中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

和草にこよかに

2019-05-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 御嶽山大和本宮を抱く森の麓、大渕池に注ぐ水路の脇に小さな農園を借りて三度目の春である。フキノトウが頭を出す湿地(しめじ)、ウドの新芽の芳香漂う藪、ヨモギがやわらかい葉を広げる土手、山野に春を告げる和草(にこぐさ)に出会える場所も概ねわかってきた。
 農園を見下ろす土手で摘んできたヨモギで、久しぶりにヨモギ団子を作った。白い産毛に覆われたビロードのような葉の、その切り口から放たれる香りといったら。子供のころ私はこの匂いが苦手であった。それがいつのころからだろう、この香りが心地よいと感じるようになったのは。

 アルテミシア(Artemisia)とはヨモギ属のラテン名で、その名はギリシャ神話の中の女神アルテミスに由来するという。アルテミスは古くは山野の女神で、豊穣や狩猟のシンボルとされていたが、のちに月の女神とされ、妊婦や出産の守護神、また子供の守護神ともいわれている。女性の心や体、出産と深い関りがあるとされる月の女神であるアルテミスは、女性そのものの守護神なのかもしれない。
 アルテミスは、女性の病や出産にヨモギを処方したという。毎日のように道端で目にするあのヨモギである。それが遠い神話の時代から女性のための薬草として使われていたというのだから、単なるロマンティックな話と聞き流すわけにはいかない。
 調べてみると、出てくる出てくる驚くべきその効能。フキノトウもウドも然り。この和草たちは、そのやわらかな葉や茎に、どれほど逞しい力を秘めているというのか。
 踏まれても、刈られても、引き抜かれても、ヨモギが何千年もこの地球に生き長らえているのは、実は女性を護るためなのではないか。

  女神アルテミスと言えば、思い出すのがこの人である。クララ・シューマン、ロベルト・シューマンの妻であり、世界的女流ピアニスト、作曲家である。
 ロベルトと結婚したクララは、わずか13年半の間に8人の子供を出産する。身体も休まる間もない中、クララは子供たちの母親として、作曲家ロベルトを支える妻として、家計の一翼を担うコンサートピアニストとして、作曲家として、想像を絶する多忙な日々を送る。
 ロベルト亡き後は、当代一のピアニストとして夫の作品を演奏し、夫の全作品を編纂し、その後半生を、夫の作品とその価値を後世に伝えることに捧げた。
 ドイツの100マルク紙幣(日本で言うならば1万円紙幣)を飾っていたあの女性がクララであると言えば、クララという女性の凄さが伝わるだろうか。

  葦垣の中の和草にこよかに 我と笑まして人に知らゆな 

  朝見の儀に臨まれる初々しい天皇・皇后さまお二人のご様子に、ふとこの歌を思い出した。「葦垣の中の和草のようににこやかに、私にだけそっと微笑みかけてください、決して周りの人にそれとは知られないように」、ひそやかに、それでいて深く想い合う男女の様を詠った万葉集の中の恋の歌である。
 「和草」とは、やわらかい草のこと。和草の「和」は「にこにこ笑う」の「にこ」である。それは令和の「和」であり、日本そのものである。
 雅子さまの前途にはこれまで以上の苦難が待ち受けているかもしれない。しかし日本の女性の代表として、どうか「和草にこよかに」、やわらかく、逞しく、乗り越えて行っていただきたい。

(新聞掲載日 令和元年5月10日)


零からの出発

2019-05-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 子を育て上げ、親を看取り、無我夢中で生きた31年、その平成の時代が終わり、令和の時代が始まろうとしている。
 施行から一ヶ月前に新元号が発表されたことで、この四月は、終わりと始まりをつなぐ「のりしろ」のような月となった。憲政史上初めてという天皇の生前退位が、思いがけずもたらしてくれた、ゆとりの時間である。
 このニュートラルな感覚はなんだろう。終わりのエネルギーと始まりのエネルギーが相殺(そうさい)しているのだろうか。凪の海のようなこの時間に、私は零にリセットされていく自分を感じている。これも、新元号に選ばれた「令」の字の持つ力なのだろうか。零からの出発は、もうすぐそこ。

  このところ、私の頭の中をしきりにモーツアルトの音楽が流れる。それも、35年という短い生涯の中の、神童と呼ばれた時代と、数々の大作を生み出した晩年へと続く黄金時代をつなぐ、言わば「のりしろ」のような時期に生み出された数々の音楽である。
 例えば、26歳のころの作品『ヴァイオリンソナタ第34K.378』。実に優美で、開放的で、それでいて気品を備えた、これぞモーツァルトと言わしめる作品である。
 冒頭の喜びに満ちあふれたピアノとヴァイオリンの掛け合いといい、終楽章の躍動感に弾む主題といい、きらめく季節の訪れを予感させる音楽は、たちまち聴く者の心を穏やかなものしてくれる。
 励ましたり、慰めたりしてくれるという感じでもなく、「ありのままのあなたで」と語りかけてくるような、そう、零の自分にリセットしてくれる音楽なのだ。
 このことは、音楽療法の分野で、多くのモーツアルトの音楽が取り上げられていることでも裏付けることができそうだ。
 ところで、モーツアルトは人生で2回パリを訪れている。1回はこの曲を作ったころに、そしてもう1回は幼少のころに、父に連れられて訪れている。
 ヨーロッパを馬車で旅してまわったモーツァルトも、ショパンも、ドビュッシーも、ピカソも、ゴッホも、そしてピアフも、パリの歴史に名を刻む芸術家たちにも愛されてきた大聖堂だったのだと、今これを書きながら、失ったものの大きさを改めて痛感している。
 「Notre-Dame」、フランス語で「われらの貴婦人」、パリの空に母なるマリアの名を掲げて800余年、反乱や戦火の中も生き延び、セーヌ川に浮かぶ島からパリの町を見守り続けてきたノートルダム大聖堂が炎上した。おぞましい煙と炎の中に崩落する大聖堂の屋根、尖塔。頬をつねりたくなるような映像が、世界中を震撼させた。「大聖堂は永遠にあるものだと思っていた」という、一人の若者の言葉が耳に残った。何世紀にもわたり、当たり前のようにそこにあったものが、一夜にしてなくなる可能性があることを、私たちは思い知らされた。
 あれは持ち出せた、これは燃えなかったと、遺った聖遺物や美術品などのことが報道されるも、目の前の光景が、長い歴史の中を生き続けてきた貴い建造物の終焉の図であることは、誰もが心の中で理解している。
 しかし、人間はこれぐらいのことでくじけない。絶望のどん底から這い上がることができるのも、終わりを始まりに変えることができるのも、人間だ。人間の持つバネだ。Springだ。

 さあ、零からの出発だ!

