜露も間に合わなかったのだろう。
旧暦の九月九日は、今年の十月二十一日に当たる。菊も夜露をまとって「さあ、着せ綿にどうぞ」と言わんばかりの時候である。

この秋は、ひとつ着せ綿でアンチエイジングといってみますか。

(新聞掲載日 2015年10月9日)

 


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待 宵

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 さやかな月に誘われて一駅歩いた。いつの間にか、夜空に月がくっきりと浮かぶ季節が訪れていた。「いつの間にか」などという言葉が、昔の人に聞こえたら怒られるだろう。その昔、人々は月の暦に従って生きていた。月を崇め、日ごと満ちてゆく月、欠けてゆく月、そして雲の向こうの見えない月にまで心を寄せていた。

 つるべ落としの夕暮れ、闇は駆け足でやってくる。見えるものの輪郭がおぼろげになるにつれ、五感が研ぎ澄まされてくる。
 電灯などなかった時代、人々は、月明かりの演出の中で、自然が見せるわずかな表情をも見逃さなかった。日本人の豊かな感性、たおやかで繊細な美意識は、仄かな月明かりに照らし出される、この月映えの風景の中から生まれたのではないだろうか。

 待宵とは十四夜のこと。十五夜の前夜、名月を待ち焦がれる特別な宵のことを、人はそう呼んだ。それはまた、愛する人の訪れを待ち焦がれる宵のことでもあった。

 遠く奈良の時代、陸奥の国から采女(うねめ)として都に上がった春姫という女性がいた。采女とは後宮で給仕をする女官のことで、地方の豪族の娘や妹から、聡明で容姿端麗な女性が選ばれた。
 ある日、春姫は帝の目に留まり、帝と一夜の褥(しとね)を共にした。それからというもの、春姫は夜ごと帝のお召しを待ち焦がれた。しかし、その恋の花は二度と咲くことはなかった。           
 宵を待ち、一夜限りの命を咲く、まるで待宵草の花のような儚い恋。春姫は猿沢の池に身を投げ、自ら命を絶つ道を選んだ。
 この采女の霊を慰めるために、猿沢の池の畔にお社が建てられた。采女は自分が身を投げた池を見るにしのびず、一夜にしてお社を後ろ向きにしてしまったという。それが春日大社の末社である采女神社である。
 中秋の名月の日の「采女祭」には、秋の七草に美しく飾られた花扇が采女神社に奉納される。その後、花扇は船に乗せられ、池に浮かぶ流し灯籠の間を縫うように巡り、最後には池に投じられる。月の光の下で繰り広げられる雅(みやび)やかな宴は、観る人を遥か奈良の時代へといざなう。

 ヴェルレーヌの詩集『雅やかな宴』の中の「月の光」をメランコリックに歌い上げたのはドビュッシーである。当時18歳のドビュッシーは、人妻ヴァニエに熱烈な恋心を抱いていた。『月の光』はそんなヴァニエ夫人に捧げた20曲余りの歌曲の中の一つである。
 「哀しくも美しい月の光は、梢の小鳥たちには夢を、噴水には恍惚としたすすり泣きを与える」フランス語の響きと、憂いをおびた旋律とが相まって、独特の夢想的な美の世界を醸し出している。
 その8年後、ドビュッシーは、今度は言葉を使わず、ピアノだけで『月の光』を表現した。目を閉じて聴いていると、月の光を映し出す静かな水面が脳裏に浮かび上がる。水は月の光に生を受け、波を起こし、うねり、そして夜空高く吹きあがり、その生命の輝きを謳歌する。
 古い音楽の形式を打ち破った自由奔放なドビュッシーの音楽は、ひょっとしたら自然の摂理にはかなっているのかもしれない。
 自然の風景を反映する、澄み切った水のような音楽、その音楽とは裏腹の恋多き男の私生活。その奔放な恋に、2人の女性を自殺未遂にまで追いやった男の生み出した音楽が、今なお世界中の人々に愛され続けているとは、皮肉なものである。

