「きずな」は「木綱」が語源でそれがいつの間にか現在使われいる「絆」になったという(『美人の日本語』)
「木綱」とは、馬や犬などの家畜を木に繋ぎとめておく綱のことである。
もし「きずな」が「木綱」という漢字のままだったら、間違っても「親子の木綱」のようには使われなかっただろう。いや使ってはいけない。
子どもは決して親のそばに繋ぎとめておくものではない。お腹を痛めて産んだからと言って母親の所有物ではない。
息子が15才で家を離れることになったとき、落ち込んでいる私にこう言ってくれた人がいる。
「親子の絆はできるだけ細くて長い方がいい。糸の先は見えなくても、ふと長い長いその糸を手繰ってみると糸の端っこに子どもがいる。親がいる。それでいい。どんなに細くても長くても親子の絆は切れないのだから」
昨夜、何の予告もなく息子が帰って来た。外出先から帰って来た私とキャリーを引きながら歩いている息子が自宅塀の前ではち合わせになった。
「・・・えっ?あんたこんなとこで何してんの?」
「ただいま」
年に一度二度しか帰って来ない息子がせっかく帰って来たというのに、特別でも何でもない昨日の夕飯を食べながら、まるで毎日家にいるかような他愛ない話を2時間ほどした。言いたいこと聞きたいことは山ほどあったが…。
今日、私の留守中に彼は帰る。
母が握る絆という見えない糸の反対側を握って息子はまた家を後にする。
おかん、ちょっとがんばった…。
小さい頃、お出かけというと革靴をはいて「よそ行き」の洋服を着たものだ。大好きなフエルトのベレー帽がかぶれるのも嬉しかった。
我が家は別に上流階級でも何でもない。ごく普通のサラリーマン家庭。
「よそ行き」といっても行き先はデパート。
子どもながらも、近所の大人の人や学校の先生には一生懸命丁寧な言葉を遣っていたような気がする。
家に帰ってきたら家用の服に着替え、もちろん寝るときは寝巻きに着替える。枕元には翌日着る服。
大晦日までに新しい靴、服、下着、寝巻き、お茶碗などを買い揃え、元旦からは何もかも新しいものを身につけられるよう、使えるよう、当たり前のように母が準備した。
今思うと馬鹿馬鹿しいようなことだが、この規律正しさが薄れ、失われ、徐々に今の社会風潮にいたったのではないだろうか。
美意識、生活意識など変化、低下が、外も内も同じ、目上も目下も同じ、ファストフードのお店もレストランも同じ、男も女も…こんなボーダレスの社会をつくってしまったような気がする。
人々が少し美意識を変えるだけで、社会が変わるような気がする。
「地球のまるみに気がつく」
「地球の廻っていることに気がつく」
今回のコンサートで歌った全ての曲の中で、その全ての歌詞の中で、もっとも私が好きな歌詞、言葉である。
普段、私たちは地球がまるいことを忘れている。地球が自転していることも、地球が公転していることも忘れている。
しかし、ふとそのことに気づくときはないだろうか…。
夕日が沈む瞬間、朝すこしずつ空が白んでくるとき、ふと季節の移ろいを感じたとき…
世の中には偉大過ぎて見えないものがある。
偉大過ぎて気づかないものがある。
そして、何億年もずっと変わらないものがある。
私は、悲しいときは空を見る、辛いときには宇宙のことを考えてみる。
そして布団の上で地球の引力に引っ張られながらぐっすり眠る。そしたら朝にはたいてい忘れている。
悲しいことも、辛いことも。
テーマが偉大過ぎて、練習しても練習しても先が見えなかった合唱団定期コンサート「季節の移り変わりの中で」。
指揮者人生をかけて振ったコンサートが今日終わった。
つるべ落としのごとく落ちてゆく夕日を見ながら家路を辿る。
昨夜、明日目が覚めたら鰯になっているのではないか…というほど鰯を食べた。
お刺身、つみれ、塩焼き、天婦羅、ハンバーグ、お寿司、正に鰯づくめ。