(新聞掲載日 2019年4月26日)

 

 


日本の国柄

2019-04-13 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 土手の桜並木の足元に、花の絨毯が広がった。耳成山、畝傍山、そして天香具山、大和三山に囲まれた都の跡に、菜の花が一斉に開花した。古の都を埋め尽くす花々に集まる人々。その光景に、一瞬、古代大都市の賑わいを見たような気がした。

 今から1350年余り昔、日本で最初の本格的な首都がここに誕生した。長閑な田園風景からは俄かに信じがたいが、あの山々に尋ねると答えてくれるだろう。「確かに、ここには平城京や平安京をしのぐ古代最大の都市があった」と。

  2年あまり前のこと、天香久山の麓で牛乳を搾る小さな牧場を訪問した。
 その前日まで、私は北海道にいた。酪農の現場を見学しに、はるばる北の大地を訪れた私は、そこで思いがけない言葉を耳にしたのだ。「日本に酪農が伝わったのは飛鳥時代の奈良なのですよ」、なんと日本の酪農の発祥の地は奈良だというのだ。

 北海道からほとんど直行でやってきたその牧場で、古い文献をもとに再現された蘇()なるものをいただいた。それはチーズというよりは、生キャラメルに近いような感じで、高級スイーツとして現代にも十分通じるような味わいである。
 当時、酪農と言っても、牛乳や、ましてや大量の牛乳を煮詰めて作られる貴重な蘇などは、貴族や高級官人たちの滋養強壮の薬であったり、また彼らの贅沢な食膳を飾るだけのものであったという。
 酪農の需要と同様、都には、恐らく相当高い文化や技術が集結していたのだろう。しかし、そんな都も地中深くに埋もれてしまい、今となっては、『万葉集』に収められた古の人々の歌などに、その幻影を遺すばかりである。

 新元号「令和」が発表された。出典は『万葉集』第五巻の梅花の歌三十二首の序文、「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、欄は珮後の香りを薫す。」から引用されたという。
 「悠久の歴史と四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄をしっかりと次の世代に引き継いでいく」、一言一言、かみ締めるように述べられた総理の言葉、とりわけ「日本の国柄」という言葉に、私の心は震えた。どうか一時しのぎの言葉ではなく、真にそうであって欲しいと、心で手を合わせた。

 これまで247ある元号は、すべて中国の古典から引用されてきており、こうして日本の古典に由来する元号が選ばれるのは今回が初めてのことだという。
 「令」という思いがけない字に驚いた国民は少なくないことだろう。私もその一人である。しかしこの字、改めて見れば、何と「たおやか」であることだろう。むやみに媚びへつらうことも、惑わされることもない、凛としたこの字の姿がとても清々しい。
 私がこの3年見つめてきた《たおやかな風景》が、実は「日本の国柄」であったことにも気づくことができ、何やら胸のつかえがとれたような、爽やかな気分である。

 「日本の国柄」を次世代に引き継ごう、そんな決意に満ちた「令和」の時代の幕開けに、こうして生かしてもらっていることへの感謝、そして重責の念がこみ上げる。
 いわゆる古き良き時代と、目まぐるしく変化する新しい時代、二つの時代の狭間を生きる我々世代の役割、それは、新しい時代にしっかりと引き継ぐことなのではないだろうか、「日本の国柄」を。

(新聞掲載日 2019年4月12日)

 

 


春一番

2019-04-10 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 早朝、風に鳴る雨戸の音に、揺さぶられるように目が覚めた。
 今日は春の嵐の吹き荒れる一日となったが、やはり近畿地方に春一番が吹いたという声は聞かなかった。九州、関東、そして北陸地方でもとうに吹いたというのに、どうやら春一番というものは、南から北へと順に上がってくる桜前線などとは全く別もののようだ。

 調べてみると、春一番にはちゃんと定義というものが存在していた。関東地方の春一番の定義は気象庁が、そのほかの地方は各地の気象台が独自に定義付けをしている。
 地方によってその定義が異なること、そして北海道、東北、長野、沖縄などには春一番と呼ばれる風がないことなどについても理路整然と説明されているのだが、そもそも風なんて、海を、山を、野原を、自由に吹き抜けているのに、凡人には今一つ解せない話だ。

 大阪管区気象台によると、近畿地方では「立春から春分の間、低気圧が日本海にある、最大風速が8m/s以上、南寄りの風、最高気温が平年または前日より高い」、これらの条件を満たして初めて春一番なのだという。感覚で判断できる域をはるかに越えている。うかつに「春一番ですね」などと口にはできないのだ。気象台の発表を待つより仕方ないのだが、待っていても、春一番が吹かない年もあるというから、それもまた解せない話だ。まあ、事を難しくしているのは人間で、風は定義なんてどこ吹く風だ。

 春一番というと、我々は春の訪れを告げる暖かで穏やかな風をイメージするが、この風の名称、悲惨な海難事故をもたらした風がきっかけで生まれたのだそうだ。
 
1859213日、長崎県壱岐郡郷ノ浦町(現・壱岐市)の漁師たちを乗せた漁船が、おりからの強風に煽られて転覆し53人が亡くなった。漁師たちは、冬から春に季節が移り替わるころに吹くこの強風を恐れ、「春一番」と呼ぶようになったのだという。

春一番という言葉が正式に気象用語になったのは昭和30年代に入ってからだそうだが、その名を一躍有名にしたのは、何と言ってもこの歌ではないだろうか。

〽雪が解けて川になって流れて行きます

 春一番と聞くと、ほとんど反射的に、三人娘が歌う『春一番』の陽気なメロディが頭の中を吹き抜けるお陰で、そのイメージは一層明るいものになったが、春一番に限らず、春先に吹く強い風には用心しなければならない。暴風雨、雷雨、遭難、そして大きな火災をもたらすのもこの乾いた強風なのだ。3月の火災発生率は常に上位にあるという。
 
「春風の狂うのは虎に似たり」これは中国の諺。「3月はライオンのようにやってきて子羊のように去っていく」というのはイギリス。春の風を警戒するのは、どうやら日本だけではないようだ。
 
そりゃそうだ。春の風は、眠っている自然界を目覚めさせるエネルギーを運んでくるのだ。「目覚めよ!」と我々を揺さぶる大きな力をはらんでいるのだ。

 この2月、3月は、若い演奏家たちのコンサートに足を運ぶ機会が多い。若き芸術家たちの情熱に心が揺さぶられる日々である。人生を畳みかけようとしている私の心の中を、春一番が吹き荒れる春である。

