LA CAFFETTERIA DI RETROSCENA舞台裏カフェ

テノール芹澤佳通の日常系ブログ (・∀・)

オペラ【クリストフォロス、あるいは「あるオペラの幻影」】解説②

2024年06月06日 | クラシック音楽
3.台本の特徴
習作の《炎》で当時の恋人ドーラ・レーンの台本を用いたが、出世作となった《遥かなる響き》以降の全ての作品は台本を自作した(最後のオペラ《ヘントの鍛冶屋》以外は原作ストーリーも自作)。第一作の《グラントラム》の自作台本が失敗して以降、文学者に台本をゆだねたR.シュトラウスとは対照的である。ワーグナー以降の作曲家はしばしば自作台本に挑んだが、継続的に成功作を仕上げた例はシュレーカーの他にはほとんどない。
台本自作は、作曲家を主人公とした二作(遥かなる響き、クリストフォロス)に留まらず、全ての作品において、登場人物にシュレーカー自身が投影されていることの基盤となっており、強い自己言及性を形成している。


・題材の特異性
《遥かなる響き》で作者の自画像である作曲家フリッツは、芸術の為に恋人グレーテを顧みず、彼女はやがて娼婦に身を落とす。《烙印を押された者たち》では主人公の貴族アルヴィアーノが私財を投じて芸術の理想郷を作るが、せむし、性的不具という障碍を恥じて自らは近づかない。どちらも濃厚な官能や酒池肉林の騒ぎなど、直截な性描写に臆するところがなく、人物と場面の設定はR.シュトラウスのオペラよりも踏み込んでいる。またオペレッタに反映されていた当時の爛熟したキャバレーの文化も、オペラの中で躊躇いなく再現されている。他にも異常性欲者やいかがわしい霊媒師などの極端な設定は各作品にみられる。

・様々な先行作品の融合。
参照作品の多さと多様さは際立っている。時代も文化圏も易々と超えて縦横無尽に材を求め、筋立て、人物像、心理背景などを自作品に取り入れることに躊躇いがなかった。ことに《烙印を押された者たち》においてこの傾向は以下の通り顕著にみられる。

・「人物設定と劇的構成の概略」が取材された作品
《王女の誕生日》(ベラスケスの絵画《ラス・メニーナス》に基づくオスカー・ワイルドの絶望した小人の死という童話)、シェーンベルクの音楽付きドラマ《幸福な手》(黎明期の表現主義)、フランク・ヴェーデキントの戯曲《小人の巨人カール・ヘットマン》(ブルジョワ批判)など。

・「ディテールが採用された」作品(ダールハウスの分析)
《深き淵より(獄中記)》(オスカー・ワイルド。屈折した人格のモデル) 、《フィオレンツァ》(トーマス・マン唯一の戯曲。ルネサンス期フィレンツェで展開した抗争)、《ボッロメオ家の人》(フェルディナント・フォン・ザールの戯曲。豪華な洞穴(グロッタ)を持つボッロメオ宮殿が舞台であること)。《ペレアスとメリザンド》(メーテルリンクの戯曲。三角関係、女の移り気、男二人の決闘などの筋立て等)、ワイルドの《サロメ》とヴェーデキントの《地霊》(ファム・ファタールとしてのサロメとルルの人物像など)


・台本の精神的背景として参照された哲学・心理学文献
カール・クラウス、オットー・ヴァイニンガー、シグムント・フロイト、フリードリッヒ・ニーチェ等の著作(これらの思想は《烙印》以外の作品にも色濃くみられる)。


2. 《クリストフォロス、あるいは「あるオペラの幻影」》という転機

【クリストフォロス伝説】
大男レプロブスは、強きものに仕えることを望み皇帝のもとに居たが、皇帝が悪魔を恐れたことから、悪魔に従って悪行を重ねた。しかし隠者から奉仕することを諭されて、川を渡る人々を助けていた折、一人の少年を背負ったところ、川の中で際限なく重みが増してゆく。少年は自らがイエス・キリストであり、全世界の罪を背負っているため重いのだと明かし、レプロブスを祝福して、今後はキリストを背負ったものという意味の、クリストフォロスと名乗るよう命じた。
表題のとおり、このオペラはキリスト教の聖人伝説を念頭に置いている。しかし伝説自体は、オペラの筋書には組み込まれていない。聖人クリストフォロスを「同名の祖先」と呼び、強きものを希求する登場人物、クリストフの人物像にシュレーカーは伝説を象徴させた(劇中劇の中にのみ登場する架空の人物)。その対極をなす弱きものには、作曲学生のライバルであるアンゼルムをあて、強きものは凡庸、弱きものは才能豊かと設定した。
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オペラ【クリストフォロス、あるいは「あるオペラの幻影」】解説①

