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河口慧海(かわぐちえかい)

2008年11月13日 23時51分07秒 | Weblog
今日の午後は、某大学の秋季講座。五回目は「河口慧海」。
講座のある日の午前は今まで家に居たのですが、今日は写真機片手に・・・

 

 
      風で飛んできた一枚の葉っぱを見事に!!


今日頂いた資料を基に・・・

河口慧海(1866:慶応2~1945:昭和20)は、明治時代、鎖国体制下のチベットに単身ヒマラヤ山脈を越えて潜入し、その冒険談を『西蔵旅行記』に著したことで世界的に知られる仏教者、仏教学者です。

和泉国堺(現堺市堺区)の樽職人の長男として誕生しました。12歳(数え年)で小学校を退学し家事に従事しました。15歳で漢学を学び、釈迦の伝記を読んだことで仏教の道を歩むことになりました。28歳になり、宇治の黄檗山万福寺で漢文大蔵経を読んで、チベット行きを決意します。即ち、日本のお経は漢訳であり、その原点であるサンスクリット語やチベット語で書かれたお経を是非読みたいと思ったわけです。
4年後の1897(明治30)6月、32歳の慧海は神戸を出港し、インド、ネパール、チベットに向かいます。当時のチベットは鎖国状態で、警備されていない秘境の峠を越えチベットに入ったのが35歳。1901(明治34)、36歳でようやくラサに到着し、セラ寺に入学し、修学。医者として名声を博し、ダライ・ラマ13世にも拝謁。
しかしながら、翌年、日本人であることが露見して、チベットを脱出。1903(明治36)5月、38歳の慧海は5年ぶりに神戸に帰着し、チベット旅行談を新聞に連載し、一躍時の人となりました。翌年、『西蔵旅行記』を出版。(西蔵と書いてチベットと読ませる)
しかし、チベットに入る時にお世話になった多くの人たちに迷惑が掛かってはいけないとの思いが、国境の峠に到達するまでの13日間は漠然と記すだけで何処をどのようにして通ったのか全く分かりませんでした。4、5000mの空気が希薄な高地を単身で通ったことが本当なのかと疑いを持つ人も出、慧海が西蔵に行ったのか?と物議を醸しました。
一年半後の1904(明治37)10月、39歳の慧海は再び西蔵への旅に出ますが、10年後、49歳になってやっと二回目のチベット入国を果たし、翌1915(大正4)9月、神戸に帰着します。
貴重な資料を多く手にした慧海は現代語訳を手がけ、大乗仏典を次ぎ次ぎに刊行することになります。
このような業績などから、謎は謎のままとして西蔵旅行記は世界中で読まれることになります。

2004(平成16)に自筆の日記が見つかり、今日講義して下さった高野山大の奥山直司教授に託されました。その中には、地名が記されており、諸説ある峠までの13日間の謎のルート解明に役立ちました。

 
ご興味がありましたら、上記の本をお読みなったり、サイト検索をなさって見て下さい。


さてさて、木の葉ですが・・・
 
    このように、蜘蛛の糸にぶら下がっていました