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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

つる返し

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 稲は黄金色のふくよかな穂を垂れ、その横で毛深い鞘を丸々と太らせているのは枝豆。どこに種を飛ばしてやろうかと尻尾ふりふり思案しているエノコログサ、簪(かんざし)にして遊んだヒメシバ、糸を通して首飾りにした数珠玉、ままごとの赤飯といえばアカマンマ(イヌタデ)、厄介者扱いの雑草たちも、この土手では、あるがままに命をつないでいる。
 猛暑の夏を乗り越え、嵐にも足を踏ん張った植物たちの安堵のため息なのか、雨上がりに差しこんだ陽に、田畑にも野原にも、むせ返るような豊穣の香りが立ち込めている。

 今日は小さな農園の芋ほり。
 夏に四方八方へと旺盛に伸びる芋蔓は、あちらこちらから不定根(ふていね)という根を出す。この不定根を放っておくと、やがて土に根を張り、自分も芋になろうと一生懸命養分を吸収する。頑張ったところで、しょせん芋にはなれない中途半端な根っこ。お陰でその養分は蔓ばかりを成長させ、葉が過剰に茂るという現象が起こる。これを蔓ボケという。蔓ボケを起こすと、葉や茎、つまり地上に見えている部分はえらく立派になるが、肝心の地中の芋は育たない。
 この蔓ボケを起こさないように、不定根を切って、蔓を畝の上に返す作業が「つる返し」である。上出来な芋を育てるために欠かせない作業である。

 農夫歴二年目、小さな農園の主の説明に、最初は興味深く耳を傾けていたが、話を聞いているうちに、何やらおかしな気分になってくる。ひょっとしたら私のこと?私も蔓ボケを起こしている?あちらにこちらに、芋になれない中途半端な根っこを張って、欲張って、見栄張って、見てくればかりを気にして、肝心のことがちゃんとできていない、自分のことを言われているような気がしてきた。
 自分は何がしたいのか、何が欲しいのか、それは本当にやりたいことなのか、本当に必要なものなのか、大切なこと、大切なものがちゃんと見えているのか。上出来なお芋をつくるためには、人間だって時々「つる返し」をする必要があるのではないか。

 さて、いよいよ芋掘り。芋蔓をのける作業からさせてもらうのは、初めてのこと。
 「芋蔓式」という言葉に勘違いしそうになるが、あの長い蔓を手繰ったところで、次々とサツマイモが連なって土中から出てくるわけではない。芋がついているのは、植え付けの時に土中に埋められた、わずかな茎の部分だけである。
 スコップで丁寧に土を掘り返す。出てくる、出てくる!大きいのが2つ、中ぐらいのが2つと小さいのが1つ。
「ちょっと器量は悪いけど、上出来、上出来!」と、芋蔓に見せてやる。

  女優、樹木希林さんの突然の訃報に日本中が驚いた。全身がん末期の女優が見せていた元気な姿は、芝居だった。入れ歯を外した皺だらけの口元で、むさぼるように食べる老婆の姿も、恐ろしいほど自然な芝居。器量がよいとはいえない顔立ちも、老い行く姿も、病に蝕まれて行く体も、彼女はそのすべてを受け入れ、愛し、女優のアイテムとして使いこなした。そして、今秋公開の映画、来年公開予定の映画を撮り終えて、人生に終止符を打った。こんな言葉を残して。

 「今日までの人生、上出来でございました。これにておいとまいたします」

(新聞掲載日 2018年9月28日)

 

 


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百年前

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  家事を終えて2杯分のコーヒーを淹れる。脇に新聞をはさんで、その手にスマホ、もう一方の手にコーヒーカップ、あふれそうなコーヒーをこぼさないように、そろりそろりと仕事部屋に向かう。一回で済ませて余計な手間や時間を省こうという算段である。床にこぼしたコーヒーに、返って時間を取られた事など、都合よく忘れてしまう。
 机に向かうとまずパソコンを立ち上げ、画面が出てくるまでの間にコーヒーをすする。パソコンに届いているメール、続いてスマホのメールなどもチェック、いつもの朝の作業である。
 スマホはあまり好まないが、連絡手段としては、これほど便利なものはない。今朝も、海外旅行中の仕事仲間と、コンサートに出演するピアニストたちと一斉に、まるで膝を突き合わせているかのように意見を交わした。電気が無くなるとダウンするという弱点はあるものの、やはり緊急時での活躍ぶりは天晴だ。

 この百年間で、私たちは数えきれない便利なモノを手に入れた。テレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機、炊飯器、電子レンジ…枚挙にいとまがないが、突き詰めると、それらが私たちにもたらしてくれたものは、「時間」ではないだろうか。
 百年前の人たちと比べて、私たちははるかに「時間」をもっているはずだ。それなのに一向に時間の豊かさを感じないのはなぜだろう。なぜ、眉間にしわを寄せて、あくせくと暮らしているのだろう。便利なモノの向こうには、笑顔があるはずなのに。
 便利なモノのトップは、何と言ってもスマホだろう。何しろこれを持つと、大人も子供も、地球一個分の情報をポケットに入れて歩いているようなもの。しかし、それだけにリスクも大きい。知らなくてもよい事まで知り、友だちになる必要のない人とまで友だちになり、悩まなくてもよい事で悩み、やらなくてもよいゲームに時間を費やす。先人たちが百年かけて生み出してくれた豊かな時間を、掌ほどの化け物に喰いつぶされているようにさえ感じる。

 最近、私の頭をよぎる音がある。遠い昔、布団の中で聞いたあの音。小さな蚕が、夜も眠らず、大きな桑の葉をぺろっと喰い尽くした、ムシャムシャムシャムシャというあの音。

 百年前、爆撃音の轟くパリの空の下で、ひとりの音楽家が息を引き取った。
 1914年に勃発した第一次世界大戦が長引き、フランスでも深刻な物資不足が民衆を苦しめていた。戦時下で、さらに直腸癌の病苦で創作活動もできず、暖を取るための石炭を手に入れることもままならなかった音楽家に、石炭を調達してやったひとりの商人がいた。音楽家は、その商人のために『燃える炭火に照らされた夕べ』という小さな曲を書いた。これが生涯最後の曲となった。わずか23小節のその曲に記されている強弱記号は、p(ピアノ)pp(ピアニシモ)mp(メゾピアノ)、そう、「弱く」だけである。聴く者は、音楽家の命の炎、最期のゆらぎに浸ることになる。

 クロード・アシル・ドビュッシー、20世紀の音楽の扉を開いた偉大なる音楽家が亡くなった1918年3月、この日付に、興味深い日本の出来事を発見した。小さなソケット製造所、松下電気器具製作所が大阪に創業した。創業者はもちろん松下幸之助である。百年前、23歳の幸之助、22歳の妻、15歳の義弟、若い3人で始めた希望に満ちた小さな会社であった。

 ppの虫の声が聞こえる秋の日、没後百年を迎える音楽家が、この百年のことを考える機会を、私に与えてくれている。

 (新聞掲載日 2018年9月14日)


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浄玻璃の鏡

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 地獄の釜の蓋が閉じるのにご先祖様は間に合っただろうか。自分のご先祖様が地獄にいるなどとは思いたくはないが、両親の両親、そのまた両親と遡っていけば、わずか10代でご先祖様は2000人、20代でその数200万人を越えるというから、地獄にお世話になっているご先祖様も少なからずいることだろう。

