最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

I was born in 1947 and 65 years old today!

2012-10-28 22:12:17 | 日記
【10ー28、私の満65歳の誕生日に】

○孤独

 私はずっと、人を恨んでばかりいた。
人を信じず、人からも信じられない。
何があっても、裏切られた。
だまされた。
そんなふうに考えていた。

 が、私はまちがっていた。
私は与えることを恐れ、失うことを恐れていた。
ケチでためこみ屋。
何を見ても、裏から見ていた。
考えることは、批判ばかり。
批評ばかり。
あれが悪い、これが悪い、と。

 そんな私に与えられた代償は、「孤独」。
私は子どもころから、ずっと孤独だった。
さみしかった。
ひとりで寝ることもできなかった。

○喜び

 大切なことは、与えること。
相手が喜ぶように、与えること。
私がうれしいときは、それをだれかに分け与えること。
けっしてその喜びを、自分だけのものにしてはいけない。

 モノでも、心でも。
何でもそうだ。

 それを与えきったとき、私たちは心の重荷から解放される。
真の自由を手に入れることができる。

○プレゼント

 今日は私の誕生日。
昨日、2人の友が、我が家に来てくれた。
オーストラリアから、わざわざ、来てくれた。
そして今夜、3人の家族と1人の友が、私の誕生日を祝ってくれた。
うれしかった。
メールを開くと、孫たちが、写真を送ってくれていた。
それが届いていた。
大きなバースデー・ケーキの写真だった。
うれしかった。
ただただ、うれしかった。

happy_bday_jijipng

 そのあと私は友に、2台のパソコンをあげた。
1台は2年ほど前に買ったもの。
もう1台は、1年ほど前に買ったもの。
「どちらかあげるよ」と言ったら、友は3時間も迷った。
一長一短。
それで私はこう言った。

 「パソコンというのは、ぼくにとっては恋人のようなもの。
君なら大切にしてくれると思うから、2台とももっていってほしい」と。

 息子には、iPadをそのままあげた。
ワイフが、誕生日プレゼントにと、買ってくれたものだった。
前からほしかった。
やっと手に入れた。
が、息子はもっとほしがっていた。
ワイフにはこう言った。
「お前にも、何かあげるよ。ごめんね」と。

○別れ

 明日、その友はオーストラリアへ帰る。
セントレア(名古屋空港)まで、見送る。
さみしい。
直行バスで行く。
先ほど、その予約を入れた。
それが終わったとき、ワイフがこう言った。
「帰りにどこかへ泊まらない?」と。
即座に私はこう言った。
「いいよ」と。

私「2人だけで、祝いなおしか」
ワ「そうね」と。

○感謝

 失うことを恐れない。
減ることを恐れない。
命にしても、そうだ。
どう願ったところで、「時」は、どんどんと過ぎていく。
その分だけ、命は短くなっていく。
あがいても、もがいても、無駄。
なるようになる。
なるようにしか、ならない。

 私は生きてきた。
今も生きている。
今まで健康に生きてきた。
今も、健康。
病気らしい病気は、何もしなかった。
この先のことはわからない。
が、そのときはそのとき。
私のような人間が感謝をしなかったら、だれが感謝するのか。

 みなさん、ありがとう。
この文を読んでくれた、みなさん、ありがとう。
2012/10/28記

Fuurintei-2


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2012++++++はやし浩司・林浩司

81 Masterpiece drawn by Gods(神の絵の謎)

2012-10-27 06:38:53 | 日記
【神の神、God of Gods】 2012年10月26日記

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Aliens' Masterpiece

It is simply a matter of you whether you believe it or not, but this is the masterpiece drawn and carved by Aliens. You believe in God whom you have never seen, but why don't you believe in Aliens when you see this picture?
Please open your mind and see this picture before you think I am mad.
I believe my own eyes.
Even a professional artist cannot carve such a picture on the rocks.

○異星人の描いた絵

信ずるか信じないかは、あなたの自由です。
しかし見たこともない神の存在を信ずるあなたが、どうしてこの絵を見て、異星人の存在を信じないのでしょうか。
私の頭がおかしいと思う前に、心を開いて、この絵を見てください。
私は自分の目を信じます。
プロの画家でも、このような絵を岩に彫るのは、不可能ではないでしょうか。
いかがでしょうか。

インディアン ヘッド Indian Head Mystery of 謎のインディアン 異星人の描いた絵 宇宙人の描いた絵 はやし浩司 Hiroshi Hayashi 謎の絵 謎の彫刻 異星人の彫刻 Alien Aliens's masterpiece エイリアンの描いた絵 Hamamatsu japan Japan in Canada 2012/10/27記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

○奇跡

 脳梗塞か何かで、歩けなくなったとする。
そういう人が歩けるようになったりすると、それを「奇跡」という。
「奇跡が起こった」と言って、喜ぶ。
何かの信仰をしている人なら、なおさらそうだろう。
「信仰のおかげ」と。

