遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

古九谷写『色絵花鳥紋菱形皿』(5枚)

2024年04月19日 | 古陶磁ー全般

桜は終わりました。が、桜の掛軸はまだ掛かっています。近いうちに替えねばなりません。

面白古文書『吾妻美屋稀』の方も20回に達しました。

ずっと紙物とにらめっこをしてきたので、少々疲れました。

この辺で、少し趣向を変えます。

古九谷写しの菱形皿、5枚です。

かなり昔、駆け出しの頃に地元の骨董屋で入手しました。

その後ずっとしまいっぱなしになっていたのを、ゴソゴソ引っ張り出して、じっくりと見てみました。

11.4㎝x11.4㎝、高台 5.9㎝x5.9㎝、高 3.0㎝。江戸後期ー明治。

菱形の器に、色釉で花鳥図が描かれています。

ホツやニュウはありませんが、一部、色釉の剝脱がみられます。

5枚の内の一枚です。

古九谷らしい図柄ではあります。

色釉の剝脱なども好ましい(^^;

しかし、

裏面の造りは後世のそれです。

さらにその後の私の苦い経験によると、裏面が松葉模様の品はほとんどが後世。

こりゃ、足元を見られたな・・・・・・

冷静になって、もう一度5枚の皿を並べてみました。

見込みの鳥や草木、岩などの描き方が、5枚の皿で微妙に異なっています。後ろを振りむいた鳥までいます。陶工が鼻歌まじりに描いているような感じです。色釉の置き方もおおらか、早い話がいい加減(^^;)。そこそこの時代はありそうです。

どうやら、いかにも古九谷といわんばかりにカッチリとした近年のコピー品ではなく、幕末~明治にかけて作られた古九谷写しではないかと思います。

懇意にしていた骨董屋の主人(すでに故人)によれば、こういう類の古九谷もどきはけっこうあるらしい。本物として売るにわけにもいかず、さりとて贋物でもない。値の付け方が難しい、骨董屋泣かせの品だそうです。

江戸後期以降、九谷では、再興九谷で名のある諸窯以外の窯でも、多くの古九谷写しが作られたらしい。

でも、あえてそれを集めようという奇特なコレクターはいないでしょう。もちろん、骨董雑誌の記事に登場することはありません。

日陰の身なのですね(^^;

 

 

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堂本印象『長良川之春』

2024年04月17日 | 絵画

今回も、しつこく、桜の絵です。

日本画家、堂本印象の『長良川之春』です。

全体:47.5㎝x184.0㎝、本紙(絹本) 35.4㎝x98.8㎝。戦前。

堂本印象は、大正から昭和にかけて活躍した芸術家です。

【堂本印象】明治三四(1891)年ー昭和五十(1975)年。京都市生れ。華麗な色彩の伝統的日本画で名声を得るも、抽象画、さらには、陶芸、染色、彫刻などへも挑戦し、幅広く活躍した。芸術院会員、文化勲章受章。

ぼやーっと霞んだ桜景色の真ん中を長良川が流れています。

箱書きには、『長良川之春』とあります。箱の状態から推察して、戦前の作でしょう。

山に点在する桜。

川辺の桜。

落款や印章から、どうやら大丈夫な品のようです(^.^)

「印象」の横に書かれているのは「乾山布意」?

絵をよく見ると、中央に小さく橋(3㎝ほど)が描かれているのがわかります。

いかにも長良川らしい風景です。

岐阜市から南に山はありません。また、上流部は案外開けていて、急峻な山に沿った流れは少ないです。

ですから、この絵に描かれた場所は、岐阜市から関、美濃市にかけて、長良川中流域のどこかだろうと思われます。

実は、私はかなり以前に、長良川を、河口(伊勢湾)から源流まで、遡行(166㎞)しました。渓流釣り名人、山本素石や釣雑誌の編集長たちと同行して、最後の清流といわれた流れの端から端までを見ておきたいと思ったからです。山本素石はツチノコ騒動の仕掛人だったのですが、加熱するブームに嫌気がさし、奥深い渓流で、テンカラを振っていました。丁度その頃、長良川の河口に堰を建設する計画が持ち上がり、激しい反対運動が起こっていました。
長良川は一般に思われているよりも、ずっと穏やかな川です。濃尾平野のほぼ中央部を北から南へ流れているので、東の木曽川や西の揖斐川に較べて土地の傾斜が小さく、濃尾三大河川のなかで唯一ダムが建設されておらず、本来の水質と生態系を保ってきました。しかし、河口に堰という名のダムが造られると、流れは寸断され、生き物が上流、下流を自由に行き来できなくなってしまいます。流れや河辺の光景も変わってしまう・・・・とにかく、自分の足と目を使って、自然河川を体感しておこう、との旅でした。