 人は死んでから7日目に三途の河を渡るそうだ。そこで三途河(しょうずか)の婆に着物をはぎ取られ、その着物を衣領樹に掛けて枝のたわみ具合で死後の処遇が決められるという。樹に着物を掛けるのは懸衣翁という爺さんの仕事らしい。三途河の婆と懸衣翁は死者が冥界で最初に出会う官吏みたいなもの。そしていよいよ冥界の大王、閻魔さんの審判を仰ぐことになる。閻魔さんの前にはどんな嘘も通用しない。その秘密兵器が「浄玻璃の鏡」、死者の生前の善悪の行いを映し出す鏡である。ここで嘘をついたり誤魔化したりせず、仏道に目覚め深く反省すれば、四十九日目に極楽からお迎えがやって来るそうだ。臨終のとき極楽から雲のお迎えが来なかった者にとっての敗者復活戦みたいなものだ。

 しかし、悪行の手口がこうも巧妙になってくると、「浄玻璃の鏡」も古代仕様のままというわけにはいくまい。
 先日、テレビでお経を読むロボットが紹介されていた。袈裟をまとったこのロボット導師、宗旨に応じたお経を朗々と読めるばかりか、お説教までできるという。ロボットなりに厳しい修行を積んでいるのだ。
 昔はどの家にも菩提寺があり、お葬式やお墓のことなどは菩提寺の僧侶の意向に従って行っていた。しかし、都市化が進むにつれ檀家にならない家が増え、お葬式もお墓も個人の自由という風潮が強まってきた。
 お葬式は葬儀会館などで家族葬というのが主流で、遺族は予算に応じた家族葬パックを選べば後は一切合切お任せ、よく分からない消費者相手の「ザ・ビジネス」である。
 「ジミ婚」に共感したのはついこの間のような気がするが、今では結婚しても結婚式を挙げない「ナシ婚」が急増し、結婚したカップルの約半分が結婚式を挙げていないそうだ。そのうち人が亡くなっても役所に書類だけ提出し、お葬式をしなくなる日がやってくるのだろうか。

  母が、父の一周忌の法要は自宅で、家族だけで、そしてお経は私の夫に読んで欲しいと言い出した。
 確かに父の葬儀では私も色々思うことがあったが、滞りなく終わってくれることのほうが先決で、苦言は一切口にしなかった。しかし、母も心の中で同じようなことを感じていたようだ。

 それにしてもお経はどうしてあんなに難しいのだろう。見慣れた漢字も、本来の意味を持たない当て字で使われていることもあり、全く意味不明である。
 もし、お葬式や法事などで、現代語に翻訳されたお経が読まれたとしたら、お経を読む意味がないのだろうか?そのお経では、我々は救われないのだろうか?聖書が世界2000以上の言語に翻訳されて読まれ、たくさんの人々の心に寄り添っているように、お経も私たちに理解できる言葉で読んだり、読んでもらったりしてはいけないのだろうか?しびれた足の痛みに耐えながらお経が終わるのを今か今かと待つ、椅子に座ったら座ったで睡魔との闘い、これでは、お経は私たちの心からどんどん遠ざかってしまわないだろうか?

 「ああ、閻魔さん、お尋ねしたいことがたくさんあります。浄玻璃の鏡は21世紀仕様ですか?近頃は悪行の手口もかなり巧妙化していますが、ちゃんと見えていますか?ロボット導師やデジタル墓石も鏡に映っていますか?あれ、どう思われますか?私、漢字のお経はあきらめて寂聴さんの『美しいお経』を声に出して読み始めたんですが、これって邪道ですか?あっ、夫は難しいお経で頑張っているんですよ。見えていますか?」

 夫が自分の父親の月命日毎にお経を読むようになって3年目になる。時々つっかえるは、抑揚も怪しいは、ここだけの話、軍配はロボット導師だけれど…。

 (新聞掲載日 2018年8月24日)


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名画の残欠

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 こう暑いと鹿も鹿煎餅どころではないのだろう。観光客でごった返す東大寺や春日大社の喧騒を逃れ、飛火野から春日の森を抜け、静寂と涼を求めて高畑までやってきている。
 鹿たちがひっそり過ごす上高畑の春日の森の外れに、文豪志賀直哉旧居と画家足立源一郎旧居(現たかばたけ茶論)が細い土塀の道を挟んで並んでいる。
 春日原始林に連なる高円山を背に、新薬師寺、百毫寺といった古刹が点在するこの界隈は、古くから続く春日大社の社家町で、年季の入った建物も、崩れかけた土塀の道もまた自然と調和し、当時多くの文人たちに愛された、鄙びた独特の風情が今も漂っている。

  「東京のかえり米原を越し、田圃の彼方に琵琶湖が見えだすと、私はいつも、ああ帰って来た、と思う。既に妻子五人を東京にやってある今日でもそう思う。こういう気持ちはこれからも何年か続きそうな気がしている。それほど、土地として何か魅力を持っている」(志賀直哉『奈良』より)
 志賀直哉は1925年(大正14年)からの13年間を奈良で暮らした。この随筆は志賀が奈良を引き上げる前に書いたもので、この時すでに家族八人のうち妻子五人は東京に引っ越していて、志賀は東京と奈良を頻繁に行き来していた。
 88年の人生の中で23回も引っ越している文壇屈指の引っ越し癖の持ち主が、13年間も同じ所にとどまったのは異例のこと。文豪の奈良への愛着ぶりは、わずか4ページほどの随筆『奈良』の随所ににじみ出ている。
 『奈良』が書かれたのは今から80年前のこと。街が様変わりするのに2年とかからないこのご時世、80年も経てば昔の姿など跡形もなく街は豹変してしまう、が、そうではないのが奈良の凄いところである。

 今年が明治150年であることを記念して、奈良ゆかりの画家たちの作品や奈良を描いた作品を一堂に集めた、奈良県立美術館《美の新風》に出かけた。明治に入って古都に吹いた力強い美の新風が、この日、私の体を吹き抜けた。
 高畑の農村風景越しに見る五重塔などの奈良の街並みも(『落日の風景』松岡正雄)、新薬師寺への崩れかけた土塀の道も(『新薬師寺道』長谷川良雄)、新緑の若葉の間で瑞々しい花を咲かせる藤の花も(『奈良公園の藤』山下新太郎)、鹿もまばらな若草山の眼下、茜色に染め上げられた夕闇せまる奈良の町も(『奈良の夕景』大村調府)、原生林のイチイガシ越しになだらかな稜線を描く若草山も(『奈良風景』足立源一郎)、文豪も見ただろう美しい奈良の風景はどれも、今も我々が目にすることができる奈良の当たり前の風景である。鹿や大仏殿の風景にいたっては言うまでもない。150年ぐらいではびくともしない、永遠の奈良の風景である。

 「奈良の欠点は税金の高い事だが、県あるいは市がもっと裕福になればいいのだろうが、産業を盛んにするため、煙突が無闇に多くなるようでも奈良としてはやはり考えものである」
 文豪がペンに込めたように、煙突を無闇に増やさずに裕福にならなければならない、それが奈良の課題であり、またそれができるのが奈良なのだと思う。
 「奈良にうまいものなし」、この有名なフレーズの出所も実はこの随筆である。原文は「食いものはうまい物のない所だ」、ここだけが切り取られ、しかも誇張した表現に書き換えられている。
 こよなく奈良を愛した文豪の思いを知れば、この言葉の捉え方も変わってはこないだろうか。
 80年経った今でも、荒っぽく切り取られた言葉だけが一人歩きし続けている。せめて奈良人だけでも、文豪の『奈良』全文を読んでおきたいものだ。そして我々が語り継ぐならここだろう。

「兎に角、奈良は美しいところだ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶け合っている点では他に比を見ないといって差支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠(ざんけつ)が美しいように美しい。」

(新聞掲載日 2018年8月10日)


