遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

幕末新聞『内外新報』4.幕府側の記事

2023年05月28日 | 高札

今回は、幕末に発行された新聞『内外新報』の幕府側の動向を伝える記事です。

   〇四月二日御触書
此度一橋殿田安殿御連名之御歎訴状一橋殿御持参東海道官軍大総督宮御方江御参上且若年寄大目付御目付共同様為歎願罷出候処 上様御恭順御謹慎之御誠意相顕レ候二付而者寛大之 思召を以 御沙汰之品御先鋒総督より 勅錠を以可被 仰出候段被 仰渡候 ニ付而は何レも此上兼而之御趣意厚ク相守弥相慎候可致候

(読み下し)
此の度、一橋殿、田安殿、御連名の御歎訴状、一橋殿御持参し、東海道官軍大総督宮御方へ御参上、且、若年寄、大目付御目付共、同様歎願をなし、罷り出候処、上様御恭順、御謹慎の御誠意相顕レ候に付きては、寛大の思召を以って、御沙汰の品、御先鋒総督より勅錠を以って仰せ出らるべく候段、仰せ渡せられ候ニ付ては、何レも此の上かねての御趣意厚ク相守り、いや相慎み候致すべく候

鳥羽伏見の戦いで幕府側が敗退した後、江戸へ帰った慶喜は、新政府側へ恭順の意を度々顕し、上野寛永寺で謹慎していました。四月二日付けのこの御触書は、新政府側が江戸城へ入る直前に出されたものです。御三卿のうち、一橋茂栄、田安亀之助が連名の嘆願書を東海道官軍大総督へ提出した事を述べています。田安は幼少であったので、実際には、一橋茂栄が中心となり、事を運びました。一橋茂栄は、美濃高須藩の出身、高須四兄弟として知られる俊英の一人です。兄は、尾張藩主となった徳川慶勝、二人の弟は、最後の会津藩主、松平容保と最後の桑名藩主、松平定敬です。いち早く新政府側についた長兄、徳川慶勝に対し、松平容保と松平定敬は、幕府方の強硬派となります。一方、慶喜に代わって一橋家を継いだ一橋茂栄は、徳川家存続のために東奔西走します。そして、慶応四年三月と四月の二度、静岡の大総督宮(有栖川宮熾仁親王)府に赴き、嘆願書をわたすのです。高須四兄弟の中では一番地味な茂栄ですが、歴史の裏舞台で活躍しました。
この御触書は、誰の名前で出されたのか、不明です。しかし、「一橋殿田安殿御連名之御歎訴状」や「上様御恭順御謹慎之御誠意」とありますから、幕府側が出した触書であることは間違いないと思います。

続いて、『内外新報』第二號(慶応四年四月十三日発行)には、こんな記事が載っています(最初の2記事)。

内外新報第二號   慶應四年四月十三日

    〇四月五日御触書
此度被 仰出候勅錠之趣御拝承被成候二付上様来
ル十日御巌途水戸表江被為入候此段向々江可被相
達候

(読み下し)
此の度、仰せ出され候勅錠の趣、御拝承なされ候に付き、上様来る十日御厳途水戸表へ入りなされ候、此の段向々へ相達し候

慶応四年四月四日、東海道鎮撫総督・橋本実梁が勅使として江戸城に入城し、田安家の徳川慶頼に対し、慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を命じる朝命を申し渡しました。これを受けて、四月十日に、慶喜は水戸へ帰り、謹慎することになったわけです。実際には、慶喜の体調不良(下痢)により、水戸行きは翌日、十一日となりました。しかし、水戸は政情不安定であったため、慶喜は七月十日に駿府へ移りました。そして、静かに余生をすごすことになります。

 

   
昨四日 勅錠之趣二付 御城内御櫓並御多門且ッ
御殿諸役所早々取片付来ル九日御目付江引渡可被申候
但し御門番並御廣處勤番之向ハ来ル十一日明番迄
    可被相結候事
右之趣向々江早々相達候

(読み下し)
昨四日、勅錠趣に付き、御城内御櫓並びに御多門且つ御殿諸役所、早々取り片づけ、来る九日、御目付へ引き渡し申さるべく候
  但し、御門番ならびに御廣處勤番の向きは、来る十一日明番まで相結ばるべく候事
右の趣向々へ早々相達し候  

先にみたように、四月四日に東海道鎮撫総督が勅使として江戸城に入城し、旧幕府側に江戸城開城などの和平条件を提示しました。そして、慶喜が水戸へ下った四月十一日、東征軍が江戸城に入城し、実質的な江戸城開城がなされました。この時、江戸城の管理を任されたのが、徳川義勝の尾張藩だったのです。そして、新政府軍が各門を固めることになりました。この触書は、その時のスケジュールを述べたものです。やはり、幕府側が出した御触書です。