2024年06月04日 | クラシック音楽
いよいよ公演が今月末に迫って来ましたオペラ【クリストフォロス、あるいは「あるオペラの幻影」】(以降【クリストフォロス】と表記)

先週日曜には公演に先立ちプレイベントが開催され、お越しいただきました方々と我々出演者も共に作品の理解を深めました。

僕も以前よりX(旧Twitter)やFacebook、Instagram、そして芹澤公式LINEでも紹介して来ましたが、正直、内容の理解が乏しく実のある説明は出来ませんでした。
そうなると案内を受け取られた方も「うーん・・・どうしよっかな~」と迷われていると思います。


心の声「よくわからないオペラに8000円も払うのはね~」


はい、その通りです゚゚゚(´・ω:;.:......

ですので、この【クリストフォロス】というオペラの解説をお送りしたいと思います。

といっても、インターネットで検索しても情報は非常に少ないので、プレイベント当日に配布されました資料を引用・・・というか、そのままコピーする形で数回に分けて、皆様にお伝えして行きます(`・ω・´)ゞ

まず、出典元を明確にしておきます。

このプレイベント当日に配布された資料は、今年3月に主催者である田辺とおる氏が《2024年3月19日芝浦港南区民センター 第2集会室 日本アルバン・ベルク協会における発表資料》として作成したものを基盤とし、一般の方が理解しやすいように文章、レイアウトを変更した《2024年6月2日19時 大泉学園ゆめりあホール プレイベント資料》となっております。

これ以降の解説は全て、上記資料からの引用となります。

【解説】
シュレーカーは当時のドイツオペラ作家で唯一、R.シュトラウスに並ぶ公演数を誇りま
したが、1920年以降は差し迫るナチスの圧力と、映画やジャズなど新しい潮流との対峙を余儀なくされ、苦悩の日々を送りました。ユダヤ系の出自に加えて、音楽と台本の双方を自作した彼の躊躇なくエロティックな表現に踏み込む作風は、早くからナチスに忌避されていたのです。 この時期に《クリストフォロス、あるいは「あるオペラの幻影」》は書かれました。初期作品から一貫する後期ロマン派音楽と、様々な新しい手法が融合されて、現実と幻想の両面からオペラ創作の心理に切り込んだ近代的な冒険作です。

【響きと管弦楽法】
作曲にあたって最も重視している。響きの多彩さは同時代の作曲家の中でも傑出しており、管弦楽の楽器、音量、和声などの組み合わせ方は極めて広範に及んでいる。なかでもオーケストレーションを厚く構成し、音価を長めに引き延ばした壮麗なクライマックスを作り上げ、官能的な音響を創出していることは特徴的。

子供の頃から既に私は、かの「ワーグナー的」和音をピアノで弾くことを愛し、その残
響に没頭していた。[…]例えば、チェレスタがそのまま、そのものとして聞こえてきた
り、クラリネットやオーボエが、下品な競争をして歌声を蹂躙し、時には、管弦楽全体
の波よりも「覆いかぶさったり」してしまうよりも、邪魔なことはない。[…]私が否定
するのは、あまりにも明解すぎて聞き分けが可能な響きであり、そしてオペラという仕
事の中では、ただひとつの楽器だけを認知したいのである。オーケストラそのもの、と
いう楽器だけを。
※1
(※1Schreker, Franz. „Meine Musikdramatische Idee.“ in: Musikblätter des Anbruch Nr.1 (Universal Edition), 1.Jg,November 1919: 6-7. 「私の音楽劇的発想」。)

【豊麗かつ繊細なオーケストレーション】
細分化された弦楽器、巧妙に使われる打楽器、そして個々の楽器のアイデンティティーを覆い隠す絶妙の重複によって、プリズムを通したかのような多彩な色彩を生み出すに至っている。※2
→ 特にドビュッシーの和声と管弦楽法の影響に言及している。しかしさらに踏み込んで無調音楽を展開する事もあり、攻撃的な無調性を巧みに覆い隠す効果に寄与している。
(※2 クリストファー・ヘイリー「はるかなる響きの復活」翻訳者:岡部真一郎. 『藝術学研究』10巻 [明治学院大学文学部藝術学科], 2000: 45頁])