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水辺の女

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 駅からいくらも歩かないうちに湖面が見えてきた。記憶の中の余呉湖とはおよそ表情が違う。雨に煙る山々は灰色の空に溶け込み、湖は何者をも拒絶するかのように神秘のベールをまとっている。何もかもが身動きもせず黙りこくっている中で、桟橋につながれた釣り舟だけがかすかに揺れている。

  『男を乗せた釣り舟はゆっくり桟橋を離れると、張り詰めた銀色の水面を音もなく滑り出て行く。突然、舟が止まったかと思うと、水の中から女が現れた。男は女の滴る美貌にたちまち心奪われる』

 水辺の伝説には女がつきものである。その女たちは揃って男の心を惑わす妖艶な美貌を持ち、男たちは溺れるように女に夢中になる。水の世界の掟のことも知らず…

 ウンディーネ、天女、人魚、そして龍宮城の姫たちもみな人間ではない。ウンディーネとは水の精のことで人間の女の姿をしているが魂がない。人間の男と結婚することで魂を得ることができるが、夫が水辺で妻をののしると、女はたちまち水の中へ。永久に戻ることはできない。しかし死別したわけではないので、夫は妻に対してずっと貞節を守らなければならない。もし夫が別の女と結婚すれば、ウンディーネは自分の手で夫の命を奪わなければならない。

 桟橋の釣り舟に、思わずウンディーネの妄想に駆られてしまったが、ここ余呉湖は日本最古の羽衣伝説が伝わるところで、湖に現れるのはウンディーネではなく天女である。
 羽衣伝説は日本各地に伝わっている。天から舞い降りた天女が水浴びをしている間に羽衣を隠され天に帰れなくなるというあたりはほぼ同じであるが、人物の名前や職業、後日談などはその土地により様々。天女は松の木に衣を掛けるのが定番であるが、ここ余呉湖の天女は柳の木に掛けたそうだ。
 長い間、余呉湖の羽衣伝説の象徴として一役かってきた10メートルもの柳の大木が、2017年10月の台風で倒されてしまった。自然の力とは一体どれほどのものなのか。地上1メートルほどのところでネジ折られている太い幹に身震いがした。親しみを感じていただけに、無残な柳の姿に胸が締め付けられる。

 沖縄にも羽衣伝説が伝わっていた。14世紀の初頭、琉球は三つの勢力圏に分断され、三山(北山・中山・南山)時代を迎えていた。その中山を治め王統を引き継いだのは察度(さっと)と呼ばれる琉球史に残る偉大な王である。伝承によるとこの察度王が天女の息子なのだという。
 その天女が舞い降りた泉、森の川(ムヌイカー)があるという森川公園(宜野湾市)を訪れた。強烈な蝉の声にも次第に耳が慣れ、かすかな水の音を捉えることができた。その音の先に一筋の水の流れを発見。こんこんと涌き続ける清水が、石造りの涌水上に勢いよく流れ落ちている。
 その横では、察度王の徳を偲び、深い緑を背に建てられた荘厳なウガンヌカタ拝所が、何百年もの間その水の音を押し黙って聞いている。
 鬱蒼とした森を渡る水の音、威圧してくる拝所、私はなぜこんな所に一人立っているのだろう。

 人々は豊かな清水を求めて集落を作った。しかしその水は時に荒れ狂い、時に枯れ、人々を苦しめた。自分たちの力ではどうすることもできない水に人々は神の力を信じ、禁忌を語り継いだ。
 水辺の女にうつつを抜かしたがために不幸な目に遭う、日本中、いや世界中の水辺に伝わるこんな伝説は、「水は人間の思うようにならない、思うようにしてはならない」という、先人たちからのメッセージなのかもわからない。

  今年の春、上野の美術館で『湖畔』の女性と対面した。黒田清輝と共に芦ノ湖畔に避暑に出かけたという画の中の美しい女性は、のちに画伯の妻となった人だ。
 薄霧にけむる湖、湿潤な空気、しめった女の肌にまとわりつく浴衣、立ちのぼる艶といったら…

 水辺の女は、永遠に男の心をくすぐり続けるのだろう。

 (新聞掲載日 2018年7月27日)


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ねむの花の季節に

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「堤道を北へ辿り、大川・荒川・綾瀬川の三川が合する鐘ヶ淵を望む田地の中の松林を背に」小兵衛の隠宅は建っていたらしい。『剣客商売』第1巻のこの行を頼りに太陽がじりじりと照り付ける堤道を歩いた。

 本棚にずらりと居並ぶ池波正太郎の小説『剣客商売』は私の本ではない。飽きもせず繰り返し読んでいる夫の姿に「何がそんなに面白いのか」と手に取ったのが、私と秋山小兵衛との出会いである。
 しかし鐘ヶ淵という地名だけは子どものころから知っていた。繊維関係の仕事に就いていた父は、よく鐘ヶ淵を訪れていた。目的は鐘ヶ淵で創業した紡績会社「鐘紡」である。

 天守閣さながら、今も空高く燦然と輝く青い看板は、もう紡績工場のものではない。しかし、バス停に「鐘紡」の文字をそのまま残すあたりには、かつての日本の基幹産業である繊維産業を牽引した紡績の地力を感じる。
 すっかり様変わりした紡績工場跡地、シャッターを下ろす店や昔気質の小さな商店が軒を連ねる商店街、かつては隆盛を極めていただろうこの下町を、スーツに身を包んだ父が颯爽と歩いていたのかと思うと、やり場のない思いが込み上げてきた。

 江戸の半ば、老剣秋山小兵衛が闊歩していた鐘ヶ淵には水田が広がっていた。大きく湾曲する隅田川に綾瀬川が合流するこの辺りは、航路の難所として舟人から恐れられていたという。川の氾濫や船の事故などで亡くなった人も一人や二人ではないだろう。鐘ヶ淵の川の畔に転がっていた女の骨の話、『野ざらし』に聴くおどろおかしな落語も、まんざら作り話でもなさそうだ。
 江戸にはもっと気の利いた場所がたくさんあるにも関わらず、わざわざ小兵衛をこの地に住まわせた作者の思惑も、わかるような気がする。

 歌川広重が隅田川越しに綾瀬川を眺める朝焼けの風景『綾瀬川鐘ヶ淵』の絵筆を握った場所は、小兵衛の隠宅があった辺りのちょうど対岸で、ねむの木が植わっていた辺りらしい。取り立てて名所とも思えない切り取りが、広重の斬新で独創的な手法により、実に風光明媚に仕立て上げられている。空の色が、この前、午後から大雨になった日の朝と同じ桃色だ。この日も雨になったのだろうか。広重はちょうど今頃の季節、ねむの花越しにこの風景を見たに違いない。
 亡くなる直前まで制作に取り組んでいた最晩年の超大作「名所江戸百景」は、広重の画業を締めくくるものであり、そこに描かれる江戸の姿には、安政の大地震からの江戸の復興を祈願する広重の想いがにじみ出ている。
 スカイツリーが見え隠れする下町、今私がそぞろ歩く鐘ヶ淵に父と小兵衛と広重がやって来れば、三人は口を揃えて言うだろ。「変わったなぁ」と。

 春日参道の南側に浅茅が原という小高い丘がある。木陰の揺れる丘の道を越えると浮見堂を水面に映す鷺池に出る。奈良公園北側の喧騒をよそに、この界隈は人影もまばらで、静かな佇まいの中に四季折々の風景を楽しませてくれる。今はねむの花がやさしく迎えてくれる。
 池に張り出したねむの枝の下を、修学旅行生だろうか、三人の少年が乗ったボートが通り過ぎようとした。

