あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

南帝王(なんておう)さまのお墓で紛争状態に

2010-10-15 01:11:43 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

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             写真:川上村高原の福源寺。数年前までここでも「朝拝式」が行われた

 

 

  『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』(昭和39年、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>役場発行)には、一ノ宮(北山宮)のお墓について「北山宮の御墓は(滝川寺の)本堂の背後、高い所にある。阿弥陀堂の横から石段によって通じている。明治維新までは『王の墓』とか『南帝王の御墓』と称していたが、日下部守亮などが率先して山緒を明らかにするため願い出、明治二十六年、北山宮御墓として公認せられた。

 

 当時の住職 林水月がその顕彰につとめ、明治四十五年一月二十九日、宮内省告示第1号をもって後亀山天皇玄孫、北山宮御墓と確定せられた」と記述しています。

 

<o:p></o:p> 写真:福源寺外観<o:p> 

 

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  西原にある宝泉寺住職をしていた林水月は、明治37年に滝川寺の住職に転じました。彼こそが地道に北山地域の後南朝史跡や文献の調査を行い、北山宮の御治定に影響を与えた人で、のちに「北山宮御墓御治定雑録」を記述し、功績(自分の?)を伝えています。

<o:p></o:p>

 

 

それによると、滝川寺のお墓を宮内省が知ったのは明治22年ですが、このときは「<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>神之谷金剛寺のお墓を北山宮の墓」と定めています。その後滝川寺地域の史跡を知るようになり、26年に「御陵墓傳説地」として保存することになりました。

 

 

写真右:白川渡八幡神社。とてもユーモラスな絵。

    川上村の神社には多く絵が描いてある。

  

<o:p></o:p> 

この頃林水月は後南朝の史実の調査結果を持って上京し、宮内大臣田中光顕に「北山宮御墓を北山の地に御治定になるよう」申し出ました。

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<o:p></o:p>                     彼の努力が宮内省を動かし、36年には北山御陵の工事<o:p></o:p>に取り掛かり、その後の御治定となりました。林水月が根本資料としたのは、長禄の変でたった1人生き残ったといわれる上月左近将監が表した「上月記」で、それを基に「北山宮私考」や「南朝遺跡吉野名勝誌」を出版しています。

 

 

<o:p>写真:白川渡八幡神社の裏手にある「後南朝将士墓」</o:p>

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つまり<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>に伝わる「長禄の変において、赤松の残党に殺された自天王の首を取り戻して、『御首載岩』に載せて供養し、その後金剛寺の高台に埋葬した」という伝説は否定され、「北山の滝川寺で殺されて、そこに埋葬された」の説が認められた、ということになります。

 

 

<o:p></o:p>

その後の<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民の驚天動地は以前にも書きましたが、両村はかなりの敵対関係が続いたようです。林水月は「策謀の中心人物」とされ、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民の風当たりが厳しかったので、滝川寺住職の職を退きました。<o:p></o:p>

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ひとつ天皇のお墓の問題で両村の間で紛争が起こりかねない状況だったようです。資料を読んでいると、人々の天皇様に対する篤い信仰心や郷土愛、昔から伝わっているものを守る心意気などが立ち登ってくるようです。熱いドラマがあったのですね。 

 

写真:上北山村滝川寺

コメント (2)
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『上北山村の歴史』から北山宮のお墓をさぐる

2010-10-12 22:15:57 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

                

                          写真:朝拝式が行われていた川上村「御座ぐら」(ござぐら)

 

 

う~む、またまた二週間もあいてしまいました。あいよっこが関わっている「なら犯罪被害者支援センター」の機関誌「ハートニュースVol.10」の作成で、締め切りに追われていました。 

<o:p></o:p> 

また同センターのブログ「ハートさんの活動だより」にも関わっているのですが、ブログには機関誌より詳しい情報やタイムリーなニュースを載せることができます。被害者支援に関心のあるかた、情報が欲しい方はアクセスしてみてくださいね。そしてブログには「成果物」として「同センター事業報告」「ハートニュースのバックナンバー」その他も置いています。(ここまで日記)

 

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前回、多くの史料に名前が出てくる「北山郷」の場所がどこであったのかが問題、と書きました。<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の">『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』(昭和39年、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>役場発行)を再び開いてみます。書いているうちにたくさんの分量になってしまったので、今日と明日の2日間にわけます。

 

 

<o:p></o:p> 

「康富記」の文安元年8月6日の記事にはじめて「北山」の名が現れていますが、「吉野奥が紀伊国内」だと言ってみたり、「北山・南山トテ両所アリ」とも言っています。つまり「北山」は熊野側から見た名前であり、京都からみれば南方の大和の紀州の間にある山地をばくぜんと意味していたようなのです。<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>においても自らを「北山」とは称せず、「神河三村あるいは三村」と呼んでいたようです。

 

 

写真上:川上村烏川神社

 

<o:p></o:p> 

その後「・・・『上月記』にいう一ノ宮の北山の御座所とは何処であろうか。これは寺伝なり、残された資料について見るならば小橡の滝川寺以外には考えられない」とも言っています。

 

 

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<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の">『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』では、このように「当時の人々の地理的認識から考えて、確定ができない」と書いてはいても、その後「・・・は確かだ」とか「そうとしか考えられない」という文が続いていることが多いようです。

 

 

写真右:川上村金剛寺の「河野宮墓」

 

 

 

個人的な印象としては「伝承・伝説を確認・分析することは不可能」としながらも一方で「それは確かだ」「それとしか考えられない」という結果が続くのは、ちょっと合理性や整合性には欠けると感じてしまいます。おそらくさまざまな資料から確かなこと、と言えるのかもしれないですが・・・。 

 

 

<o:p></o:p> 

   だけど滝川寺の霊室に北山宮の位牌を収めた厨子があり、位牌の表には菊花紋を飾り 

(表) 当山開基南帝王一宮自天勝公生聖仏<o:p></o:p>

(裏) 康正三丁北十二月 滝川四世泰岸改之<o:p></o:p>

と書いてあるそうで、製作時代や信憑性は問題ですが、これは証拠となるのかな? 

 

 

 

いずれにしてもあいよっこには旧カナ使い文章はしっかり読むことも正しい理解も難しいのです。ざんね~ん。

明日に続く 

 

写真:川上村は標高が高いので霧も発生しやすい 

 

 

 

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