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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

ほろ苦い春

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 趣味の農園の片隅に、フキノトウが小さな頭を出した。凍てつく大地に、やわらかな緑の蕾。ちさき力持ち五つばかりいただいて、ふき味噌を作る。
 
フキノトウは刻む尻から切り口が黒く変色してくるので、下準備を済ませ、火を点けてから刻み始める。雪平から菜種油の香りが立ち始めるころ、刻み上がったフキノトウを素早く投入する。蕾のうちは灰汁(あく)も少ないので、下茹でなどせず、ほろ苦さも香りも丸ごといただく。大人の味だ。
 
人間の舌には味蕾(みらい)という味を感じるセンサーがたくさんついていて、それは子どもの頃に発達し、ある時期を過ぎると減少する、大人になるとその数は子どもの頃の半分以下になってしまう、という話を聞いたことがある。
 
大人の味なんて気取っているが、苦いものが食べられなかった子どもの頃より、単に味覚が鈍感になっただけのことじゃないのか。

味覚のメカニズムも気になるところだが、ゆっくりはしていられない。フキノトウ全体に油が行き渡ったら、味噌、砂糖、みりんを入れ、木べらで丁寧に混ぜながら水分を飛ばす。鍋底が見え始めたら出来上がり。ほろ苦い早春の香りが家中に立ち込める。

 冬眠から目覚めた熊が最初に口にするのはフキノトウだそうだ。春一番に顔を出すフキノトウやタラの芽など、独特の苦みや強い香りを山野に自生する有する食べられる植物には、自然界に生きる動物が冬の間に体内に溜め込んだ老廃物や毒素、脂肪などを排出するのに有効な成分をたっぷり含んでいるという。自然の摂理はすごい。
 
我々人間も自然界に生きる動物だ。冬のなまった体が一番求めているものは、ほろ苦い早春の山菜なのかもしれない。

 小雪舞う二月の京都、もう何十年も昔のことである。音楽棟の一室では、三回生後期の声楽実技テストが行われていた。
 
木造校舎の教室の中では石油ストーブが激しく炎を揺らし、廊下の寒さと打って変わって息苦しいほど暑い。居並ぶ先生方に深く一礼をすると、一瞬目がくらんだ。
 
ピアニストが刻む六つの和音に続いて、わたしは静かに歌い出した。
 
歌曲「夢のあとに」、フランスの作曲家ガブリエル・フォーレの代表作である。幻想的で悲哀を帯びた旋律は、チェロなど他の楽器で奏でられることも多い。題名にピンと来なくとも、恐らくどこかでこの美しい旋律を耳にされていることだろう。

 物語は夢の中。夢で出会った女性との燃えるような恋の喜びも、夢覚めて幻と化してしまう。終始淡々と刻まれるピアノの和音は、過ぎ去る時のごとく、ノスタルジックに色めきながら流れていく。そして、男の嘆き声だけが、神秘の夜の中に虚しく響き渡る・・・響き渡るはずだった。しかし、その時、男が声をあげることはなかった。
 
突然、電源が落ちたようにわたしの頭の中は真っ暗闇になった。全く歌詞が出てこない。少し前から歌い直してみるが、闇は深まるばかり。三度目歌い直そうとしたとき、「もういいです!」と恩師が険しい声で言い放った。

 長い夢のあとに熊が口にするフキノトウの苦さはいかほどのものなのだろうか。わたしが夢のあとに味わった苦さはあまりにも強烈で、あの出来事はずっとわたしを苦しめ続ける。本番が近くなると決まって夢にうなされ、恩師の険しい声で目が覚める。

 あのとき、「夢のあとに」を心の奥底に仕舞い込んでしまったせいで、わたしは未だに夢の中を彷徨っている。

 冬季オリンピックが開幕した。転んでも怪我をしても、その苦さを糧に、より強くなってまた戻って来る、氷上を舞う若きアスリートたちのまぶしい姿が、わたしの心を動かす。長い冬を眠り続けていた動物を目覚めさせるような、凍てつく大地に草木を芽吹かせるような、自然の摂理にも似た力が「目覚めよ」と、わたしを揺さぶる。
 
ちょっと長く眠り過ぎたようだ。歌ってみよう、もう一度あの歌を。天国の恩師に届くように。

 この春にはうんと苦みを盛って…。

 (新聞掲載日 2018年2月9日)


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土の年

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 その柔らかな革靴は、内側がファーでおおわれ、履き口にあしらわれたミンクファーが、友人の足首を温かく包み込んでいた。
 
車を運転しない彼女は、暑かろうが寒かろうが、雨であろうが雪であろうが、どこへ行くのもてくてくと歩いて行く。遠く離れた地で独り住まうそんな母を想う、娘さんからのお誕生日プレゼントである。

 「今年は車に頼らない」―そう言い切った舌の根も乾かぬうちに、防寒着や傘代わりに車を使おうとする自分と葛藤の日々である。
 
お昼を過ぎて奮い立って家を出た。寒いはずだ。道端の畑にはまだ白いものが残っている。凍てつく土に霜枯れの大根一本、その傍らで土を耕す人に尋ねた。
 
天地返しという作業だそうだ。厳冬の季節に、土の表層と深層を入れ替えることで、土中の病原菌を死滅させたり、雑草の根を寒風にさらして枯れさせたり、土を柔らかくする効果があるという。薬に頼らない農作業は、高齢者にはきつそうだ。

 掘り返された土の上にいた太いミミズが、夜になってもまだ頭の中でまだ身をくねらせている。ダーウィンはこのミミズが土を耕し、団粒糞で肥沃な土を作ることを発見した。土壌学者でもあった彼は、40年余りかけてミミズと土の実験を行い、ミミズはあらゆる生き物の中で最も重要な役割を果たしている、地球には無くてはならない生き物である、と発表した。
 
いよいよミミズには頑張ってもらわねばならない。

 

武蔵野の草のさまざま
わが庭の土やはらげて
おほしたてきつ

 1962(昭和37)年の「歌会始」での昭和天皇のお歌である。この年のお題は「土」であった。
 
この時、日本は2年後に東京オリンピック開催を控えていた。交通網が整備され、次々と競技施設などが建設され、世は正にオリンピック景気、高度成長期の好景気真ただ中にあった。
 
そんな折の「歌会始」のお題が「土」。経済成長の陰で国土が傷み汚れていくことへの不安、祖国の土への想いが伝わってくる。

  混声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』(大木惇夫作詞/佐藤眞作曲)もまた、この年に誕生した。
 
「農夫と土」「祖国の土」「死の灰」「もぐらもち」「天地の怒り」「地上の祈り」「大地讃頌」の全七章からなるこのカンタータは、人間と土の関わり、土への想い、戦争や原爆の悲惨さ、人間が大地にもたらす悪と大地の怒り、その怒りを鎮める祈り、そして大地への畏敬と感謝の念を滔々と歌っている。
 
『土の歌』が誕生して半世紀、終曲の「大地讃頌」は、合唱コンクールの定番曲として不動の地位を確立した。学生の頃、授業や合唱コンクールで歌ったという人も多いことだろう。
 
新旧の入れ替わりが激しい合唱曲の世界にあり、「大地讃頌」はこれからも若い世代に歌い継がれていく貴重な曲である。

大地に生きる人の子ら
その立つ土に感謝せよ
たたえよ土を
母なる大地を 
(「大地讃頌」より抜粋)

  「大地讃頌」は定番化しても、大地は定番化というわけにはいかない。悪さするモノあれば、形も質も変えていく。
 
なぜ土に感謝するのか、なぜ大地をたたえるのか。リズムや音程や発声などより、はるかに大きな課題を背負って世に生まれてきたこの曲、指導者は心して向き合わねばならない。

 23年前の118日、命を繋ぐ食糧を詰め込んだリュック背負って、わたしは神戸の親戚の家を目指して歩いていた。
 
引き裂かれた大地、波打つアスファルト、壊れたおもちゃのような線路、鳴りやまないサイレンの音、叫び声…世紀末の風景の中を、鎖につながれた奴隷のように、怒る大地に怯えながら歩いていた。
 
あの日、大地の圧倒的な力の前では、人間はアリとなんら変わりないことをわたしは知った。重過ぎる荷が食い込むあの痛みが、今でもふと肩を走ることがある。

  折しも今年は東京オリンピック開催を2年後に控えた年である。世の中はまたオリンピック景気に突入するのだろうか。いや、そちらではない。今年のお題は「土」、土の年にしなければ。足の下の土のことを考える、土の年に!