〽もうすぐ春ですね、ちょっと気取ってみませんか

 そうだ!ちょっと気取ってみよう!
風に揺れるワンピースを着て…

(新聞掲載日 2019年3月22日)


ブランコに揺られて

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 

 きーこ、きーこ…

 桜待つ公園のブランコに揺られているのは、子供たちではなく私である。
視界の中を目まぐるしく入れ替わる空と大地、しまいには立ち上がって、ほとんど水平になるまで漕いでは、空にも飛んでいけそうなスリルを楽しんだかつてのおてんば娘も、今はほんの少し揺られるだけで、目眩がしそうになる。
 そういえば、幼稚園のブランコから飛び降りて親指の爪がはがれた息子を抱え、先生と一緒に外科医院に走ったことがあった。私の子である、おおかた空に飛んでいけるような気がしたのだろう。
 ブランコがきしむ音、手に着いた鉄の匂い、足の下を行き来する雑草、ぶらんこは揺れながら、長い時をあっという間に飛び越えて、私を遠い昔へと連れていく。

  ふらんどや 桜の花を持ちながら (一茶)

ふらんどとはブランコのことである。ぶらんど、ゆさはり、ふらここ、ぶらここ、鞦韆(しゅうせん)、どれもみなブランコのことをいう。ブランコに揺られながら、一茶は何を思ったのだろう。

 かわいらしい名前の中で、気難しい顔を見せる鞦韆、これは中国で生まれた言葉である。唐代の中国宮廷では、冬至から百五日目の寒食の節に、女性が鞦韆、つまりブランコに乗るという習わしがあった。古代ギリシャや、紀元前数千年のインドでも、農耕儀礼の一つとして女性がブランコに乗ったというから、今、私がブランコに揺られているのも、まんざらおかしな光景ではないのだ。

 ブランコは春の季語である。寒食の節が春であること、また、中国北宋の詩人・蘇東坡の『春夜』の「春宵一刻直千金」で始まる七言絶句の最後の節に、「鞦韆院落沈沈」(人の気配の絶えた中庭にひっそりブランコがぶら下がり夜は更けていく)とあることなどから、ブランコが春の風物であることが定着していったという。
 
難しいことはわからない。暖かくなり子供たちが公園に出てきてブランコに乗って遊び始める、だからブランコは春の季語、それでいいではないか。
 
語源も何も、ぶらんとぶら下がっているからブランコ、としか考えたことがなかったが、ポルトガル語のBALANCOが語源になっているという説があるらしい。ちなみに、柳田国男先生は私と同じ考えだ。

  ブランコというと、黒澤明監督の映画「生きる」(昭和27)を思い出すという方もいらっしゃることだろう。半世紀以上も昔の作品でありながら全く遜色を感じない、志村喬の名演光る、心揺さぶられる作品である。
 市役所で働く渡辺(志村喬)は、ある時、自分が末期の胃癌であることを知り落胆する。しかし、部下の女性・とよの自由奔放で若さ溢れる生命力に強く惹かれ、生きることへの情熱を取り戻す。自分に残された時間で何かを残したいと考えた渡辺は、ずっと棚上げにされていた市民からの要望である公園を完成させることを誓う。次々と立ちはだかる障害を乗り越え、渡辺はついに公園を完成させる。ある雪の降る夜、渡辺は完成したばかりのブランコに揺られて、『ゴンドラの唄』を口ずさみながら、静かに息を引き取る。
 市役所に蔓延る古臭い体質などが浮き彫りとなる中で、生きるとはどういうことなのか、我々に与えられた「いのちの時間」について、深く考えさせられる作品である。

〽いのち短し恋せよ乙女
  朱き唇褪せぬ間に
  熱き血潮の冷めぬ間に
  明日の月日の無いものを

 きーこ、きーこ…

(新聞掲載日 2019年3月8日)


お手入れ

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 松の内が明けたころから入院していた92歳の義母の退院が決まった。義母は80を過ぎたころから何度も入退院を繰り返してきた。その中には重篤な病もあった。しかし、今回の入院も含めて、義母はいつもきちんと治して退院する。いかにも義母らしい。
 結婚して直ぐ主人の両親と同居した。それは私の希望だった。結婚前に何度か義母の手料理をいただく機会があったのだが、美味しいばかりでなく、それがまたきれいなのだ。「あのご飯を毎日食べたい」、これが、私が同居を希望した一番の理由である。
 義母は何でもモノを大切にする人だった。台所にも、年季の入った道具類が数少なく清潔に収納されていた。お鍋ややかんなども清潔な光沢を放っていた。洗った食器類は、毎日取り換えられる清潔な布巾で水分を拭きとり、決められた場所にきちちんと収められた。漆塗りのお椀などには柔らかい布巾を使った。使用頻度の少ない季節の食器は、また元の箱に収められた。

 義母のお料理は庖丁研ぎから始まる。私なら軽く一品はでき上がるほどの時間を研ぎにかけた。とにかく、下準備と後片付けが徹底しているのだ。
 洗濯物をたたむ義母の傍らにはいつも裁縫箱があった。手のひらで丁寧にしわを伸ばし、綻びを見つけたらすぐに細かい目で縫い、ゴムが伸びていたらその場で入れ替えた。孫のおもちゃでも何でも、壊れたものを根気よく修理し、元通りに直した。どこかにまだ折れた傘の骨を直す道具が仕舞ってあるはずだ。
 朝は一番に玄関先を履く。その後、玄関に座り込んで、出かける家族の靴のお手入れをするのも、義母の日課だった。

  平成のゴミは平成のうちに!そう決めて先月から少しずつ片づけている。これまでにも断捨離らしきことを何度かしているので、もういらないものは殆ど無いはずなのだが、また、しばらく手も触れていないものが溜まっている。
 今回は不用品を売りに出せるスマホのサイトを利用することにした。わずかでもお金を頂戴するのだから、シミやしわ、くすみがあるままでは出すことはできない。洋服は洗濯し、糸のほつれなどがないか入念に点検し、仕上げにアイロンをかけた。革製品は軽く汚れを落としてから丹念に磨いた。
 一つ、また一つ、くすんでいたものたちが輝きを取り戻していく。もし今、これらを店頭で見つけたら、思わずまた買ってしまいそうだ。それもそのはず、元はと言えば、みんな自分が気に入って買ったものなのだから。
 お手入れもしないで放っているものに、もう古いだの、好みが変わっただの弁解をして、真新しいものに目移りする。これでは永遠に断捨離も終わらない。

