チャリポタ DAITAI WEEKLY

健康の為はじめた自転車が高じて、街や郊外を探訪するようになると、普段は見えていなかった景色が見えてきた。

県立美術館

2008年01月23日 | Weblog
12月28日~3月30日まで、県美で「ガンダーラ美術とバーミャン遺跡展」が開かれています。
今美術館を出て来たところです。とっても素晴らしかったです。

何が素晴らしかったって?それは展示会を見てください!


桶狭間古戦場(2)

2008年01月18日 | 史跡散策
丸根砦を出て、次は田楽坪(田楽狭間)古戦場に向かう。

途中大高緑地(公園)の中を走る。100haもの広さがあり、中には公園、野球場、テニスコート、プールやバーベキューが出来るディキャンプ場もある市民の憩いの場所だ。公園の周遊道路では、若者がロードのトレーニングをしていた。
こんな公園が静岡の町にも欲しいと感じながら走る。

丸根砦から3kmあまりで「もうひとつの桶狭間古戦場」と言われている田楽坪に着く。ここは名古屋市の土地区画整理事業で造られた公園で、田楽坪周辺から合戦に纏わる石碑などが集められ整備された場所だという。公園の近くには長福寺がある。



田楽坪公園(義元の墓碑? 戦死の地とあるが・・・)


此処から北東に2km足らずの所が、一般に知られている国指定の史跡「桶狭間古戦場伝説地」がある。義元の墓や、本陣跡の碑などがある。

田楽坪の「長福寺」はお留守、桶狭間の「高徳院」では品切れですということで、合戦に纏わるパンフレット等はいただけませんでした。


合戦の経緯としては、多くの方がご存知の通り定説として語られている事は、今川義元上洛の途、織田信長の軍勢による奇襲を受け桶狭間(現豊明市)の地で敗れたとされる事である。



 高徳院境内の義元軍本陣跡の碑の前にて



劇的なこの合戦には近年、専門家や歴史愛好家の調べでいろいろな説が出てきている。

史跡を回っていて・・・「義元が討たれた場所は本当は何処だったのか?」「なぜ信長は、今川軍の城の目と鼻の先に、複数の砦を築いたのか、それなのに何故今川軍はその砦の構築を完成前に阻止(攻撃)出来なかったのか?」「地理的にみて(進撃のルートなど)、また合戦の経緯を考えてみるとそもそも上洛が本当の理由だったのか?」など、興味の尽きない想いが次々と湧いてくる。

「古戦場はどっちだ?」 今でも名古屋市と豊明市の間で、”元祖”と”本家”争いみたいな論争が続いているそうだ。  (笑)


合戦の仔細については、インターネットの wikipedia をはじめ、沢山載せられているホームページに任せることにして、実際に自転車で走ってみて感じたことは、地形(山か谷か田畑か)、地質(木が生える土壌か、潅木しか育たないか、何も生えない地か)などを考えると田楽坪(田楽狭間)の方が主戦場ではなかったか?と感じた。

いずれにしても千・万を超える兵達が合戦出来るような地形は限られてくる。

そうすると義元の、あの時点での目的は上洛なんかでは無かったのかも知れない。それ以前の織田との戦いでの領土拡大が目的ではなかったのか。(長期的には上洛の目的はあったに違いないとは思うが・・・)


考えると、豊明市の桶狭間は東海道(旧鎌倉街道)沿いであり、高徳院や首塚などは、江戸時代に入ったのちには、当時の旅人にとってみれば、ちょっと寄ってみたい”観光スポット”として人気があったであろう事は想像にかたくない。

また合戦場は、当時の両軍の軍勢、地理的、また戦略的背景から察して、静岡大学の小和田教授の言うように、あの辺一帯(両方の地)が戦場であったと言う説は納得できる。

「国指定の史跡」であるが為に、一般には豊明市の桶狭間の方が古戦場として有名である。
古くから語られていた場所を、多くの歴史書や、旧日本陸軍の「日本戦史」でも採用されていたということで、昭和になってから国も史跡指定してしまったのでは・・・

名古屋市の「田楽坪」の方は、市の土地区画整理事業の際に、近くに散在していた石碑などを集めて作られた公園で、馬繋ぎの塚、(義元)首荒いの泉などがある。(首荒いの泉などはあの場所には湧いていなかった・・と言うことで=指定史跡=では無い)
近くの長福寺は、住職が義元に合戦の前、酒肴を献上した場所として、また合戦のあと、義元の茶坊主が義元の首検証をさせられた寺として知られている。

古戦場には、陸軍大将「松井石根」(戦後、南京大虐殺事件の責任を問われBC級戦犯として処刑=広辞苑(第六版)ではA級戦犯となっているが、A項では無罪?となっているらしいのでBC級で有罪=)の奉納した碑がたっている。これは桶狭間合戦当時、義元本陣を守って戦死した武将、松井宗信(二俣城主)の子孫であることからだと思われる。

(歴史探訪はいろいろな事がいろいろな所で繋がってくるからほんとうに面白い)

寒かったけれど、久しぶりに楽しいポタリングが出来ました。






地図の走行ルート上のカメラアイコン、左から 1大高城址(今川軍)、2丸根砦址(織田軍)、3田楽坪(古戦場1)、4高徳院、5義元塚(古戦場2の桶狭間)、6沓掛城址(今川軍)。
鷲津砦址(織田軍)と鳴海城址(今川軍)は丸根砦址カメラの上(北)側。


