真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

先任将校 : 軍艦名取短艇隊帰投せり 松永市郎 1984.5 後編(脱線が中心?)

2023-09-23 | 読書-歴史
9/21付前編の続き

本書(昭和59年刊のハードカバー)には、大尉以上の将校6名が命令により空路帰国したことしか書かれておらず、「残された生存者が陸上戦闘でほとんど戦死」の件には触れられていない。(若手指揮官の損耗が激しくて補充要員として貴重だったので召喚?)
そこで、
エンデュアランス号の救命ボート3隻の話を思い出したわ。ジェームズ・ケアード号ほか2隻ね。
あれはWW1時(出発直後に開戦、南極で氷に閉じ込められて船が圧壊。大口寄付者の名前を付けた救命ボート3隻に荷物を積んで、氷上を橇で引いたり海上を航走したり、艱難辛苦の末にシャクルトンら先遣隊が島の捕鯨基地に到達し、残りの待機組を迎えに行き、全員無事生還。まだ戦争が続いていたので志願して出征した者あり、その中から戦死者や重傷者も出ている)。
Personnel of the Imperial Trans-Antarctic Expedition - Wikipedia ←猫氏もメンバー表に!
名取短艇隊はWW2時の西大平洋。フィリピン到達将兵(のうち中尉以下ってことか)の陸戦隊組み入れは有無を言わさずだけど。

本書のまえがきに、戦後の戦友会で、実はカッターの中では先任将校らを倒してしまおうかという反乱の相談が行われていたと聞いて驚いた旨の記述がある。
結果として反乱は起きず、先任将校の卓越したリーダーシップと次席将校の適切な補佐もあり、多くの将兵がフィリピンにたどり着いたものの、その多くがその後戦死というのは、遺族としてはやり切れない思いもあったのではないか(詳細な経緯は教えてもらっていなかったかも、だけど)。

(当時の日本軍人の発想からは考えにくいが、そこを敢えてだね)
仮に、反乱が起きていて、反乱チームが主導権を握って救助を待つことになり(考え難い!)、日本軍は名取生存者を鋭意捜索したものの発見できず諦めたのでやはり見つけてもらえず、内火艇やゴムボートでの漂流者のように米軍に救助され、捕虜として終戦まで過ごして史実よりも多くの将兵が生きて帰国できていたかもしれない。
または、米軍にも見つけてもらえず海の藻屑となっていたかもしれない。(木製のカッターは沈まないそうなので、幽霊艇に?)
あるいは、反乱を起こした後だと、反対者を斃すことへのハードルが下がると考えられるので、なかなか来ない救助、食料僅か、水はスコールからという状況で、方針をめぐる主張が折り合わず、凄惨な殺し合いになっていた可能性も、考えられなくはないかも(海軍マニアに怒られそうな妄想?)。

やはり危機に際してはリーダーの判断と行動が全員の生死を分けるね。
それにしても、星で緯度が分かる者を1号艇に集めてしまい、2号艇、3号艇はついてくるしかない状況にしたなど、容易に考え付くものではない。

まえがき発見!
巡洋艦 名取とその後について ~生存者195名のカッターによる13日間の櫓漕、JFK海軍中尉の救難など~

アナタハンのケースはまあ各種の所属者の集まりなので、同じ沈没軽巡の乗員で組織や上下関係がしっかりはっきりしていた本事例とは全く異なるね。
アナタハンの女王事件 - Wikipedia

■話それるけど
・横浜港寄港中に大爆発事件で船を失い、終戦までまとめて箱根の温泉旅館に幽閉されたドイツ海軍の仮装巡洋艦乗員のなんと幸運だったことか。
『帰れなかったドイツ兵―太平洋戦争を箱根で過ごした誇り高きドイツ海軍将兵』 (新井恵美子さん) - 真似屋南面堂はね~述而不作
・爆発事件当日、招かれてランチ(仮装巡洋艦=貨物船に化けて連合国の貨物船を襲い、物資を奪ってきたので食料も豊富。在日独人に特別配給なども実施)をごちそうになっていた駐日独大使館員は甲板から海に飛び込み九死に一生。
ヴィッケルト 『戦時下のドイツ大使館 - ある駐日外交官の証言』 (1998年) 最上級の興味深さ! - 真似屋南面堂はね~述而不作
竹中直人の祖父は「横浜港ドイツ軍艦爆発事故」で死去していた!
・「独の仮装巡洋艦(蘭商船を装っていた)を臨検しようとして不用意に近付いたところ、「じゃーん!独軍艦だよ~ん!」とばかりに旗を差し替えて襲撃され(予め豪艦の艦橋など死活的個所に照準を合わせておくので初弾で豪艦は機能喪失)、遭難信号を発する間もなく沈没して、その事実がしばらくわからなかった豪巡洋艦」などというケースもあった。反撃が効果あり最終的に独艦との相打ちとなったが、ほぼ轟沈の豪艦は全員死亡、時間をかけて沈んだ独艦の生存者が救助されて彼らへの尋問から顛末が判明した。
シドニー (軽巡洋艦・2代) - Wikipedia
(どうも、あれだねぇ、豪州軍はWW1ではガリポリでひどい目に合うし、WW2では本件のように計略に引っかかった戦闘で大量犠牲者が出たり、さほどの激戦の末ではなく日本軍の捕虜になって虐待されたりで、被害者意識がとても強かった?~日本降伏後の抑留将兵への戦犯追及が苛烈を極めた一因だろうかね)

■話戻るけど
名取 (軽巡洋艦) - Wikipedia

人名事典まつな〜.The Naval Data Base.
松永市郎Matsunaga Ichirou、1919-2005(兵68、107/288佐賀).大尉.
44.4/1名取通信長8/18名取沈没/31カッターを指揮してミンダナオ島に到達

人名事典こは〜.The Naval Data Base.
小林英一Kobayashi Eiichi(兵65、32/187新潟).少佐.
44.4/1名取航海長8/18名取沈没/31カッターを指揮してミンダナオ島に到達

著者は到着地のミンダナオ島スリガオで臨時に著者ら短艇隊の軍医長になってくれた魚雷艇隊の軍医にも深甚なる謝意を表す。
名取の軍医は沈没時に戦死しており、生存者中に医師不在。
現地唯一の海軍部隊の軍医中尉が、何を思ったか「貴隊の軍医長にしてくれ」と要求。
短艇隊一同に供された食事が(粗末な)重湯なのに、魚雷艇部隊は通常食なのを見て激怒した著者は、当該軍医を詰問しようとする(答え如何によっては成敗せんといきり立ちながら)。
長期の絶食状態から急に普通食をがつがつ摂取した場合にどうなるかを懸念した軍医が、まず「名取短艇隊の軍医」という形になって余所者ではない状態にして(指揮命令系統に一応入って)から、絶食後の回復期の正しいステップを踏むことにして短艇隊員の命を救ってくれたことに気付く(自身の腸チフス罹患時の絶食の経験から、軍医の真意に気付く)著者。
というわけだった。やるな。
笹川濤平海軍大佐と軍艦「名取」短艇隊

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