チャリポタ DAITAI WEEKLY

健康の為はじめた自転車が高じて、街や郊外を探訪するようになると、普段は見えていなかった景色が見えてきた。

Merry Christmas

2006年12月23日 | Weblog
メリークリスマス!

忙しくて、夜の街なんかいけない! って言う人、・・・お楽しみ下さい。

今年も、あとわずかですね。


呉服町通り

  Silent night, Holy night



青葉シンボルロード(1)

  All is calm, all is bright



青葉シンボルロード(2)

  Rownd you virgin mother and child



青葉シンボルロード(3)

  Holy infant so tender and mild



青葉シンボルロード(4)

  Sleep in heavenly peace



青葉シンボルロード(5)

  Sleep in heavenly peace













レバニラ炒め

2006年12月22日 | 名物(ランチ)
洞慶院を出るとお昼になった。参道の入り口の蕎麦屋が美味しいと聞いて来たが、あいにく今日は休みだった。
しかたなく、羽鳥の商店街に戻る。此処にも「玄武」と言う中華の美味しい店があると言うことなので行ってみた。
店の外まで食事待ちの人が溢れていた。今日はついていない!。
こうなれば、いつもの「味守香」へGO!。

新間地区のトンネルの手前、旧道を左斜めに入る。藁科川沿いに旧道をしばらく進み、新道(バイパストンネル)へ出る直ぐ手前右手に、味守香(みるか)がある。
建物はお世辞にも中華料理店とは言えない(失礼!)店構えだが、味は結構美味しい。知る人ぞ知る”隠れ中華”屋。(元、市内の某ホテルのシェフだった方がやっているお店と聞いた)




今日は定番ランチメニューの「レバニラ炒め」を食べる。
結構ボリュームがあり、美味しい。スープ、サラダ、鳥のから揚げ、お新香がついて、1,000円でお釣りが来るのはうれしい。

サイクリング時の昼食には、スタミナ補給の面では「レバニラ炒め」が一番と、NHKの「ためしてガッテン」でやっていたことがあった。(ミーハーレポート)

ランチメニューは、野菜炒め、麻婆豆腐、焼肉、レバニラ炒めなど5種類?あり、すべてボリュームたっぷり。

その他単品もラーメン、餃子から多種あり。通称”安くて美味しい店”。(隣の人はなぜか”オムライス”を食べていた)

*お昼時はいつも満員なので、時間をずらして行った方が良いかも。

一度ご賞味あれ。




チャリポタ しずおか史跡散策(その13)洞慶院

2006年12月19日 | 史跡散策
徳願寺を出て、寺の前の舗装道路を一気にダウンヒル。スピードが出すぎて危険なので、ブレーキを掛けながらスピードダウンする。

今日は山道の途中にある、「手児の呼坂」(てごのよびさか)に寄ってみよう。
この道は最古の東海道(東路)として人々が通い、江戸初期に(五十三宿の)東海道が整備されるまで使われていた古道だそうだ。


手児の呼坂


私は今日始めてここを訪れた。ここにあることも知らなかったのだ。下りの道路の途中、コンクリートの壁に、これまたコンクリートの小さな登り階段があり、そこを登ると直ぐに細い山道が通っている。そこが手児の呼坂と呼ばれている。
万葉の歌にも読まれたというこの道、いまは通る人も無く山の木々に覆われ、車で通ればまったく気が付くことも無い。

この峠には、七夕にまつわる牽牛、織女の話に似た伝説があると聞いた。


徳願寺を下り、向敷地の住宅地を抜け、安倍川沿いの207号線(奈良間手越線)を川上へ向かって走る。国道1号バイパスを潜り抜けて、その先の牧ヶ谷橋を右折する。左手の川中に「木枯らしの森」を見て、362号線(藁科街道)を左折する。羽鳥の道は狭く、しかも交通量が多いので気を付けて走ろう。羽鳥の商店街を抜けるあたり、久住谷川(坂)の手前右手に「洞慶院」の小さな看板がある。(見逃してしまいそうな小さなものだ)右折して川に沿った道を山に向かって走り、突き当るとそこが洞慶院だ。


