約束の時間はとっくに過ぎている。
「長い時間お待たせして申し訳ありません」
私が診察室に入ったときの先生の第一声である。
申し訳ないのはこちらの方である。一体朝から何人の女性の話を聴き体を診てこられたのだろうか。いっそ私が男ならホッとされただろうに、また女である。
ドクターの椅子と患者の椅子での打ち合わせがどうも落ち着かない。仕事の延長のようで落ち着かないのは先生も同じだったのか、場所を変えての打ち合わせとなった。
私は仕事がらよく喋るが、聴き手に回る時は徹底している。聴き上手であると自負している。
さっきまでは診察室であったからだと思っていたが、場所を変えてもどうも調子が出ない。すぐに聴き手を先生に取られてしまう。喋り過ぎている自分に気づいては逆転しようと試みるのだが、また気づいたら私が喋っている。
先生の前では私の聴き上手も全く太刀打ちできない。
「僕は患者さんと二人で喋る声、あなたは大勢の人を一度に相手にする声、そもそも声の出し方が違うんでしょうね。内容によっては僕はすぐ後ろに立っている看護師さんにさえ聴こえないような小声で喋りますから」と先生。
先生が話される声は、それ以上小さければ聴こえない、それ以上大きけれ心を閉ざしてしまいそうな実に絶妙な大きさである。
もちろん声の大きさだけではない。遣われる言葉も然り。それ以上やさしければ信用できない、それ以上キツければ二度と来院することはないだろう、絶妙な言葉である。
その声と言葉でたくさんの患者さんの話を聴いて来られたのだろう。それは、多くの女性に信頼される婦人科医である証し、正に勲章である。
産婦人科、女性にとって敷居の高い行きづらい所である。目的は様々であるが、みな不安の中ちょっと勇気を持って訪ねている。
医師は、そんな女性のグレーな気持ちを理解し、心を開かせ、そして場合によっては体も開かさねばならないのだ。
患者が心も体も委ねてくれなければ治療をスタートすることができないのだ。
改めて「産婦人科医」というものについて考えさせられた。
先生と診察室を離れてお話させて頂いたことで、産婦人科医として生きておられるひとりの男性の人間像を見た気がした。
帰り際にご趣味のスキューバダイビングの話になった。
ご自分が潜って採ってこられたタカラガイの話をされる少年のような姿になぜかホッとした。