今回の日本画に描かれたような風景は、長良川を遡行してみると、中流域で普通に見られます。
それだけに、この場所を特定するのは難しい。
それでも、橋の数は限られていますから、いつか気力を振り絞り、もう一度長良川を歩いてみようと思っています。

 

ps. 1965年(昭和40年)、工業用水確保を目的として長良川河口堰計画が立案されたが、水需要増加が見込めないため、目的文言を、治水、利水に変更して強行着工され、1994年(平成6年)完成した不要な公共工事の典型。巨額の利権をめぐって、政治家、業者、御用学者などが暗躍する構図は、オリンピック、万博に引き継がれている。

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作者不詳『曲水の宴図』

2024年04月15日 | 絵画

桜にちなんだ古画が、もう一点ありました。

全体:46.1㎝x103.8㎝、本紙(紙本):43.6㎝x31.1㎝。江戸中期―後期。

「曲水の宴」といわれる行事を描いた大和絵です。

土佐派でしょうか。

曲水の宴は中国から伝わった風習で、朝廷や貴族の間で、奈良・平安時代、盛んに行われました。3月3日(旧暦)、庭園に造られた曲がりくねった小川を設え、流された盃が自分の前を通り過ぎないうちに和歌をよみ、盃を取って酒を飲んでから、その盃を次へ流すというもの。この後、宴が開かれ,各人が歌を披講しました。

旧暦の三月初旬ですから、桜が満開です。

盃は、どんどん流されているようです。

従者は盃を取ろうとしているのか、それとも流そうとしているのでしょうか。

横の貴人は、筆を手にして歌を思案中。

何とも優雅な遊びですね。

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宮崎友禅斎『桜川』

2024年04月13日 | 絵画

桜が満開です。

みなさんのブログも、桜の便りでいっぱいです。

部屋の中から、ぼんやりと輪中堤の桜並木を眺め・・・・今さら桜見物でもないし、さて、どーしたものか、と思い・・・・・・

そして、ヒラメキました。

おおそうだ!

どっかに江戸の桜の絵があったはず・・・・・例によってごそごそと探し回り、やっと見つけました。

宮崎友禅斎『桜川』

全体: 24.2㎝x106.6㎝、本紙(絹本) 15.5㎝x45.2㎝。江戸中期?

かなり古い絵です。題名は、私が付けました(^.^)。Dr.Kさんが本家、『桜川』の桜をブログで紹介されていました。それに触発されたのですね。結果、いつもながらの後出しタイトルとなった訳です(^^;

流れる河と花鳥が描かれています。

大きなジャンル分けでは、浮世絵に属するタイプの絵でしょうか。

落款には、「扶桑工友禅」とあります。

宮崎友禅斎は、友禅染めを始めた絵師として有名です。江戸中期、京都で扇面絵師として名をはせていた友禅斎は、布をキャンバスにして、大胆かつ繊細な染め物を作り出しました。後には京都から金沢に移り住み、加賀友禅を興したと言われています。

非常に高名なわりには、生没年不詳、その生涯や画業の詳細はわかっていません。

今回の品は、良く描けています。けれども、宮崎友禅の作と判断することはできません。資料が余りにも少ないのです(^^;

なかなかに味わいがありますね。

『桜川』のタイトルも、まあ妥当だったかなと自題自讃(^.^)

 

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面白古文書『吾妻美屋稀』20.「諸国繁昌御治世萬歳」

2024年04月11日 | 面白古文書

今回も見立て番付けではなく、当時の世相を反映した「諸国繁昌御治世萬歳」です。

諸国繁昌御治世萬歳
(しょこくはんじやうありがたきみよまんざい)