洞慶院本堂 (樹齢300年といわれる大杉の参道を行くと本堂に出る)


お寺の案内(板)によると、ここ「久住山洞慶院」は、はじめは馬鳴大明神の社僧寺(神社で仏事を修めた僧侶の寺)であったという。
かつては喜慶院と称されていた真言宗の寺であったが、1452年(享徳元年)石叟円柱和尚が再建し、洞慶院と改め曹洞宗としたとある。

(蛇足=馬鳴(めみょう)は2世紀頃のインドの仏教詩人。バラモン教から仏教に帰して仏教の興隆に寄与したとされる人で、後に神として祀られたものと思う)



当日はお寺で葬儀があって、ゆっくり拝観することが出来なかった。

すこし過ぎてはいたが、鐘楼の側には紅葉が残っていた。







葬儀の邪魔にならないよう写真を撮る。



水洗い慈母観音



明王殿




ちょっとリアルだが、これは安産を願う女性が呪文?を唱えながらまたぐと願いがかなえられると言われるものだそうで、本物の ○イレ ではありません。





参道の入り口には梅園があり、春には花見客で賑わうという。

また、夏(7月)の開山忌には、無病息災、家内安全のご祈祷が行われる。
この時期、境内で「おかんじゃけ」(と呼ばれる郷土玩具)が売られるが、今でも売られているのだろうか。

子供の頃、亡くなった祖母におかんじゃけを買ってもらった記憶がある。男の子だから、僧侶よろしく、払子(ほっす)を振るまねをして遊んだようにおぼえている。女の子は髪を結う遊びをしたという。

(蛇足=払子は、もとはインドで(仏教が殺生を禁じていたので)蚊や蝿を追う道具だったのが後、日本に渡り、禅僧が煩悩、障碍(害)を払う法具となったようだ。)


続く・・・・














 

チャリポタ しずおか史跡散策(その12) 徳願寺 

2006年12月08日 | 史跡散策
高林寺を出て向かい側山の手方向、徳願寺に向かう。向敷地の住宅地を抜けてし松雲寺を過ぎると竹亭という料亭があり、ここに自転車を置いて、少し山登りの格好になるが、これが一番近道となるらしい。自動車で行ける道が東西にあり、今日は自転車で行ってみた。これが間違いだった。坂また坂でずっと登り道。とうとう自転車をおりてひっぱる。たいへんだ。すっかり汗をかいて、やっとのおもいで徳願寺につく。


市内遠景

(ここに来る山道の途中から見る市内の眺めも素晴らしい。ハイキングだったら気持ちが良かったかも。)

 

山門脇の山茶花の並木道

山門下の紅葉は少し色づき始めていたが、脇道の山茶花は既に盛りを過ぎて、かなり散っていた。
最盛期だったらさぞかし綺麗に咲いていただろう。



徳願寺山門


「大窪山徳願寺」は、今川家七代当主、今川氏親の母(今川義元の祖母)、北川殿の菩提所である。
法名「徳願寺殿慈雲妙愛大姉」
開祖は天叟祖寅大和尚。本尊は安倍七観音のひとつ千手千眼観世音菩薩(行基作)、養老年間に創建された真言宗の寺であったが、長禄二年(1457年)曹洞宗となる。と寺の案内にはある。

(蛇足=行基は(道昭の弟子の僧)、苦難の末、朝廷より最初の「大僧正」の位を賜ったといわれる人物であり、全国に沢山の寺を建立したり、貧民救済、治水、架橋など当時の日本のインフラ整備をも集団で行ったという凄い人だ。・・・ だから ・・・ たぶん ・・・ 仏像も ・・・ 彫ったかも ・・・ )




大公孫樹

現在の徳願寺は、度々の火災により三度再建されて、現在の場所に移ったという。
寺の北東に大きな公孫樹の木がある。以前はそのずっと上の方に建立されていたそうだ。
そこには水が無い為、毎日下から汲み上げていたという。
今の場所には湧き水があり、本堂の前後には池がある。




