写真:朝拝式が行われていた川上村「御座ぐら」(ござぐら)
う~む、またまた二週間もあいてしまいました。あいよっこが関わっている「なら犯罪被害者支援センター」の機関誌「ハートニュースVol.10」の作成で、締め切りに追われていました。
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また同センターのブログ「ハートさんの活動だより」にも関わっているのですが、ブログには機関誌より詳しい情報やタイムリーなニュースを載せることができます。被害者支援に関心のあるかた、情報が欲しい方はアクセスしてみてくださいね。そしてブログには「成果物」として「同センター事業報告」「ハートニュースのバックナンバー」その他も置いています。(ここまで日記)
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前回、多くの史料に名前が出てくる「北山郷」の場所がどこであったのかが問題、と書きました。<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の">『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』(昭和39年、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>役場発行)を再び開いてみます。書いているうちにたくさんの分量になってしまったので、今日と明日の2日間にわけます。
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「康富記」の文安元年8月6日の記事にはじめて「北山」の名が現れていますが、「吉野奥が紀伊国内」だと言ってみたり、「北山・南山トテ両所アリ」とも言っています。つまり「北山」は熊野側から見た名前であり、京都からみれば南方の大和の紀州の間にある山地をばくぜんと意味していたようなのです。<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>においても自らを「北山」とは称せず、「神河三村あるいは三村」と呼んでいたようです。
写真上:川上村烏川神社
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その後「・・・『上月記』にいう一ノ宮の北山の御座所とは何処であろうか。これは寺伝なり、残された資料について見るならば小橡の滝川寺以外には考えられない」とも言っています。
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<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の">『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』では、このように「当時の人々の地理的認識から考えて、確定ができない」と書いてはいても、その後「・・・は確かだ」とか「そうとしか考えられない」という文が続いていることが多いようです。
写真右:川上村金剛寺の「河野宮墓」
個人的な印象としては「伝承・伝説を確認・分析することは不可能」としながらも一方で「それは確かだ」「それとしか考えられない」という結果が続くのは、ちょっと合理性や整合性には欠けると感じてしまいます。おそらくさまざまな資料から確かなこと、と言えるのかもしれないですが・・・。
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だけど滝川寺の霊室に北山宮の位牌を収めた厨子があり、位牌の表には菊花紋を飾り
(表) 当山開基南帝王一宮自天勝公生聖仏<o:p></o:p>
(裏) 康正三丁北十二月 滝川四世泰岸改之<o:p></o:p>
と書いてあるそうで、製作時代や信憑性は問題ですが、これは証拠となるのかな?
いずれにしてもあいよっこには旧カナ使い文章はしっかり読むことも正しい理解も難しいのです。ざんね~ん。
明日に続く
写真:川上村は標高が高いので霧も発生しやすい
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