*ポタリングの軌跡(ルート)をナビで記録してフリーソフトのカシミールに表示してみました。
本来はカメラアイコンの上にマウスでポイントすると、写真が見られるんですが、ブログではちょっと無理みたい?です。






 一番離れている沓掛城址。寒かったのでいっぱい着込んで・・。


  =行程=

 START → 8.5km → 大高緑地 → 1.5km → 大高城址 → 1.2km → 丸根砦址

 丸根城址 → 3.3km → 田楽坪(長福寺) → 2km → 桶狭間古戦場伝説地

 桶狭間古戦場伝説地 → 5km → 沓掛城址 → 9.2km → GOAL


 全行程 約30.7km

桶狭間古戦場(1)

2008年01月16日 | Weblog
***修理が完了しました。goo事務局のみなさま、ありがとうございました***


新年の走り初めは、愛知県でポタリングです。久しぶりの史跡散策です。
まだお正月の気分です。 m(__)m

NHKの大河ドラマ「風林火山」も終了しましたが、ドラマの最終回?にドラマの本筋ではないけれどもエピローグ的に語られていた武田信玄と織田信長の戦い、「桶狭間の合戦」に因む史跡をいくつか訪ねることにしました。


愛知県(特に名古屋近辺)は、”車が無いと何処にも行けない”と言われるほどで、静岡と比べて車の量が非常に多い。自転車で走るには十分注意しなければなりません。



=散策コース=

「桶狭間の合戦」前後に係わりのあった場所、大高城、丸根砦、田楽坪(古戦場1)、長福寺、義元塚(古戦場2)、高徳院、沓掛城などを回る。

城址や砦跡、古戦場など多くの場所は、今はもうすっかり住宅地の中だ。そうなれば自転車で回るのが一番。

最初に、大高城址と丸根砦址を訪ねる。両史跡とも住宅に囲まれてあった。急勾配を必死にペダルを漕いで上る。現在は城址公園として整備されていた。城は空堀が回らされた典型的な山城である。

合戦の当時、大高城は2.5kmほど北東にある鳴海城(根古屋城)と共に、今川軍の最前線基地であった。織田軍に囲まれ、孤立していたこの大高城に、松平元康(後の徳川家康)が沓掛城(今日最後の予定地)から敵の目を掻い潜り「兵糧入れ」を行ったと言われている。

次に目と鼻の先にある丸根砦に行く。住宅の路地をくねくねと走る。車では通り過ぎてしまいそうだ。
丸根砦は鳴海城と大高城のルートを分断するように、合戦の前年(1559年)に直ぐ向かいの鷲津砦と共に信長が築いたものだ。
結局桶狭間合戦の時、丸根砦は松平元康(家康)に、そして鷲津砦は朝比奈泰能(一般には泰能とされているが、現在は息子の朝比奈泰朝という説が有力)によって落とされる。

砦は城より規模、兵力も小さい。信長はなぜ大高城の目の前(700m程)に丸根砦を築いたのか、さらには400mほど横に鷲巣砦を・・・

当時の今川の勢力(兵力)から見れば、合戦になればひとたまりもないと思うのだが信長はあえて(と言いたい気持ち)築いたのには、何か奇策でも考えていたのか?(今川義元の軍勢に勝てると思える奇策でも・・)その為の愚策とも思われる行動は、とても「尾張のうつけもの」の行動とは思えないのだ。
・・と、深読みしてしまった。



今日は行くことが出来なかったが、鳴海城(別名=根古屋城)も桶狭間の合戦を語るには欠かせない史跡だ。

合戦当時の城主は岡部丹波守元信だった。鳴海城はまさに今川軍の西の最前線!。
目障りな今川軍を牽制すべく、信長はここにも丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いて鳴海城を包囲したという。(いったい幾つ砦を造るつもりだったのか)

合戦は織田軍の勝利に終わり、大将今川義元は討死、松井宗信はじめ多くの武将を失い、今川方は敗退。松平元康(家康)も大高城を捨てて岡崎城へ引く。

ところが鳴海城の岡部元信だけは一歩も引かなかった。(去年のブログ、青龍山本覚寺の項でも書いたが)孤軍奮闘し、鳴海城だけは落ちなかった為、信長は元信の主君、義元公の首と引き換えに鳴海城を明け渡すことを交渉する。

駿河への帰路、元信は「このまま帰るのは面白くない」と言ったかどうか知らないが、(勲功の無きを潔しとしない為か)帰りがけの駄賃!とばかり、刈谷城を襲撃しこれを焼き払う。
のち、武田軍の駿河侵攻により降伏、武田に仕える。武田は実力のある元信を遠江の高天神城城主に任命する。その後、勢力を伸ばした徳川と武田の争いが続き、高天神城は徳川軍の攻撃を受け、元信は壮絶な最後を遂げる。





 史跡散策ルート(今川軍の侵攻ルートでは無く、私のポタリングルートです。あしからず)

 左から=大高城(今川軍)、 丸根砦(織田軍)
     上にいって鷲津砦(織田軍)、 さらに上が鳴海城(今川軍)


     =後半(2)に続く=
























謹賀新年

2008年01月13日 | Weblog
  謹賀新年  

おだやかな2008年を迎えました。今年もよろしくおつき合いください。あせらず、のんびりと書いて行きたいと思います。

正月早々、写真が掲載出来なくなってしまいました。ただいま修理中です。

走り初めは、愛知県の史跡散策(ポタリング)でしたが・・・・