が、今、歩けることを、「奇跡」と思う人はいない。
歩くことだけではない。
ものが見える。
ものが聞こえる。
ものを考えられる。

 賢人は、そのものを失ってから、その価値を知る。
そうでない人は、失ってから知る。
そのありがたさというか、ここに今、私たちがいるという深大さが、このところ身に染みてよくわかるようなった。

床に就いて目を閉じる前、ふとこう思うことがある。
「明日も、ちゃんとものが見えるだろうか」と。

○神仏

 神仏の話が出たので、一言。

 今回、(この8月から)、「謎の点と線」を調べている。
その点と線を調べているときのこと。
古代の神仏は、一本の線でつながっていることを知った。
神仏というのは、キリスト、釈迦、その他、もろもろの神をさす。

日本についていえば、神教も仏教も、一本の線でつながっていることを知った。
神教と仏教を、分けるほうがおかしい。
それを疑うなら、奈良の法隆寺の参道を、正確に南に延ばしてみるとよい。
その直線は、まっすぐ那智大社につながる。

 その法隆寺と伊勢神宮と比叡山延暦寺をつなぐ。
(法隆寺ではなく、法隆寺から500メートルほど東にある、藤ノ木古墳のほうが、よい。※)

 一方、法隆寺と仁徳陵(大仙陵古墳)と高野山金剛峯寺をつなぐ。

 こうしてできる2つの三角形は、きれいな相似形を描く。
(なおメルカトル図法の地図の上では、少し誤差が出るので、注意。
調べるなら、球体を前提とした、グーグルアースの上のほうがよい。)

 こうした事実を見せつけられると、「神仏は、もとはひとつだった」と思い知らされる。
百歩譲っても、こう言える。

見たこともない神仏を信ずる人は多い。
ならばそこにある事実を、どうして信じないのか、と。

(注※)
 歴史的系列がめちゃめちゃと思う人も多いかと思う。
ここに書いたとおりとするなら、仁徳陵と法隆寺は、同時期に造られたということになる。
が、私はこう考える。

たとえば藤の木古墳にしても、法隆寺が建てられるずっと前から、そこにあった。
那智大社にしても、大社が建てられる前から、何らかの「標識」は、そこにあった。
法隆寺にしても、那智大社にしても、それらの「標識」の上に建てられた。
伊勢神宮、真言宗金剛峯寺にしても、そうだ。

仁徳陵にしても、仁徳天皇が作ったなどとは、今ではだれも信じていない。
仁徳陵は、それ以前から、そこにあった。
それを仁徳天皇自身か、その後の人たちが、「仁徳陵」に仕立てあげた。

 こういう例は、多い。
あのエジプトのピラミッドにしても、アンコールワットのピラミッドにしても、そうだ。
後の王たちが、権威づけのために、それまであった遺跡を利用した。
自分たちの墓として、利用した。

 ちがうかな?

○ひとつの神

 異星人の話。

その異星人。
どうして異星人は、ひとつの神(仏でもよいが)にしなかったのか。
人間をこれほどまでに指導しながら、どうも腑(ふ)に落ちない。
理由はいろいろ考えられる。

(1)異星人の間にも、いろいろな宗教があった。
(2)あるいは異星人の間には、統一的な神はいなかった。
(3)もともとは、ひとつの神であったが、人間が自己流の解釈を加え、変形していった。

 おととい仏教で教える五戒と、キリスト教で教える十戒を対比して考えてみた。
結果、前にも書いたが、これら両者は、たいへんよく似ている。
日本語になる前に、数か国語の翻訳を経ている。
それを考慮に入れるなら、「ほとんど同じ」と断言してもよい。
イスラム教については、キリスト教と、ウリふたつ。
真言宗(高野山)と天台宗(比叡山)ほどのちがいも、ない。
ちがいを見つける方が、むずかしい。

○懸命に生きる

 話がそれたが、要するに、生きていること自体が奇跡ということ。
私がここにいて、この文章を書く。
あなたがそこにいて、この文章を読む。
それが奇跡。
それ以上の奇跡が、どこにあるだろうか。

 何も望まない。
何も願わない。
ただひたすら、ここに生きていることに感謝する。
生きていることを喜ぶ。
分かちあう。

 人をねたまない。
恨まない。
人にねだらない。
過去にこだわらない。
未来のないことを恐れない。
失ったものを悲しまない。
足りないものを、嘆かない。
そのときは、そのとき。
今は今として、懸命に生きる。

○国民年金

 話は、ぐんと現実的になる。 

実は今朝、国民年金交付の手続きに行ってきた。
職員の人から、いちいち説明を受けなければならないほど、めんどうな手続きだった。
その国民年金。
私が生涯において、はじめて手にする、国からの直接交付金である。
内心では、「こんなもの、もらわなくてもいい」と思った。
その私が、頭をさげ、職員の人の指示に従い、書類を出した。

 ……若いころ、失業保険をもらえる立場になったことがある。
しかし私はもらわなかった。
プライドが許さなかった。
さらに低所得者用の雇用促進住宅を勧められたこともある。
しかし私は入らなかった。
プライドが許さなかった。

 その私が国民年金?