「ねえ、この花、知ってる?ねむの花よ」

 少年たちは一瞬私の顔を見たが、直ぐにねむの花の方へ視線を運んだ。初めて見たのか、珍しそうに何枚も写真を撮っていた。
 ねむの木は決して珍しい木ではない。万葉集の中にも見える日本古来の木で、雑木林、川べりなどどこにでも自生している。紫陽花が人々の目を惹くころ、木の上高く、ひっそりと絹の房のような薄紅の花を咲かせる。夜にはその葉を閉じて眠り、朝には目覚め、人間と同じように遥かな時を生きてきた。

「変わり果てたこの世の岸辺に苦くたたずむ」私たちに、今もどこかから、淡い夢を勧めている。

あなたは疲れた
お眠りなさいと言うように
ねむの花の咲く夕べ
夢のような夕べ…

中田喜直のやわらかな旋律に乗せて歌われる『ねむの花』(壺田花子詩)、ねむの花の季節になると歌いたくなる。

 (新聞掲載日 2018年7月13日)


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きっと明日は雨

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 田んぼの脇道で一匹の雨蛙と目が合った。じっとこちらを見ているが逃げる様子もない。葉っぱに擬態して隠れているつもりだろうが、雨蛙、残念ながら丸見えだ。なぜなら、おまえの体はピカピカだ。
「青蛙おのれもペンキ塗りたてか」
 とっさに芥川龍之介の俳句を思い出した。しっぽ取れたてのピカピカの一年生、うっかり触ると手にべっとりペンキがつきそうだ。
 青トカゲに「ペンキ塗りたてご用心」と痛快なニックネームをつけたのは、フランスのジュール・ボナール。芥川先生、同時代を生きる海の向こうの小説家の作品もちゃんと読んでおられたとは、さすがである。この「青トカゲ」の行を踏まえて、「青蛙おのれも」なのだ。
 機知にとんだ簡潔な文体で、様々な動物の生態を描いた短文集『博物誌』、これには芥川先生も大いに刺激を受けられたのだろう。蝶はと言えば、「二つ折りの恋文が花の番地を捜している」。愛するものへの眼差し、そして意表を突く仕掛けに舌を打つ。
 舌を打つといえばカエルの鳴き声。ちなみにカエルは雄しか鳴かないそうだ。彼らは鳴嚢という喉の袋に声を共鳴させて愛の歌を絶唱する。小さな体から田んぼ一面に響き渡るあの大音量、オペラ歌手も真っ青だ。私も喉にあの袋が欲しい。
 この分だと明日は雨になるだろう。雨蛙が盛んに鳴く日の次の日は雨、意外と当たる天気予報だ。
 
「横板に雨だれ」、こんな諺をご存じだろうか。弁舌が達者でよどみなく流れるようにしゃべる様を「立て板に水」。「横板に雨だれ」はその反対で、詰まりながらたどたどしくしゃべる様。「立て板に水」が残留、イケてない「横板に雨だれ」の方はお役御免。「横板に雨だれ」、人間味のある言葉なのに。
 ついでに「瑕(きず)に玉」、これも耳にしなくなった。それさえなければ完璧なのに、惜しいことにほんのわずかな欠点があること、それが「玉に瑕」。「瑕」とは宝玉の表面にできた「きず」のこと。「瑕に玉」とひっくり返すと、欠点ばかりの中にもわずかな美点があるという意になる。なんと身近であることか。「玉に瑕」なんてなかなか使えないが、「瑕に玉」なら使い勝手がよさそうだ。
 梅雨と言えば、この「横板に雨だれ」だろう。大地はしとしとと降り続く雨をゆっくり吸い込む。こうして大地に蓄えられた豊かな水は、生きとし生けるものの命の水となる。この季節の雨は、ずっとそんな大切な役割を担ってきた。
 しかし、近年は「立て板に水」のような雨にひっかきまわされることが多くなった。「立て板に水」のごとく降る雨にも、「立て板に水」のごとくしゃべる人にもご用心。
 
 「雨だれ」というと、ショパンの前奏曲「雨だれ」を思い出す人も多いだろう。しかしこのタイトル、誰かが巧みに想像を巡らせてつけた言わばニックネームで、ショパン自身がつけたものではない。私は梅雨の雨にリストの『ため息』を想う。このタイトルもリスト自身がつけたものではない。
 このように、作曲家の意図とは無関係に誰かがつけたニックネームがまかり通っているものが他にもたくさんある。ベートーヴェンの『運命』などもそうだ。誰かが「運命が戸をたたく音」に感じただけで、激しい雷鳴と降りしきる雨音と言われれば、そう聞こえないでもない。「余計なお世話だ」、草葉の陰から作曲家たちの声が聞こえてきそうだ。
 タイトルや先入観に縛られず自由に感じれば、音楽はもっと面白くなる。
 演奏会用練習曲の一つ『ため息』に流れる甘美なアルペッジョの音は、大地に降り注ぐ慈愛の雨のようでもあり、息を吹き返したものたちの震えるような吐息のようでもある。高鳴る満ち足りた旋律は、やわらかな雨のベールに覆われた大地から湧き上がる悦びの歌…
 
 さて、お気に入りのパリジェンヌの傘もバッグに入れたし、念のため、ベージュに北欧色の水玉模様のレインコート、オリーブグリーンのレインブーツも用意して
 きっと明日は雨だから。

(新聞掲載日 2018年6月22日)


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サマータイム

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 若い頃はよく夜更かししたものだ。いつの間にか空が白み始めているということもよくあったが、今は考えられない。日が暮れると体が勝手に活動を終える準備を始める。これは老化ではなく、傷めつけられていた体内時計が正常化したのかもしれない。

 夜更かしなんてへっちゃらだった頃でも、苦手な時刻があった。「丑三つ時」だ。
 
24時間を12に刻みそれに十二支を当てはめる。一つの干支の刻は2時間。それを更に4等分して一つ二つと数える。つまり「一つ」は30分。午後11時から午前1時が「子の刻」、そこから2時間ごとに丑、寅、卯…ということになる。従って「丑の刻」は午前1時から3時、「丑三つ時」は230分ごろ、日本独特の時間表示だ。
 
「丑の刻」は死後の世界と繋がる刻で、「草木も眠る丑三つ時」は、闇の中に死霊がうごめいている…

 連休明けの都心の朝。駅には生気のない人間たちがうごめいている。
 
約束までに時間があったので川越まで足を延ばすことにした。江戸の面影を残す川越、蔵造の町並みの屋根が見上げているのは鐘楼、江戸時代初頭から城下の町に時を告げてきた「時の鐘」である。幾度となく火災に遭い、今の鐘楼は明治26年の川越大火の直後、まだ自らの店も再建していない町の商人達がいち早く建て直したものだという。時を告げる鐘は庶民の暮らしに欠くことができなかったのだろう。
 
運よく鐘が鳴った。が、鐘を突く人が見当たらない。通りがかりの男性が、午前6時と正午、午後3時と6時の4回、自動で鐘を突く仕掛けなのだと、一人旅の女に親切に説明してくださった。思っていたより優しい音色であるが、その余韻は町の隅々に沁み渡っては消えて行く。
 
人の手で突くと音色が違うのだろうか、この辺りの子供たちは今でも「6時の鐘が鳴ったら帰っておいで」などと言われているのだろうか…そんな想いを引きずりながら、隣のお饅頭屋さんの「いも恋」をかぶりかぶり、正午の鐘の音を後にした。

 今や一秒たりと狂わないデジタル時計で暮らす我々には、鐘の音で世の中が回っていたとはにわかに信じ難い。大らかというか、原始的というか…いや、それがそうでもないのだ。
 
当時は、日の出と日没で一日を昼と夜に分け、それぞれを6等分したその一つを「一刻」、つまり「一刻」の長さが昼と夜で、また季節によっても異なる不定時法が採用されていた。
 