 「おかあさん、明日退院だって!よかったねえ」

義母は可愛らしい笑みを浮かべ、「嬉しい」と喜んで見せた。しかし、なぜ入院しているのか、私のことだって、本当は誰なのかもよくわかっていない。
 お布団の中に手を入れて義母の手を握った。痩せた手がかすかに握り返してきた。庖丁を研いでいたあの力強さはもう義母の手には残ってない。心配はいらない!私の手に残っている。義母の手がやっていたことは、全部この手が覚えている。
 今日は半日玄関に座り込んで靴のお手入れをした。靴墨各色、つや出しクリーナー、刷毛各種、布、義母が揃えた靴のお手入れ道具たちが、私の手を器用に動かしてくれる。

(新聞掲載日 2019年2月22日)


お弁当と日本人

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  鰆の焼き物、がんも・里芋・三度豆・梅の花にしつらえた人参の煮物、卵焼き、紅白のかまぼこ、大根と昆布の酢の物、きゅうりの漬物、ちらし寿司、海苔巻きおにぎり二つ、パイナップルと黄桃のシロップ漬け、草餅と桜餅、これは松竹座初春大歌舞伎の幕の内(幕間)でいただいたお弁当のメニューである。
 お弁当箱の中に慎ましく並ぶおかずたちをよく見ると、前菜、主菜、副菜、ご飯、デザートと、ちゃんとお料理のルールに則って小さな宇宙を作っている。味覚だけではない。彩や形、季節感など、視覚も大いに楽しませてくれる。栄養も偏ることなく、量も程よい。食べ放題のバイキング料理のように、胃もたれするほど食べ過ぎることはない。
 普段使いの食材で作られた税込み千円の幕の内弁当、こんなところにも、日本人の繊細な感性と、きめ細やかな心遣いが詰まっている。

  一口にお弁当と言っても、高級なお弁当から駅弁、コンビニのお弁当など千差万別であるが、日本人にとってお弁当と言えば、やはりお母さんの作るお弁当ではないだろうか。うちはお父さんが、いや、自分が自分のために作るという人もおられるだろう。
 夕飯の余りものも、お弁当箱の中に入ると別物になるから不思議だ。それに卵焼き、ご飯に塩昆布か梅干しがあれば充分だ。母が作ってくれたお弁当はだいたいこんな感じだったが、それがまたやけに美味しくて幸せだった。
 最近、SNSや雑誌で見かけるお弁当のクオリティーの高さには感心するばかりだ。タコさんウインナーやリンゴのウサギで凝ったつもりでいた我々のころとは大違いである。
 多くの伝統文化の衰退が懸念される中で、お弁当文化は衰えるどころか、ますます発展し進化している。お弁当箱の機能性も向上しデザインも実に豊富である。売り場の一角を独占する多種多様なお弁当グッズを見ていると、思わずお弁当を作ってみたくなる。

  「ほら、小判型のアルミのお弁当箱で、蓋にチューリップの絵が描いてあった赤いお弁当箱よ」
 母のことだから、私が幼稚園の時に使っていたお弁当箱を今でも大切にとっているのではないかと思ったが、残念ながら残っていなかった。それにしても、50年以上も考えたこともなかったお弁当箱の記憶がするすると出てくるのには我ながら驚いた。
 お弁当談に花が咲いた。母は70年以上も昔のお弁当の話を、ついこの間のことのように饒舌に語る。戦争でろくに食べ物がない中、おばあちゃんが苦心して作ってくれたおかずのこと、友だちのアルミのお弁当箱は梅干しで蓋に穴が開いたが、自分のお弁当箱はアルマイト製のちょっと上等で穴が開かなかったこと、しまいには絵まで描きだした。それがまた、まるで目の前のお弁当箱をスケッチしているかのような絵なのだ。
 一体、日本人にとってお弁当とは何なのだろう。お弁当の記憶はどれほど深く刻まれるというのか。
 そういえば、歌舞伎界の大スターたちによる3時間余りの華やかな舞台の余韻に負けず劣らず、30分の幕の内に食べたお弁当の余韻がずっと後を引いている。一週間たっても、こうして一つ一つのおかずを思い出すことができるのだから。

 いつの日か、何もかもAIがやってのける時代がやってきたとしても、日本人は変わることなく、こつこつとお弁当を作っているに違いない。だれかのために…。

 (新聞掲載日 2019年2月8日)


父と子

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「お父さんに怒られる」、2016年リオ五輪、亡き父親との約束、4連覇を賭けて戦った決勝で敗れた瞬間、吉田沙保里はこう言って号泣した。自宅には22畳のマットがあった。そこで彼女は3歳から年中休み無しで父のスパルタ指導を受けたという。そして病弱だった女の子は、いつしか霊長類最強女子と謳われるまでに成長した。
 吉田沙保里が現役引退を発表した。気持ちの良い会見だったが、ことに父親への深い信頼と尊敬の念に満ちた言葉が印象的だった。

 子どもと向き合う中で、父親の大きな役目は、子どもの壁でい続けることではないだろうか。子どもはその壁を乗り越えようと成長する。しかし、その壁は幾つになって越えることができない。それは、子どもに越えられたことを、父親が認めないからかもしれない。それでいいのだと思う。子どもだって、本当は自分より小さい父親を見たくない。父親はいつまでも自分の前に立ちはだかる大きな壁であって欲しいのだから。

 ふとモーツァルト父子のことを思い出した。
 3歳のモーツァルトの中に並外れた才能を見出した父・レオポルトは、息子を一流の音楽家に育て上げることが自分の天命だと信じ、自身のキャリアや生活を犠牲にし、息子の教育とプロデュースに全力を注いだ。そして、歴史上比類ない作曲家として開花させたのだ。
 レオポルトは息子の才能に磨きをかけ、宮廷社会に売り出すために、今ならようやく小学1年生という息子を連れて、欧州中を旅させた。
 音楽はもちろんのこと、読み書きそろばん、しつけにいたるまで、子育ての全てを父親が引き受けていた。父親の存在は絶対で、その指示や方針に盲目的に従っていたモーツァルトであったが、成長するにつれ、次第に父親に反発するようになる。そして成長してからは、長い間父親と物理的な距離を置いていた。
 モーツァルトが31歳の年にレオポルトが67歳で亡くなった。しかしモーツァルトは、幼いころあれほど密な関係を築いた父親の葬儀に出席しなかったばかりか、お墓にも参らなかったという。それほどまでに父親を憎んでいたのだろうか。いや、心の支えであった父親がいなくなってしまった現実を認めたくなかった、私にはそう思えてならない。
 アイネ・クライネ・ナハトムジーク、三大交響曲と称される39番、40番、41(ジュピター)、オペラ『魔笛』、レクイエムなど、代表作と言われるこれらの名曲は、父親が死んでからモーツァルトが35歳で亡くなるまでの数年間に作曲されている。
「お父さんに怒られる」、無我夢中で作曲する息子の姿を思ってしまう。 

