昔、粟ヶ崎遊園という大遊園地がありました。
現在では跡形もないのですが、遊園の門だけは「風と砂の館」の隣の公園に移築されています。
粟ヶ崎遊園は、1925年(大正14年)「北陸の材木王」と言われた平澤嘉太郎が資材と投じて
「市民の別荘を作りたい!」と、宝塚のような一大アミューズメントパークを目指しつくりった大遊園地です。
金沢から遊園までの電車、浅野側電気鉄道を建設。
遊園の中には遊園地はもちろん、レビューや演劇を見る大劇場、大浴場、動物園、旅館、洋食堂など
さまざまな施設がありました。
その後、戦時色が強くなり1941年(昭和16年)に軍に接収され閉園となりました。
内灘闘争
内灘町は、河北潟と日本海に挟まれた南北に細長い砂丘のまちです。
戦後1952年(昭和27年)9月、朝鮮戦争の動乱の中、日米安全保障条約の締結もあって
アメリカは試射場として内灘砂丘地の接収を決めました。
村民は接収には絶対反対として、大きな反対運動がおこりました。
その後、4ヶ月間の一時接収を認め、砲弾試射場ができました。
一時接収の期限が切れた後も、政府は継続使用を希望。
永久接収に絶対反対の村民大会が開かれるも、政府は継続使用を決定。
反対運動はますます激しくなり、村民だけではなく全国から学生や労働者が内灘に来て、
座り込みなどを行いました。
内灘闘争は大戦後初の基地反対運動となりました。
朝鮮戦争終結後1957年(昭和32年)政府は村に試射場の土地を全面返還しました。


沖縄の問題も、他人事ではなかったという歴史。
人は歴史から、もっと学ばなければいけません。
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