昭和五十七年に私は日本将棋連盟に入ったが、それは本当に幸運なタイミングだった。
当時の会長は大山康晴十五世名人で、全盛期から比べるとやや衰えたとはいえ、しかし
A級を張り、その後には名人挑戦者になって世間をあっといわせた。
升田幸三は引退したとはいえ健在だった。口をきわめて大山の悪口を言っては、周囲を
笑わせていた。将棋マガジンの編集者時代に何度か仕事をお願いし、将棋の解説をしてい
ただいたことがあるが、怖かった。
面白かったが、怖かった。
谷川、羽生のトーナメントの決勝戦の解説を依頼したのだが、何しろ継盤をにらんだま
ま一言も発さないのである。一手の解説もない。そして将棋はどんどん進んで、やがて羽
生の勝利で終局。すると升田は原稿を書く記者を大きな目でにらみ、裂ばくの気合でこう
言った。
「羽生、谷川、いまだなり!」
そして、夫人に支えられてすたすたと家路についてしまった。この一言で仕事になるの
だからやはり升田幸三は桁が違った。
昭和五十七年は中原誠名人と加藤一二三九段による歴史的大死闘が繰り広げられた年で
もある。三勝三敗、二千日手、一持将棋の末に加藤名人が誕生する。五十七年の秋は、将
棋会全体がまだその興奮の余韻の中にあるような熱気があった。
その年のA級順位戦を勝ち上がっていったのが二十一歳の谷川浩司。翌年には社会現象
を巻き起こす。
そしてその谷川に憧れた多くの少年たちが将棋界の門を叩いたのも、昭和五十七年。
もちろん羽生善治を中心とした羽生世代の天才少年たちである。
五十九年道場課から編集部に異動となり、それから退職するまで編集部に在籍したが、
私が編集者をやっているときはまさに羽生善治が奨励会から七冠王へと駆け上がるのと同
時期であり、それを間近で見られたのだから幸せな時代であった。四段から竜王、竜王か
ら名人、そして七冠と、羽生がタイトルを増やすたびに、たいしたことをしなくても雑誌
も本もよく売れたものだった。
そして忘れられないのが村山聖九段。
道半ばにして二十九歳の若さでこの世を去った。村山とは師匠の森信雄六段を通じて、
随分と仲良くさせてもらった。亡くなって一年がたったころ、森さんと村山家の間で本を
残そうという話が持ち上がった。私は森さんから依頼されて、最適な執筆者と出版社を探
す役割を務めることになった。ライターの候補を、私の部屋に泊まりにきた森さんに告げ
るのだが、一向に首をたてに振らない。幾晩もそんな話し合いをしているある日、森さん
がこう言ったのだ。
「本当は大崎さんがかいてくれるとええんやけど、そうもいかんしなあ」
えっ、と私は思わず叫び声を上げそうになった。そんなことは考えたこともなかったし、
もちろん自信もなかった。学生時代の悪夢が蘇ってきたが、それと同時に胸が熱くなった。
書く材料がなくて挫折した自分に、あれから二十年もたってこれ以上ない最高の題材が
提示されているのだ。
「聖の青春」が出版されたのは2000年の2月。書くことに挫折し社会から落ちこぼれ、
将棋に逃げ込んだ私が、その将棋界に拾われてから十八年の月日が流れていた。
私の初の著書となった「聖の青春」。その表紙はなんともいえずに寂しそうな表情をし
た村山聖の対局写真-----。撮影者のクレジットには中野英伴とある。
---大崎善生---