コーヒー大好き人間の私が、最近日本茶にはまっています。
ふとした事で、たいへん美味しいお茶に出会った事がきっかけです。
お茶の手揉み体験を手始めとして、お茶の種類や生産地、美味しい淹れ方、またお茶の歴史や、お茶の機能などを知り始めると、本当に”お茶って深い・・”ですね。何しろコーヒー、ココアとともに世界の三大嗜好飲料の一つですからね。
ところで、安倍奥井川の大日峠に、家康公の「御茶壺屋敷」が再現されていると聞いて行ってみました。自転車で行こうかとも思ったのですが、なにせ昼間はまだまだ暑く、峠も結構きついようなので、今回は車で・・・ということで・・・(軟弱です)
井川峠の風は心地良く、山の上には、秋が確実に訪れていました。
””風たちぬ、いざ生きめやも・・・””この季節になると、いつも堀辰雄の小説の一文と、なぜか「セプテンバー・ソング」の歌詞が思い出されます。(年を取っちゃったのかなぁ?・・・(せつない笑いです)
井川大日峠のハイキングコースの一画、ピクニック広場の西側に御茶壺屋敷は再現されていました。
1607年(慶長12年)徳川家康は、将軍職を息子秀忠に譲り、駿府に隠居しました。その家康が、駿府城でのお茶会を催す為のお茶を貯蔵する目的で、ここ大日峠に御茶壺屋敷(貯蔵庫)が建てられたということです。(御茶壺屋敷の由来)
でもチョット待って・・。1607年(慶長12年)に隠居した家康なんですよね。御茶壺屋敷が建てられたのが、1612年(慶長17年)、家康が亡くなったのが1616年(元和2年)だからほんの3~4年しかこの御茶壺屋敷は使われなかったんでしょうか。(なんだか切ない感じですね)
家康が亡くなったあと、中止されてしまったのか、その後も、久能山の廟に供えられたりしたのかなどはよく分かりません(調べてありませんので)。1685年に江戸の将軍家に献上したとの記録はあるようです(安倍郡茶業組合資料)ので、しばらく続いたのかもしれませんね。
このお茶を駿府城まで運んだ故事にちなんで、「御茶壺道中」が行なわれています。
「御茶壺道中」と言えば、毎年京都の宇治から江戸の将軍家(江戸城)に御用茶を運ぶ行列で知られていますね。
昔のわらべ歌にある ♪♪ずいずいずっころばしごまみそずい・・・♪♪ってやつです。
「茶壷に追われてトッピンシャン」の茶壷がこの茶壷なんですね。
東海道を下り、宇治に着いた何十もの茶壷にお茶をつめて、帰りは中山道を上り、甲州街道を通って途中「谷村」(今の山梨県都留市)で夏を過ごしたお茶は再び江戸に入るという長い道中だったそうです。
籠に乗せた茶壷は将軍と同等だと言うことで、大名(行列)も道を譲ったと言われ、人々が恐れた行列であったようです。御茶壺道中の行列が来ると、庶民はそそうがあってはいけないと、追われるように家に帰って戸をピシャッと閉めて行列が通り過ぎるのをまつ。行列が「抜けたらドンドコショ・・」(意味がよく分からないけど・・ 笑 )
将軍と同等ということで横暴、粗暴な振る舞いが多々あったと言われています。
当時お茶を扱う役職(役人)は茶坊主などと呼ばれた下級官吏であり、それが将軍の御用を承るということで、気が大きくなってしまうんでしょうね。普段顔も上げられないような大名も道を譲るとなれば尚更です。なんか自分が急に偉くなったような気になったりして、・・何処かにもいそうですね・・茶坊主。(笑)
駿府城への行列が、こんなんだったかどうかは分かりませんが、三代将軍、家光の時代から幕末まで続いたと言われている「御茶壺道中」を家康が見たら、何と言ったでしょうね。・・・・
ふとした事で、たいへん美味しいお茶に出会った事がきっかけです。
お茶の手揉み体験を手始めとして、お茶の種類や生産地、美味しい淹れ方、またお茶の歴史や、お茶の機能などを知り始めると、本当に”お茶って深い・・”ですね。何しろコーヒー、ココアとともに世界の三大嗜好飲料の一つですからね。