徳願寺本堂

2400坪ほどあるという境内の奥に本堂がどっしりと建っている。


北川殿は、戦国の世を生きた武将の妻に違わず、波乱万丈の人生を送ったようだ。

伊勢盛定の娘として生まれ、兄(弟とも)は伊勢盛時(正式な名は平盛時=後の北条早雲)である。駿府今川家六代目当主義忠が、応仁の乱で東軍に味方するため上洛した時に結婚したと言われている。
七代目龍王丸(後の今川氏親)が生まれてまもなく、遠江国で夫の義忠が戦死、龍王丸はまだ幼少だった為、義忠のいとこの小鹿範満を担ぐ家臣の三浦・朝比奈氏らと家督争いが起こり、今川家は二つに割れる。

この家督争いに上杉政憲(堀越公方の執事)や太田道灌らが介入したため、北川殿は兄の伊勢新九郎(北条早雲に同じ)を呼び寄せ調停にあたり、ひとまず龍王丸が成人するまで小鹿範満は龍王丸の後見人として家督を代行する事となり、小鹿範満は駿河舘へ、北川殿と龍王丸は小川城(焼津)へ入る。(丸子館(城)との説もある)

龍王丸が15歳を過ぎた後も範満は家督を返すどころか奪取の動きを見せる。再び北川殿は伊勢新九郎に助けを求める。駿府に下った新九郎は(焼津)石脇城で体制を整え、駿河館を襲撃し、範満、孫五郎兄弟を討つ。
北川殿、龍王丸親子は駿河館に入り、2年後元服した龍王丸は氏親を名乗り、今川家七代当主となったという。

北川殿の由来は、浅間神社前から麻機方面に向かって流れている川(安倍川の支流とおもわれる)北川沿い(今の臨斎寺のある所)に館があったことからそう呼ばれるようになったという。






北川殿の墓碑は本堂裏庭の山の中腹にひっそりと建っていた。



(お寺の)お話によると2年後くらいには、本堂の前面に移す予定があるそうで、その後には多くの人達が参拝できるようになるだろう。


続く・・・・









チャリポタ しずおか史跡散策(その11) 高林寺 

2006年12月07日 | 史跡散策
冬晴れの穏やかな休日だ。今日は手越(安倍川西)の高林寺→徳願寺→羽鳥の洞慶院→見性寺などを拝観する予定。

駿府公園から中町、本通りを西へ向かう。安倍川橋を渡り、少将井神社を過ぎ、直ぐの左手が高林寺。手越の街道は狭いので注意して走る。


一般に「ごりょうさん」と呼ばれている、「御霊山高林寺」の山門


昔は「手越の灸」で知られていたお寺である。寺史によると1653年(承応二年)頃、人々の治療のため始められたものという。今はお灸も若い人達にはあまり関心がなくなっている。
臨済宗妙心寺派、高林寺は寺紋が「武田菱」(たけだびし=四つ割菱とも)で、武田信玄の家臣、一条信龍の三代目松井正近による開基という。



1800年当時の手越街道の絵巻物の一部。街道筋に「高林寺」(御霊社)、山手に「徳願寺」、藁科川に「木枯らしの森」、安倍川中洲に「船山」などが描かれている。右手の街道下には「弥勒町」上には「安倍川村」と書かれている。



駿河百地蔵 第五番霊場 子育地蔵尊がある。(駿河百地蔵は知りませんでした)

境内には本堂の横に御霊尊のお堂、その右手には「白馬堂」がある。これには伝説があり、白馬(木像)は浅間神社の神馬であった。ある時浅間神社が火事になり、その時神馬の一頭がこの寺まで逃げてきたという話が人々の間に伝わっている。
お話をご住職に伺うと、ご住職は笑って「何時ここ(当寺)に払い下げられたかは、さだかではありません」とおっしゃられた。
いつか浅間神社を拝観するときに聞いてみたいと思っている。



またここには、明治二十二年に開通した東海道本線の「大崩トンネル」の工事で亡くなった人達(12名)の供養塔がある。
いつの世でも大工事となるトンネルやダム等の建設現場では、多数の殉職者がでる。その人々の犠牲もあり出来上がった公共施設の恩恵に与る私たちは、時にはその事実に心を傾ける事も大切であるとしみじみ感じた。

続く・・・・