 私はひとりで生きてきた。
今もひとりで生きている。
これからもひとりで生きていくだろう。
お金にしても、貸したり、だまし取られたことは何度かある。
しかし私は1円も、人からお金を借りたことはない。

 このことと自分の健康とを対比させるのもどうかと思う。
しかしその分だけ、私は病院のベッドで寝たことは一度もない。
今まで健康で、そして今の今も、こうして健康で仕事ができることだけも、ありがたい。
ありがたいから、ひとりで生きていることを、さみしいと思ったことはない。
つまり「ひとりで生きている」という切迫感が、私自身の健康を守る原動力になっている。
だれにも頼れない。
だれも助けてくれない。
だから自分の体は、自分で守る。

○ショック

 追記。

 ……ということで、私は今朝からどうも気分が晴れなかった。
風邪っぽいところもあった。
昨夜、市内のホテルに泊まった。
冷房がききすぎていた。
それでそうなった。
が、それだけではない。
年金をもらうという、その年齢がショックだった。

 若いころは、年金をもらうのは、ずっと先のことと考えていた。
ありえない未来……のように思っていた。
その私が年金をもらう。
つまりその年齢になった。
それがショックだった。
いつの間にか、私も65歳。

 どのみち、わずかな額。
6万5000円前後。
たったの……!、という額。
そのうち、ハイパーインフレか何かになって、昼食代1食分ということになるかもしれない。
あるいは日本の国家経済が、破たんする。
すでに11月(2012年)危機説がささやかれている。
国庫に残る現金が枯渇する。
そうなれば、年金どころではなくなってしまう。

 ……そう言えば、飲食店での食事代が、このところ急騰している。
昨日も駅前で……と考え、インド料理店に入ろうとした。
が、店先のメニューを見て、びっくり。
カレーが、(ライスは別)、1300円。
小皿にもったカレーが、1300円!
それにナンと、サラダをつけると、1800円。
どうせ現地から取り寄せた缶詰を、切って温めているだけ。
(ほとんどの店がそうしているが……。)
現地では、2~3人前で、1缶、100円もしないはず。

 ハイパーインフレは、すでに始まっている?

○信仰は教えによるもの
 
 話を戻す。

 そういう意味では、私は無神論者。
神仏に頼る前に、……というか、頼る気持ちは、みじんもない。
中には、金儲けの神様というのも、いるそうだ。
もしそうなら、つまり金儲けに手を貸すような神様がいたら、その神様なるものはインチキ。
エセ。
受験の神様にしても、そうだ。

ただ肉体や精神の健康については、何とも言えない。
修行に励むことによって、肉体を鍛えることができる人もいる。
神仏を拝むことによって、心を清浄にできる人もいる。
が、信仰というのは、あくまでも己(おのれ)の魂のため。
教えに従ってするもの。
祭事や儀式ではない。
「教え」。

 そのワクづくりのために、教会があり、寺がある。
そういうところへ出かけ、己の魂を高めるためなら、……高めることができるなら、それはそれですばらしいこと。
教えの向こうには、宇宙を貫く真理が隠されている。
無神論者とはいうが、私はそこまでの神仏否定論者ではない。

○レベル

 『謎の点と線』を調べているとき、何度か、こう思った。
異星人から見たら、私たち人間は、どのレベルか、と。
「差」でもよい。

 異星人と人間……人間と犬くらいの差があるのか。
あるいはその差は、もっと小さいのか。
大きいのか。
ひょっとしたら、人間とサル程度の差かもしれない。
いろいろ考える。
だからこう思ったときがある。
義兄が、「一度、UFOに乗せてもらいたい」と言ったときのこと。

 「私たちが山猿を見つけ、その山猿を車に乗せてやろうとは思わないのと同じように、異星人もまた、私たち人間をUFOには、乗せないだろうな」と。
サルと私たち人間の間には、住環境的には、それほど差はない。
しかし異星人と私たちの間には、大きな差がある。

 大気のちがい。
重力のちがい。
食物のちがい。
それにこれは私が感じた印象だが、異星人たちは、恐ろしく日光を嫌っている。
異星人たちが降り立っただろうと思われる遺跡には、例外なく、地下道があり、地下室がある。
異星人たちは、日中は、そうした地下室で、日光に当たるのを避けていたにちがいない。

 太陽が放つ、紫外線や放射線に弱かったからではないか。
あるいはもともと暗い、光がほとんどない惑星からやってきたせいではないか。

○インディアン・ヘッド(Indian Head)

 ところでカナダに、「インディアン・ヘッド」と呼ばれる、不思議な図形がある。
自然の産物とはいえ、人間の顔そっくり。
そのインディアン・ヘッドに、どういうわけか、今、強く惹(ひ)かれる。
これから仕事だから、それを調べるのは、仕事のあと。
つまり今夜。