いつもの居酒屋の板前さんが、最高に脂ののった鰯を仕入れて、絶品鰯料理で「鰯が食べたい!」という私の願望を叶えて下さった。
とことん味にこだわること、これはどうやら男性の方が得意なようだ。
その食材の一般的な価値ではなく、その食材の品質的価値 (鰯より鯛ではなく鰯の最上級品というように) にこだわることには男性の方が長けている。
それに比べ女は、お店の雰囲気、値段、立地などのことを抜きにして、とことん味にこだわることが苦手だ。
少々まずくてもお店の雰囲気に酔って食べることができ、安ければ許せたりもする。
しかも女には、もったいないからと、とりあえず全部食べる力が備わっている。
美味しいラーメンを食べるためにはるばる出かけるのも、延々並んで待つのも苦手だ。
女には食通がいないわけ(極少ないわけ)、板前さんやコックさんに女がいないわけ(極少ないわけ)が分かるような気がする…昨日、居酒屋のカウンターで鰯料理を食べながらそんなことを考えていた。
今朝目が覚めたら、私は鰯にはなっていなかった…。
私が今までに出会ったリーダー的存在な人の顔を思い浮かべてみても、どの人もみな「話を聞いてくれる人」であり、そして「また会いたいと思う人」である。
人にとって「話したいことをどんどん話せる」ほど心地よいことはない。
人は「心地よくさせてくれる人」が好きだ。
このことが話力の鍵。
しかし「話を聞く」と言っても、相手が話してくれなくては聞くことはできない。
つまり、話力のある人というのは「聞き上手」では不十分、「話させ聞き上手」な人ということになる。
ではどうしたら相手は話してくれるのだろう、心地よくどんどん話してくれるのだろう。
こんなことまで考えたことがあるだろうか。
今日あの人と会うのに何を着ていこうか、と考えるように、今日はあの人とどんな風にしゃべろうかなんて考えたことがあるだろか。
毎日毎日何気なくやっている「話すこと」をもっと意識したらどうなるだろう。
もう次はない!ぐらいの一期一会の気持ちで会話に向かいあったらどうなるだろう。
会話に向かいあう気持ち、人に向かいあう気持ちを少し変える、それだけで「また会いたいと思う人」に一歩近づけるような気がする。
庭の花一輪、テーブルに飾ってみるとどんよりした心に灯りがともる。
雨の日には、とっておきの珈琲を淹れる、大好きな音楽を聴く、ファッション雑誌を見る、「めがね」のDVDを観る、お豆を煮る…私は自分を元気にする技をたくさん持っている。
出かける日にも、『やった!雨だ!』と思える技がある。
雨だからといって車に頼らない技。
雨だからといって『今日はやめよ…』と思わない技。
大好きな傘を持つこと。
昨日、小さな傘屋さんの一本の傘と目が合ってしまった。
「こんにちは! すみません、あの傘見せてもらっていいですか?」
〈ほぐし織〉の傘。
私の目を惹いた柄はプリントではなく織られているものだった。
少し大き目で、バッグも歩く足元もすっぽり包んでくれる。コンパクト傘とははっきり違うところがまたいい。
扱い方、たたみ方などを親切に教えてくださった。私が長年やってきたたたみ方が間違っていることが昨日初めてわかった。
昭和っぽいレジのキーを打ちながら「あれぇ…おかしいなぁ…調子が悪い…」と首をかしげるおじいちゃん。
何とレジの電源が入っていなかった。
午後2時過ぎ…どうやら私が昨日の初めてのお客だったようだ。
自分へのプレゼント。
雨の日のお出かけが待ち遠しい。

「今できることを後回しにする人間はイライラするねん」
今朝、朝ドラの中で堤真一が言った台詞を思わずメモした。
今できることを何だかんだと理由をつけて後回しにする人、やる前から「それは難しい、無理だ」と言う人、こういう人が私はどうも苦手だ。