夏は冬より1時間ほど早く時間がやってきて日没までの時間が長くなる。現在のサマータイムの考えと同様だ。昼が長い時期は早く起きてよく活動し、冬は遅くまで起きていないでさっさと寝る。自然の摂理に従った省エネ生活がすでに施行されていたのだ。

 ところで、奈良県は平均睡眠時間の長さが全国46位、ひっくり返して、睡眠時間が少ない県全国2位だという。
 
かつて「主要駅周辺の飲食店の多くが午後8時に閉店する」と取り沙汰され、奈良が反論したとかしないとか。午後8時は大袈裟だが、確かに奈良の街の灯は早く消える。そのことを私は自慢に思っているが、それはさておいて、なぜ奈良県民がそんなに眠らないのかということだ。
 
睡眠時間の少ない県、上位を占める神奈川、奈良、兵庫、千葉、埼玉…共通するのは大都市のベッドタウンであるということ。どうやら通学・通勤時間が影響しているらしい。電車の中ではみなスマホのチェック、そう言えば座席で居眠りをしている人も減った気がする。

  ジャズのスタンダードナンバーとして知られる「サマータイム」は、実はジョージ・ガーシュウィンが作曲したオペラ『ポーギーとべス』の中のアリアである。第一幕冒頭で、漁師の妻クララが「夏になれば暮らしが楽になる、魚は跳ねて綿の木は伸びる…だから泣くのはおよし」と赤ん坊に歌う子守歌なのだ。黒人の過酷な生活という重いテーマが根底を流れているが、確かに物憂いブルースのメロディーは眠気を誘う。

 今宵は、エラ・フィッツジェラルドの「サマータイム」に抱かれて、早く寝よう。

 (新聞掲載日 2018年6月8日)


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みどりご生まれし日に

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 緑萌える吉野山一目千本。花びらの桃色が木ごとわずかに違うように、その葉の緑も一本一本みな違っている。この微妙な色の違いに目が慣れてくると、隣で群生成す杉の緑と桜の緑とは全く別の色にさえ見えてくる。
 
 
緑豊かなこの国に生まれながら、私たちは「緑」のことをどれだけ知っているだろう。
 
緑、黄緑、深緑、大方この三色で何不自由なく生きてきた自分に愕然としたことがある。慌てて色の本なるものを購入し、緑の名前を必死で覚えた。あの時、緑のボキャブラリーが豊かになったはずだった。
 
ところが今、多様な緑が入り混じる五月の風景を前にして、その名前が一つも出てこない。名付けた人たちの想いにまで届かない、中身のない丸暗記というやつだ。
 
久しぶりに色の本を開いてみると、若草、若菜、鶯、柳、苔、山葵、若苗、若楓、萌黄、萌葱、青丹、青草…出てくる出てくる緑の名前。そうか、杉の緑は常盤色だ。
 
使い慣れない言葉というものは、いざという時には何の役にも立たない。無理して使ったところでろくなことはない。それならば、いっそ「緑」一点張りで、薄い、濃い、明るい、暗い、浅い、深い、瑞々しい、萌えるような、などの形容詞を駆使する方が無難だ。
 
 
「緑」はまた、単に色だけではなく、新芽のように若々しい状態、生き生きとした生命力があふれる状態の表現にも用いられる。
 
例えば「緑の黒髪」、これは若い女性のつやつやとした美しい黒髪のこと。「緑児」も然り。辞書は「みどりご」(緑児・嬰児)を、「生まれて間もない子供、または生後三年ぐらいまでの子供」と説明している。
 
この「みどりご」という言葉、実は701年に施行された大宝令の中に見ることができる。3歳以下の幼子のことを「みどりご」と呼ぶことに決めたのは、はるか古代の法典だという。1300年余り昔の赤ん坊の生存率のことを想うと、呼び名そのものが、当時の人々の祈りに聴こえてくる。

 童謡「シャボン玉」に興味深いお話がある。この歌の詩を書いた野口雨情には生まれて7日目で亡くなった(明治41)女の子がいた。医療もまだ発達していなかった当時、生後間もない赤ん坊が亡くなってしまうことは珍しくもなかった。しかし雨情はいつまでもこの子のことが忘れられなかったという。

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
生まれてすぐに
壊れて消えた

 生まれてすぐに亡くなった雨情の娘への鎮魂歌であると思いたくなる詩だ。しかし、雨情自身が子どもの死とこの歌詞の関連について触れているものは一切なく、想像の域を越えることのない逸話である。
 
詩人の事情はどうであれ、私はこの歌を口ずさむと、生まれてすぐに亡くなった私の姉、朋子のことを想う。この愛らしい童謡、私にとっては、夭折した貴い命への鎮魂歌なのである。
 
ちなみに、生まれて7日目で亡くなった雨情の長女の名前は「みどり」だった。生命力あふれる若葉のように…親の願いが痛々しい。
 
新生児・乳児の死亡率が限りなくゼロに近くなった今となっては、想像も及ばない話である。

 自宅の近くに、周囲に桜の木が植えられた公園がある。角地にあるこの公園は、斜めに横切ると仕事場への近道となる。そのため、私はどれほど忙しくても、お花見だけは忘れることはない。
 
樹齢7080年ぐらいだろうか、私の手がやっと回るほどの桜の幹の下の方に、背丈10㌢にも満たない小さな芽を見つけた。
 
ボキャブラリーを尽くして描いてみれば、薄緑色の頼りない枝先で、風に震えるやや赤みを帯びた萌黄色の葉は、みどりごの手と見まがうばかりだ。おぼつかなく、それでいて瑞々しい生気に満ち溢れている。
 
「ひこばえ」()である。「ひこ」は「曾孫」に由来するというから、「曾孫生え」ということになるのだろうか。
 
今年米寿を迎える私の母に、曾孫が生まれた。私の初孫である。みどりごの健やかな成長を願ってやまない。

―みどりご生まれし日に

(新聞掲載日 2018年5月25日)


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苔むす

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 奈良時代の由緒伝承を今に伝える寺院が、わが町二名にもその法灯をひっそりと灯し続けている。
 
海瀧山王龍寺、聖武天皇の勅願による古刹であるという。その山門が切り取る深山幽谷の画は、夕刻近くともなると、入り慣れた入り口とはいえ、足を踏み入れるのにふとためらってしまう。
 
今の本堂は、江戸時代になってから黄檗宗の禅寺として建てられたもの。ここに心惹かれるのは、昔、黄檗山万福寺のそばの小学校に通っていたせいだろうか、自宅から王龍寺への道が散歩道となって久しい。
 
コジイなどの照葉樹の自然林の中を、湧水の瀬音、野鳥のさえずりを耳に約300mほどの石段の道を上り詰めると、青紅葉の枝の向こうに寂びた本堂が見えて来る。
 
堂内には、ご本尊である十一面観音像が花崗岩の大きな岩に彫りこまれている。普段は締まっている扉の中を見学させていただいた時のこと、蝋燭の灯と小窓から差す自然光が交差する中に佇んでおられるその尊いお姿に、思わず手を合わせたものだ。南北朝時代に彫られたというこの磨崖仏は、歴史的に価値が高いものであるという。
 
しかし、私がここへ来る一番の目的は、観音様には申し訳ないが、本堂に至るまでの森の中の苔むした石段の道である。

 王龍寺の森を取り巻く絵に描いたような美しい風景は、実はゴルフ場。つまり人の手が入った風景である。人の手から免れた祈りの森は、開発の進むこの地に、一粒の真珠のように、あるべき自然の姿を残している。
 
