M030 松永市郎
松永市郎 - Wikipedia
松永市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月18日 - 2005年(平成17年)3月31日)は、日本の軍人。元海軍大尉。作家。
父は海軍中将松永貞市、子にiモード開発者の松永真理がいる。
海兵68期 松永市郎氏の部屋
名作戦記ということで、文庫化され、さらに新装版だのと何度も版を重ねてきたものらしい。
図書館が除籍廃棄した昭和59年刊行の単行本を入手。
いやもう驚いた。
広い意味では漂流記なのだが、定員45人のカッター3隻に195人だかを詰め込んで、ろくに食料も水も航海計器もない中、被撃沈地点からフィリピンまでの300海里を毎晩オール1本に2人ずつ取りついて漕いで進んだ、漂流を拒否して陸地まで漕いだ櫂走/漕走記なのだった。(昼間は暑くて消耗するばかりなので、申し訳ばかりの手製の帆で帆走。毎晩10時間こぐことにして12夜。)
艦長と副長は沈没時に戦死してしまったので、生存者中の先任将校となった26歳の航海長(大尉)が指揮官に。
26歳だったり27歳だったりする?途中で誕生日来た?
通信長だった大尉の著者(海兵68期で小林大尉の3期下)がナンバー2の次席将校だった。
晩年の松永翁へのインタビューを中心に(+適宜本書からの抜粋)記述された神立 尚紀さんの記事~要点が過不足なく書かれている。
〇防衛省防衛研究所に残る『軍艦名取戦闘詳報』によると、生存者は准士官以上22名、下士官兵169名(うち傭人2名)、戦傷者下士官兵2名、とある。
〇松永ら士官のうち6名は、海軍省からの帰還命令によりフィリピンを脱出したが、残る187名の隊員の大半は現地に残されたまま陸戦隊に組み入れられ、ほどなく米軍の大攻略部隊の上陸を迎える。そして慣れない陸上戦闘の末、そのほとんどが戦死した。
〇内火艇やゴムボートで脱出し、短艇隊とはぐれて漂流した乗組員の多くは、フィリピン攻略に向かう米艦艇に救助され、捕虜となった。捕虜となったのは、ゴムボートの3名と、内火艇の41名である。ゴムボートは14日間、内火艇は26日間にわたって漂流を続け、その間に死亡した者も15名におよんだという。
〇自力で陸岸にたどり着きながら、そのほとんどが日本に還ることなく、フィリピンで戦死した短艇隊と、米軍捕虜になって米本土やニュージーランドの収容所に送られて、戦後、生還した者たち。
巻頭の「序に代へて」が阿川弘之さん(海軍関係の本にはお願いしないといけない陰のルールでもあったのか…冗談)
巻末の解説は海兵68期の同期、豊田穣さん~名取の内火艇で捕虜になった中の数名が米マッコイ・キャンプに送られ、豊田、酒巻(捕虜第1号=甲標的が2人乗り*5艇なのに十軍神でなく「九軍神」のワケのヒト)らに迎えられる。
豊田穣『長良川』 (その2/2) - 真似屋南面堂はね~述而不作
戦時中、「捕虜第一号」となってしまった男が、米国でおくった「意外すぎる生活」(神立 尚紀) @moneygendai
後編に続く
松永市郎 - Wikipedia
松永市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月18日 - 2005年(平成17年)3月31日)は、日本の軍人。元海軍大尉。作家。
父は海軍中将松永貞市、子にiモード開発者の松永真理がいる。
海兵68期 松永市郎氏の部屋
名作戦記ということで、文庫化され、さらに新装版だのと何度も版を重ねてきたものらしい。
図書館が除籍廃棄した昭和59年刊行の単行本を入手。
いやもう驚いた。
広い意味では漂流記なのだが、定員45人のカッター3隻に195人だかを詰め込んで、ろくに食料も水も航海計器もない中、被撃沈地点からフィリピンまでの300海里を毎晩オール1本に2人ずつ取りついて漕いで進んだ、漂流を拒否して陸地まで漕いだ櫂走/漕走記なのだった。(昼間は暑くて消耗するばかりなので、申し訳ばかりの手製の帆で帆走。毎晩10時間こぐことにして12夜。)
艦長と副長は沈没時に戦死してしまったので、生存者中の先任将校となった26歳の航海長(大尉)が指揮官に。
26歳だったり27歳だったりする?途中で誕生日来た?
通信長だった大尉の著者(海兵68期で小林大尉の3期下)がナンバー2の次席将校だった。
晩年の松永翁へのインタビューを中心に(+適宜本書からの抜粋)記述された神立 尚紀さんの記事~要点が過不足なく書かれている。
〇防衛省防衛研究所に残る『軍艦名取戦闘詳報』によると、生存者は准士官以上22名、下士官兵169名(うち傭人2名)、戦傷者下士官兵2名、とある。
〇松永ら士官のうち6名は、海軍省からの帰還命令によりフィリピンを脱出したが、残る187名の隊員の大半は現地に残されたまま陸戦隊に組み入れられ、ほどなく米軍の大攻略部隊の上陸を迎える。そして慣れない陸上戦闘の末、そのほとんどが戦死した。
〇内火艇やゴムボートで脱出し、短艇隊とはぐれて漂流した乗組員の多くは、フィリピン攻略に向かう米艦艇に救助され、捕虜となった。捕虜となったのは、ゴムボートの3名と、内火艇の41名である。ゴムボートは14日間、内火艇は26日間にわたって漂流を続け、その間に死亡した者も15名におよんだという。
〇自力で陸岸にたどり着きながら、そのほとんどが日本に還ることなく、フィリピンで戦死した短艇隊と、米軍捕虜になって米本土やニュージーランドの収容所に送られて、戦後、生還した者たち。
巻頭の「序に代へて」が阿川弘之さん(海軍関係の本にはお願いしないといけない陰のルールでもあったのか…冗談)
巻末の解説は海兵68期の同期、豊田穣さん~名取の内火艇で捕虜になった中の数名が米マッコイ・キャンプに送られ、豊田、酒巻(捕虜第1号=甲標的が2人乗り*5艇なのに十軍神でなく「九軍神」のワケのヒト)らに迎えられる。
豊田穣『長良川』 (その2/2) - 真似屋南面堂はね~述而不作
戦時中、「捕虜第一号」となってしまった男が、米国でおくった「意外すぎる生活」(神立 尚紀) @moneygendai
後編に続く