同じ問題を「いかにそれは難しいか」と語る人もいれば「いかにそれは面白いか」と語る人もいる。
解釈次第で難しくも面白くもなるものなら、面白楽しくチャレンジしていくほうが私は好きだ。
私は「いかにそれは難しいか」を語る人には無意識のうちに近づかないようにしていることに最近気がついた。
呆れられるほどのプラス思考体質、楽観的思考体質の私がどうしようもなく落ち込んだ時…実は私にはそんな時の駆け込み寺がある。
「いいねぇ」
「面白そうじゃない」
「やればいい」
「できるできる!」
その人からはこんな言葉しか聞いたことがない。
その人はとにかくすることが早い。直ぐに行動される。そして、その人が動くと人が動く。
貧乏のどん底、遠足に行くお金が払えない、そんな家庭に育ちながら教師になられたその人、私が心から尊敬するその人がこの10月から某大学の学長に就任されたという報せが届いた。
解釈次第。やっぱり乗り越えられない問題なんて何もない。
感慨深い夜である。
人格を見ずに人を育てようとしても、心を失った“機械”がつくられるだけだ。信じ、待ち、愛することで人は人間らしく成長する。
(「トップランナー」記事より抜粋)
この「比嘉 昇」こそ私の人生の恩人である。彼と出会わなければ今の私のこの人生はなかった。いや、私はこの世にいなかったかも分からない。
比嘉先生の教師人生最後の赴任先であった中学校に私の次男がいた。問題児の問題は全て母親にあることに気づくのに時間はかからなかった。
比嘉先生からの「1本の電話」で私は変わった。そして子どもが変わった。
今日、比嘉先生が京都の加茂に開校されたフリースクールの10周年記念の祝賀会に出席させていただいた。
この10年間に、何らかの理由で学校に行けないおよそ100人の子どもたちが「ひが のぼる」の元から中学校へ、高校へ、大学へ、社会へ巣立っていった。
「やっと見つけた、俺の居場所や!」
これはこのフリースクールに通うある男の子が言い放った言葉である。
「では診させていただきますね。
右上を見てください、右横を見てください、右下を…」
その先生の診察はこんな感じで始まる。
その先生の言葉使いがとても気持ちいい。何が気持ちいいか、誰に対しても言葉の使い方が同じであることが本当に気持ちいい。
患者さん、看護師さん、お掃除のおばさん、その先生は誰に対しても言葉が丁寧であたたかい。相手や場によって決して使う言葉や態度を変えられない。
以前、講演を終わられたある会社の社長が、一目につかない廊下の片隅で、お供に連れてこられた社員さんに罵声を浴びせられているところを見てしまったことがある。どれほど見下しているのかというような酷い言葉使い、講演中の物腰柔らかな姿とはまるで別人であった。
レストランのウェイターさんへの横柄な言葉に興醒めした男性もいる。
私は相手や場によって言葉使いや態度を変える人は一番許せない。
言葉使いはマナーではない。相手への気持ちの表現である。
相手に対してどんな気持ちで向き合っているかのあらわれ、その人が社会に対してどんな気持ちで向き合っているかのあらわれである。
その先生とは一度もプライベートでお話したことはないが、お人柄はおおかた想像がつく。
その人の言葉の使い方、口にする言葉はその人の人間性のあらわれであるような気がする。
昨日もまた、先生から言葉の使い方を学ばせてもらった。
来週のウィークエンドはパリで過ごします!と言ってみたいところだが、残念ながら、結婚30年目を迎える50代の英国人夫婦を描いたイギリス映画のタイトルである。
映画の中で「子どもが独立したあと私たちには何が残っているの?」と妻が問う。「君に捨てられないか恐怖を感じる」と夫が言う。
こんな映画がヨーロッパで制作されると言うことは、熟年夫婦の危機は万国共通なのか?などと思いながら、今日の新聞の映画解説に読み入っていた。
