ホトケマンストリート3

ホトケマンの道~台湾編~

趣味変遷

2011-04-29 19:11:14 | 日記
前のHPの時から、書いていましたが、
今までの趣味変遷について、書いてみました。


【小学生】
○5年生
・学校の放課後のクラブ活動、陸上部へ入る。それなりに足は速かった
 が、短距離の選手になるほどのスピードはない。結局、ハードルの選手となる。
・周りのみんなが日曜日に少年野球チームやサッカーチームに入りだし、
 遊ぶ人がいなくなったんで、仕方なく自分も少年野球チームイーグルスへ入る。

○6年生
・陸上クラブ市内総合陸上大会→ハードル準決で、ハードルに引っか
 かって転倒、敗退。
・少年野球チーム、イーグルスBチームでセンターを守る。
 最後の市民大会にてブラックハルミンズというお坊さんのチームに
 11-0でコールド負け。ちなみにAチームは市民大会優勝。

【中学生】
・部活動は野球部に入った。今までずっと長髪だったが、生まれて
 はじめて坊主となる(五分ガリ)
・足を買われて、一年生からベンチに入るようになる。
・3年間これといった、素晴らしい戦績無し。
・TVで風見慎吾のブレイクダンスを見て、はまる。
 そのうち派手なスウェットを着て原宿の歩行天で踊るようになる。
 (野球部なので当然坊主;超ダサダサ田舎者ダンサー)
・竹の子族にたこ焼き2個で入らないかと進められるが断る。

【高校生】
・部活動はなぜか、ずっと好きだったサッカーをはじめる。
 周りの技術レベルについていけず、途中でやめる
・ハードロックが好きになり、エレクトリックギターを買う。
 VAN HALENやBONJOVIにはまる。
・友達となんちゃってでバンドを組む。ラフィンノーズ、ブルーハーツ
 あたりをコピーしまくる。

【大学生】
・クラブサークルは、何か新しいものをやりたくて、演劇、ゴルフ、
 アルティメット、軽音楽等を回るが、綺麗なお姉さんに引っかかって、
 なぜか体育会競技ダンス部へ入る。
・すぐ辞めるつもりだったが、どんどんダンスの魅力に取り付かれ
 はまっていく。
 後期あたりから大会に出るようになり、トロフィーや賞状をバシバシ
 とり、ちょっとした有名人になる。
・3年の時にバックパックを持ってイタリア、フランスを周遊。
 4年の時はエジプト、トルコ、ギリシャへ

【社会人】
・海外旅行へをしたいが、仕事が忙しく行けない。
・新人歓迎会にて、ラテン系ダンスを披露。翌日からサンバ君と呼ばれ
 るようになる。
・同じ会社の友達に進められ、テニスを始める。はじめから結構打てる
 ようになり、たまにやるようになる。
・同じく友達に進められスキーを始めた。おもろかったので一式購入。
 一年目シーズン5回ほど雪山へ行った
・社会人2年目、友人にスノボを進められ、即TRY!!めちゃめちゃはまる。
 スキーは卒業。2年目シーズン7回ほど雪山へ行った。クレージーな
 滑りがたたり、腰をいためる。整骨院に約3ヶ月通う。
 次のシーズンは肋骨にヒビが入り、翌年からは大人の滑りをするようになる。
・突然空を飛びたくなり、一人車で山へ・・・パラグライダースクールの門をたたく。
 ちょこっとだけ鳥になる。
・マイケルジョーダンにはまり、バスケットボールを購入。
 翌日から毎日近所の中学校のリングで練習するようになる。
 だんだんとうまくなり、近所から遊びに来ている中高生と1on1の対決を
 挑むようになる。持ち前の運動能力でほとんど負けることはナシ。
・奥田民生の「一人股旅」を見て、ギター弾き語りをしたくなり、
 アコースティックギターを購入。友達の結婚式で4回ほど、弾き語りをやる。
 しかし、近所から苦情が
 入りギターを手放してしまう。
                            
○2000年 
・アコースティックギターを手放したが、「ゆず」が流行りだし、再びひきたく
 なり、また購入してしまう。また、家で雄たけびを上げるようになる。
・柏の路上では、ストリートミュージシャンが異常繁殖し始め、よく
 聞きにいくようなる。
・柏の路上で、牛久から来た女の子デュオ「水曜ドリンクバー」という
 グループに会い、楽曲と歌の素晴らしさに感動し、ついつい声を掛け
 運命の出会いを果たす。
・01年X’MASは、水ドリとその仲間たちと朝まで過ごす。