 私はもう一度、あの絵に、着色をしてみたい。
「絵」として完成させてみたい。
で、あの絵について、一言。

みなは、顔だけを見て、「インディアン・ヘッド(頭)」と呼んでいる。
しかし顔だけを見てはいけない。
あの絵……というより像では、1人のインディアンが、長い杖をもって、そこに立っている。
杖を握る手も、しっかりと描かれている。
そこまで見て、あの絵を判断しなければならない。

 で、その絵を見たら、あなたも、こう思うだろう。
「これは自然の産物(Nature Effect)などではない」と。
私の説を疑うなら、ここに添付するビデオを一度、見てほしい。
この絵は、明らかに、私たちが「神」「仏」とあがめる人たちが、直接、自ら描いた絵である。
言うなれば、神の神。
God of Gods(神の中の神)。
神聖な、どこまでも神聖な像である。

○自然信仰

 無神論者がふえる一方で、その無神論者の中から、「自然信仰」という信仰が生まれつつある。
自然を相手に信仰する。
だから「自然信仰」。

 だったら、もう一歩話を進めて、「宇宙信仰」にしてみたら、どうか。
天なる神々の、そのまた神々を信仰する。
視点をこの地球ではなく、地球を離れた宇宙に置く。
宇宙から見た地球、さらにはその地表にうごめく人間を見る。
とたん、ものの考え方が、ひっくり返る。
変わる。

 たとえばこのところ日中関係が、がぜん、きな臭くなってきた。
尖閣諸島をはさんで、軍事衝突も懸念されている。

 ともに何かの信仰者はいるはず。
中国側にも、日本側にも、いるはず。
それでもこうした衝突は、起きる。
過去にもあったし、これからもある。
つまりこのあたりに既存の宗教の限界がある。

 が、宇宙に視点を置くと、ものの考え方が、一変する。
国境はもちろん、都市の形さえ見えない。
島の形など、もちろん点にもならない。
そんな島を争って、戦争をする?
その愚かさ。
そのバカ臭さ。
「人間は、いつになったら賢くなるのか」と。
そういうふうに考えられるようになる。

 ともあれ、「人間も自然の一部でしかない」という考え方は、まちがっていない。
「地球も宇宙の一部でしかない」という考え方は、さらにまちがっていない。

○原始時代

 ついでにこんな話も。

 数日前、日本の原始時代がどんなものであったかを知りたかったら、アフリカのA国のA村へ行ってみればよいと書いた。
電気もガスもない。
人々は岩石の上に組み立てられた小屋に住んでいる。

 そんな時代に、異星人たちはこの地球へやってきた。
やってきて、私たち人間の指導を始めた。
人間は、異星人にとっては、奴隷的な存在だったという説もある。
結果としてみると、そうだっただろうと思う。
マヤ文明とかインカ文明とかいうが、人間が高度な知識をもっていたわけではない。
むしろ意図的に(?)、そういった知識や技術は、教えてもらえなかった。

 そのことも、アフリカのA国のA村へ行ってみればわかる。
(私自身も、ネットで知っただけで、直接行ったわけではない。誤解のないように!)
それともあなたは、彼らに、武器を渡し、車を与えるだろうか。
答えは「NO」のはず。

○異星人は甘くない

 その一方で、こんな疑問ももつ。

 ではそれから、つまり新石器時代が終わってから、すでに5500年。
この間に、人間は、はたして賢くなったのだろうか、と。
が、この答えも、「NO!」のはず。

 数日前も、近くのレストランへ行った。
毎週X曜日は、ワイフとそのレストランで、食事をすることにしている。
そこでのこと。

 今では中学生レベルで、生徒たちがたがいに抱きあっていたりする。
その日も、そういう生徒がいた。
1組の、見るからに、ノーミソ(脳みそがないという意味で、「ノーミソ」という)風の男子生徒が、1人の女子生徒をうしろから抱いていた。
それを取り囲むように、4人ほどの男女生徒がいた。
みな、卑猥(ひわい)な笑みを浮かべ、何やらあやしげな話しをしていた。

 ああいうのを見せつけられると、時代が逆行しているとさえ感じてしまう。
欲望の奴隷となり、欲望のおもむくまま、行動している。
人間が本来もっているはずの、基本的な(まじめさ)が、どこにも感じられなかった。
が、こうした事実は、人間全体の未来を暗い影で包む。
言うなれば、「悪の影」。

 はっきり書こう。

 異星人といっても、甘くないぞ。
神や仏といっても、甘くないぞ。
そのとき異星人がそう判断すれば、人間を滅ぼすことぐらい、朝飯前。
事実、この地球には、太古の昔、核兵器がひんぱんに使われたという痕跡が、あちこちに残っている。
シナイ半島、アラビア半島などなど。
モヘンジョダロもそうだろう。
オーストラリアのオルガス山(エアーズロックの隣山)もそうだろう。

 人間がもっているような爆発力のある核兵器というよりは、熱線でジワジワと焼き殺すという核兵器である。
それがどんなものであるかを知りたかったら、グーグルアースで、Mt. Olgas(Kata Tjuta)を見てみればよい。
地上ビューモードで、地上に降り立つこともできる。
そこでは巨大な岩石が、アイスクリームのように溶けて流れている。