「今宵こそはきっと…」女は待つしかなかった時代、涙で月が滲んだ夜もあっただろう。長い歴史の中で、人々の暮らしも恋愛事情もずいぶん変わった。しかし、あのお月さまだけは変わらない。

今、千年の昔の人と同じ月を見上げているのかと思うと、胸に迫るものがある。

 

明日は十四夜、待宵。待ち焦がれの宵…。

(新聞掲載日 2015年9月25日)


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花 野

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 大和三山に囲まれた地に築かれた壮大な古代の都は、今、のどかな田園風景が広がっている。移ろう季節の中で、田んぼが緑から黄金色に、そして刈田の土の色へとその色を変えてゆくそばで、野もまた次々と開花時期を迎える秋の花に、その彩を移してゆく。
 秋の花は、その一つを見れば、どの花も、色も姿も控えめであるが、それらが野一面を埋め尽くす光景は、実に壮観で魂が揺さぶられる思いがする。
 花野というと、つい百花繚乱の春の野を思い浮かべるが、実は秋の野のこと。自然の中で生い育つ草花を愛でた古代人にとって、枯野を迎える前に、花が咲きこぼれる花野の季節は、一年の中でも格別な季節であったに違いない。

 秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数ふれば七種の花
 萩が花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花また藤袴 朝顔の花(桔梗) (『万葉集』巻八-1537)

 山上億良が詠んだこの七種の花が、今に伝わる秋の七草である。めっきりその数を減らしてしまったものもあるが、どの花も、今なお野で見つけることができる。1300年という遥かな歳月、日本の秋を、そして日本人の心を彩り続けてきた花々かと思うと、愛おしさがつのる。

 花野の季節はまた台風がよく飛来する季節である。台風と呼ぶようになったのは明治末のことで、それまでは野分と呼んでいた。
 台風という言葉は英語の音「typhoon」を拝借したもの、一方、野分という言葉は、風になぎ倒される野の草花への思いが感じられる、いかにも日本語らしい美しい言葉である。
 「野分の翌日はしみじみとしていて趣深い。大きな木々が萩や女郎花などに被さるように倒れ込んでいるなど、思いもよらないことになっている。格子の桝などにわざと埋め込んだかのように、木の葉が丁寧に吹き入れてある様は、とても荒々しかった風の仕業とは思えない」清少納言は、野分の翌日の風景を『枕草子』にこう書き綴った。
 今のように科学も建築技術も発達していなかったころのこと、何の予告もなしに家屋や収穫間近の田を襲う嵐に、人々はどれほど恐怖を覚え、悔しい思いをしたかしれない。
 しかし、清少納言の言葉には微塵もそんな思いは感じられない。むしろ自然が紡ぎ出す風景一つひとつを慈しむ心、自然と共に生きた人々の覚悟、生き様が伝わってくる。

 ベートーヴェンは交響曲第六番『田園』の第四楽章で、突然の嵐を音楽で表現した。農民たちの楽しい集いを突然襲う激しい嵐、豪雨や突風を思わせる旋律が、激しさを増しながら繰り返しやってくる。やがて激しく鳴り響いていた雷鳴は遠雷に、そして鎮まりゆく風の中から現れる優しいフルートの音色に、自然への感謝に満ちる終楽章へと導かれる。ベートーヴェンの自然への畏敬あふれる一曲である。

 古代人と同じ風に吹かれ、同じ草露に足を濡らし、そぞろ歩く秋の野。当時の宮廷の華やぎを伝えるかのように、一面を埋め尽くす色とりどりのコスモス。その向こうで秋風にゆらぐ銀色の波はススキの穂。広大な水田一面を、高貴な紫色に彩なすのはホテイアオイ。
 大和三山を見下ろしながら葛城古道を歩けば、そこかしこを朱色に染める彼岸花の群が、かつて隆盛した豪族たちの姿を偲ばせている。そのそばで女王の風格を見せているのは、こぼれんばかりの楚々とした花を咲かせている萩。