このように、『内外新報』は、幕末激動期の出来事を、新政府側、幕府側のどちらにも偏ることなく、リアルタイムで人々に伝える役目を果たしていたと言えるでしょう。

さらに、『内外新報』第一號には、こんな記事も載っています。

 〇館内へ張出シ候寫

今般 王政御一新ニ付 朝廷之御條理ヲ追ひ外國御交際
之儀被 仰出諸事於 朝廷直ニ御取扱被為成萬國之公法ヲ
以テ條約御履行被為在候ニ付ハ全國之人民 叡慮ヲ奉
戴シ心得違無之様被 仰付候自今以後猥ニ外國人ヲ殺
害シ或ハ不作法之所業等致シ候者ハ朝廷ニ悖リ
御國難ヲ醸成シ候而已ならす一旦 御交際被 仰出候各國
へ對し 皇國之 御威信も不相立次第甚以不届至極
之儀ニ付其罪之軽重ニ随ヒ士分之者と雖削士籍至當
之典刑可被処候条銘々奉 朝命〇暴行之所業無様
今度被 仰出候事
  三月

「館内に張り出された写し」とあります。「館内」とは、どこを指すのでしょうか。2、3の語が異なってはいますが、これは、慶応四年三月十五日に出された五榜の掲示第四札「万国公法尊守」そのものです。「王政御一新につき・・・・」とはいえ、これは新政府側が出した民衆向けの触書きに間違いありません。それを、幕府側の新聞『内外新報』が載せているのです。

このように、幕末、戊辰戦争時のさ中に、幕府側の海軍会社によって発行された『内外新報』は、新政府側、幕府側、いずれの動向も別け隔てなく掲載していました。しかし、江戸を制圧した新政府側にとって、それでは気にくわなかったのでしょう。慶応四年六月には発行禁止となり、短い使命を終えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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8 コメント

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遅生さんへ (Dr.K)
2023-05-28 16:01:20
事実を淡々とそのまま公平に載せていても、新権力側には気にくわなかったんですね。
そのことによって、結果的には、旧幕府側が、まだまだ、力は落ちてはいるけれども十分に存続していることを伝えていることになってしまうからでしょうか。
権力者に都合の良いことだけを書いてほしいわけで、気にくわなかったので発行禁止にしてしまったわけですね。


ところで、美濃高須藩の高須四兄弟のことを再読いたしました。
もう4年前の記事になるのですね。
また、当時は、能に関する記事も多かったことも思い出しました。
遅生さんの間口の広さと奥深さを再認識いたしました(^-^*)
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Unknown (tkgmzt2902)
2023-05-28 16:32:20
すごい資料ですね。緊迫感がありドキドキしながら読みました。
手書きのようですが、これは原稿ですか?
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Dr.Kさんへ (遅生)
2023-05-28 17:46:36
美濃高須藩は、わずか4万石の弱小大名です。しかも、濃尾平野の南端、洪水が一番酷い場所、高須輪中がなければ生きていけない所です。ところが、これが尾張の支藩で松平氏。尾張が途切れそうな時には、ここから婿養子をとる手はずになっていました。ところが、幕末、俊才兄弟の誉れが高かったので、全国の大名から養子の話が舞い込み、結果として高須四兄弟は数奇な運命を辿ることになります。本当に運命のイタズラですね。
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Unknown (jikan314)
2023-05-28 17:51:12
遅生様
将に歴史そのものの資料ですね😁
故玩舘は、はっとするような美術品、遅生様が調べてお宝となった物、江戸庶民文化を伝える物、何がなんだか分からない物?だけじゃなく、歴史博物館級もたくさんお持ちですね😃
故玩・歴史舘としても遜色無いです😉
又拝見いたします。
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tkgmzt2902さんへ (遅生)
2023-05-28 18:58:11
わずか150-60年前の出来事ですが、ドラマをみるような激動の時代ですね。あらゆるものが、ものすごい勢いで変化していったなかで、いろいろな人間模様が浮かび上がりました。

この新聞は木版です。尤も、版木ではなく、木活字だと思います。しかし、あまり良い刷りではないです。お金と時間が足りなかったようです。そのせいで、大変読みづらいでう。
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jikan314さんへ (遅生)
2023-05-28 19:07:57
わずか150年前の泡沫新聞ですが、行間からいろんな人間模様が浮かんできて面白いです。
いろいろな噂が飛び交う中、これを読んだ庶民はどう思ったでしょうね。今と違って時事を伝えるメディアがなかったので、人々にとって貴重な情報源だったかも知れません。

故玩館へは、またゆっくりと来てください。樽見鉄道の織部の里駅で降りれば、古田織部が生まれた山口城址まで登れます(海抜400m位)。
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Unknown (1948219suisen)
2023-05-29 09:00:19
遅生様はこういう宝物をお持ちになることで世のためになり、またご自分の生きがいともなり一挙両得でございますね。
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1948219suisenさんへ (遅生)
2023-05-29 10:10:08
戊辰戦争の混乱期にわずかの期間発行されていた『内外新報』などは、明治の世になれば、ほんとのクズ扱い、誰にも見向きされません。
そんな物を拾い上げて悦に入っているガラクタ蒐集家もいるのですね(^^;
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