あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

皇子たちが分身となった後醍醐天皇の政策

2010-02-19 16:36:43 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

  18人の后妃を持ち、36人の子女・・・」今回のお話もここから始まります。後醍醐天皇の政治には、数多い皇子たちの力も大きかったのです。『皇子たちの南北朝』(森茂暁、1988、中央公論社)には、後醍醐天皇の全国制覇という夢の実現のため各地に派遣され、命さえ惜しまず働く彼らの姿が描き出されています。

 

 

<o:p> 写真右:如意輪寺に残る「楠木正行(まさつら)時世の扉」「かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る名をぞとゞむる 」死を覚悟して出馬した当時23歳でした。</o:p>

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しかし尊良(たかなが:読み方は諸説あり)、世良(ときなが)、護良(もりなが)、恒良(つねなが)の4皇子は後醍醐本人が亡くなったときすでに世を去っており、成良(なりなが)は北朝公家に預けの身、残っていたのは宗良(むねなが)、懐良(かねなが)、義良(よしなが)ら3皇子のみだったといいます。後醍醐亡き後、義良が後村上天皇として即位したのは12才のときでした。

 

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こうした政策もあり、南北朝時代ほど全国を舞台に多くの人々が移動したり、戦ったりした時代はかつてありません。皇子や忠臣たちの戦跡やゆかりの寺社は、北は奥州(出羽・陸奥)から、北陸(越前)、鹿児島(薩摩)まで広範囲に及んでいます。

 

 

写真:如意輪寺の金剛蔵王権現木像。戦闘のポーズです。

 

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 奈良県内でも当然ながら激しい戦いがありました。『住職がつづる とっておき 金峯山寺物語』(五條順教、2006、四季社)には蔵王堂の西側にあった皇居周辺でのすさまじい戦闘を記述しています。「・・・北条方の軍勢は大塔宮の本陣であった蔵王堂を落とすために、急峻な谷を攻め上り、押し戻されて、両軍にたくさんの死者が出た。・・・付近は『暗がり谷』『地獄谷』と呼ばれた」

 

 

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吉野朝宮跡西側の急な階段を下っていくと、そうした人たちの慰霊も込めて開かれた「脳天大神(のうてんおおがみ)」があります。とてもインパクトの強い名前に興味を惹かれます。 

 

 

写真:脳天大神に参拝する修行者

 

 

修験道の修行、特に女性の修行のために滝や道場が開かれたこともあり、女性参拝者も多く、脳の病気や頭痛などに霊験あらたかなのだそうです。

 

 

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「え~っ、こんなところに南北朝の戦跡が?」と驚いたのは<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県御所市;" Address="御所市">御所市</st1:MSNCTYST>の山麓線沿いにある九品寺(くほんじ)の「千体仏」です。「これより千体石仏」の案内板を進んでいくと、数多くの石仏さまたちに驚きます! その数1600とも1700とも言われ、土中からの出土は現在も続いているそうです。(写真右)

 

 

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  南北朝時代に当地の豪族「楢原(ならばら)氏」は南朝側について戦い、兵士の身代わりとして石仏を奉納したと伝わっているのです。(<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県御所市;" Address="御所市">御所市</st1:MSNCTYST>HPより)吉野地域だけでなく広い地域まで南朝勢力が及び、さらにこの地域だけでも膨大な兵士が亡くなったということですね。(続く)<o:p></o:p>


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