同新聞の「日本のシニア夫婦の意識」についてのアンケート結果が非常に興味深い(アクシアネット調べ)
対象は50~80代の男女1211人。
【普段の生活で楽しみにしていること】
男性の1位は「テレビ・ラジオ」(約40%)、2位は「パソコン・インターネット」であったのに対し、女性の1位は「友人との交際」(約50%) 、3位に「食事」が入るなど、男性は「内向き」、女性は「外向き」の傾向が見られる。
【今後、趣味としてやりたいこと】は男女とも「国内旅行」が一位。
足並み揃って一件落着のようだが、男性は妻と一緒にのつもりでも、女性は友人と行きたいと思っている人が多いと言う。
ここはプッと吹き出さねばならないところかもしれないが、同年代として笑えないのが現実^^;
さて「結びの言葉」が見つからないまま私はこのブログを閉じるとします(笑)
映画「ウィークエンドはパリで」は9月20日より順次全国で放映されています。興味のある方は映画をご覧になってご自分で「結びの言葉」を見つけてください…。
「正論を盾にしゃべるやなんてトークやない。俺らはファンタジーで生きてるんや!」
今日、実に気持ちのいい言葉で心のど真ん中を射抜かれた。
みんなで楽しい会話をしているとき、真顔で正論を語られて一気に場がしらけてしまう時がある。
その場のみんなが充分認識している正論をわざわざ言う人。
そういう人は、自分の会話力が劣っているなんて夢にも思っていない。
会話と言うものは正論ギリギリというのが楽しい。
例えば、
「◯◯部長、女子社員へのセクハラが原因で降格だってさ、知ってた?」
A「セクハラ⁈ そりゃよくないな。降格は当然でしょう」
B「セクハラ⁈ 俺も一度でいいからやってみたいなぁ」
同じNOでも正論ギリギリをついているBさんのトークはとてもどこか好感が持てる。
正論ギリギリのトークはとても楽しい。会話が弾み心が和む。
こんな会話の中に、スムーズなコミュニケーションの秘訣、仕事の成功の鍵があったりする。
会話力の高い人ほど、この正論ギリギリのトークが上手い。
今日、気持ちいい言葉で私の心のど真ん中を射抜いた人は明石家さんま。
個人的に、彼のトークが大好きである。彼はトークの天才だと思う。
「ストーップ!全然ダメ!
ここは愛する人を想って歌ってるところ!もっと感情移入できないかなぁ…
もっと色気出して歌わないと!」
今日、合唱指導中、思わず声を荒げてしまった。
歌には「恋」の歌が多い。しかも切ない恋、悲しい恋の歌が圧倒的である。
こういう歌は美しい声だけでは手に負えない。
よく訓練された美しい声やテクニックをもっても、残念ながらどうしても歌い切れない歌がある。
経験を通した表現力が大きくものを言う歌がある。
私も、二十代で歌った歌を再び歌っていて『こういうことか…』とこの年になって気づくことがある。歌っていて、いやにしっくりきたりする。
年を重ね、経験を積み、たくさん涙を流して得たものは、歌うことに限らず、人としての貴重な肥やしである。かけがえのない財産ある。
顔も同じ。
顔には自分の生き様が刻まれている。そこには自分が生きてきた証しがある。
何も口にしなくても心のあり方がそっと顔に現れていたりする。
女性はやたらシワを隠したがるが、シワも一つの魅力だったりすることも忘れないで欲しい。
例えば、目尻のシワはたくさん笑って生きてきた証しかもしれない。
いい年してひとつもシワがないのは、逆に不自然で恐ろしい気さえする。
シワを気にするより表情を気にした方がいいというのが私の考え。
「美しい顔」より「いい顔」を、
「美しい声」より「いい声」を、
そして、
「美しい女」より「いい女」を目指したい。
秋刀魚もようやく手の届く値段になってきましたね。
