グー版・迷子の古事記

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怨念桜(1)

2013年12月06日 | 落書き帖

濃緑色のトラックに乗り込みマイセンライトに火をつけた。
二夜三日の山奥での軍事演習も半分が終わり、残す所あと一夜となった。
一夜を明かした陣地を撤収し次の陣地へと向けこれから移動するところである。
移動の間の一時の休息に、それぞれの隊員がそれぞれにくつろいでいた。

「今回の演習は無事終わるかもしれないな」

砲班長の大田二曹はタバコをくゆらせながらつぶやいた。
山奥の天気は変わりやすく雨が降り嵐になる事もめずらしくない。
雨に降られると地面はぬかるみ10トン近くある大砲は思い通りには動かなくなる。
また身に着けた装具も水泥にまみれ、その水泥は体の温度を奪い極度の疲労が襲ってくるのだ。
大田二曹の12年間の自衛隊経験でも、凪山(なぎやま)での三日間の演習で雨が降らなかったことなど未だに無かった。
凪山(なぎやま)とは名ばかりで、山の中では荒れているほうが普通なのだ。
それが今回は天候にも恵まれ、事前に調べてきた天気予報でも雨の降る気配すらなかった。
トラックに揺られながら安穏としていると、備え付けの無線機から声がする。

「奥さん、奥さん、こちら六丸、どうぞ。」
「はいはい、こちら六三、どうぞ。」

通信員の林三曹は、中隊本部からの無線にちょっと拍子抜けしたと言う顔をして無線をとった。
中隊本部からの声は田中曹長だった。
田中曹長は「六三」と言うべきところをおちゃらけて「奥さん」と言ってきたのだ。

田中曹長はたたき上げの中隊の最長老だった。
側に若い中隊長がいるのにも係わらず、それでもおちゃらける所は年の功のなせる業であろう。
また中隊の無線周波数はその上の大隊の無線周波数とは違うため、少々おちゃらけてもお小言を言われる事もないが、もし無線を監視されてたら?と思うと普通の隊員には出来ない事であった。
そこもやはり、大隊の中でも一二を争う長老のなせる業であろう。

「こら林、気を抜くんじゃないぞ、どうぞ。」
「了解です。ところで何か用ですか?どうぞ。」
「ばかやろう、用が無いのに無線するわけないだろう、どうぞ。」
「はいはい、わかりました。で、その用とは何ですか?どうぞ。」

二人とも今回の天候の良さに気を良くして口が軽くなっている。

「おぉぉ、次の陣地が決まったぞ、どうぞ。」
「どこですか?どうぞ。」
「そこから東の方にある緩やかな谷になっている所わかるか?どうぞ。」
「それだけじゃ、わかりませんよ、どうぞ。」
「ちっ、使えねぇ奴だな、怨念桜のある谷だよ、どうぞ。」
「はいはい、了解しました、どうぞ。」
「谷の上の方に陣地を確保して目印つけてあるから間違えるなよ、どうぞ。」
「了解です。どうぞ。」
「山の天気は変わりやすいから、しっかり穴掘っとけよ、どうぞ。」
「へいへい、了解です、どうぞ。」
「うむ、それじゃこれにて終わり。」

林三曹が無線を置くと、班長の大田二曹が声をかけた。

「ターさん、絶好調だったな。」
「はい、ターさんは怖い物なしですよね。」

これから向かう緩やかな谷にある怨念桜は怨念とは名ばかりで、何か祟りがあると言うような謂れも無い。
もしかすると昔はその様な謂れが有ったのかもしれないが、今ではその様な謂れがあった事を知る人もいなかった。
その緩やかな谷は、戦後自衛隊が接収して演習場とするまで一つの小さな村だった。
谷の底にある怨念桜のある辺りから西の山の頂へ向かって村があったような形跡は地面を掘り返さないと分からないくらいで、平素は周りの山並みの一部となっていた。

(迷子の古事記 2013.11.8)