【自己分析 (音楽観について)】
私は、印象主義者、表現主義者、国際主義者、未来主義者、ヴェリズモ音楽家である。[⋯]
私は、響きの芸術家、響きの夢想家、響きの魔術師、響きの唯美主義者であり、旋律の軌跡は持ち合わせていない[…]。私は最も純粋な血統の旋律家であり、和声家としては、貧血症で変態だが、しかし純血種の音楽家である!私は、(惜しむらくは)色情狂であり、ドイツの聴衆に対して害悪へと作用してしまう[…]。
私はしかし(幸いなことに!)、理想主義者、象徴主義者でもあり、最も急進的なモダニズム(シェーンベルク、ドビュッシー)を好むが、さほど急進的には指向せず、私の音楽においては害にはならない。三和音はおろか「通俗的な」減七和音まで、いまだに使用して、ヴェルディ、プッチーニ、アレヴィ、マイアベーアなどに寄りかかっている[⋯]。



次回「台本の特徴
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初夏の新作【魔王】始めました

2024年05月08日 | クラシック音楽
久しぶりに演奏動画を撮ってきました😀 

昨年12月1日、いわき市立平第三中学校での音楽鑑賞教室で初めて歌い(先方からのリクエスト)、当時「せっかく譜読みしたので演奏動画にしてYouTubeにアップしようかな・・・笑」とインスタに投稿してから5ヶ月・・・

重すぎる腰を上げてようやくです😅  

当初は1日で終わらせる予定だったのですが、初日に収録した動画の画角、クオリティーに納得がいかず、もう一日撮影日を追加した結果・・・・

黒ドレスシャツ(サムネで着用している立ち襟のシャツ)を荷物に入れ忘れました😆 

なのでサムネと映像内で格好が異なっております(笑)
そんな裏話もこみで楽しんでご視聴いただければと思います😊 

とあるテノールが「魔王」歌ってみた

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謎の生命体《タジリマン》

2024年04月02日 | クラシック音楽

この正体不明の生命体

 

白い布に包まれ、その隙間から自撮り棒を天に向かって突き刺しているのは謎の生命体《タジリマン》です

 

タジリマンは、動画配信者としてとある現場に潜入しております

この様に自撮り棒を駆使し、とある噂のある現場に潜入し、動画配信をしているのです

 

そう、タジリマンはYouTuber

 

しかしそんなタジリマン、潜入現場にて色々なトラブルに巻き込まれます

 

そして身を隠しているシーンがこれなんです

頭隠して自撮り棒隠さず・・・

 

まさに配信者の鑑です

 

そんなタジリマンの活躍はこちらの公演で目にすることが出来ます

子供たちも参加するこちらの公演は、川口オペラ・シンガーズ(近々改名予定だとかどうとか・・・)の第三回定期公演で、タジリマンは《フィガロの結婚》の登場人物です

 

え?《フィガロの結婚》に【タジリマン】なんて役は無いって?

 

なければ作ってしまうのが川口オペラ・シンガーズクオリティ!

 

出演者兼演出の石井一也(Laboratorio141代表)さんによる演出はブラックジョークだけにとどまらず、大胆不敵な発想力と子供たちからのアイデアを採用する海の様に深く広い懐から生み出される唯一無二のものとなっております(特にフィガロの結婚)

 

みなさんが知っている《フィガロの結婚》はそこには無いかもしれません。。。。

 

あるのは・・・・

 

 

 

 

お申し込み、お問い合わせは、フライヤーに記載されている川口オペラ・シンガーズ(kawaguchiopera@gmail.com)

またはyoshimichi.serizawa@gmail.comでも受け付けております

 

 

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クリストフォロス、あるいは「あるオペラの幻影」

2024年02月29日 | クラシック音楽

これまで《タンホイザー》(タイトルロール)、《魔弾の射手》(マックス役カヴァーキャスト)などドイツ語の作品を歌う機会が割りと多かったものの、ドイツ語を学んだのは大学での授業のみで、なけなしのドイツ語力でここまでどうにかこうにか乗り切ってきたけどここに来てどうにもこうにも乗り切れない気がして来たので観念してこちらを購入

 

決め手は薄さ、カラフルさ、読みやすさ(笑)

 


さて、オペラのプロダクションとしては自分史上最も早い公演6ヶ月前の1月から稽古が始まっているF.シュレーカー作《クリストフォロス、あるいは「あるオペラの幻影」》。

このシュレーカーという作曲家は、《薔薇の騎士》や《ナクソス島のアリアドネ》などで知られるリヒャルト・シュトラウスと時代を共にした人物であり、当時のオペラ作曲家で唯一リヒャルト・シュトラウスと肩を並べる公演回数を誇った作曲家です。