 (新聞掲載日 2018年1月26日)


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いのちの時間

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 一番乗りの時計が3時を打った。心地よい残響を感じながら手元の時計に目を落とすと、3時には7分ほど早い。
 
古時計だけでも50個はあるだろうか。これが一斉に鳴り出したら、さぞかし…その心配はなかった。100年以上も生きていると、早かったり遅かったり、鳴らなかったり、時計もみな気まぐれになるらしい。
 
3時をとうに過ぎて、鈴(りん)のような透き通る音を三つ打ったのは、推定御年180歳、この店一番のご長老だ。
枚方からの帰り、ちょっと道草。しきりに時間を気にするわたしに「まあゆっくりしていきなさい」とご長老。
 
丸太小屋の長い3時。思いがけない時間をもらった。

 その昔、瀬戸内からやって来た人々や大陸の新しい文化は、大阪湾、淀川、そして支流の天野川を遡り、その上流沿いの磐船街道を通って大和に入ってきたという。河内と大和を結んだ古代のこの街道は、今も大阪と奈良を結ぶ重要な道として現役である。生駒山系の北端、森の中のこの街道沿いに「おじいさんの古時計」はある。
 
30年前、マスター手作りの丸太小屋に、第一号の時計が掛けられた。「僕のひいおじいさんが買ってきた時計で、おそらく130年ぐらい前のものでしょう」とマスター。まさしく「おじいさんの古時計」であるその時計は、今も丸太小屋の真ん中で時を刻んでいる。
 
そう、この時計はおじいさんが天国に昇っても止まらなかったのだ。

  歌でお馴染みの『大きな古時計』は、アメリカの作曲家ヘンリー・クレイ・ワークが、旅先のホテルの主人から聞いたエピソードにインスピレーションを得て作ったもの。発表されるや否や大ヒットとなった。1876年、アメリカが独立100周年に沸く年のことである。

大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計

 この歌が日本に流れたのは1962年のこと、たちまち国民の間に浸透していった。
 
言語の違い、字数制限に縛られる中、原詞の雰囲気をそのままに、あの名訳をメロディにはめ込んで見せたは、番組構成作家として活躍していた保富康午である。

百年休まずにチクタクチクタク
  おじいさんといっしょにチクタクチクタク

 おじいさんが百歳まで生きたことを誰が疑っただろう。ところが違ったのだ。原詞で「90年」となっていたものを、響きが悪いからと、保富が「百年」に置き換えたのだ。
 
日本にやって来て、思いがけず10年のいのちをもらったおじいさんだったが、やはりお別れの時はやって来た。

真夜中にベルが鳴った、おじいさんの時計
 
お別れの時が来たのをみなに教えたのさ
    天国に昇るおじいさん、時計ともお別れ
    今はもう動かないその時計

 昨年、105歳で亡くなられた聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が、生涯を通して子どもたちに向けてされていた「いのちの授業」という講演がある。
「いのちってなんでしょう?そう、生きているということですね。では、生きているとはどういうことだと思いますか?そして、いのちはどこにあると思いますか?」こうして先生の授業は始まる。
 
「いのちはきみたちのもっている時間、生きていく時間、それが、きみたちのいのちです。いのちは一日一日の時間の中にあります」子どもたちは目を丸くして聴いている。
 
「いのちを無駄にしないということは、時間を無駄にしないということ。昨日から今日までの一日で、自分の時間をほかの人のためにどれくらい使いましたか?きみたちの時間を、きみたちは自分のためにだけ使っていませんか?」大人たちも耳が痛い。
 
そして、先生はこう締めくくられた。
「わたしの時間は残り少なくなってきましたが、自分の時間をほかの人のために使って、精一杯生きたいと思います」
 
新しい年の初めに、先生95歳の時の言葉が思い出される。

 「チッチッチッチッ…」、森のいのちの鼓動であるかのように時を刻む時計の音が、一瞬、自分のいのちの鼓動と重なった。
限られたいのちの時間を精一杯生きよう。もっと大切に、もっと丁寧に、そして、だれかのために…。

 (新聞掲載日 2018年1月12日)


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岸辺にて

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 小春日和の休日を楽しむ家族連れ、ジョギングをする人、のどかな風景が広がる河川敷。その向こうに見える林立する高層ビルは、近年の開発で豹変する武蔵小杉の街である。
 
多摩川橋梁を走り抜ける新幹線の車窓から見たこの一瞬の風景が、妙に心に残った。

 ちょうど40年前、『岸辺のアルバム』というTVドラマがあった。山田太一が原作・脚本を手がけたTV史に残る不朽の名作といわれる作品である。
 
番組のオープニングには、台風で氾濫する多摩川に崩壊した民家が流されていく実際の映像が使われていた。この災害からヒントを得て『岸辺のアルバム』は生まれたのだという。
 
淡い水彩画を連想させるタイトルとは裏腹に、ドラマはどろどろとした人間模様を描いていく。家庭を顧みない仕事人間の夫、それぞれ好き勝手なことをしている長女と長男。孤立する家族の狭間で、妻は他の男性と一線を越えてしまう。
 
「一線を越える」など今では珍しくもない筋書きであるが、その当時としては、衝撃的な展開を見せるホームドラマに、毎週釘付けになっていたことを思い出す。今でも、ドラマの主題歌ジャニス・イアンの『Will You Dance?』 を耳にすると、何やら胸がざわざわとしてくる。

『岸辺のアルバム』を振り返って山田太一はこう語る。
「幸福の条件だと思っていたものが、ひとつひとつ満たされていくと、果たしてそれは僕らが本当に願っていたものだったのだろうかという気がしてきたのです」
 
あのドラマの中の家族は、澱(おり)を溜め込んだ戦後社会の象徴だという。一見幸せそうな家庭に知らず知らずのうちに蓄積される澱。ある日、その澱は、家族が営々として築き上げてきたモノ、欲を満たしてきたモノ、何もかもを巻き込んで一挙に溢れだし、家庭を崩壊し、家ごと川の濁流にのみ込まれてしまう。
 
あのドラマが、社会の在り方に警鐘を鳴らしたのは戦後32年目のこと。あれから40年の月日が流れた。果たしてあの鐘で、社会の流れは少しでも変わったのだろうか。

 ゴミが有料化になった地域に住む友人たちは、異口同音にこう言う。「モノを買うことに慎重になった」と。私のように、溜め込んだモノを処分するのに何度も痛い思いをした女性たちは、「もう軽はずみにモノは買うまい」と決心している。
 
「国民の購買意欲を高める」と政府は気やすく言われるが、国民は政府の方々が思われる以上に「買う」ことに慎重になっている。それは、老後が不安だからお金を使わないなどという理由だけではない。多くの人が、質の良い、数少ないモノの中で、快適な暮らしをしたいと願うようになってきたからだ。
 
買っては捨てるという時代は間もなく終焉を迎えるだろう。安く買えても、捨てるのにお金がかかるのではたまらない。それどころか、捨てたものが自然を破壊するのだから事態はもっと深刻だ。

 インターネットで簡単に手に入るモノの価値も下がるだろう。例えばお土産や贈りもの。全国どこからでも、誰でも簡単に手に入れられるものを、わざわざ選びたくはない。
 
人々の興味は、簡単に手に入るものから、簡単には手に入らないものへ、みんながやっていることから、みんながやらない自分らしいことへと移り変わってきている。
 
社会の流れの中で見失ってしまったモノ、うっかり手放してしまった大切なモノに、多くの人が気づき始めているのではないだろうか。

 目まぐるしく流れた一年が終わろうとしている。その流れの景観は決して美しいばかりではなかった。淀んだり、ぶつかり合ったり、時に岸をえぐり取るような濁流も見せた。
 
自然の中では、濁流は放っておいても元の穏やかで澄み切った水に戻っていくが、社会の流れはそうはいかない。いつまでも川底を見せないままに、行く先も見えないままに、どんどん流れ続ける。

  流れの岸辺に上がってみよう。ちょっと休けいだ。

「大切なモノがちゃんと見えている?」
 
そう自分に声をかけながら、さあ、家と心の大掃除だ!

