遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

高札と高札場

2023年03月25日 | 高札

以前のブログで、故玩館で所蔵している高札のいくつかを紹介し、江戸時代の高札についていろんな側面から考えてみました。
引き続いて、今回からは、幕末~明治にかけての高札を中心に紹介し、高札制度が終焉する過程を追ってみたいと思います。

まず、高札と高札場について大まかにおさらいしておきます。
高札とは、法令・禁令などを人々に周知徹底させるために墨書した木板です。宿場、街道の分岐点、関所など、人目につきやすい場所に掲示され、人々に法令、そして、支配者の意向を伝えました。
高札(古くは、制札)は、奈良時代末期からすでにあったと言われています。室町時代、戦国時代をへて、次第に国中に広がり、江戸時代に高札制度が完成しました。
徳川幕府は、高札を法令公布の主要な方法と位置づけ、全国津津浦々にまで行き渡らせて、人々に法令遵守を迫りました。高札はまた、徳川幕府の権威を象徴するものでもありました(『高札ー支配と自治の最前線』大阪人権博物館、1998年、武原万雄「高札研究をめぐる現状と課題」明治大学博物館研究報告第12号、123-148、2007年)。
やがて、徳川幕府は倒れ、王政復古の新体制ができましたが、新政府は、これまでの高札制度をそのまま利用して、民衆への法令公布を行いました。なおかつ、新しく発給された高札も、その内容のほとんどは、徳川治世を踏襲したものだったのです。しかし、諸外国の反発や印刷技術の発達などにより、明治政府にかわってからわずか6年で、長い歴史をもつ高札制度は終わりを迎え、高札もその使命を終えました。

江戸の大高札場(歌川芳虎「東京日本橋風景」(明治3年))

次に、高札場についてです。
各種の高札が出されるようになると、高札は、高札場にまとめて掲示されるようになりました。高札場は、往来の激しい道筋や人々が集まりやすい場所に、一段高く設置されました。宿場には、必ず、高札場が設けられました。各村にも高札場が設置されました。幕府の中心地、江戸には、42カ所もの高札場があったといいます。
高札場の大きさは、その重要度によって様々です。街道の起点や主要地には、大きく立派な高札場(大高札場)が、地方の小村にはささやかな高札場が作られました。
大高札場の中には、10枚以上の高札を掲げたものもありました。
たとえば、岩国藩柳井奉行所横には、大きな高札場があり、その守護役が決められていました。御高札守護役大野家には、関係文書が数多く残されています(『御高札守護役 大野家文書』柳井市立柳井図書館、2003年)。その中には、高札場普請の概要が記されているものがあります。それによると、主柱5本(太さ5寸角、長さ壱丈壱尺)を立て(壱尺七寸五分ほど埋めて)、貫(巾3寸)を間隔二尺壱寸で3本渡し、上部に三尺壱寸五分の屋根をつける。両端の主柱の間隔は、弐丈三尺弐寸五分。寸法通りに作れば、できあがりは、高さ3m、横幅7mほどの巨大な高札場となります。そこへ、16枚の高札を3段に掲示したといわれています。
幕府は、高札と高札場の管理責任を藩に命じ、藩は日常の管理を各村に負わせました。維持管理の経費や手間等、村には相当の負担でした。
大きな高札場には、前述のような高札守護役が定められていたらしいのですが、詳しい事はわかっていません。
文字の読めない人々に読み聞かせるのは村方三役(名主(庄屋)、組頭、百姓代)の仕事でした。また、高札の文面や各種御触書の記録を残すのも、彼らの任務でした。

高札は、支配者の意向、そして威光を示し、伝達する手段であったわけです。ですから、高札制度の興隆、衰退は、権力の趨勢を反映しているといえます。また、時には、高札をめぐるいろいろな出来事から、世相や時代の雰囲気を感じ取ることができることもあります。

故玩館にある高札は種類も数も限られたものではありますが、物としての高札をつぶさに観察しながら、事としての高札を考えていきたいと思っています。

コメント (8)
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