○2001年
・1月の誕生日、「水ドリ&ホトケマン」の路上ライブを企画・実行。
 柏の路上で大騒ぎし、その日もその勢いで朝まで飲んだくれる。
・水ドリを通して、多くのアコギ仲間ができ、NET上を介して、オフ会
 に参加するようになる。
・「ホトケマン」という奇妙な名前がだんだんと全国区に浸透していく。
 岡山でのオフ会にも出没する。
・NET上では、なぜかモー娘博士と吊るし上げられる。
・会社の飲み会で、同僚と音楽の話で盛り上がり、たまたまギター・
 ベース・ドラム・ボーカルがそろっていたので、スタジオ行っちゃおう
 と盛り上がる。
・翌週には、スタジオ入りみんな久々の音楽を楽しむ。めっちゃ盛り
 上がって、この4人でバンドを結成することに。
・バンド名は「産業資材BAND」その当初の自分たちの部署名にBANDを
 つけただけの、とってつけた名前となる。
・BAND活動はコピーから開始。VOCALは女の子だったが
 GUNS’ROSES、SPITZ、BRILLIANT GREEN、GOGO7188、BONNYPINKなど
 あらゆるジャンルの音楽をコピーしまくる。

○2002年
・02.3月~ホトちゃんの岡山転勤も決定。BAND活動は継続。
・だんだんとコピーでは物足りなくなり、本格的にオリジナル楽曲を
 作成し始める。
・オリジナル楽曲は、TOTAL6曲になった。
・年末、来年からVOCAL女性が、結婚と旦那のNY転勤が決定。

○2003年
・産業資材BANDは、6月に最初で最後のライブを企画。
・6月には、六本木のLIVEHOUSEに約150名の観客を集め、LIVEを慣行。
・この日を最後にBANDは、解散。
・8月、岡山で出会った彼女に誘われて、うらじゃ祭りという踊りの祭り
 を見に行く。踊りを見ていてもたってもいられなく、総踊りの輪に飛び込む。
・終わった後、来年は踊り手として参加することを決意。

○2004年
・4月位から、インターネットでうらじゃのチームを探すようになる。
・HPを見てフィーリングで「俄嘉屋」というチームの門をたたく。
・チームのレベルは決して高くなかったが、10年ぶりに踊れる楽しさを
 思い出す。うらじゃ1年目の結果は、「敢闘賞」。個人としてもメダルをGET。
・TVで見た、YOSAKOIソーラン祭りでの平岸天神に感動し、
 翌年から毎年札幌へ参上するようになる。
・冬には、「鬼ごろし」というチームへなりゆきで冬の陣
 というイベントに参加する。若いチームで一味も違うレベル
 に踊り魂が蘇る。ミュージカルは大成功で幕を下ろす。
・このチームの成功に感動し、自分のチームでも成功したい思いが
 急に盛り上がる。

○2005年
・俄嘉屋チームリーダーに連絡を取り、飲み会を申込み、自分の思いを
 ぶつける。
・チームのスタッフとして、振り付け・練習コーチ・地方作成を担当
 することになる。
・自分が熱すぎて嵐をまき散らしてしまったが、その年のうらじゃ祭り
 で俄嘉屋にとって、初の誉賞受賞を実現する。
・しかし、オフには・・・

○2006年
・立ち上げ時スタッフは離れたが、結局6月から練習コーチ復帰
・練習時50人の前で、鳴子のばちを「ビラビラ」と言ってしまう。
・誕生日に、彼女からジャージをプレゼントされ、練習に着ていく
 ようになるが、股間に視線を集めることになる。
・よざくらという新チームから振り付けのオファーがあり、
 振付・練習コーチを担当。若い子たちとの交流を堪能する。
・06年うらじゃ祭り俄嘉屋「誉賞」受賞。
 よざくらは「表町パレード賞」「演舞場賞」受賞。
・俄嘉屋高知全国大会に出場を果たす。史上初の帯筋逆流を果たす。
・ひろめ市場で、お立ち台を独占する。