(新聞掲載日 2017年12月22日


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最後の真珠

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「おばあちゃんになるよ」
 電話の向こうの息子の顔が目に浮かんだ。もちろん孫が生まれることはうれしい。しかし、幸せそうな我が子の姿が何よりもうれしい。
その夜、久しぶりに本棚の童話の表紙を開いた。

 昔、ある裕福な家に男の子が生まれた。赤ん坊上には、真珠が散りばめられたレースが広げられていた。その真珠は妖精たちがめいめいに持ってきた幸せの贈り物で、それぞれ『健康』『富』『友』『愛』など、人間が欲しいと思うものが詰まっている「幸せの真珠」であった。
 
この家の守り神である家神様は、あと取りの子どもに全ての幸せが与えられてご満悦。ところが、「まだ贈り物を持ってきていない妖精が一人います。最後の真珠が足りません」と、子どもを守る子守りの神様が言う。
 
慌てる家神様を「いつか必ずやってきますよ」と子守りの神様はなだめるが、この家に足りないものがあることが気に入らない家神様は待っていられず、子守りの神様に頼んで、最後の妖精を探しに出かけた。
 
二人の神様が辿り着いたのは町外れのお屋敷。暗い部屋の中では、たった今病気で死んでしまった母親のそばで、父親と子どもたちが泣いていた。
 
「ここには幸せの贈り物を持っている最後の妖精はいませんね」と家神様が言うと、「いいえ、あそこにいますよ」と、子守りの神様は部屋のすみの椅子を指さした。いつも母親が子どもたちを膝に乗せて歌を歌っていた椅子に、見知らぬ女の人が座っている。
 
「あの人が最後の妖精、悲しみ妖精です」と子守りの神様が言うと、悲しみの妖精の目からひとしずくの涙がこぼれ落ち、涙の粒はみるみるうちに七色に輝く真珠になった。
 
「これは悲しみの真珠です。人は悲しみを知ると本当の幸せがわかるようになり、自分にも他の人にも優しくしてあげられるのです。その人の魂を天国に導いてくれる、人生になくてはならない最後の真珠です」
 
そう説明すると、子守りの神様は「悲しみの真珠」を手に乗せ、家神様と共に子どもの眠る家へと帰っていった。

 これは、デンマークの童謡作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『最後の真珠』という物語である。200話余りもあるアンデルセンの童話の中でも、あまり知られていない物語であるが、私はとても好きなお話の一つだ。

 貧しい靴屋の子として生まれたアンデルセンが、「物語の王様」になるまでを描いた劇団四季のミュージカル『アンデルセン』が隣町の木津川市にやってきた。
 
アンデルセンの周りは、目を輝かせて彼の話を聴く子どもたちでいつもあふれていた。彼は、貧しさや叶わぬ恋など、自分の人生のほろ苦さを言葉に乗せ、『親指姫』『みにくいアヒルの子』『人魚姫』『裸の王様』『マッチ売りの少女』などの、今も愛され続ける美しい物語を生み出した。アンデルセンの物語はどれも、必ずどこかで「悲しみの真珠」がやさしい光を放っていて、それは、人々の心にあたたかな火を灯してくれる。

 真珠は、古来より強い霊力があり、健康、長寿、富、円満などの幸せをもたらすものとされてきた。家族や友など、大切な人に対する愛情の象徴である一方、「月の涙」などとも呼ばれ、涙の象徴でもある。真珠がそうであるように、幸せと涙は表裏一体なのだろう。

 ミュージカルの帰り道、ふとあの作曲家のことが頭をよぎった。そういえば彼は、ちょうどアンデルセンが生まれたころから耳が聴こえなくなり始めた。
 
聴力を失うという、作曲家にもたらされたとてつもなく大きな「悲しみの真珠」。彼は己に与えられたその「最後の真珠」で、九番目にして最後の交響曲、前代未聞の音楽を書き上げた。その最終章の「歓喜の歌」で、感謝の念と永遠の平和を高らかに歌い、そして、ベートーヴェンは人生の幕を引いた。

 「平成」の時代もいよいよ「最後の真珠」の出番が近くなった。
 
どうかこの時代の幕引きには、平和の鐘が鳴り響く中で、壮大な「歓喜の歌」がとどろきますように。

 (新聞掲載日 2017年12月8日)


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2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 空の青に鮮やかに映える銀杏並樹、正面の洋風の建物が今年で87年目を迎える天理図書館である。今も創設当初のまま使われているその誇り高き佇まいが、色を深める晩秋のキャンパスに溶け込んでいる。
 歴史を刻む重い木の扉の向こうでは、シャンデリアの灯りが、手入れの行き届いた館内のいたるところに、品のある光沢を与えている。200万冊の蔵書、国宝・重要文化財などの貴重書、先人たちが遺してくれた知の宝物に学び、大事に守り継いできた、たくさんの「手」を感じずにはおられない。

 夏目漱石生誕百五十年を記念して、『三四郎』の自筆原稿など、館が所蔵する漱石に関する資料を展示していると知りやって来た。
 漱石の肉筆は、活字では得られない人間漱石の体温を伝えて来る。学生時代に知り合った正岡子規と交わした手紙に目が留まった。正倉院展で見た1300年前の書簡ではない。若き二人の男子がこの筆文字の手紙をやりとりしていたのは、100年ほど前のことである。
 わずかの間に、我々は筆どころかペンさえも持たなくなった。この変化の速度はいよいよ加速し、あと10年もすれば、我々の半分がAI(artificial intelligence ―人工知能)に仕事を奪われるかもしれないそうだ。
 すでに我々の暮らしは、パソコンや携帯電話なしでは考えられなくなっている。本を開かなくても賢い秘書が何でもすぐに教えてくれる。ペンを持たなくなったのも、筆まめな代筆者に、ペンを持つ機会を奪われているのだろう。

 「手わろき人の、はばからず文書き散らすはよし。見苦しとて、人に書かするは、うるさし」(字の下手な人が、気にしないで手紙などをどんどん書くことはよいことである。字が下手だからといって、他人に代筆させるのはよくない)
 吉田兼好が『徒然草』の中でこう語ったのは700年近くも昔、鎌倉時代のことである。
 コンピューターに代筆させながら、年賀状を出す文化を守り続けている我々であるが、果たして意味があるのだろうか。毎年この時期になると考えてしまう。
 より便利に、より手軽になっていく中で、我々は、大事なものを失っていくようで空恐ろしい気がする。

 ポストの前で、母から託った葉書の字が目に入った。墨の香が微かに残る流麗な文字に、母の「手」が目に浮かんだ。
 私が物心ついたころから、母は書道を教えていた。何年か前のこと、母が「もう教室を辞める」と言い出した。半世紀近く続けてきたこと、淋しくなるだろうとは思ったが、私にとってはさほど大きな問題ではなかった。母からは色んなことを手習いしたが、書道だけはなぜか避けてきた。お陰で未だに筆もまともに持てない娘である。
 それからしばらくして、お手本や道具類を、長年母のもとに通っておられたお弟子さんに全部譲ったと聞かされた。母が長年大事に使ってきた道具だ。大事に使ってくださる方に受け継いでもらうのは賢明な選択である。道具たちも喜んでいるだろう。
 母の傍らにはいつも硯箱があり、母は日常的に何でも筆で字を書いていた。いくらでもチャンスはあったのに、なぜ素直に書を教わらなかったのか。なぜ母のその「手」を受け継ごうとしなかったのか。
 ポストの前に立ちすくみ、深い後悔に涙した、あの日のことを思い出していた。