  私は人生でただ一度だけ父に怒られたことがある。中学三年生の夏休み、深夜に家を抜け出して、友だちらと町外れの道を歩き回った。夜が明けるまでに家に帰れば親には気づかれないだろう、そう思って帰宅すると、門の前に父が立っていた。夜じゅう、私を探し回っていたという。頭ごなしに怒鳴られた私は、口も利かず部屋に閉じこもった。
 お昼近くになって起きてくると、食卓の上に手紙が置いてあった。

「怜子へ。言い過ぎた、悪かった。お父さん」

 人生で初めて娘を叱った父は、自分から娘に謝った。悪いのは明らかに娘なのに。
結局、一睡もしないで父は仕事に出かけたのだった。
 父は亡くなったが、私は、これからもずっと、父の大きな背中を見上げながら生きる。

(新聞掲載日 2019年1月25日)


ヤマトタケルと白鳥と鏡餅

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  大和は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる大和し美し 

  東国を平定し大和へ帰る途中、伊吹山の神との戦いに敗れ傷を負ったヤマトタケルは、能褒野(三重県亀山市)で力尽き薨去。故郷への帰還が果たせなかったタケルは、望郷の念を込めて、最期にこう歌った。
 大和から駆けつけた后や御子たちは、御陵を造り葬ったが、タケルは白鳥となり大和へと飛び立ち、琴弾原(奈良県御所市)に降り立った。そこで、ここにも御陵を造ったところ、白鳥は再び飛び去り、今度は河内国の旧市邑(大阪府羽曳野市)に舞い降りたので、その地にも御陵を造った。その後、白鳥はついに天高く翔け昇っていった。

  大きな節目を迎える年が明けた。白鳥タケルが降り立った故郷「美し大和」の地に立ってみたくなり、思い立って琴弾原へと車を走らせた。
 厳かな新年の空気に包まれる富田の集落はひっそりと静まり返り、さきほどまでの国道の喧騒が嘘のようだ。「日本武尊白鳥陵」の看板を頼りに、民家の間の路地を抜け、その先の階段を上ると、ほどなく白鳥陵に到着。しめ縄の飾られた門扉の前方には、夕日に染まる空に、葛城の山が黒々と横たわっている。愛する故郷に永久の別れを告げ、あの峰越えて河内国へと飛び去った一羽の白鳥の姿を想うと、たとえ神話の中の話であっても胸に迫りくるものがある。
 奈良時代に編纂された風土記の中にも、この時期、興味深い白鳥伝説を見ることができる。村人がお餅を弓矢の的に射ると、そのお餅は白鳥となって飛び去り、人々は死に絶え、水田は荒れ果てたという。
 空を飛ぶ鳥に畏敬の念を抱いていた古代人であるが、中でも白鳥は神の使いと崇められていた。稲魂を宿す白鳥が田に寄り付けば稲は豊作に、離れると稲は枯れて不毛の地となるという。なるほど、12月に訪れた越後の広大な田んぼでは、大きな鏡餅さながら、無数の白鳥が餌をついばんでいた。
 古来、白餅は白鳥に連想され、決して粗末に扱ってはならないものと考えられてきた。色形が白鳥に似ているからだけではない。稲魂の宿る米粒を搗いて凝縮されたお餅は、特に霊力が高く、太古より神が宿る特別な食べ物とされてきたのだ。ハレの日にはお餅をいただく、この国の風習が生まれた所以である。
 三種の神器のひとつである鏡の形に似ていることからその名が付けられたという鏡餅はまた、その形が望月(満月)を連想させることから、拝むと望が叶えられると信じられてきた。お正月、家々に新しい生命力をもたらしにやって来られる年神様が宿られるのも、この鏡餅なのである。

 近年は、お餅も糖質が高い、カロリーが高いなどと敬遠されがち、大きな鏡餅はなおさらのこと、お供えしないという家が増えてきた。
 
そういえば、今年のお正月、門松もしめ縄も飾っていない家がまた増えたような気がする。新しい年の初めに年神様を迎えるこの国の厳かな伝統行事、心豊かな風習はどこまで薄れていくのだろうか。

 鏡餅を模したプラスチックの外装の中から小さなお餅がころころ8つ、我が家の鏡開き。その霊力はいかほどのものか…、些か心細くもあるが、まあ、お善哉でも煮て、新しい年を生きる力をいただこう。

(新聞掲載日 2019年1月11日)


嫋やかに生きる

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  掃き清められたばかりの朝の境内、踏み歩く砂利に鎮まる心が、お堂が見えた途端に踊りだす。それは、母が待つ故郷の家が見えた時の感じに似ている。

 法隆寺東院夢殿の奥に、慎ましく門を開く中宮寺。飛鳥の地に1400年の法燈を継ぐこの尼寺は、聖徳太子の御母・穴穂部間人皇后の御願により創建されたと伝わる。
 
右の手の指を軽く頬にふれて、思惟されながら半跏の姿勢で坐しておられる美しき菩薩様は、太子が亡き母のお姿を刻ませたものという人もあるが、定かではない。
 
聖らかな光に縁どられた漆黒のお姿は、神々しくもあり、またどこか懐かしくもある。微笑みをたたえるやさしい面立ちは、ふいにこぼれた涙を、指でそっと拭われているようにも見える。やさしく囁かれているような口もとは、何か言おうとして、言葉を飲み込まれたようにも思える。
 
年の瀬の慌ただしさよそに、ここには嫋やかな時が流れている。

 「これ、何と読むかわかる?」
そう言いながら書かれた文字は『嫋やか』、これが私のイメージだと言われる。
 
「しとやか?」
まさか私が、とは思ったが、とっさにはそうとしか読めなかった。
 
「違う、たおやか」

 その夏、私は自分の子育ての記録の出版に向けて、落ち着かない日々を過ごしていた。そんなある日、中井政嗣氏から突然お電話をいただき、その日、私は中井氏の会社を訪問していた。
 
友人を介して、出版前の私の原稿を読んでくださった中井氏は、読み終わるや否や、「この中に出てくる“おかん”にお会いしたい」と電話をかけてこられたのだ。いわゆる「親の顔が見たい」というやつだ。
 