往時の寺勢はかなり盛大であったというが、今はここへ来て人と出会うことは滅多にない。これがまた幸いして、見せるための苔の風景ではなく、はるかな時の中で自然が織りなした苔むした風景が、今も静かに息づいている。

 「こけ」の語源は「木毛(こけ)」、つまり「木に生える毛のようなもの」。「むす」は「生()す」で、生命の誕生という意味を持っている。生まれた男は「むす・こ」、生まれた女は「むす・め」というわけだ。
 
「苔むす」という言葉は、単に「苔が生える」というにとどまらず、「生む」こと、つまり連綿と受け継がれる生命、未来永劫に発展し続けるという深い意味をもっている。

 「A rolling stone gathers no moss」という英語の慣用句を、「転がる石のように活動を続けている人は古びることはない」と解釈するのは欧米。「転石苔を生ぜず」、つまり「転がる石のようでは成果は出ない、腰を据えて一つのことをやり通して初めて成果は出る」と解釈するのは日本人だ。
 
不動の岩に苔むすことを生々発展の証とする日本人の国民性、感性、それを何より象徴しているのが『君が代』である。ごく短い言葉の中に、簡明に日本人の感性を謳うこの歌は、間違いなく日本の国の歌である。

 君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで

  「さざれ石」(小石)が集まり「巌」(大きな岩)となり、そこに「苔の生すまで」という、自然の営みの中でも特にスパンの長いものを例えに、永続性の価値を表現しようとするこの感性こそが、日本人のDNAに埋め込まれた自然感、美的感覚なのだろう。

 今日はルーペと図鑑持参。王龍寺を抱く森の苔を研究しようかという意気込みである。
 
さっそく石段の脇に薄紫の小花を咲かせる苔の群生を発見。勇んで近づいて見るも、他の木が落とした花びらを乗せているだけ。

 一体何年経てばこんなに太くなるのか、藤の蔓が大蛇のごとく木に巻き付いている。蔓は最初につかまった木を倒し、隣の木に乗り換えてさらに上へ上へと這い上がり、陽に揺られ悠々と花房を咲かせている。
 
結局、今回の成果は、どの世界にもうまいこと生きていくやつがいるということ、そしてもう蚊が飛んでいるということが分かったこと。

 苔の研究、やる気だけは満々であるが、問題は苔が最も美しい時期と、我が最大の敵である蚊の季節とがぴったりと重なり合うということだ。
 
「転石苔を生ぜず」とはいかなさそうだ、苔の研究。

 (新聞掲載日 2018年5月11日)


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いつも一緒

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「この花が好き」、去年お庭を見せていただいた時の私の言葉を覚えていてくださったご近所の方が、「二人静」を鉢上げしておいてくださった。
 
十字に延びる葉の真ん中に、米粒ほどの白い花を並べる二本の花序、この花の姿を、能『二人静』の二人の静の舞姿に見立てている。風雅なこの名が、地味な花に特別な世界を与えている。花言葉は「いつも一緒」。
 
伝統色で「二人静」と言うと花の白ではなく渋い紅紫。八代将軍足利義政が『二人静』を舞ったとき、この紫の地に鳳凰の丸紋の金襴の衣装をまとったことから、この色に「二人静」という名が残ったという。

 大和の国、吉野勝手明神の正月七日の神事のために菜摘女が若菜を摘んでいると、一人の女が現れ、自分を供養してくれるよう神職に頼んで欲しいという。菜摘女は名を問うが、それには答えず「もし疑われたらそなたに取り憑いて名前を明かす」と言い残して消えた。菜摘女は戻ってこのことを神職に伝えたが、神職が疑いの言葉を口にしたため、菜摘女は取り憑かれて狂乱する。神職が憑きものに名を尋ねると、自分は静御前であると答える。取り憑いているのが静御前の霊であると知ると、神職は弔うことの条件に舞を所望する。かつて静御前が奉納した衣装を身にまとい菜摘女が舞い始めると、いつしか静御前の霊も同じ衣装で現れ、一人の女が二人になり、二人は寄り添う影のごとく舞を舞う。これが『二人静』のお話である。

 静御前と言えば京の都の白拍子。源義経が一目惚れしたという美貌の女性である。義経の正妻は影を潜め、愛妾の静御前との恋物語が今なお堂々と吉野の里に華を添えている。時代とは言え、さすがは時のスーパースターだ。まあ、今ならスターゆえの泥沼劇だろうが。

 午後、友人が草餅を届けてくれた。まだほのかに温かい。包みを開けると緑色のお餅が六つ、ぽったりと並んでいる。指で押してみるとまだ柔らかい。思わず一つ、そのまま手づかみでかぶりついた。鼻の奥に蓬の香りが広がったかと思うと、あんこが口いっぱいにあふれ出た。蓬の苦味と、あんこの甘味が絶妙のバランスである。あまりの美味しさにもう一つに手を延ばそうとしたその時、「太るよ!」と待ったがかかった。
 
私の中にはもう一人の「わたし」がいて、私のすることに何かとケチをつけてくる。冬服の片付けにしても、「明日やろう」と後回しにしようとすると、「今日中にやると決めたじゃない」と痛い所を突いてくる。そのくせ、「さあやるか!」と人がせっかくやる気になっているのに、「まだ寒い日があるかもよ」と惑わせたりする。結局、冬服は未だに片付けられず、春物と、更にはここ数日の真夏のような暑さに夏物までが混在している。
 
どっちがあまのじゃくなのか、ああだこうだとシーソーゲームをしながら、ここまで何とか生きて来た。そう言えば、昔、死んでしまいたいと沈み込む私を、「死んでどうなるのよ」と一笑に伏したのも「わたし」だった。
 お陰様で今日、私はあんなに美味しい草餅を食べることができた。

  ートーヴェンは32歳の時に遺書を書いた。作曲家が聴力を失うということ、それがどんなことなのか、挫折感、絶望感、苦悩、不安を切々と綴った。愛する甥に宛てて書いたこの遺書には、確かにベートーヴェンの死の覚悟が読み取れる。
 
しかし、ベートーヴェンは死ななかった。むしろそれからが凄かった。聴力を失った作曲家は、まるで何かに取り憑かれたかのように創造に打ち込み、交響曲英雄、運命、田園、ピアノソナタ悲愴、月光、熱情、ピアノトリオ大公、ピアノ協奏曲皇帝など、音楽史に残る名作を次々と生み出していったのだ。

 夫だ、妻だ、親友だ、と言う前に、忘れてはいけない大切な人がいる。私の最高のサポーター、もう一人の「わたし」。誰がいなくなったとしても、二人はいつも一緒。

 さあ、冬物の片付けを今日中にやってしまおう。今日こそは二人、意見が合うはずだ。

 (新聞掲載日 2018年4月27日)


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母子草

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 七草粥をいただく頃には探しようもない「春の七草」が、いよいよ背を伸ばし花をつけ、道端で容易に見つけることができるようになってきた。七草粥をいただく習慣が今のこの時期なら、スーパーに並ぶパック詰めの高価な七草を購入しなくて済むものを、いつもこの時期になるとそう思う。
 
畑の水路で柔らかそうな葉を繁らせるのはセリ。土手で群れなして無数の白い小花を咲かせるのはナズナ、風に揺れる三角の実が奏でる音楽が聴こえてきそうである。葉だけではそれとは見分けにくかったハコベも、ホトケノザも、それぞれ白、赤紫の可憐な小花を付けて存在をアピールしている。

 呪文のように覚えていた「春の七草」の中の「ゴギョウ」が母子草であることを知ったのは最近のことである。この数日で、土にへばりついていた葉っぱから一気に茎が伸び上がって来た。花はまだ咲いていないが、やわらかな産毛に包まれた白い葉が、新緑の雑草の中でひと際目立っている。
 