 母の葉書をポストに投函し、その足でフジコ・ヘミングのコンサートに向かった。
 世界中のピアノで鐘(『ラ・カンパネラ』)を鳴らしてきたその85歳の「手」が、その日、なら百年会館のピアノで鐘を鳴らした。鈴の音を彷彿させる柔らかな鐘の音が、ファンで埋め尽くされた大ホールに響き渡った。

昨今は、ピアノ演奏においてもメカニックな技術革新が進んでいる。より精密で、より高速な演奏技術の競い合いが過熱する中、そんなものどこ吹く風、彼女の演奏は人間味にあふれ、彼女のコンサートは常に聴衆で溢れ、CDも百万枚単位で売れると言う。不況の影を落とすクラシックコンサートの中で脅威の存在である。

 AIに奪われるもの、奪われないもの、二分するその運命の鍵は、「手」が握っているのかもしれない。

(新聞掲載日 2017年11月24日)

 


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雲の裏側

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 待ち合わせ場所の山の麓で、地元大野の下野さんの軽トラックに乗り換え、夜明けの山頂を目指した。「絶好の条件ですよ」と下野さん。辺りはまだ真っ暗、夜中の雨も上がりぐっと冷え込んでいる。
 
山に入ると、車のライトが台風21号の無残な爪痕を照らし出した。散乱する木の枝や葉っぱが林道を覆い隠し、根こそぎなぎ倒された木が行く手を阻む。その度に下野さんは車から飛び降りると、ノコギリで手際よく幹を伐り、枝を払い、軽トラック一台分のゲートを突っ切った。ジェットコースターさながらの崖っぷちを走っているらしいが、幸か不幸か、立ち込める霧が遥か谷底を隠してくれている。

 この時期、美山町(京都府南丹市)周辺の山々では気象条件により雲海が見られるという。雲海に昇る朝日を見に来ないかと友人に誘われ、前泊で美山町にやってきた。
 
きぐすりや旅館にお世話になるのは、何年か前、美山町が雪に埋もれた厳寒の新年以来である。朝が早いので夜のうちに会計を済ませておいたのだが、午前4時過ぎ、出発の準備をしていると、女将さんが部屋におにぎりを届けてくださった。この町はいつ訪れてもあたたかい。

 崖の横で車が停車した。いつの間にか霧も晴れすっかり明るくなっている。「この先は歩いて登ります。すぐそこです、急ぎましょう」崖の上がこの山の頂上標高約650mで、そこから雲海に昇る朝日を一望することができるのだと言う。一体どんな風景が待っているというのか、我ながら驚きの底力で崖を這いあがる。
「ああ、あの木が憎い!」
 
前を行く下野さんの声が聞こえた。道をふさいでいた木のせいで、わずかに日の出の瞬間に間に合わなかった。朝日はすでに雲海の上に顔を出していた。

 実は私は日の出にこだわってはいなかった。雲の裏側が見たかったのだ。昇る日に薔薇色に染まる白銀の大海原。希望に満ち溢れる、一日の始まりの雲の裏側を見せてもらった。
 
Every cloud has a silver lining.(どんな雲もみな銀の裏地をもっている)
 
暗雲であろうと、その裏側では太陽が照り銀色に輝いている、つまり、どんな困難にも必ず良いことが隠れているから決して諦めてはいけない、という諺である。いかにも曇りの日が多いイギリスらしい発想である。

 16世紀のイングランド王国にトマス・タリスという作曲家がいた。ヘンリー7世からエリザベス1世に至る、英国史上もっとも騒然たる宗教改革の時代を生き抜いた作曲家である。彼が残した多数の教会典礼音楽の中に「40声のモテット『我、汝の他に望みなし』」という声楽曲がある。三部合唱、四部合唱という表現に置き換えると、四十部合唱ということになる。40のパートによるアカペラの合唱曲である。聴取の限界を超えるあり得ない声の絡み合い、重なり合いが、この世のものとは思えない荘厳な響きを生み出している。人間の声に勝るものなしというところだろうか。目を閉じて聴いていると、中世の大聖堂の中に佇んでいるような錯覚に陥る。

 数年前のこと、台風の接近で恐らく欠航だろうという天候の中、飛行機が飛び立ったことがあった。黒い雲の中に突入すると、上昇しているのか下降しているのか分からないほど機体が上下左右に激しく揺れだした。窓の外は真っ白で何も見えない。祈るほかなかった。
 
ようやく揺れが治まったかと思うと、窓から眩しい光が差し込んできた。眼下には一面の白銀の雲、波打つ雲が西天の太陽に黄金に輝いている。その瞬間だった。どこからかこのモテットが聴こえてきた。折り重なるビロードのような天使たちの声が、数多の人間の辛苦を包み込むように静かに響き渡る。
 
嵐の雲の裏側の、光り輝く楽園でのこと…

  正倉院展の帰り、少し遠回りして飛火野から高畑町の方へと歩いた。途中、夕景に浮かび上がる浮見堂にカメラを向けたとき、西の空へと帯状に伸びるうろこ雲が目に飛び込んできた。
 
今ごろ雲の裏側では、羊たちが群れ成してねぐらへと向かっていることだろう。

 (新聞掲載日 2017年11月10日)


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栗の御馳走

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  実家の台所に火が点いた。ガスレンジの炎が踊り、鍋は賑やかに音を立て、炊飯器は勢いよく水蒸気を吹き上げている。この匂いは栗ご飯だ。
 
父の葬儀から十日目、毅然と蝶に結ばれた母の背中のエプロンの紐が「もう大丈夫」と告げている。
 
ほどなく、真鋳の両手鍋を抱えて母が居間に現れた。鍋の中では、湯上りの栗坊たちが、気持ちよさそうに湯気を上げている。栗は子どもの頃からの大好物である。栗のご馳走を食べる度に、この季節に生まれて良かったと思ったものだ。年中食べられる外国産の甘い栗とは違い、この時期にしか食べられない、ほんのり甘いほくほくの栗が、今でも私の秋一番のご馳走である。

 瓜食()めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲(しぬ)はぬ
いづくより来りしものそ目交(まなかひ)に もとなかかりて安眠(やすい)しなさぬ

 「瓜を食べれば子どものことが思われ、栗を食べればいっそう偲ばれる。いったい子どもとは、どこからやってきたのだろうか、目の前にちらついて安眠させてくれない」万葉集(5)に収められている山上憶良の歌である。

 728年頃、憶良は、大陸との外交の玄関口として活気にあふれていた筑前の大宰府に赴任する。そこで律令体制下の重圧にあえぐ民衆の生活を目の当たりにした憶良は、貧困や老い、子への愛などをたくさん歌に詠んだ。万葉集の中でも異彩を放つ、人生の哀歓を詠う憶良の歌は、遥か千年の時を越えて、我々の心に響く。
 
憶良はとても子煩悩だったそうだ。確かにこの歌からは、子を思う親の深い愛が伝わって来る。しかしどうだろう。憶良が大宰府に赴任したのは67歳のころ、幼い子を家に残してきたとも思えない。ある時、栗を食べた憶良は、ふと自分の子どものころを思い出し、親を偲んで詠ったのではないだろうか。
 
親思う心と子思う心は表裏一体であることを改めて思う。

 1838年、シューマンは『子供の情景』というピアノ曲集を書いた。繊細な子供の心の動き、子どもの日常の様子を、スケッチ画のようにピアノで描写した、シューマンの才能が遺憾なく発揮されている傑作である。
 