さて、美味しそうな塩焼き、いざ食べようとすると、また秋刀魚と目が合ってしまいました。
実は私はお魚を姿のまま食卓に並べるのがやっぱり苦手です。
以前、独唱会で金子みすゞさんの詩による童謡歌曲集全曲を歌ったことがあります。
その中に「おさかな」という曲があります。
「おさかな」
詩:金子みすゞ
曲:中田喜直
海の魚は かわいそう
お米は人に作られる
牛は牧場で飼われてる
鯉もお池で ふ をもらう
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずらひとつ しないのに
こうして私に食べられる
ほんとに魚は かわいそう
この歌をうたってしばらくの間、私はお魚が食べられなくなってしまいました。お魚のお料理ができなくなってしまい困りました。
今は、元通り大好きなお魚を食べられるように、もちろんお料理することもできるようになりました。
あの歌をうたう以前の私に戻ることができました。
その代わり、次のことが以前と違います。
●手を合わせて「いただきます!」と言う。心を込めて、心から感謝して。
●食べられるところは全部いただく。
これが私流のお魚のいただき方です。
私のお魚の食べ方、食べ終わった後のお皿見て驚かれた方は多いと思います^^;
深海、月夜、紺碧、天色…
今朝、夜から朝に空が移り変わっていくところを見ました。
地球はやっぱり回ってるんですねぇ…
夜が明けてゆく空をじっと眺めていたら、ふとある光景を思い出しました。
文具屋さんのインク売り場。
初めてボトルインクを買いに行った時、青色にあまりにもたくさんの種類があることにびっくりしてしました。と同時に、自分の色の表現力の乏しさを痛感しました。
実は最初の「深海」「月夜」「紺碧」「天色」これらはみな某社のボトルインクの名前です。
今朝の空の色を感じたままに挙げてみたのですが、実際にはブルー系だけでももっともっとたくさん種類があります。
朝焼けになりそうな空は「紫式部」「山葡萄」のような赤味がかった色を見せてくれます。やはりこれらもインクの名前です。
便利なペンで事足りる毎日ですが、一本だけ万年筆を持ってみませんか?
空の色、海の色、草花の色…自然の中の無数の色、思いがけない宇宙が広がりますよ。
「あなたの新しい帽子、エレガントでとてもよく似合っていたわ、ダイアナ。このまえの日曜日、あなたがあの帽子をかぶって教会に入ってきたのを見て、あのすてきな人はわたしの親友なんだって思ったら、もう得意で得意で、胸がいっぱいになっちゃった。」(「赤毛のアン」より)
新しい帽子のことをこんな風にほめられたらどれほど嬉しいでしょう!どれほど幸せでしょう!
「素敵な帽子ね」とポツリと言われるのとでは月とスッポンです。
私の話し方講座では、もちろん専門の「声」のことにも触れますが、一番お伝えしたいのはこういう「相手の心をつかむ言い方」です。
と言うと、相手を喜ばせるために心にもないことを無理に言うように聞こえますが、違うのです。
もし、みんなから注目されている素敵な人物が自分の親友だとしたら…自慢したくなる気持ち分かりますよね。
『あの人、私の親友なのよ!』って叫びたくなります。
私たちは表現力が乏しいゆえ、また照れ臭かったりなどして、上手くこの気持ちが伝えられないだけなのです。
こういうことがサラリと言えるようになってくると、つかう言葉を変えることができるようになると、人間関係がみるみる変わって来ます。
性格を変えるのは安易なことではありませんが、つかう言葉を変えることは明日からだってできます。
相手のハートをつかむ言葉、そんな魔法の言葉をつかえるようになったら、きっと人生を変えることだってできるはずです。
「魔法つかい」になるのは難しそうですが「魔法言葉つかい」にはなれますよ、誰でも^ ^