○どう死ぬか

 だからといって、「生きていることはすばらしい」と言うつもりはない。
生きることはつらい。
さみしい。
その連続。
不安と心配が、交互に押し寄せてくる。
私の年齢になると、どう生きるかということよりも、どう死ぬかを先に考えてしまう。

 独居老人、孤独死……。
考えれば考えるほど、さみしくなる。
ゆううつになる。

○インディアン・ヘッド

 ともあれ、今夜は、インディアン・ヘッドのビデオを編集する。
先ほど、岐阜の従弟が、無農薬米を届けてくれた。
また明日は、オーストラリアの友人2人が、浜松へ来てくれる。
私の誕生日を祝ってくれる。

 これ以上の至宝が、どこにあるだろうか。

 みなさん、ありがとう。
私はみなさんによって、生かされている。

 はやし浩司 2012年10月26日記


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2012++++++はやし浩司・林浩司




80 Mystery of South-West Islands of Japan by Hiroshi Hayashi

2012-10-26 11:53:23 | 日記
【80:謎の西南諸島】

Mysteries of Japanese Islands near Taiwan.

与那国島、石垣島、南表島の謎について。

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http://youtu.be/YiraR2Jhky0

(Mystery of Yonagunijima Ishigakijima minami-omotejima 謎 石垣島 南表島 与那国島 謎の古代文明 石垣島の謎 与那国島の謎 はやし浩司 Hiroshi Hayashi Yonaguni-jima Island Ishigaki-jima Japan Oct 26th 2012)

79 Mystery of Horyuji Temple (謎の法隆寺+藤ノ木古墳)

2012-10-25 09:36:52 | 日記
○謎の法隆寺(No79)

This is the Video on mysteries on Horyu-ji Temple, which is the oldest and the most sacred Buddhist' temple in Japan. They say that this temple is founded by Shotoku Taishi, who was also the man who guided Buddhism into Japan. Horyuji temple was arranged to locate to be there by Someone as shown in this video and then we have another question that who was Shotoku Taishi.

法隆寺と聖徳太子にまつわる謎です。
法隆寺は明らかに、意図的に建てられた寺です。
意図的というのは、宇宙的視野においてという意味です。
法隆寺は、伊勢神宮、仁徳陵(大仙陵古墳)などと、関連性をもって、そこにあります。
それをこのビデオの中で説明します。
となると、法隆寺を建立した聖徳太子はだれかということになりますね。

謎は、深まるばかりです。
古代文明の謎、日本・大和編です。

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(注:法隆寺)

 法隆寺は、実に謎めいた場所にある。
偶然の一致と言えば、それまで。
しかし私は作為的な意図を、その場所に感ずる。
法隆寺から500メートル離れたところには、藤ノ木古墳もある。
円形古墳。
古墳は、もともとそこにあった。
あえてその近くに、聖徳太子は法隆寺を建立した(?)。

 法隆寺(藤ノ木古墳)のある位置は、明らかに計算されている。
そういう印象を強くもった。
たとえばこれはほんの一例だが、こういう事実が並ぶ。

(1) 伊勢神宮と比叡山、伊勢神宮と那智大社を線でつないでみる。
その間の角度は、きっかり90度である。
その90度を3等分(30度、60度)に分けたところに、法隆寺がある。

(2)(伊勢神宮、比叡山、法隆寺)をつないでできる三角形と、(法隆寺、仁徳陵、高野山金剛峯寺)をつないでできる三角形は、相似形である。
(このとき、法隆寺の代わりに、500メートル離れた藤ノ木古墳を基準点に使ってみると、さらに正確な相似形になる。)

(2) 法隆寺の参道を、正確に延長してみる。
その参道は、まっすぐ那智大社を行く。

(この作業は正確であればあるほど、よい。
あるいは反対に、那智大社から法隆寺に直線を引いてみるとよい。
その直線は、正確に法隆寺の参道へつながる。) 


(法隆寺 大仙陵古墳 那智大社 聖徳太子 謎の聖徳太子 謎の法隆寺 謎 高野山 金剛峯寺 比叡山延暦寺 はやし浩司 謎の古代文明 謎の点と線 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Japan Mysteries of Horyuji Temple Shotoku Taishi 謎の飛鳥文明)

79 Do you know the mystery of Horyuji Temple?

2012-10-25 09:08:47 | 日記
【浜松・クラウンパレス浜松にて】(10月24日)

○謎の法隆寺(No79)

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○『謎の睡眠不足』

 今、駅前のクラウンパレス・ホテルにいる。
以前は名鉄ホテルという名前だった。
今は経営者も替わり、クラウンパレス。
今夜は、このホテルに一泊。

で、先ほど、『エクスペンダブルズ(2)』という映画を見てきた。
ストレス解消映画。
意味のないドンパチ映画。

その映画を見ているときのこと。
途中で、ふと気がつくと居眠り。
時折、スーッと睡魔が襲ってきた。
今日も睡眠不足。
このところずっと睡眠不足。

朝早くから、ビデオづくりを楽しんだ。
『謎の法隆寺(79)』。
明日の朝、今書いているこの原稿とともに、BLOGに載せる。

○法隆寺

 法隆寺は、実に謎めいた場所にある。
偶然の一致と言えば、それまで。
しかし私は作為的な意図を、その場所に感ずる。
法隆寺から500メートル離れたところには、藤ノ木古墳もある。
円形古墳。
古墳は、もともとそこにあった。
あえてその近くに、聖徳太子は法隆寺を建立した(?)。