子ども好きのシューマンは、愛妻クララとの間に8人の子供に恵まれた。しかし、シューマンが結婚したのは1840年のこと、ここにスケッチされているのは、彼の子どもたちではない。
 
結婚する前に、シューマンはクララに宛てた手紙の中にこんなことを書いている。「以前あなたは、ぼくがときどき子どものように見えると書いたことがありましたね。これは、そのあなたの言葉への、音楽による返事のようなものです」自分自身が子どもに戻って、30曲ほどのおどけた小さな曲を書き、その中から13曲を選んで「子供の情景」という題名をつけたのだと説明した。つまりこの音楽が描く情景は、大人のシューマンが子どもの頃の心情を思い出しながら描いた、ノスタルジックな子どもの世界である。
 
13曲の中心に置かれた7番の『トロイメライ』は、「夢」と訳されることが多いが、Träumereiとはドイツ語で「夢想に耽ること」というような意味で、子どもが夢を見ている情景…という単純なものではないのだ。
 
シューマンが遺した全ての曲の中で恐らく最も親しまれているこの曲、哀愁を帯びた極めて美しい旋律を歌う、3分にも満たないこの小さな曲の中に、音楽を愛した母親と過ごした子どもの頃のシューマンの魂が、眠っているような気がする。

 昨日の午後、雨が上がったから栗を拾いに行こうと主人が言い出した。主人が趣味で始めた畑の奥の栗の木が、たくさん実を落としているそうだ。長靴着用とのこと、一体どんなところなのだろう。
 
棚田の石垣をよじ登り、長雨でぬかるんだ畦道をおぼつかない足取りで歩いていると、「あそこ」と主人が指を差した。目を上げると、奥の林から一本の大きな木が田んぼの上に張り出している。
 
雨に浸かった刈田の中で、泥だらけの栗拾い。帰り道、丸々太った栗を選んで母に届けた。

 今日は、親思う子思う、栗のご馳走の誕生日。

(新聞掲載日 2017年10月27日)

 


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琥珀の旅の風景

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 天王山の懐、こんこんと名水の湧き出る豊かな自然の中に、日本のウイスキーの故郷はある。
 
この日、私が蒸留所で目にしたのは、懐かしい父愛飲の琥珀のボトル、そして一滴の水がウイスキーに生まれ変わるまでの、琥珀の旅の風景である。
 
生まれたばかりのウイスキーは無色透明で、辛くて美味しいものではない。樽の中で長い眠りにつくことにより、あの味わい深い琥珀色のウイスキーが誕生する。しかし琥珀色の謎は未だに解明し切れていないそうだ。温度や湿度、木の成分などの神のなせる技である。この先も我々に解明は難しいだろう。

 奈良の古墳から多く出土される勾玉、なつめ玉などの琥珀は、その多くが岩手県久慈地方のものであることが解明されたという。久慈では、古墳時代にはすでに琥珀が採掘され、はるか奈良まで運ばれていたのだ。ロマンあふれる琥珀の旅である。

 琥珀は、数千万年から数億年前に地上で繁茂していた樹木の樹脂が土砂などに埋もれ化石化したものである。8500万年前の白亜紀、恐竜時代の地層から発掘される久慈の琥珀の中には、太古の時代に生きていた生物が閉じ込められていることがある。自然界の偶然と摂理がもたらした地球からの贈り物は、はるか時空を超え、私たちを太古の世界へと誘う。

 今夜は無性に「コンソメスープの名人」が読みたくなった。『人質の朗読会』(小川洋子著)の第五夜、人質のひとりである男性が、子供のころの出来事を朗読する行である。
 
一人で留守番することになった八歳の少年のところに、隣の娘さんが、ガスレンジが故障したので三時間ばかり台所を貸して欲しいとやってくる。死にそうな母親に飲ませるコンソメスープを作りたいのだという。
 
少年の家の台所に、調理道具や食材が運び込まれてきた。調理道具はどれも清潔感にあふれ、小さな傷やへこみは使い手の体温をとどめている。少年が何よりも驚いたのは、娘さんの貧弱さとは不釣り合いな、血の気も瑞々しい牛肉の塊だった。バットにずっしりと横たわる肉塊は、精気に満ち、艶っぽくさえあった。
 
コンソメスープ作りが始まる。娘さんの指の動き、生き物のように変貌していく肉塊、鍋の中のうごめき…目で見る情景を超える描写に、体中の感覚が研ぎ澄まされてくるのがわかる。
 
布巾を通して一滴一滴落ちる琥珀のしずく。

 「ひたひたという音ともいえないほどの気配がホウロウの底から立ち上がり、僕と彼女の間を漂います。そしてそのコンソメスープの色といったら…」
 
この琥珀のしずくが、私を古い記憶の中へと誘った。

 その日、父は何時間も台所に立っていた。お鍋や調理道具が台所にひしめき合い、それらは父の鼻歌を拒むように、時おり大きな音を立てた。
 
その夜、食卓に出てきたのは、食パンの欠片が浮いた琥珀色のスープ、それ一品だけであった。そのスープがどんな味だったのか、どうしても思い出せない。母が病気だったのか、私は小学何年生ぐらいだったのか、その記憶も定かではないが、父の手料理を食べたのは、後にも先にもこれ一回きりであることだけは間違いない。
 
もしかしたら、父も肉塊の脂肪を丁寧にそぎ落とし、切り刻み、全身の力でこね、額に汗を浮かべながらあのスープを作ったのだろうか。真実は琥珀の中に閉じ込められ未だ謎で、この謎はもう解かれることはない。

 「まもなく東のそらが黄ばらのやうに光り、琥珀いろにかがやき、黄金に燃えだしました」(『水仙月の四日』より)
 
「正午の管楽よりもしげく琥珀のかけらがそそぐとき」(心象スケッチ『春と修羅』より)
 
宮沢賢治が、故郷の琥珀の輝きをどれほど愛していたかは、その作品に窺い見ることができる。

 その音楽に、時おり琥珀の輝きを感じるのは、世界最大の琥珀産出国、ポーランドの生まれのショパンもまた、祖国の琥珀の輝きを愛していたのかもわからない。

 水割りとコンソメスープと「ノクターン第20嬰ハ短調遺作」、
 
今宵、琥珀の旅の風景の中で…

(新聞掲載日 2017年10月13日)


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間の遊び

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 暑い盛りの活動を終え、葉の緑が徐々に薄らぎ始めた。昼間、田んぼの脇道で、稲たちの安堵のため息を聴いたような気がした。緑から黄金に色を移すまでの束の間、稲たちもほっと一息ついているのだろう。雀たちも、忙しい季節を前に、仲間たちと電線で羽を休ませている。 
 
夏と秋の狭間に、夏でも秋でもない、一瞬、時の流れが止まったような「間」の季節が存在するように思う。

  少し前に、北海道で教師をしている友人が送ってくれた画像が気になって、今ごろまた見ている。広大な北の大地が見せる地平線は何度見ても圧巻…いや、違う。そうか「秋起こし」だ。9月の初め、北の大地はすでに冬支度の季節を迎えていたのだ。
 
トラクターが土を起こし、土の匂い〉
 
画像に添えられている友人の言葉から漂う土の香り。一筆の便りから、力強い『土の歌』(大木敦夫 作詞/佐藤眞 作曲)が聴こえてくる。最終章の「大地讃頌」へと誘う、土への感謝の念に満ち溢れた、あの壮大な合唱曲が聴こえてくる。

「これって、秋起こし?」何とも間の悪い反応である。やはり秋耕、北海道では「秋起こし」と呼ばれる農作業の風景であった。

 季節のお便りへの反応が遅れたそのお詫びの想いも込めて(それを読まれないよう注意深く)、「秋起こし」について教えて欲しいと申し出た。

 「よい土壌(人間が農業のために整えた環境)とは、個体(土の粒子)と液体(根が吸い上げる水分)、気体(空気、土中の空間)のバランスが保たれている状態。大規模な機械化農業で、畑の表面を重機が通ると、その重圧で畑が踏みつけられて、返って良くないと言われ…」
 予想外の展開、解説の難易度が高い。