奈良県出身の中井氏は、丁稚奉公から、国内外60店舗を構える一大チェーン店『千房』を築き上げられたその手腕のみならず、社会教育家として人材の育成に力を入れておられることでも知られている。
 
大らかで人懐こいお人柄に、時の経つのも忘れて、夢中で話し、夢中でお話に耳を傾けた。そして、帰り際に“おかん”が見せられた言葉は『嫋やか』、さらに中井氏は、「本を買ってくださった方にはこうサインすればいい」と、筆ペンの美しい文字で一行の言葉を書いてくださった。

 家に帰ると、荷物もおろさず書棚に向かった。
 
「嫋やか」の「たお」は「撓(たわ)む」の「たわ」と同源。動作がしなやかでやさしいさま。「柳に雪折れなし」(柳の枝はよくしなうので雪の重みで折れることはない。柔らかくしなやかなものは、堅いものより、よく耐えたり丈夫であったりする)などの諺を喩えに、そのニュアンスを説明しているものもあった。
 
それは私のイメージではなく、『嫋やか』な母親になりなさい、という中井氏からのメッセージであったことに、やっと気がついた。
 
母親というものは『嫋やか』であってほしい、これは、道を踏み外し、社会の隅っこで荒れる若者たちと接する機会が多い中井氏の、切なる願いなのだろう。

 『嫋やか』、それは優しく、厳しく、やわらかく、毅然としていて、弱弱しく、勇敢で、慎ましく、大胆で、清楚で、自信に満ちていて、控えめで、嬉々としていて、どこかもの悲しい。
 
この湿り気を帯びた美しい日本語と出会って、今年で10年目になる。あの日、中井氏が机の上の白い紙に書いてくださった一行の言葉を胸に、私はずっと生きてきた。もちろんこれからもずっとこの言葉を胸に…
 
『嫋やかに生きる』

 (新聞掲載日 2018年12月21日


ならやま越えて

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  ならやま越えて、越後は新潟、信濃川河畔萬代橋のたもとに會津八一記念館を訪ねた。この地で生まれ育った八一が酷愛した奈良。孤高の文人の奈良歌に身を委ねるほどに、日ごろ何気なく目にしている奈良の風景が、無性に恋しく懐かしく思い出される。

 「あをによし ならやまこえてさかるとも ゆめにしみえこわかくさのやま」(奈良山を越えて遠く離れるが、せめて夢にでも見えてくれ若草山よ)
 
これは八一が初めての奈良を訪れた時(27)、帰りの汽車の中で浮かんだ歌であるという。その後、75歳で亡くなるまでに、八一は35回以上も奈良に通った。

 かつて奈良山を越える街道は、諸国と都を結ぶ重要な道のひとつであり、また大仏の資材が運搬された道でもあった。奈良の地を離れる八一の寂寞たる心情のみならず、そこには、八一の古代の人々への思慕がうかがえる。

 「おほらかに もろてのゆびを ひらかせて おほきほとけは あまたらしたり」
 「くにのむた てらはさかえむ てらのむた くにはさかえむと のらせけむかも」

 聖武天皇の発願により創建された東大寺。あまねく国を照らす大仏に込められた、時の天皇の祈りにまで思いを寄せる八一は、時代の盛衰に耐えて今日まで遺るみ仏の「千何百年の久しさの上に亙(わた)るところの大きさ」に心打たれ、多くの東大寺讃歌を謳った。

 奈良の都も聖武天皇の治政のころになると、天変地異が相次ぎ、伝染病が蔓延し、優雅に過ごす貴族や役人たちがいる一方で庶民は重い税により疲弊し、都の華やかなイメージとは裏腹に世の中は乱れ切っていたという。
 聖武天皇は、仏に祈ることで国家に降りかかる災いから国民を護ろうと、行基らと都に大仏建立の計画を進められ、また諸国にも次々と寺院を建立していかれた。
 自らも篤く仏に帰依し、天皇の寺院建立の後押しをされたのは光明皇后である。妻は夫の思いを受け継ぎ、貧困や病にあえぐ庶民のためにその生涯を慈善事業に捧げた。
 貴族や皇族の醜い権力争いが渦巻く中で、聖武天皇と光明皇后ご夫婦のお姿は、行基菩薩のお姿と共に、当時の人々の荒んだ心を和ませたという。

 新潟の胎内市に、聖武天皇の勅願により行基らが開山した乙寶寺(乙宝寺)というお寺がある。お寺の裏山に住む夫婦の猿が、写経の功徳により人間の夫婦に生まれ変わったという伝説のあるお寺である。
 この写経猿の伝説を起稿するに当たり、乙寶寺にご住職を訪ねた。境内には今もその猿のお墓が伝わり、本堂の地下に保管されている、猿が差し出す木の皮に和尚がお経を書いてやったという「木皮経」を見せていただいた。
 熱心に仏さまに手を合わせる仲睦まじい猿の夫婦に、聖武天皇と光明皇后のお姿が重なって見える、そんなことを言うと罰が当たるのだろうか。
 万葉の時代から詠まれ語り継がれてきた奈良の風物、自然風土、そして土地の人々をこよなく愛した八一のその眼差しは、どこか行基菩薩の眼差しに似てはいないだろうか。
 空襲により羅災した會津八一が身を寄せたのは、北蒲原郡中条町、現在の胎内市であった。へその緒のごとく、奈良と胎内を結ぶ不思議なご縁を感じずにはいられない。
 ならやま越えて、都と諸国とを結ぶ数多の伝説、その発掘はまだまだこれからだ。

胎内川の畔、コノハズクの宿にて

(新聞掲載日 2018年12月14日)

 

 


神様のノート

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 吉野山の帰り、農産物直販所で黄色く熟れた花梨の実を見つけた。毎年、お庭に成る花梨の実を箱いっぱいに詰めて送ってくださっていた方のことを思い出した。箱を開けた途端、家中に芳しい香りが立ち込めたものだ。

 相変わらずの風体で、台の上にごろついている花梨たちを見て思わず苦笑した。隣では、柿たちが柿の形をして整然と並んでいるというのに、花梨ときたら、レモンか洋ナシか、はたまたパパイヤかといった気ままぶり、さっぱり形に統一性がない。
 
見栄えが悪い上に、このままでは不味くて食べられもせず、包丁も刃がたたないほど硬い、厄介なこの果実に、神様はノートを広げながらずいぶんと悩まれたのだろう。「はたしてこの果実、いかにすれば人間から愛されるだろうか。そうだ、他のどの果実にもない香しい匂いを与えてやろう。いや待てよ、それだけではまだ足りないな。そうだ、咳や痰、流感に効く薬効成分も授けてやったらどうだろうか」と。

