「大悟を極めた師のような方は、死後どうなるのでしょうか」
「門前の農家の水牛になって田畑を耕す」
悟りを得たら、どのようなすばらしい来世が待っているのか、喫茶去の公案で有名な趙州禅師が師匠に問いかけますと、
師匠は、 来世もどろどろになって衆生のために働く、と言われました。
(来世は今世の徳でより良くなるはずなのですが、尊敬する師匠は畜生に生まれ変わるというのです)
確実に、田畑のため、実りのため、人のためになるのですが、牛自身は、耕してあげているとも、実りを得ようとも思っていない。
功徳や悟りの結果など求めず、ひたすら修行を続ける姿に見える牛になると言われました。
今年は、牛年、特にこの公案が心に響きますね。
厳しい生き方ですが、それを厳しいとも思わない姿、
その修行そのものに調和している姿に「和」を感じます。
会報にて、この公案を今回取り上げさせていただきましたが、
皆様はいかがお感じになられたでしょうか。
さて、
梅花、雪に和して香(かんばし)
「和」というのは、「和敬」などでもよく茶席で見られ、単になごむとか、和す、というだけでとらえられることが多いようですが、
雪を「厳しさ」とも思わず、一体となって調和している姿 これこそが本当の茶の湯の目指す「和」なのではないでしょうか。
一得庵(茶道塾静岡道場)の庭の梅が本日、一輪花開きまして、
白雲塾長がお席でこのようなお話をされてました。