 「土中の水分について、雑巾を例えに説明すると…」さすが先生。頼りない反応に、生徒のレベルを読んできた。
 少しの間メールが途絶えたかと思うと、今度は小学生の社会の授業で配られるような、挿絵付きの手書きプリントの画像が送られてきた。このわずかの合間にこれを書いたのだろうか。ペン先をインクに浸けている絵の横には「ここに隙間があるからインクを吸い上げる」とある。矢印が「ここ」と差しているのは、スリットと呼ばれるペン先の隙間。可愛らしいトラクターが、畑に重圧をかけながらぽこぽこと走っている。手間を惜しまない、友人の温かい人柄が垣間見える。
 
「耕すことで土壌の中に植物の生育に必要な適度な隙間を作り、健全な地下社会を導くきっかけを作る。秋起こしの効果の究極は適度な隙間作り。大切なのは隙間!」
 長時間にわたる「秋起こし」の授業は、こう締めくくられた。居間の時計の針は、すでに深夜
12時を回っていた。

 さて、ここまでに「間」、そして「間」のつく単語を、私は何回使っただろう。意識すればまだまだ使うことができる。日本語は「間」だらけなのだ。日本人にとっていかに「間」が重要か、それは、「間抜け」「間違い」「間が悪い」「間延び」「鈍間」こんな言葉が教えてくれる。

 西洋音楽では、音が鳴っていないところは休符、即ち「休み」という形で表現される。しかし、能や雅楽など日本の伝統音楽では、音が鳴っていないところでも決して「休み」ではない。そこでは無音が奏でられている。一瞬、音が鳴り止む、その「間」の取り方が悪いと「間が悪い」ということになる。言葉のないところに言葉が感じられないと、「行間が読めない」「空気が読めない」などと言われる。
 
書や山水画の余白も、枯山水の白砂の空間も同じ。一見何もない「間」の部分がむしろ大切、日本人のこの「間」の概念こそが「和風」なのかもしれない。
 
あえて鳴らさない、あえて書かない、あえて置かない、あえて言わないことで生まれる「間」、そこでは一体何が起こっているのだろう。なぜわざわざハードルを上げるのか、なぜそれを越えられるのか、我々の中に脈々と受け継がれている「間」の哲学のことを改めて想う。

 「間の遊び」(あいのすさび)、読むのも難しいこの古い日本語も、何となくわかる自分がいる。

(新聞掲載日 2017年9月22日)

 

 

 

 

 


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贈り物

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「イチジクの木を植えました」
 
姉のように慕っている友人から一行のメールが届いた。

 子どものころに住んでいた家にイチジクの木があった。ちょうどこの季節になるとたくさんの甘い実をつけた。イチジクの木から贈り物が届くこの季節、晩夏が好きな理由のひとつである。
 
木に登って実を収穫するのは私の役目で、母が「右、右!もう少し上!」と縁側から指示を出した。木に登ると、大きな葉っぱで実を見失ってしまうからだ。

 友人にイチジクの思い出話をする私は、よほど幸せそうな顔をしていたのだろう。そして、よほど残念な顔をしていたのだろう、我が家の小さな庭にはイチジクの木は植えたくても植えられないと話す私は。

 生駒高山に住むその友人の家は小高い山の上に建ち、斜面を駆け下りるように大きな庭が広がっている。余分な木が伐採され、きれいに雑草が抜き取られた斜面の一角に、そのイチジクの木は植えられていた。
 
「あなたの木だから、いつでも好きな時に自由に実を取ってね。いちいち玄関のベルを鳴らさなくてもいいように、ガレージから入れる場所にしたの。ここを登る時はこの木につかまって…ほら、こういう風に。滑るから足元には気をつけてね」

 まだ膝丈ほどのイチジクの苗木を相手に、収穫時の注意事項を、実演付きで真剣に話す友人の姿がおかしいやら、嬉しいやら、とてつもない贈り物を、私はしかと受け取った。
 
木につかまって斜面を這い上がり、私のイチジクの木によじ登り、美味しい実を収穫するその日まで、足腰を鍛えて長生きしなければならない。

 1840912日、婚礼の前日、ロベルト・シューマンは、新しい歌曲集にミルテの花を添えてクララに贈った。クララと結婚できるロベルトの喜びと、クララへの愛が溢れる、花嫁に贈る歌の花束である。
 
歌曲集『ミルテの花』op.25第一曲目の「献呈」をリストが編曲したピアノ独奏用の『献呈』、鬼才ピアニスト反田恭平のこの日のステージは、この曲で締めくくられた。

 
「反田君」のピアノの熱烈なファンである友人は、半年近く前にこの公演のチケットを入手し、ずっとこの日を待ち焦がれていた。
 
客席の照明が落とされた。いよいよ「反田君」が登場するというその寸前、友人は胸の昂りを抑えるように、「献呈を弾いてくれるといいね」と私の耳元で囁いた。

 プログラムの全てが終わりアンコールへ。アンコール曲を待つ気分は、贈り物の包みを開けるあの時の感覚に似ている。何が出て来るかわからない、アンコール曲こそがファンへの贈り物である。アンコール1曲目、2曲目、そしてラスト、3曲目、出だしの音は正しく『献呈』だった。私は思わず隣の席の友人の顔を見た。
贈り物の価値というものは、受け取る人の心が決めるもの、幸せに満ち溢れる彼女の横顔がそう語っていた。
 
帰り道「私、また明日から頑張って生きていける」と彼女は言う。心待ちにする人の胸を躍らせ、またその余韻で生きる力を与える、何という贈り物だろう。これにはどんな輝きを放つジュエリーも敵うまい。

 この夏、琵琶湖を舞台に描かれた感動の映画、『マザーレイク』が全国公開となった。昨年、滋賀での先行上映で味わったあの感動を、滋賀出身の両親にも味わわせてやることができる、と喜んだのも束の間、上映スケジュールの中に奈良が入っていない。「じゃあ、自分で持ってくるか」冗談のような話が、映画関係者の方々、滋賀や奈良の友人たちのお陰で、まさかの現実となった。

 脳がすっかり子供に戻り、ここ数年、父の心は琵琶湖の見える故郷の風景の中に生きている。父が「帰りたい」と言う家は、奈良の家ではなく、自分が生まれ育った彦根の家のことである。
 
先日、父が救急車で搬送された。頭の隅では覚悟はしていたが、よりによってなぜ今なのか…。
 今日、父の痩せたぬくい手を握って呼びかけた。
 
「お父さん、もうすぐ奈良に琵琶湖が来るからね」

一日限りの奈良の琵琶湖、娘から父への最後の贈り物。
神様、どうかもう少しだけ時間をください…

(新聞掲載日 2017年9月8日)


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シルエット

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 夕闇とは、日没から月の出までの暗さのこと。月の明るさを感じることができた時代に生まれたこの言葉の意味も、月の出を待たずに街の灯が瞬き始める今となっては、空しいものとなってしまった。

 一条通り、法華寺を過ぎた辺りで、目の前の風景が突然開ける。右手に水上池、左手に大極殿、そしてその向こうに朱雀門。広漠としたこの眺めが好きで、特に夕刻の帰りはついこの道を走ってしまう。
 
真夏日の夕暮れ、火照る風景をなだめるように、夕闇がゆっくりと辺りを包み込む。茜色の空に浮き上がる切り絵のような風景に、思わず車を止めて外へ飛び出した。
 
時間が経つほどに、風景は色を奪われ、凹凸を奪われ、ついに輪郭を残すだけの黒く塗りつぶされたシルエットになった。
 
夜の闇に沈みゆく宮廷跡のシルエットに、「咲く花の匂うがごとき」繁栄をみせた平城(なら)の都の終焉の時に思いを馳せながら、帰路についた。

 うた語りの公演で全国を共に歩いてくれたピアニスト木口雄人氏が、留学先のウィーンから一時帰国、昨夜はベートーヴェンの「皇帝」を披露してくれた。 
 
ベートーヴェンは生涯に5曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、中でもこの5番は、最も演奏される機会が多い曲である。第一楽章冒頭、オーケストラとピアノの華麗な対話などは、恐らくどこかで耳にされたことがあるだろう。
 