 法隆寺(藤ノ木古墳)のある位置は、明らかに計算されている。
そういう印象を強くもった。
たとえばこれはほんの一例だが、こういう事実が並ぶ。

(1) 伊勢神宮と比叡山、伊勢神宮と那智大社を線でつないでみる。
その間の角度は、きっかり90度である。
その90度を3等分(30度、60度)に分けたところに、法隆寺がある。

(2)(伊勢神宮、比叡山、法隆寺)をつないでできる三角形と、(法隆寺、仁徳陵、高野山金剛峯寺)をつないでできる三角形は、相似形である。
(このとき、法隆寺の代わりに、500メートル離れた藤ノ木古墳を基準点に使ってみると、さらに正確な相似形になる。)

(2) 法隆寺の参道を、正確に延長してみる。
その参道は、まっすぐ那智大社を行く。

(この作業は正確であればあるほど、よい。
あるいは反対に、那智大社から法隆寺に直線を引いてみるとよい。
その直線は、正確に法隆寺の参道へつながる。) 

○聖徳太子

 あちこちの記事を読む。
聖徳太子の勉強をする。
中には、聖徳太子架空説まであった。
つまり聖徳太子は、実在しなかった、と。
さらに聖徳太子、イエス・キリスト説まであった。
厩(馬屋)で生まれたとか、母親が処女懐胎したとか、など。
そんな言い伝えが、根拠(?)になっている。

そう言った話はともかくも、いつから、だれがだれを「聖徳太子」と呼ぶようになったか。
聖徳太子はどこから来て、どこへ去っていったか?
一応父親の名前もあがっている。
墓もある。
しかし……。
「聖徳太子」という名前すら、謎に包まれている。

○十七条憲法

 10年ほど前、仏教でいう五戒と、モーゼが受けたという十戒を対比させたことがある。
内容が、たいへんよく似ている。
その原稿を探してみる。
で、そのあと、聖徳太子の教えを分析してみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

○仏教の五戒とユダヤ教の十戒

 仏教でいう五戒と、ユダヤ教(旧約聖書)の十戒は、恐ろしく似ている。まずそれらを並べておくので、読者自身の目で確かめてほしい。

●仏教の五戒

(1)生きものを殺すなかれ。
(2)盗みをするなかれ。
(3)邪淫(じゃいん)を行うなかれ。
(4)偽りを言うなかれ。
(5)酒を飲むなかれ。(何ものも所有するなかれ。)
(注、釈迦の生誕地に残る原始仏教の経典、『スッタニパータ』の中の一節。
(1)~(4)は、釈迦滅後まもなくできたが、(5)は、ずっとあとになってからつけ加えられたという。
ふつう仏教では、(5)だけを、「遮罪」(それ自体は悪いことではない)というふうにして、(1)~(4)の「性罪」(それ自体悪いこと)とは区別する。)

●ユダヤ教の十戒

(1)あなたは私のほかに、何ものも神としてはならない。
(2)あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。
(3)あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
(4)安息日を覚えて、これを聖とせよ。主は六日のうちに天と地とその中のすべてのものを造って七日目に休まれたからである。
(5)あなたの父と母を敬え。
(6)あなたは殺してはいけない。☆
(7)あなたは姦淫(かいいん)してはいけない。☆
(8)あなたは盗んではいけない。☆
(9)あなたは隣人について、偽証してはならない。☆
(10)あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
(注、シナイ山でモーセが、神から授かった言葉が、この十戒と言われている。(1)~(4)は、信仰のし方に関するもの。(6)~(10)が、生活のし方ということになる。)

 この五戒と十戒の中の共通点には、☆印をつけておいた。
ほかに『スッタニパータ』の中では、釈迦は、父母を敬えと教えているが、五戒の中には含まれてはいない。
が、仏教では常識である。
 
 この二つを並べてみたとき、最初に思い浮かぶのが、最大公約数という言葉である。
教育にたずさわるものの悪いクセかもしれない。
しかしこれら二つを、最大公約数的にまとめると、こうなる。
家庭教育の「柱」と考えてよい。

(1)殺してはいけない。
(2)淫(みだ)らな性行為をしてはいけない。
(3)盗みをしてはいけない。
(4)ウソをついてはいけない。

 釈迦の時代には、飲酒にはとくべつの意味があったようだ。今のアルコールを想像してはいけない。
あるいは今でいう麻薬のような作用があったと考えるべきではないか。
粗悪な酒で、そのため身を滅ぼす人があとを絶たなかったという。
『スッタニパータ』の中にも、そういう説話がいくつか載っている。
インドの他の宗教では、第五の「酒を飲むなかれ」のかわりに、「何ものも所有しない(所有物をなくせ)」になっているという(中村元氏指摘)。
もしそうなら、この「何ものも所有しない」は、十戒の「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」と、どこかその教えを共有する。