母子草の名前の由来には諸説あるようだが、どうやら「母子‐ハハコ」というのは当て字のようで、特に「母と子」に由来するものではなさそうだ。しかし、この花の花言葉「いつも思う」「無償の愛」が、その名に因んでいることは間違いない。親の元を遠く離れて暮らす二人の息子の母であるわたしには、この花言葉の意味が痛いほどよくわかる。

 4月に入って、ある女性団体の主催で《ことのは・こばこ》公演をさせて頂いた。演題は『母子草』、このプログラムは女性が対象の時に使うことが殆どであるが、これまでにたった一度だけ、男性ばかり約700人の前で『母子草』を公演させて頂いたことがある。小雨降る4月の肌寒い日、奈良少年刑務所へ慰問公演に行った時のことである。
 
中世のヨーロッパを彷彿とさせるロマネスク調の重厚な赤煉瓦造りの建物、その正門と言えば、まるで絵本に出でてくるおとぎの国の入り口のような佇まいで、よもや刑務所とは思わない。
 
「すみません」と門衛の方に声をかけると、即座に「面会ですか」という言葉が返って来た。
 傘を片手に、もう片方の手には大きな鞄を提げ、寒さにこわばる顔で立っているその姿は、息子との面会にやってきた母親の姿そのものだったのだろう。
 
「いえいえ、そうではなくて…」と慌てて説明をするわたしの後ろから、「面会です」という、か細い女性の声が聴こえてきた。わたしには振り返ることができなかった。

 微動だにしない700人の受刑者の視線を一手に受けて、『母子草』の公演が始まった。その状況に、わたしは憶することは全く無かった。ただ、門で耳にした「面会です」という母親らしき声が、公演中も頭の中をこだまして鳴りやまない。
 
この歌が巡ってきた時には、わたしはもう受刑者たちの母親になっていた。わたしは受刑者ひとり一人の目を見つめながら、祈るように歌った。

目覚めてから眠りにつく
すべて愛おしい
そう思えたの
笑うだけで涙が出たわ
あなたの喜びもらい
あなたの痛みももらう
この暮らしが続くのなら
何もいりはしない

たとえ世界中が
あなたの敵だって
私だけはいつでも味方だわ
大丈夫、信じて

あなたが忘れていても
私が忘れはしない
この命を投げ出すのに
迷いなんてないわ

お願いどこかで笑ってて
それだけでいいのよ
それだけがいいのよ
(「おひさま~大切なあなたへ」より抜粋)

 涙をぬぐう受刑者たち、わたしはあの日の彼らの涙を忘れない。
それでも我が子に会いに行く、母親の姿(声)を忘れない。

  昨年、建物の老朽化で刑務所は百余年の歴史に幕を下ろした。2020年には建物をできるだけそのままに、ホテルに生まれ変わるという。
 
明治政府が全国に建設した五大監獄で唯一現存する刑務所、国の重要文化財にも指定された貴重な建築物である。残され活用されることは喜ばしいことだが、どうなんだろう。
 少なくともわたしは、数知れぬ母子の涙の染みついたこの場所で、笑うことはできない。

 (新聞掲載日 2018年4月14日)


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分かれ道で

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 匂やかな梅の花の間を、ミツバチたちが忙しそうに飛び交っている。彼らもまた、この地に梅林が戻って来たことを喜んでいるのだろう。
 
大阪から暗峠を越えて奈良に入る街道は、奈良の時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置されたもので、千年に渡り、この街道を通って多くの人々が奈良と大阪を行き来してきた。

 暗峠を越えて街道を下ってくると、「左ならいせ(奈良伊勢)、右かふりやま(郡山)」と刻まれた古びた道標の立つ分かれ道に出くわす。この辻に建つ茅葺母屋に桟瓦葺を組み合わせた屋根を持つ大和棟の民家は、江戸後期に建てられた宿場建築で、ここが大和郡山との分岐点になることから、追分の本陣と呼ばれてきた。
 
急峻な峠道を越え、この追分の地に辿り着いた旅人たちは、広がる視界の先の南都の風景に安堵したことだろう。今もこの高台に立つと、はるかに若草山、そして古社寺が点在する奈良市街を一望することができる。

 3月には、梅の花に彩られる風光明媚なこの追分の地を訪れることが長年の楽しみだった。しかし、7年ほど前になるだろうか、なだらかな斜面に広げられた紅白色とりどりの梅の絨毯を見たのが最後、その翌年には見るも無残な姿に変わり果ててしまっていた。
 
突然の土壌の悪化により、約4000本あった梅の木のほとんどが枯死し70本にまで減少、県内でも屈指の梅の名所であった追分梅林は閉園を余儀なくされた。
 
はるか東方の山々が描く稜線も、その懐に抱かれる奈良盆地も、遠く見渡す風景は千年の時を経ても変わっていないというのに、すぐ目の前に一瞬にして豹変した風景があった。
 
土壌の悪化?一体何があったというのか。もしこれが梅の木ではなく人間だったら、考えただけで身震いがする。

 かろうじて生き残った70本の古木たちが見守る谷間の斜面では、今、梅の若木たちが元気に花を咲かせている。追分の地に梅林が息を吹き返したのだ。
 
梅林の復興に乗り出したのは、「SPSラボ若年認知症サポートセンターきずなや」の人たちだ。「きずなや」の若い人たちが、若年性認知症の人たちと地域の人々との架け橋となり、荒れ果てた広大な土地の雑草を刈り、土壌を改善し、そこに一本ずつ梅の苗木を植樹していった。約500本の梅の木がこの地にしっかりと根を下ろし、長らく閉園されていた梅林が、観梅会が開けるぐらいまでの復興を見せている。

 「梅の木が枯死したのは土壌の悪化だけが原因ではありません。梅の老木化、梅の木の世話する人たちの高齢化も大きな要因です」こう語るのは「きずなや」の代表で、奈良追分協議会の代表理事である若野達也さん。他にも、若くして認知症を発症した人たちを支えるところ、居場所が無いことなど、若野さんの梅林の衰退と復興のストーリーの中には、この社会が抱える深刻な問題が幾つも潜んでいた。

 わたしたちは、より良い暮らしを目指して一生懸命頑張ってきた。果たしてこの「より良い」のゴールはどこなのか。わたしたちはこれからどこへ向かって歩んで行けばよいのだろう。今、わたしたちは分かれ道に立たされているのかもしれない。
 
花から花へと目まぐるしく飛び回るミツバチたちの様子を眺めながら、そんなことを考えていた。

  花の色がさっきよりも濃くなったような気がするのは、日が傾いてきたせいだろうか。
 
白梅の下のベンチに腰掛けるわたしに、ふいに風がドビュッシーの『美しき夕暮れ』運んできた。生温かい馥郁とした香りに溶け込んで、「薔薇色に染まる川もいつか海に去ってしまうように、われわれもいつか墓場へと去る。命に終わりがあるからこそ今美しく輝くのだ」と、わたしの心の中に忍び込んでくる。
 
夕暮れどきの美しい情景と虚しさが混在する、この歌のアンニュイな世界に引きずり込まれるような夕暮れである。

 今から100年前の32555歳のドビュッシーは静かに墓場へと去って行った。音楽の中に命の輝きを刻んで。

(新聞掲載日 2018年3月23日)


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海を見ていた日のこと

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 牙をむく黒い海を呆然と見ていたあの日から7年が過ぎた。あの未曾有の大震災の直後、海外のメディアが、地震や津波、原発事故を伝える報道に加え、日本人の行動に注目し、その美徳を称えたことを思い出している。
 
今回のオリンピックでも、世界は日本の選手たちの言動を大いに称えた。世界のひのき舞台に立つ若きアスリートたちが、日本人の美徳を世界中に知らしめ、そしてその素晴らしさを、我々にも思い出させてくれた。
 