ところで、安倍奥井川の大日峠に、家康公の「御茶壺屋敷」が再現されていると聞いて行ってみました。自転車で行こうかとも思ったのですが、なにせ昼間はまだまだ暑く、峠も結構きついようなので、今回は車で・・・ということで・・・(軟弱です)
井川峠の風は心地良く、山の上には、秋が確実に訪れていました。
””風たちぬ、いざ生きめやも・・・””この季節になると、いつも堀辰雄の小説の一文と、なぜか「セプテンバー・ソング」の歌詞が思い出されます。(年を取っちゃったのかなぁ?・・・(せつない笑いです)
井川大日峠のハイキングコースの一画、ピクニック広場の西側に御茶壺屋敷は再現されていました。
1607年(慶長12年)徳川家康は、将軍職を息子秀忠に譲り、駿府に隠居しました。その家康が、駿府城でのお茶会を催す為のお茶を貯蔵する目的で、ここ大日峠に御茶壺屋敷(貯蔵庫)が建てられたということです。(御茶壺屋敷の由来)
でもチョット待って・・。1607年(慶長12年)に隠居した家康なんですよね。御茶壺屋敷が建てられたのが、1612年(慶長17年)、家康が亡くなったのが1616年(元和2年)だからほんの3~4年しかこの御茶壺屋敷は使われなかったんでしょうか。(なんだか切ない感じですね)
家康が亡くなったあと、中止されてしまったのか、その後も、久能山の廟に供えられたりしたのかなどはよく分かりません(調べてありませんので)。1685年に江戸の将軍家に献上したとの記録はあるようです(安倍郡茶業組合資料)ので、しばらく続いたのかもしれませんね。
このお茶を駿府城まで運んだ故事にちなんで、「御茶壺道中」が行なわれています。
「御茶壺道中」と言えば、毎年京都の宇治から江戸の将軍家(江戸城)に御用茶を運ぶ行列で知られていますね。
昔のわらべ歌にある ♪♪ずいずいずっころばしごまみそずい・・・♪♪ってやつです。
「茶壷に追われてトッピンシャン」の茶壷がこの茶壷なんですね。
東海道を下り、宇治に着いた何十もの茶壷にお茶をつめて、帰りは中山道を上り、甲州街道を通って途中「谷村」(今の山梨県都留市)で夏を過ごしたお茶は再び江戸に入るという長い道中だったそうです。
籠に乗せた茶壷は将軍と同等だと言うことで、大名(行列)も道を譲ったと言われ、人々が恐れた行列であったようです。御茶壺道中の行列が来ると、庶民はそそうがあってはいけないと、追われるように家に帰って戸をピシャッと閉めて行列が通り過ぎるのをまつ。行列が「抜けたらドンドコショ・・」(意味がよく分からないけど・・ 笑 )
将軍と同等ということで横暴、粗暴な振る舞いが多々あったと言われています。
当時お茶を扱う役職(役人)は茶坊主などと呼ばれた下級官吏であり、それが将軍の御用を承るということで、気が大きくなってしまうんでしょうね。普段顔も上げられないような大名も道を譲るとなれば尚更です。なんか自分が急に偉くなったような気になったりして、・・何処かにもいそうですね・・茶坊主。(笑)
駿府城への行列が、こんなんだったかどうかは分かりませんが、三代将軍、家光の時代から幕末まで続いたと言われている「御茶壺道中」を家康が見たら、何と言ったでしょうね。・・・・
月末には、(齢も忘れて)また狩野川100kmサイクリングのイベントに参加する予定です。伊豆に1泊して、翌日には久しぶりに松崎に居る旧友に会って来ようかと思っています。
それにしてもお茶壺屋敷が再現されたこと、知りませんでした。なかなか井川にいく機会はありませんが、行けたら寄ってみます。
昨夜の台風も去り、朝から暑さが戻ってきました。チャリを楽しもうかなぁ、と思いましたが、家の周囲を散歩でいいにしました。でも、そろそろチャリの季節になりました。これからが楽しみです。