しかし「皇帝」と言えば、何と言っても静かに流れる第二楽章が際立って美しい。光に満ち溢れる一楽章の幕が下りると、一転、我々は類まれなる仄暗い美の世界に誘われる。
 
一筋の月明かりのごとく登場するピアノの旋律が、人間ベートーヴェンの輪郭をゆっくり描き出す。得も言われぬ神々しさ、そこはかとなく漂うロマンティシズム、夕闇に浮かび上がるそのシルエットは、肉体も言葉も、余計なものが全てそぎ落とされた、ベートーヴェンの魂そのものであるような気がしてならない。
 
作曲家の魂にぴったりと寄り添い、その輪郭をなぞるように、一音一音全身全霊で紡ぎ出される音に、異国の地で日々厳しい修行を積む若者のひたむきな姿が重なり、涙が頬を伝った。

 信貴山の麓、風の神として古くから信仰を集める龍田大社のすぐ近く、長閑な田園風景を借景にひっそりと佇む華倭里(かわり)のギャラリーを訪ねた。
 
迎えてくれたのは、垣本麻希さんのいつもの笑顔、そして、先日見たばかりの夕闇に浮かび上がった平城宮跡のシルエットである。

彼女が切り取った月明かりのシルエットたちは、祈りの都、古都奈良の魅力が仄暗さの中にあることを、改めて教えてくれる。
 
「一日の終わりに、この灯りで、心を癒してもらうことができたら」彼女はそう語る。
 
夜は心落ち着く時間ではあるが、ふと淋しい時間でもある。ともすれば落ち込んで行きそうな心に、そっと寄り添うような灯りを…麻希さんがそんな風に願うのは、彼女もまた、心の闇の淋しさを知っている人だからなのかもわからない。
 
行燈に浮かぶ奈良のシルエットには、つくり手の心のシルエットがそっと折り重ねられている。華倭里の灯りが多くの人々の心を癒してくれる所以である。

 自然がつくるものは大抵、シルエットだけで識別することができる。トマトと桃を間違える人はまずいないだろう。100人のシルエットの中から自分の親を見つけるのに、いくらも時間は要らないだろう。そう、人間だって、シルエットだけでその人を識別することは可能なのだ。シルエットは、シンプルに、正直に、そのものを捉えているから。

 シルエットは、実はルイ15世に仕えた財務大臣ティエンヌ・ド・シルエットという人の名前に由来する。フランスが厳しい財政難の折、シルエットは、人物の記録のための肖像画を、黒い紙を切り抜いたもの変えるなど、とことん無駄を省き、厳しい節約を人々に要求した。

 「俺なんか、いつだって無駄のないシルエットで生きてるのさ」

我が家の黒猫が、スレンダーな体をくねらせながら、悠々と私の前を横切った。

(新聞掲載日 2017年8月25日)


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山は動ぜず

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 青々と広がる田園風景の向こうに、筑波山のお出迎えである。筑波山神社に向かって左が男体山、右が女体山、山頂が二つに分かれたこの山のシルエットが、大和盆地を見下ろす二上山に重なるからだろうか、その稜線が、幼い頃に見た近江富士・三上山に似ているからだろうか、この山にはどこか懐かしさを感じる。

 歌川広重は「名所江戸百景」(1858)119枚の浮世絵の中に、筑波山をたくさん描いている。それはどれも今と変わらぬ形で、変わらぬ所に鎮座している。当たり前のことである。しかし、手前の江戸の風情の豹変ぶりを見るにつけ、全く動じることのない筑波山に、畏敬の念を抱かないではいられない。

 この日、筑波山南麓に広がる研究学園都市に、国土地理院を訪ねた。伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」を食い入るように見ている私に、「山が大切な役割を果たしたのでしょうね。何しろ山は動きませんから」研究員の方が話しかけてこられた。確かに、山々の頂からは無数の線が引かれ、小さな数字や文字が書き込まれている。
 
忠敬は55(1800)にして江戸を出発し、17年かけて全国の海岸線を測量して歩いた。そうして、初めて国土の姿を明らかにしたものが「大日本沿海輿地全図」で、それは現在の地図とほぼ重なり合うというのだから驚きである。

 753年、坊津町秋目浦(鹿児島県)に1隻の船が難破寸前の状態で漂着した。そしてその船から1人の盲目の僧侶がお供の者に手を取られながら浜辺へと降り立った。その名は鑑真、唐において一・二を争う高僧であった。
 
そのころ唐王朝は、高僧の国外流出を防ぐために厳しい規制を敷いていたが、大和朝廷の度重なる要請に鑑真は意を決し、日本への密航を企てた。満足な海図や羅針盤など無かった時代のことである。56歳の僧は、波風まかせの小型帆船で日本への航海に挑んだ。
 
密告、暴風雨などに阻まれること5回、そして6回目、沖縄島を経て屋久島を出たとき、またしても暴風雨に襲われる。その時のことが『過海大師東夷伝』にこう記されている。

 「風雨大いに発し、四方を知らず。午時、浪上に山頂を見る」
航海の目印であった開聞岳の山頂が波間に姿を現したのだ。
 
1回目の失敗から10年目、ついに鑑真は悲願の日本へ上陸、さらに2ヶ月という月日をかけて大和朝廷に入った。志の高い高僧の来日により、乱れ切った日本の仏教界は正しい道へと導かれていったのだ。
 
開聞岳の「かいもん」は「海門」に通じると言われ、太古の昔より薩摩半島の南端に在り、今も海の旅人たちの大切な道標となっている。

 大和の国の学才ある青年・阿倍仲麻呂が16歳で唐に留学生として渡ったのは、鑑真の来日より更に遡る717年のことである。
 
唐では玄宗皇帝に仕え、李白などの著名人と交わる活躍ぶりであったが、51歳の時、皇帝に帰国願を出して帰路につくことにした。
 途中嵐に遭い、安南に漂着。仲麻呂は再び長安に戻り、そのまま祖国の土を踏むことなく、異国の地でその生涯を終えた。
仲麻呂は、唐の空に輝く月に、春日の三笠山にかかる月を想い、故郷を懐かしんだ。

 「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」

  生駒山の裾野から信貴山麓、大和盆地の淵を辿るように走る近鉄生駒線。ローカル線の車窓から見る山の風景を楽しみに、久しぶりにコトコトと王寺に向かった。ところが、次々と立ちはだかる建物で山が思うように見えない。首を伸ばして頑張っていたが、ついに席を立った。大和盆地を抱く山々も、遠く離れないと見えなくなってしまったようだ。

  「あれが耳成山で畝傍山、向こうが香久山。それが葛城山で、これが二上山。あっちが信貴山でその向こうが生駒山」上牧町のマンションの10階に住む友は、次々と山を指さしながら、誇らしげに山の名前を並べた。不動産屋さんにこの部屋に案内されたとき、この風景を見て即決したそうだ、「ここ買います」と。

 そりゃ即決だろう。毎日、額田王きどりで暮らせるのだもの。

(新聞掲載日 2017年8月11日)


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朝顔のドラマ

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  梅雨明けの空に、学校帰りの小学生たちの声が弾んでいる。明日から夏休みか…。私は30年近くも昔の夏休みのことを思い出していた。
 
あの日も一学期の終業式の日だった。2年生ぐらいだったろうか、息子が朝顔の植木鉢を抱えて帰って来た。毎朝、開花した花を数え日誌を付ける、その夏休みの宿題「朝顔の観察」のバトンが、ほどなく母にまわってきた。
 