明治期に訪日した欧米の知識人たちが称賛した品格ある日本人、世界一美しいと称賛した気立ての良い日本の女性が、100年以上たった今も健在であることを証明してくれた若きアスリートたちに、まず「ありがとう」と言いたい。

 数年前のこと、クリスマスで大混雑のUSJで手袋を片方落としてしまった。帰り、ダメ元でゲストサービスに寄ってみたが、やはり届いていない。届いていないことが確認できただけでよかったのだが、「何時ごろですか」「どの辺りで落とされましたか」と懇切丁寧な対応である。窓口はどこも長蛇の列、たかだか手袋一つのことで気が引けて落ち着かない本人をよそに、係の女性は、もう片方の手袋をスケッチし特徴をメモし終えると「もし出てきましたら送らせていただきますのでご住所をご記入ください」と笑みを浮かべ慌てる様子もない。
 
手袋のことなどすっかり忘れていた頃にUSJから電話がかかってきた。手袋が見つかったとのこと。数日後、可愛らしいキャラクターのタグがあしらわれた片方の手袋が、わたしの元に帰って来た。

 お恥ずかしい話であるが、忘れ物常習犯であるわたしは、こんな経験だけは誰にも負けないほどある。
 
レストランでバッグを忘れた時も、駅のベンチやスーパーのカートにバッグを置き忘れた時も、財布の中身もそのままに、バッグはちゃんとわたしの元に帰って来た。ホテルの部屋に置き去りにされた腕時計、アクセサリー、スマホなども、いつもわたしの元に帰って来る。これまでの人生でお世話になった善良な人や施設は枚挙にいとまがない。こんな「ゆるい」わたしは、この日本だから何とか生きていけている。

  近年、奈良も海外からの観光客が激増しているせいか、日本の繊細な文化、日本人の美徳を再認識する機会が多くなった。
 
公共のルールやマナーを守る、非常時でも秩序ある行動をとる、整然としてもの静かである、小ぎれいで清潔である、人に優しい、正直で謙虚である、誠実で勤勉である、努力・忍耐力に長ける、品質・精度が高い、美的センスが高く繊細である、助け合い・サービス精神が高い、食事の栄養バランスやマナーが良い、挙げるときりがない。考えてみれば、夜間外を歩けるのも、出先のトイレに迷わずに入れるのも、日本人の美徳の成せるものだろう。

 自然や四季に密着した生活の感覚、人と人の絶妙な距離感など、言葉には尽くせないものも含め、わたしたちが日常当たり前のようにやっていることが、海外では必ずしもそうではないことに改めて驚いてしまう。

 ところで、バッグを忘れたレストランというのは、荒井(松任谷)由実の『海を見ていた午後』(74)に登場する横浜・山手の「ドルフィン」である。
 
注文した「ソーダ水」がわたしの前に運ばれると、店内のBGMが『海を見ていた午後』に変わった。あまりのタイミングに、何か仕掛けがあるのではとテーブルの下を覗き込んだ。
 
「ソーダ水の中に貨物船が見える」ことはなかったが、はるか穏やかな海が見える「静かなレストラン」は、30年越しの乙女の夢を叶えてくれた。
 
お店を出てから、前の坂道や看板などの写真を撮ると、大事なスマホを握りしめて車に乗り込み、そのまま奈良に帰ってしまったのだ。つまり忘れ物の常習犯がバッグを置き忘れたのは、店内ではなくお店の前の道端である。

 一日遅れで奈良に帰って来たバッグには、「ドルフィン」の青いコースターが添えられていた。

 日本はやさしい国だ。

 (新聞掲載日 2018年3月9日)


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慈愛に満ちて

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

  二月の法華寺、まことに春は名のみの寒さであるが、本堂の中は慈愛に満ち溢れ、あたたかな祈りの世界が広がる。

「ふぢはらのおほききさきをうつしみに あひみるごとくあかきくちびる」

 会津八一が「おほききさき」と詠んだのは光明皇后のこと。慈愛に満ち、聡明で光り輝く美しさに「光明子」とも呼ばれたそのお姿を写したのが法華寺のご本尊、この十一面観音だと伝わる。

 夫、聖武天皇が全国国分寺の総本山として東大寺と大仏の建立を始めると、光明皇后は国分尼寺の総本山として法華寺を建立する。今は総国分尼寺の壮大な伽藍の面影はないが、いかにも尼寺らしく、境内はどこも掃き清められ、慈しみ深く、清楚な佇まいである。
 政情不安、飢饉や蔓延する疫病に日本中があえぐ中、光明皇后は貧しい病人や老人、孤児たちのために、施薬院と悲田院を開かれた(730年)。施薬院は今で言う病院のこと。皇后は私財を投じて薬草を集め、無償で病人に施され、ここ法華寺には浴室(からふろ)を建立され、薬草を煎じたその蒸気で難病者の救済に当たられた。千人の民の汚れを拭うという願をお立てになられた際、千人目の人は皮膚から膿を出すハンセン病者であった。膿を口で吸い出してくれるよう求められると、皇后はためらうことなく病人の膿を口で吸い出された。すると、たちまち病人は光り輝く如来の姿に変わったという。日本の医学の歴史をたどると、光明皇后のこの記録に辿り着くという。

 クリミア戦争の前線での負傷兵の悲惨な状況に、国からの依頼で、看護婦団を率いて野戦病院に赴いた女性があった。フローレンス・ナイチンゲール、イギリスの看護師、看護教育学者、そして統計学者である。
 ナイチンゲールは最悪の衛生状態、物資不足の中で、敵味方に関わりなく、全力で傷病兵の看護に当たり、不衛生な病院の環境改善に尽くした。ランプを手に広い病院の夜回りを欠かさなかったナイチンゲール「ランプの貴婦人」のその灯は、今も世界中の看護師たちに受け継がれ、戴帽式の際には、キャンドルを胸に、「自分も看護師として患者を見守り続けます」と誓う。

 奈良学園大学に保健医療学部が創設されて4年目、今年初めての卒業生を世に送り出す。学部長の守本とも子先生にお話を伺うと、先生の口からはナイチンゲールのお話が溢れ出した。
 「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」この言葉を強い意志と行動で示した「白衣の天使」、統計学を用いて看護の成果を分析し実践に活かすなど、看護を初めて科学的に捉えた女性、「近代看護の祖」ナイチンゲールの存在が、先生の教育の根底にあった。
 「看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理すること-こういったことの全てを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えることを意味すべきである」(『看護の覚え書き』)ナイチンゲールが示したこれらのことは、150年以上たった今も、そしてこれからも、看護の原点・基本原理として決して色褪せることはないと語気を強められた。
 「卒業生たちには、また会いたい人になってほしい」ふと口にされた先生の言葉が心に残った。看護という枠を越え、女性として、人間としての在り方を追求されている先生の教育者としての姿勢が、この言葉に集約されている気がする。

 寒空の下、凛と咲く法華寺の庭の椿の花。薄桃色の小さな花たちは、控えめで、決して人目を惹くものではない。奢りもせず、香りも立てず、静かに咲くこの慎み深い怜悧な花に、貧窮者や孤児、難病者に手を差し伸べられた光明皇后、捨て身で傷病兵の救護に当たったナイチンゲール、そして彼女たちのもとで献身的に働いた、慈愛に満ちた女性たちの姿が重なる。

 春を待つ祈りの寺の庭に、一瞬、ショパンの「春」(Op74-2)が吹き抜けた。物悲しくも、慈愛に満ちた、慎み深い早春の旋律が。

(新聞掲載日 2018年2月23日)

 


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