平成22年2月22日:5つ並ぶぞろ目の日って、「1」と「2」しかないですね~。もっといえば22時22分22秒・・・。とっても珍しいこの日その時に、さてあなたはなにをしますか?全国で結婚式を挙げたり、婚姻届を出したカップルも多かったとか。
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さてさてなにかと話題の尽きない後醍醐天皇です。権力志向が強く独裁的で強引という反面、芸術的才能も豊かな文化人でした。意外なことに、最初歴史に姿を現すのは1302年の「歌合せ」における短歌で、当時15歳です。
写真:吉水神社は昔の絵図と変わっていません。
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『帝王後醍醐』(村松剛、1978、中央公論社)には、「『増鏡』には約200首のうち最多の28首、『続千載和歌集』など5つの和歌集で73首(父の後宇多院に次ぎ第二位)、勅撰『新葉和歌集』には46首が掲載されている」と記述しています。その他著作もあり、筝(そう:琴に似た弦楽器)や琵琶(びわ:弦楽器)、笙(しょう:木管楽器)などの演奏にも優れていました。
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吉水神社など2ヶ所に天皇自作と伝わる木造彫刻が残っています。同神社の天皇直筆和歌(写真右)の文字は流れるように美しく、(今見ると)女性的な感じです。達筆だったのでしょう。
※この写真にもオーブが!
そしてなにやら名札の下が透けて見えるよ~(偶然?)
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吉野において詠んだ有名な歌もたくさんあります。<o:p></o:p>
◎『花に寝て よしや吉野の吉水の 枕の下に石(いわ)はしる音』<o:p></o:p>
吉水院(吉水神社)に入ってまもなくの頃、桜の花と瀬古川のせせらぎが印象的だったのでしょう。<o:p></o:p>
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次の歌には吉水宗信法印との強い信頼関係が伺えます。<o:p></o:p>
◎『みよしのの 山の山守 こととはん 今いくかありて 花やさきなん』<o:p></o:p>
(吉野の山の桜と、我が人生の花は、いつ咲くのでしょうね)<o:p></o:p>
宗信法印返歌<o:p></o:p>
◎『花さかん 頃はいつとも 白雲の いるを知るべに みよしのの山』<o:p></o:p>
(花がいつ咲くか、よくはわかりませんが、必ず素晴らしい花が咲きますよ)<o:p></o:p>
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写真:後醍醐天皇玉座
病床に伏し臨終が近いときにはこんな歌を詠まれました。<o:p></o:p>
◎『露の身を草の枕に置きながら 風にはよもと頼むはかなさ』
(人の生命は草の葉に置く朝露のようなもの、まして旅の身にあってはなお さらのこと。都の方から聞こえてくる風の便りに、一筋の糸のような望みをつなぐ心のはかなさよ)
表面的な強さとはうらはらに、弱さや心細さなどの感情が率直に表現してあり、とても人間らしく親しみを感じます。あるいはこうした多面性がリーダーシップとともにカリスマ性や魅力を付け加えていたのでしょうか。<o:p></o:p>
しかし遺言『我が玉骨はたとえ南山の苔に埋もれるとも 魂は常に北闕(ほっけつ)の天を望まんと思う』から明らかなように、後醍醐天皇が愛していたのはあくまで「京都」であり「政権のトップ」だったようです。
写真:脳天大神への急な階段の途中に「剣」
その意味では後醍醐天皇はじめ南朝軍は、奈良県南部の人々を戦いに巻き込み、大変な犠牲や労力を強いたとも考えられます。まさしく「南山のコケにされた?」 しかし南朝ゆかりの地域では、現在に至っても勤皇の精神や誇りはしっかりと受け継がれているのです。<o:p></o:p>
前述した『住職がつづる とっておき 金峯山寺物語』(五條順教、2006、四季社)には次のようなエピソードがあります。「私の祖父五條順海は吉野山に天皇陛下が来られても出て行かなかったといいます。現在の天皇は北朝系だから、というのです。それが一昔前の吉野人の心情だったのでしょう」。吉野の人々は南朝や後醍醐天皇に対して思い入れが強いのですね。<o:p></o:p>
写真:蔵王堂の気さくなお坊さんから「お供えのおすそ分け」を頂きました。ありがたいです。
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