 人間が繰り返してきた栄華盛衰をじっと見届けてきた自然。花野の上を吹き抜けるやわらかい秋風が、この地が遥かな歴史の礎の上にあることを思い出させてくれる。

 (新聞掲載015年9月11日掲載)

 

 


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① 「花野」

2015-09-11 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

「花野」

大和三山に囲まれた地に築かれた壮大な古代の都は、今、長閑な田園風景が広がっている。移ろう季節の中で、田んぼが緑から黄金色に、そして刈田の土の色へとその色を変えてゆくそばで、野もまた次々と開花時期を迎える秋の花にその彩を移してゆく。

秋の花は、その一つを見ればどの花も色も姿も控えめであるが、それらが野一面を埋め尽くす光景は、実に壮観で魂が揺さぶられる思いがする。「花野」というと、つい百花繚乱の春の野を思い浮かべるが、実は秋の野のこと。自然の中で生い育つ草花を愛でた古代人にとって、枯野を迎える前に花が咲きこぼれる「花野」の季節は、一年の中でも格別な季節であったに違いない。

 

秋の野に 咲きたる花を指折り かき数ふれば 七種の花
萩が花 尾花 撫子の花 女郎花また藤袴 朝顔の花(桔梗)  (『万葉集』巻八)

 

山上憶良が詠んだこの七種の花が、今に伝わる「秋の七草」である。めっきりその数を減らしてしまったものもあるが、どの花も今もなお野で見つけることができる。千三百年という遥かな歳月、日本の秋を、そして日本人の心を彩り続けてきた花々かと思うと愛しさがつのる。

 

「花野」の季節はまた、台風がよく飛来する季節である。台風と呼ぶようになったのは明治末のことで、それまでは野分と呼んでいた。台風という言葉は英語の音を拝借したもの、一方、野分という言葉は、風になぎ倒される野の草花への思いが感じられる、いかにも日本語らしい美しい言葉である。

 

「野分の翌日は、しみじみとしていて趣深い。大きな木々が、萩や女郎花に被さるように倒れ込んでいるなど思いもよらないことになっている。格子の桝などにわざと埋め込んだかのように木の葉が丁寧に吹き入れてある様は、とても荒々しかった風の仕業とは思えない」
清少納言は、野分の翌日の風景をこう書き綴った。

今のように科学も建築技術も発達していなかったころのこと、何の予告もなしに家屋や収穫間近の田を襲う嵐に、人々はどれほど恐怖を覚え、悔しい思いをしたかしれない。しかし清少納言の言葉には微塵もそんな思いは感じられない。むしろ自然が紡ぎ出す風景一つひとつを慈しむ、自然と共に生きた昔の人々の覚悟、生き様が伝わって来る。

 

ベートーヴェンは交響曲第六番『田園』の第四楽章で突然の嵐を音楽で表現した。農民たちの楽しい集いを突然襲う激しい嵐、豪雨や突風を思わせる旋律が、激しさを増しながら繰り返しやってくる。やがて激しく鳴り響いていた雷鳴は遠雷に、そして鎮まりゆく風の中から現れる優しいフルートの音色に、自然への感謝に満ちた終楽章へと導かれる。ベートーヴェンの自然への畏敬あふれる一曲である。

 

古代人と同じ風に吹かれ、同じ草露に足を濡らし、そぞろ歩く秋の野。当時の宮廷の華やぎを伝えるかのように、一面を埋め尽くす色とりどりの秋桜。秋桜の向こうで秋風にゆらぐ銀色の波は薄の穂。広大な水田一面を高貴な紫色にあやなすのはホテイアオイ。大和三山を見下ろしながら葛城古道を歩けば、そこかしこを朱色に染める彼岸花の群れが、かつて隆盛した豪族たちの姿を偲ばせている。そのそばで女王の風格を見せているのは、零れんばかりの楚々とした花を咲かせている萩。

 

人間が繰り返してきた栄華盛衰をじっと見届けてきた自然。「花野」の上を吹き抜けるやわらかい秋風が、この地が遥かな歴史の礎の上にあることを思い出させてくれる。

(平成27年9月11日 奈良新聞掲載)


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