 天智天皇が、廷臣たちに春山の万花のあでやかさと、秋山の千葉のいろどりを競わせたとき、「春の山は鳥も鳴き花も咲いて美しいですが、山は茂り草も深くて入ることもできません。しかし秋の山は分け入って、黄葉を手に取っては賞賛し、青いまま落ちてしまった葉を手に取って歎いたりもできます。そんな秋の山が好きです、わたくしは」さらりとこう歌って秋に軍配を上げたのは額田王である。

 古来より、人々は春秋の優劣を議論しては、それぞれの季節の趣を味わってきた。「春秋の争い」などと言われるが、この争い、どちらも甲乙つけがたく、決着がつかないことを誰もが分かっている。だからこそ、今も続く愉しい議論なのだ。
 
それにしても、吉野山の色の仕掛けは天晴だ。春には裾野から峰へと花色のグラデーションが上っていき、秋には逆に峰から裾野へと紅葉のグラデーションが下りてくる。神様がいかに公平とバランスを大切にされているかが窺える。

  この日、吉野山金峯山寺を訪れた。ご本尊は蔵王堂に鎮座する3体の巨大な蔵王権現である。蔵王権現は日本で生まれた修験道独自の神格で、本地はそれぞれ弥勒菩薩、釈迦如来、千手観音であるという。名前こそ馴染みはあるが、私の知っている柔和な仏像のお姿とはまるで違う。真っ青なお姿、逆立つ髪、口から鼻まで牙を伸ばした忿怒の形相である。
 
山伏たちはこの蔵王権現様にすべてをお任せして、険しい大峰の奥駈道に入り修行に励むという。修行とはいかないが、秋の特別ご開帳に赴き、蔵王権現様と対峙させていただいた。
 
一人ずつ障子で仕切られた「発露の間」に通され、蔵王権現様の前にぬかずく。険しいお顔で睨みつけておられるが、不思議と怖いとは思わない。むしろ惹きつけられて、目を逸らすことができない。

「迷わず生きよ。心配するな、あとはわしに任せておけ」、蔵王権現様の怒りの矛先は、私の心に棲む迷いなのだ。すべてをお任せして、迷わず生きて行こう。

 その夜、神様ノートに思いを馳せながら、5つの花梨と格闘。
 
「神様、我が家の冬の常備薬花梨の蜂蜜漬けが3瓶完成しました。花梨、香りはいいけれど、相変わらず硬いですね。1瓶は我が家に、2瓶は、小さい頃から喉が弱かった二人の息子に送ります。

 (新聞掲載日 2018年11月23日)


まだまだ

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  杵築神社から富雄川へと下る坂道で、悠々と道路を横断するカマキリに出会った。冬将軍の足音が聞こえてきそうな冷たい日、カマキリのお目当ては、傾いた陽を浴びる民家の塀のようだ。
 この時期に見かけるカマキリのほとんどは、オスより寿命の長いメスだという。なるほど、子を産み終えた母は強い。写真に収めようと道路にスマホを突っ立てると、ボクサーのように鎌を構えたかと思うと、次の瞬間スマホに襲い掛かってきた。カマキリを落とそうとスマホを強く振るが抱きついて離れない。待てよ、交尾のお相手を探してまだうろついているオスなのか?
 動揺してシャッターチャンスを逃したその画像には、ピンボケのカマキリの顔と鎌、そしてその向こうに田んぼが写り込んでいる。青い田んぼ?驚いて実物に目をやった。だれも見向きもしなくなった田んぼが再び若葉を芽吹き、さびた風景に色を添えているではないか。この時期の田んぼに「終い」を思うのは、どうやら早合点のようだ。
 稲の刈株から再び萌え出した青い芽を「ひつぢ」というそうだ。「稲孫」という漢字が充てられることもあり、いわば稲の蘖(曾孫・ひこばえ)である。

 同窓会でお腹を抱えて笑った友人の話をふと思い出した。がんで余命三か月と告知された友人のお義父さんは、身辺整理どころか、早速荷造りして旅に出かけられたのだ。長年の夢だった世界旅行を終えて帰国されたお義父さんは、その20年後、寿命を全うされて亡くなられた。
 勿怪の幸いのおこぼれを頂戴したのは友人だった。どうせお金なんか持って死ねないと大盤振る舞いのお義父さん、嫁のリクエストに応え、お土産をどっさり抱えて帰国されたのだ。
 「私の幸せそうな顔に義父の寿命が延びたのよ」と友人。何でも気の持ちようだと、この日みんなで盛り上がった。

 誰が言い出したのか終活という言葉をよく耳にするようになった。保険も行き過ぎてはいないか。がん保険でもどうかと思うのに、認知症保険なるものまで登場した。何かが違っていやしないか。終活、〇〇保険なんかに翻弄されない、安心な社会ができればいいのだ。

 私には、気弱になった時に勇気づけてくれる音楽がある。その一つがロシアの作曲家ラフマニノフの作品「ピアノ協奏曲第2番」である。
 ラフマニノフは「ピアノ協奏曲第1番」の初演が大失敗に終わり、その酷評に苦しんでいた。第2番の作曲依頼を受けるが、深刻な精神衰弱で鬱状態に陥り、創作は困難を極めた。精神科医の根気強い治療を受けながら、ようやく第2番が完成した。ラフマニノフ自らがソリストを務めた初演は大成功をおさめた。苦悩から揉み出すように生まれたこの曲は、奇しくも彼の出世作となり、彼はこの曲で一躍名声を得ることになる。その精神科医に捧げられたこの曲は、今やピアノ協奏曲の最高峰で燦然と輝いている。
 
この曲から涌き上がる激しくも切ない旋律は、私から「まだまだ」という不思議な力を引き出してくれる。晩秋に揉みいずる紅葉の紅のような情念の旋律に、激しく魂を揺さぶられる。

 日本の四季はそんなに早く流れない。とくに秋は、初秋、仲秋、そして晩秋の風情までとことん味わうのが日本人だ。
 どうか、まだまだ、ジングルベルは流さないでほしい。

(新聞掲載日 2018年11月9日)


秋の空

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 奈良を出るとき、空を見上げて慌てて傘をリュックに突っ込んできたが、ずいぶん東に来たせいだろうか、秋の空の移り気のせいだろうか、高崎で上信電鉄に乗り換えるときには、青空が底深くに薄い雲を泳がせていた。