 ところでこの仏教の五戒を、小学五年生の子どもたち(12人)に話していたときのこと。
私が、「お釈迦様の話では、一に、生きものを殺してはいけない。二に、人のものを盗んではいけない、四に、ウソを言ってはいけない、五に、酒を飲んではいけないと言っている」と説明すると、一斉に、「三は、何だ!」と聞いた。

 困って私が、「つまりだね、いろいろな人と、めちゃめちゃ、ラブラブしてはいけないということだよ」と言うと、みな、ギャーギャーと笑い出した。
で、しばらくすると、少し冷静になり、「殺してはだめって、虫もいけないのか」「魚はどうなのか」「牛はどうなのか」とか、「ぼくの父は、酒を飲んでいる」とか、言い出した。

(1)「殺してはいけない」ということ。

 要するに、相手の立場になって考えろということ。
自分が死にたくなかったら、相手も死にたくないと思っているということ。
「自分だけは正しい」「自分だけが大切」という自己中心性は、多かれ少なかれだれにでもあるものだが、相手の立場になって考えるということは、結局は、その自己中心性との戦いということになる。

 問題は、人間全体がもっている自己中心性である。
この地球をマクロ(全体的)に見ても、人間は人間だけのことしか考えていない。
まさにしたい放題のことをしている。
世界的に見ても、日本人ほど自然破壊力の強い民族は、そうはいない。
恐らく世界一ではないか。
よく「日本人は自然を愛する民族だ」と言うが、これはまったくのウソ。
たまたま日本に緑が多いのは、放っておいても緑だけは育つという、恵まれた自然環境による。

自然を愛するという気持ちによるものではない。
ウソだと思うなら、車で少しわき道を走ってみるとよい。
めったに人が通らないような林道や山道まで、完全舗装。
がけはコンクリートのブロックでおおわれている。
今ではそうでない道をさがすほうが、むずかしい。
こういう環境の中で、今、無数の動植物が、絶滅しつつある。

(2)「淫(みだ)らな性行為をしてはいけない」ということ。

 性欲というのは、実にやっかいなものだ。
これがあるから、その種族は代々と生き延びることができる。
人間が生物である以上、絶対必要不可欠な本能である。
が、それだけにあつかい方がむずかしい。
自意識でコントロールできない。
食欲と同じで、ムラムラと感ずるときは、感ずる。
よく子どもたちは私にこう聞く。
「先生は、スケベか」「先生も、エロビデオを見るか」と。
そういうとき私はいつも、「君たちのお父さんと同じだよ。お父さんに聞いてきな」と答えるようにしている。

 ただ幸運なことに(?)、私は、バーやキャバレーなど、いわゆる「女遊び」の世界とは、無縁の世界に住んでいる。
商社マン時代の一時期をのぞいて、そういうところへ顔を出したことすら、ない。
遊んでみたいという気持ちはあるにはあったが、しかし時間がなかった。
若いころは、進学塾の講師や家庭教師などで、いつも仕事が終わるのが午後11時ごろ。
もともと誘惑に弱い人間だから、私を誘う人間がいたら、割と簡単についていったかもしれない。
たまたま私が品行方正(?)だったのは、私がそれだけ自分を律する力が強かったというよりは、チャンスがなかったと言うほうが正しい。

 この問題は、「教育」というより、親の生きザマの問題なのかもしれない。
夫婦がいたわりあい、助けあい、はげましあい、愛しあう姿は、子どもに遠慮なく見せる。
そういう姿を見ながら、子どもは、「淫(みだ)ら」というのはどういうことなのかを、間接的に学ぶ。

(3)「盗みをしてはいけない」ということ。

 私は小学六年生のとき、隣人の家の裏にあった、ライターを盗んだことがある。
隣人といっても、私の家の借家で、出入りは自由だった。
あともう一度は、大学三年生のとき、通路に積んであったその会社の備品の中から、テープレコーダーのテープを一巻(当時は直径15センチほどもある大きなテープだった)を盗んだことがある※。

 これが私の生涯における二度の盗みである。
先のライターは、やがて母が見つけ、母がそのライターを隣人に返しにいった。
テープは、そのまま自分のものして、使っていた。
いや、ほかにも、返し忘れて自分のものにしたものがある。
図書館の本がそれだが、返しそびれて30年になる。
他人に対しては結構、正義感が強く、盗みを許さない私だが、こうして思い出してみると、あまり偉そうなことは言えない。
しかしこういうことは言える。

よく玄関先にある植木鉢を盗んでいく人がいる。
そういう話を聞くと、その盗んだ人はどうやって花を楽しむのかということ。
そちらのほうが気になる。
花の美しさを味わうという清純な気持ちと、盗みとは、その時点で、矛盾(むじゅん)する。
反対にその盗んだ花を見るたびに、自分の醜い部分を見せつけられて、不愉快になるのではないか。
一度、どうなのか、そういう人に心の内を聞いてみたい。