徳は神。ごまんそくと。御代もさかゑ。ましますワンあいきやうあるゆゑ。あらためて。としたてかゑてあらたまる。ミなもわかやぎこめたさげてやすうりけるハ。まことにめつそうににぎわひける、京のつかさハかんみさまのおりいのミかげ。おれハ十ぶん。かれは九ぶん。よろづやす/\ 米やすの。ひのもとにて。正月二日寅の。いつてんに。はんしやうまします店ひらき。あきなひものを。やすうりけるハ。まことにめでたき御治世でそうらいける、やすい/\京の町もやすい。かうたる物ハなに/\ 。大むぎ小むぎ豆のやすうり。さがりたまへや皆うりきれるミなうりきれるミなうり /\ ミなうりやすいと。かうたる物ハ。よろこぶ。そこをよろこぶ。そばのたなミたれバ。きんぎんたんと。今じや御治せい。そうらいしが。わか/\ と。こごしかヾめたばゞたちまで悦ぶ。ありさまハげにも。御代なり。徳なり。諸国ははんじやう。ゆつたり/\/\ /\  、金にハかねますせけんハ銭ますそうちもこうちも。いくへんも御治世と岩井とくといた 引

 

ひらがなが多く、文意がよくわからないので、可能な部分を漢字にかえてみました。


徳は神。御満足と。御代も栄え。ましますワン。愛嬌あるゆゑ。あらためて。歳立て替えて改まる。皆も若やぎこめたさげ安売りけるは。真に滅相に賑わいける、京の司は神様の折居の御影。俺は十分。彼は九分。萬安/\ 米安の。日の本にて。正月二日寅の。いつてんに。繁昌まします店開き。商い物を。安売りけるは。真に目出度き御治世でそうらいける、安い/\京の町も安い。買うたる物は何/\ 。大麦小麦豆の安売り。下がりたまへや皆売り切れる皆売り切れる皆売り /\ 皆売り売りやすいと。買うたる物は。悦ぶ。そこを悦ぶ。そばの棚見たれば。金銀たんと。今じや御治世。そうらいしが。わか/\ と。小腰屈めた婆たちまで悦ぶ。有様はげにも。御代なり。徳なり。諸国は繁昌。ゆつたり/\/\ /\  、金には金増す世間は銭増すそうちもこうちも。幾遍も御治世と祝い徳説いた 

 

意味がとれない部分(赤)もいくつかあります。が、内容は単純なので大意はOK。

この「 諸国繁昌御治世萬歳」は、米や麦、豆などが安く売られ、諸国は繁昌し、それは御代の徳、お上の治世のたまものと讃えています。面白くもなんともない代物です。それをわざわざ、『吾妻美屋稀』に載せたのでしょうか?

当時の世相を少し調べてみました。
江戸時代、飢饉などで米価の高騰はしばしば起こりました。しかし、時代を幕末まで広げて俯瞰してみると、200年間にわたって、比較的安定していたとも言えます。というのも、幕府体制が揺らぎ始めると、それまでの物価高騰とは次元の異なる構造的なインフレが庶民を襲うようになります。その最初の兆候が、『吾妻美屋稀』の出版がなされた嘉永4年頃に現れました。嘉永3-4年にかけて、コメの価格が急激に上昇したのです。原因は、幕府の鋳貨法の変更にありました。金銀の含有量を減らし、さらに銅に代わって鉄を使ったりして、多くの貨幣を発行しました。その結果、急激なインフレが起こり、人々は、米をはじめとする物価の急騰に右往左往せねばなりませんでした。


ですから今回の戯れ唄は、単なる安売り賛歌ではなく、米の高騰に音を上げた庶民が、鬱憤を晴らすための浮世萬歳なのです。
タイトル「 諸国繁昌御治世萬歳」には、「しょこくはんじやうありがたきみよまんざい」のルビがふってあります。「 御治世」を「ありがたきみよ」と皮肉っているのですね。
タイトルの下には、当時の萬歳が描かれています。この「 諸国繁昌御治世萬歳」が萬歳師によって実際に演じられたかどうかはわかりませんが、素人でも鼓で囃して面白おかしく唄い舞えそうです。

その後、日米修好通商条約以降は、不平等な交易や金の海外流出により、そして戊辰戦争などによる社会の混乱により、物価は激しく変動し、庶民は時代に翻弄されていきます。今回の「 諸国繁昌御治世萬歳」は、激動の時代を予感させる戯れ唄だったのですね。

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