 世界遺産に登録されて4年目、明治510月の創業からちょうど146年目、やっとこの地に降り立つことができた。上州富岡駅から歩くこと約10分、赤い丸型ポストを小脇に置く製糸場の正門と、その奥に煉瓦造りの建物が見えてきた。
 想像を超える圧倒的な存在感に胸が高鳴る。当時、工女として全国から集まった女性たちは、見たこともないこの煉瓦造りの建物にどれほど驚き、胸をときめかせたことだろう。

 明治維新を迎えたばかりの日本、殖産興業政策を掲げた政府が急務としたのは、輸出品の要であった生糸の品質改良と、大量生産を可能とする機械を備えた製糸場の建設であった。
 選ばれたのは養蚕の盛んだったこの地。群馬県富岡に日本で最初の官営模範工場・富岡製糸場、世界最大規模の製糸工場が誕生した。
 建設にあたっては、フランス人技術者の設計・指導のもと、西欧の近代的技術が導入された一方、日本の風土の中で育まれた、日本の伝統的な技術が用いられた。
 建物は、木材で骨組みを造り、壁に煉瓦を用いた「木骨煉瓦造」という工法で建てられた。使用された煉瓦と瓦は、瓦職人が甘楽町福島に「だるま窯」を築いて作り、煉瓦については、フランスの技術者の指導を受け、瓦職人たちが試行錯誤しながら未知の技を身につけていった。目地には下仁田町青倉、栗山産の石灰で作られた漆喰が使われた。礎石は甘楽町小幡の連石山から約4000個が切り出された。
 書いてしまえば簡単である。しかし「だるま窯」で1回に焼ける瓦は1000枚で約1週間かかる。製糸場に必要な瓦と煉瓦は合わせて約160万枚。窯1基なら1600回の焼成が必要で、1回に5日かかったとして8000日を要する。これを2年でやり切ったというのだから、窯が十数基あったとしても、恐らく現場は不夜城のような光景であっただろう。
 切り出された4000個の礎石は、大八車に乗せて約4キロ先の川岸まで運び、舟で製糸場近くまで運んだという。トラックもクレーン車ものない時代、想像を絶する。
 コの字形に建てられた約104メートルある東西2棟の置繭所と、約140メートルの繰糸所、この巨大な建物は、ほんの数センチの狂いを見せるだけで、ほぼ設立当初の姿を今に伝えている。146年の時を経てもびくともしていないこの雄姿を、当時の職人たちに見せてあげたい。
 製糸場から始まった日本の工業化。近代日本の幕開けであった製糸場を陰で支えた人たち、建設に携わった日本の職人たちの誇り高き技のことを、今改めて思う。
 千古の歴史息づく古都が有する遺産も、もちろん素晴らしい。しかし、何もかもが目まぐるしく変わっていく中で、ほんの百数十年前の人たちが遺したものが見せつける技と心意気に、込み上げるこの言いようのない感動は何だろう。胸が締め付けられる思いだ。

 私たちが遺したものに、未来の人々は、「やられた!」と言わんばかりの感動を覚えてくれるだろうか。日本の風土の中で大切に育まれてきた伝統の技を、果たして私たちはちゃんと継承していけるのだろうか。

ころころ変わる秋の空…

(新聞掲載日 2018年10月26日)


消えそうで消えないもの

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  何かが板の雨戸と硝子戸を突き破り、激しい風と雨が吹き込んできた。母はとっさに座布団で穴をふさぎ、そして叫んだ。「怜子、新聞紙!」
 
夜中に襲ってきた猛烈な台風、伊勢湾台風。父は留守で、私は嵐の夜を母と二人きりで過ごした。飛び散るガラスの破片、母の足元に新聞紙を敷く3歳直前の私、私の最も古い記憶である。

 あの夜、隙間から吹き込む風にロウソクは大きく炎をくねらせながら、食卓のおにぎりを、そして部屋の隅々までを、ゆらゆらと明るく照らしていた。あのロウソクが和ロウソクであったことを母から聞いたのは、大人になってからである。

 「ロウソクなんかいらんよ、懐中電灯があるのに」と母に笑われた。台風と聞くと、私は未だに和ロウソクとおにぎり、そして新聞紙があると安心する。
 
近畿地方を直撃した台風の恐怖が消えやらぬ間に、また次の台風がやって来るという。不安がる母と、約60年ぶりに二人きりで嵐の夜を過ごした。心配そうにテレビを見つめる丸い背中には、あの日のたくましい母の面影はないが、母と一緒にいるという安心感はあの頃と同じ、消えてはいない。 

 私が夜の停電に備えている和ロウソクは、ハゼの実からとれる木蝋で作られている。大量生産される洋ロウソクと違い、一本一本職人さんの手によって伝統的な手法で作られたものである。
 
鉱物油で作られる洋ロウソクと比べ、和ロウソクは煤が出にくく、炎も長くて明るい。多少の風でも消えにくく、火持ちがよい。何より、小刻みに脈打つように燃える炎は、見ていると心が落ち着く。
 
和ロウソクの芯は、和紙とい草からとれる燈芯でできていて、燃えても炭化して残っていく。そのため、炎はどんどん長く、力強く明るくなる。実はこれが、和ロウソクの長所でもあり短所でもある。
 
そこで必要なのが「芯切り」。燃焼途中に芯を切りながら程よい炎を保たなければならない。面倒なこの作業も、その昔は当たりことだったのだろう。

 暮らしから一つ道具が消えると、一つ習慣が消える。職人の手でつくられたものが減っていくと、使う者の手の作業が減っていく気がする。人間はどこまで手を使わなくなるのだろう。
 認知症予防だとか言って、せっせと手の体操をするくらいなら、小刀で鉛筆を削ってみてはどうだろうか。ハンカチや靴下ぐらい固形石鹸で手洗いしたり、檜のまな板をたわしでゴシゴシ洗ってみてはどうだろう。毎朝、時計のぜんまいを巻くなんて、なかなか楽しい体操だ。

  昭和21年、戦争で奈良国立博物館に避難していた正倉院の宝物が披露されて以来続く正倉院展、今回はロウソクの「芯切り」に使われたであろう「白銅剪子(はくどうのせんし)」が登場する。
 
白銅製の鋏の先の半円形のふくらみが、刃が噛み合うと半球型の受け皿となり、切り取られた芯が落ちないという仕組み。ほぼ同じ形のものが朝鮮半島から出土されていることから、奈良時代の新羅との交流がうかがえる貴重な宝物だそうだ。

 日本にロウソクが伝わって約1300年、消えそうで消えないロウソクの火。
 消えそうで消えないもの、それはきっと、私たちが「消えてほしくない」と心のどこかで願っているものなのだろう。

 虫の音を聴きながら―

 (新聞掲載日 2018年10月12日)