忙しい朝の余計な仕事に最初は苛立っていたが、一週間もすると、朝15分の朝顔の連続ドラマが待ち遠しくなってくる。一粒の種を巡る生命の神秘、朝顔のドキュメンタリードラマに、次第に惹き込まれていった。

 図書館にも足を運んだ。翌朝に開花を控えた蕾の中では、めしべの柱頭に花粉をこすりつけるようにおしべが伸びる。受粉を終えると、キリリ、キリリとゆっくりそのネジをほどき、日没から約10時間後の黎明の空に、蝶のような色鮮やか花弁を広げる。
 
花の後に出現する緑の実は、生まれたての惑星のようである。無数の惑星は、次第にふくらみ、色を変えながら、その中にまた新しい生命を育む。
 
その夏、私は朝顔のドラマの中に、壮大な宇宙の縮図を見た気がした。

 数日前に目にした色褪せた朝顔の絵が脳裏から離れない。花びらが茶色く変色した一輪の朝顔を囲むように四つの俳句が書かれている。その一つがこれである。

 「朝顔ヤ絵ニカクウチニ萎レケリ」

 正岡子規が、明治3492日に筆を起こし、翌年93日、亡くなる半月前まで絵日記のように毎日綴った『仰臥漫録』の明治34913日付の頁である。
 
親しい人にも見せなかったこの病床の手記は、死を間近に控えた子規の内面、不屈の精神を見せつけている。
 
この頃、子規は寝たきりで、自分で寝返りすら打てなかった。肺は殆ど空洞、体中が腐り所々穴があき、襲いかかる激痛に絶叫、号泣、時には失神、精神錯乱状態に陥ったという。
 
そんな凄まじい日々の中で、誰が訪ねて来たか、何を話したか、何を食べたかなどを、絵と言葉を交差させながら綴っている。食事の記録に見える、病人とは思えない食欲には仰天する。病床から身動きの取れなかった子規にとって、食事は最大の楽しみ、生きている証であったのだろう。
 
親友の画家・中村不折からもらった絵の具で描いたという写生画はどれも、身動きもできない闘病地獄の中から生まれたものとはとても思えない。
 
布団一枚、それが子規に許された世界であった。その小さな世界の中で、子規は亡くなる直前まで、自分の表現を追求し、生きることを楽しむことを辞めなかった。
 
「病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外まで足を延ばして体をくつろぐ事もできない…」(『病牀六尺』より)

 正岡子規生誕150年のこの年に、『仰臥漫録』『病牀六尺』この二冊に触れる機会を与えられた。布団一枚の深遠な宇宙に圧倒され、未だその感動から冷めやらない。
 
明治35917日享年34歳、子規は大勢の仲間や門下生に見送られ旅立った。23600句という俳句、随筆や写生文などは、日本の近代文学に大きな影響を与え、それは後進へと受け継がれ、現代にまで繋がっている。

 ところで、日清戦争従軍中に喀血した子規は、故郷の松山で静養の後、明治2810月、帰京の際に奈良に立ち寄っている。そして、法隆寺の茶店でこの句を詠んだ。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

 十七文字に宿るとてつもない言葉の力。法隆寺の名を広めたのも、柿を奈良の名産品に仕立て上げたのも、この俳句なのではないだろうか。子規は、筆一本で行基さんと互角の奈良貢献をした人…と私は秘かに思っている。

 庭のあちこちから朝顔がハート型の可愛いらしい双葉がのぞかせた。種を撒き忘れたことを後悔していた矢先のことである。零れ落ちた種たちが芽を吹き始めたのだ。種は私のようにうっかり忘れたりはしなかった。
 
今朝、蔓を伸ばし始めたその芽を掘り起こし、植木鉢に移してやった。

  さあ、今年も朝顔の連続ドラマの始まりだ。

(新聞掲載日 2017年7月28日)

 

 

 

 


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願いごと一つ

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「夫(ととう)ひとり養えんで一人前の海女とは言えん」命がけで一家を支えてきたという海女。こんな気概を持つ働き者の海女たちが、漁の安全や大漁などを祈り、古くから信仰してきた石神さん(三重県鳥羽市)。祭神は玉依姫命、女神様である。「女性の願いを一つ叶えてくださる」と伝えられ、今でもお参りする人が後を絶たない。

 石神さんにお参りすることが決まってからの2週間、実に悩ましい日々が続いた。もともと願いごとを書くことが苦手である。ショッピングモールに設置された七夕の短冊一つ書くのにも難儀する。悩んだあげく「家族みんなが健康で過ごせますように」とかわり映えしない。善人然とした、無欲然とした、「よそいき」の私の願いごとは、自由で生き生きとした願いごとの陰に隠れ、あれじゃ神様の目にも止まらないだろう。
 
自分勝手でも、ちっぽけでも無謀でも、人がどう思おうといいじゃないか。自分の願いごとを堂々と願う勇気を持ってみたらどうだ!そう、ゼペットじいさんのように。

 子供のいないゼペットは、自分が作った木の人形を本物の子どもにして欲しいと夜空の星に願う。アニメとは言え、常識では考えられない願いごとが叶う。ゼペットとピノキオが抱き合って喜び合っているとき、コオロギのジミニ―はそっと窓辺に行き、星空を見上げて星の女神にお礼を言う。ジミニ―歌う「星に願いを」に包まれて物語は幕を下ろす。

 英語版の美声の主はクリフ・エドワーズ。ディズニーのアニメ映画『ピノキオ』の主題歌「星に願いを」は、アカデミー賞の歌曲賞を獲得し、またアメリカ映画主題歌ベスト100の第7位という、ディズニー関連作品史上最高位を獲得した。
 
しかし、もっと驚くことは、1940年というこの作品の誕生年である。1939年、ヒトラー率いるドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が開戦した。ヨーロッパ戦が激しさを増す中で、真珠湾攻撃(1941)、太平洋戦争が勃発。死者推定5500万人、史上最大、最も破壊的な世界大戦の真只中に、この作品は誕生したのだ。

 〽When you wish upon a star…「星に願いをかけるとき、心を込めて望めば、きっと願いは叶うでしょう」―この後、世界中を巡り歩いたこの歌が、どれほど多くの人々に夢と希望を与えたかは言うまでもない。

 「世界中の人々が笑顔で暮らせるように」それは世界中の人々の願いである。家族の健康は家族みなが願っていること、子ども達の幸せを願わない親はいない。少しそこから離れてみようじゃないか。まっすぐ自分の心を見つめて…やりたいことは?命がけでやり遂げたいことは?願いごと一つ、それは何?
 
結婚してすぐに主人の両親と同居、子どもが生まれ、長年大家族の中で暮らしてきた。そういえば、自分のことを考えている暇などなかったような気がする。
 
自分と真剣に向き合ったこの2週間、思いがけず貴重な時間となった。

 石神さんの小さなお社は、相差の氏神である神明神社の参道にあった。さっそく社務所でお守りを購入。伊勢志摩の土で染めた土染めの麻布のお守りには、海女の磯着などに記されているドウマン・セイマンが貝紫色で描かれている。格子模様のドウマンは、魔物の入る隙間が無いようにと、一筆書きできる五芒星(ごぼうせい)のセイマンは、必ず無事に元に戻って来られるようにと、共に、素潜りで貝を採る命がけの作業から海女を守ってきた、魔除けのシンボルである。
 
お守りを握りしめ、「願いごと一つ」息を止めて一気に書いた。石神さん参拝。再び社務所の前を通って本殿に向かおうとした時、社務所の男性の声が聞こえてきた。

「願いごとが叶えばお礼参りをされ、古いお守りを返してください。また願いごとがあれば、お守りを購入され、同じように繰り返してください」
 
何ということだ!願いごとはお代わりできるのか。いいや、女神様がそんなことを言われるはずがない。人間が苦し紛れに考えついたことに違いない。


 
なぜホッっとしている?そんな自分が腹立たしい。

(新聞掲載日 2017年7月124日)


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