○2007年
・何か新しいことをしたくて、俄嘉屋を卒業。
 新チーム「吉備人」を結成。代表として、奔走する。
・よざくら2年目も振り付けを担当。
・07年うらじゃ祭り誉賞受賞。
・夏は、岡山からのよさこいチーム「水簾」に参加。完走!
・オフシーズンに「男魂」という非公式チームを結成。
 ウーハー踊りを披露。F会超忘年会で、準グランプリをGET。

○2008年
・台湾への転勤が決定。
・長年支えてくれた彼女との結婚を決断する。
・8月の最後のうらじゃは、スタッフとして参加。総踊りで踊り子より
 テンション上がり、壇上にあがってしまいつまみ出される。
・7/14に入籍、8/20から台湾赴任
・台湾赴任後、現地会社社長より、会社の自転車部の入るように
 進められ、たまに参加するようになる。
・初めてのロードレーサーは、上司から安く譲り受けたTREKである。
・会社のメンバーはオヤジばっかりであったが、結構早く、
 いつもちぎられていた。オヤジ自転車部恐るべしと実感。
・9月には、社員旅行で、台湾南部の懇丁へ行った。しかし自転車部は
 高雄から懇丁まで、約80Kmを自転車で往復することに。
 この時に、ひざを痛め歩くのも大変な程、間接が痛くなる。
・ここからしばらくの間自転車は休憩。
・12月には、F会忘年会の為だけに、日本へ帰国。久々のウーハー踊りを披露。

○2009年
・年越しには、バリ島へ夫婦で旅行。
 台湾からアジアリゾートは日本と比べて、近くて安いことに気づき
 以後、くせになっていく。
・2月は、旧正月で日本へ帰国。久々に東京へ帰る。
 日本は平日なので、遊ぶ相手もいなく、夫婦で箱根に旅行する。
・5月には、懇丁へ旅行。
・8月には、再び岡山・高知・千葉へ帰省。
 高知では、吉備人が参加する。よさこい全国大会へ出場。
 久々の高知を満喫する。
・9月には、香港・マカオへ旅行

○2010年
・12月には、新婚旅行として、イタリアへ10日間旅行。
 イタリア旅行は、台湾のツアーだったので、周りはみんな台湾人
 カップルが多く、かなり浮いた存在となり、歯がゆい思いを。
・2月旧正月は、ボラカイ島へ。
 勢いあまって、前から興味を持っていたダイビングライセンス
(オープンウォーター)を夫婦で取得する。
 綺麗な海に感動する。
・ひざの調子もよくなってきたので、自転車を復活する。
 周りのメンバーの自転車がバブル期になっており、ほとんどのメンバー
 が100万円前後の自転車を乗っている状況に変化していた。
・5月には、自転車部で再び懇丁自転車旅行へ
 今回は、片道125km×2=250Kmの道のりを走破。ひざの痛みはなかった。
 それ以降、自転車がかなり好きになり、急成長を遂げる。
・このころから前から憧れていたトライアスロンへの挑戦を目論む
 ようになる。
・一番の問題は、今まで一度も習ったり練習したことのない水泳であった。
 本を読みながら、自分でプールに行って練習開始する。
・水泳や自転車など、練習を急激に上げてしまい、6月には心臓が不整脈を
 起こしてしまい、通院する。
・しばらくは、自転車も水泳も休む。
・8月夏休みは、パラオへダイビング旅行。ブルーコーナーの魚の群れに
 感動する。
・9月頃心臓も落ち着いてきたので、ゆっくり練習を再開。
・10月には、石垣島へダイビング旅行へ、沖縄のマンタとさんご礁を堪能
・自転車で、台湾一週を試みたくなる。
 年末の6日間で、1000Km強を走るというちょっと無謀な計画であった。
 12月からは、毎週土日100KmレベルのLSD練習を取り組む。

○2011年
・2011年の野望は、
 1、台湾自転車一周 2、トライアスロン完走 3、ヒルクライム大会参加
・年末~年始に掛けて、自転車で台湾一週を敢行。花蓮の山奥で
 パンクし、絶対絶命となったがなんとか切り抜け、無事一周を
 達成する。
・トライアスロン大会への参加を、4月の台湾大会(苗栗国際)
 に定める。同僚も勧誘し、快諾。一緒に練習を開始。
・4月苗栗国際トライアスロン大会参加。完走!
 Totalタイム2時間44分、172位/520名というなかなかの成績であった。



                ~ホトケマンの道はつづく

最新の画像もっと見る