1920年にはベルリン音楽大学学長に就任し、作曲教授として多くの逸材を育てるも、強まるナチスの圧力と急激な作曲様式の変化という荒波に翻弄され、徐々に評価が下がってしまいます。

この《クリストフォロス、あるいは「あるオペラの幻影」は『時代の流れによる自身の境遇にシュレーカーが放った抵抗の一矢』というコンセプトが込められ、僕が演じるアンゼルムという役は作曲家であり、シュレーカー自身の音楽観の代弁者であると考えられています。

本来であれば1933年に初演をむかえるはずであった本作品は、当時ナチスが政権に就いたことにより一度お蔵入りとなり、結局その後45年の時を経た1978年にフライブルクにてようやく初演され、その後は2001年のキール劇場での上演が記録されているのみで、今回が本邦初にして世界3回目の公演ということになります!
(どこかで一度演奏会形式で演奏されたらしいが、オペラ公演では無いので上演記録に含まず)


しかしまぁ難しいこと。。。

オーケストレーションが歌のサポート機能を殆ど担っておらず、歌手も一つの楽器としてオーケストラの一部分に加わっているかのような音の運び。

「頼れるものは己のみ、おんぶに抱っこは許さない」

とでも言うようなストロングファイトスタイル・・・

 

そしてフライヤーをご覧いただいた通り、出演者が多い!

ということはそれだけアンサンブルも増え、音楽が複雑化するということ。。。ああ、おそろしい

 

そんな本オペラのあらすじをご紹介

プロローグの舞台は作曲教師ヨハンの音楽室。伝統的価値観を持つヨハンは学生たちに、聖クリストフォロス伝説を題材にした弦楽四重奏曲を書くという課題を与える。しかしシュレーカーの思想を代弁する気鋭の新進作曲家アンゼルムは、伝統的で純粋な音楽形式としての弦楽四重奏を拒み、同じ素材に拠るオペラを企てる。それは彼自身がオペラを書いているという筋立てである。この劇中劇にはアンゼルムとは対照的な、因習に捉われた作曲技法に甘んじる、凡庸な才能の同僚学生クリストフが登場する。

 師ヨハンの娘でファムファタル的な性質をもつリーザは、作曲を断念して妻子への愛情に生きると宣言したクリストフと結婚するが、アンゼルムとの恋心も鎮めることができず、第1幕2場でクリストフに射殺される。アンゼルムはクリストフの逃走を幇助し、二人はキャバレーに身を沈める。この第2幕でクリストフは、霊媒の口寄せでリーザの声を聴くうちに覚醒して、劇中劇の構想を超越し、象徴的な死という救済に邁進する。

 長い間奏曲に続いてヨハンの音楽室に戻ったエピローグでは「男の力を知りつつ女の弱さに留まる者」たるべしと諭す老子の『道徳教』の一節が響く。劇中劇が破綻してプロローグにおける作曲学生に戻ったアンゼルムは、オペラを諦め、やはり弦楽四重奏を作ると師のヨハンに伝えて、作品は幕を閉じる。

 

 

お分かり頂けただろうか・・・

 

 

物語はアンゼルム、クリストフ、リーザの3人を軸に展開していきます。

はい、現時点で僕が理解しているのは以上です(;・∀・)

 

当然ながら本邦初演ということで対訳本など存在せず、先日、主催者である一般社団法人カンタームスさんが日本初となる対訳を作成してくれてようやく内容を知ることが出来たのですが、読んで尚理解が追いつきません・・・


では一旦内容から離れ、「結局オペラっちゅうのは音楽ありきやろ!」というサイドの意見を尊重し、アンゼルムとリーザの二重唱をご紹介

このライブ録音は2001年のキール劇場での世界2回目の上演となった公演のものです。

(2分36秒あたりから二重唱スタート)
Christophorus, oder Die Vision einer Oper, Act I: Schönheit ist wie der blühende Baum (Live)

 

どうです?

わけがわからないでしょ?

 

安心してください

 

僕もですよ・・・

 

公演の半年も前から稽古がスタートした理由がわかります。

こんなの通常の3ヶ月スパンの稽古では間に合いません(;・∀・)

 

しかもアンゼルムにはアリアの様な曲もあり、それがまた強烈にクセモノなんですよ・・・・・・・

 

カオス過ぎて、ワンチャンでたらめ歌ってもバレない説まである(笑)

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