(注※)
ライターは、「美しい」と思ったから、もって帰ってしまった。
私が小学2、3年生のときのことではなかったか。
ほとんど毎日、その家には出入りしていた。
それもあって、悪いことをしたという意識はなかった。

が、テープのときは、かなり強く罪の意識を覚えた。
そのとき感じた不快感が今でも、残っている。
またその不快感があるからこそ、以後、(盗み)なる行為は、一度もしていない。

教育の世界でも、(盗み)は、日常的に話題になる。
親のサイフからお金を盗む子どもは、それこそゴマンといる。
(盗み)が悪いことは当然のことだが、子どもの指導においては、その(後味の悪さ)を、覚えさせるように仕向ける。
その(後味の悪さ)が、再発を防ぐ。
余計な話だが……。)

(4)「ウソをついてはいけない」ということ。

 私はもともとウソつきの人間だった。
私の家は、自転車屋という商店で、日常的にウソの中で育ったということもある。
地域にもよるが、岐阜県というところは、大阪式の商売圏内にあって、値段にしても、そのときの「かけひき」で決まる。
(この静岡県では、そのかけひきが、まったくない!)
そのかけひきというのは、まさにウソの張りあい。
売り手は一円でも高く買おうとするし、
買い手は一円でも安く買おうとする。
そのときウソがつぎからつぎへと出てくる。
たとえば定価が3万円の自転車があったとする。
客はそれを2万5000円にしろという。

そういうとき商人は、とっさにウソをつく。
迷ったり、間を置いたりすると、ウソとバレるから、とっさにウソをつく。
「仕入れが2万5000円なんですよ。
1000円だけ儲けさせてくださいよ」と。
つづいて、「この話は問屋さんには内緒ですよ。ウチがこの値段で売っているとわかると、叱られますから」と。
(実際には、仕入れ値は2万円。問屋にバレても、叱られることはない。)

まだ客が買い渋っているようなら、こう言って、たたみかける。
「まあ、いいでしょう。あなたには世話になっているから、2000円のランプをただでつけてあげますよ」と。
(ランプの仕入れ値は、1000円だから、結局は5000円の儲けということになる。)

 私が自分の中のウソつき体質を、徹底的に忌み嫌ったのは、オーストラリアでの留学時代だが、それには苦い経験がある。
これについてはまた別の機会に書くことにして、日本人は、ウソをつくのがうまいというか、人をだますことに、たいへんうとい。
『ウソも方便』という諺すら、ある。

一方、欧米では、「正直でありなさい(Be honest!)」というのが、子育ての柱になっている。
が、日本の親で、そういうふうに子どもを指導している親を、私は過去30年間、見たことがない。
聞いたこともない。
国民性の違いというより、長く続いた封建時代の結果と考えてよい。

 ただし一言。
五戒とか十戒とか、そういうふうに、教条的にものごとを並べて考えるのは、正しくない。
原始的な人たちの間では、それなりにわかりやすく、説得力もあったかもしれない。
が、こうした教条にとらわれると、それ以外の、ほかの大切な部分を見落してしまう。
だからあくまでも「参考」ととらえるのが、正しい。
中に、仏や神の言葉として、一語一句、ギスギスに解釈する人がいるが、そういう姿勢は、かえって仏や神の教えを見失うことになる。
自分の人生を生きるのは、ほかならぬ、私たち自身だからである。
(02-7-24)
 
○聖徳太子の十七条憲法

 では、聖徳太子の十七条憲法は、どのようなものであったか。
まず、それを紹介させてもらう。
(読むのがめんどうな人は、+++++++から++++++++までを飛ばしてほしい。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)を作る。

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。

三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下…(略)

四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。

五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)

六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)

七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)

八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)

九に曰く、信は是義の本なり。(略)

十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)

十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)

十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)

十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)

十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)

十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)

十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)

十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++++

○要約

 わかりやすく言えば、こうなる。

(1) みなと仲よくすることだけを考えて行動せよ。
(2) 仏・法・僧の三宝を大切にせよ。
(3) 上の者の指示には、まじめに従え。
(4) 礼儀を大切にせよ。
(5) 欲望をコントロールせよ。
(6) 悪行と闘い、善行に励め。
(7) 人にはみな、生まれもった使命がある。
(8) 朝は人より早く来て、仕事をし、夕は人より遅くまで仕事しろ。
(9) 人との信頼関係を大切にしろ。
(10) 怒るな。
(11) よい行いには、功を与え、悪い行いにはバツを与えよ。
(12) 1人の王(上司)に仕えよ。
(13) どんな仕事かを知った上で、人に仕事を任せよ。
(14) 人をねたんだり、恨んだりするな。
(15) 「私」を捨てて公務に励め。
(16) 民を使うときは、季節をよく考えて使え。
(17) 重要なことは、ひとりで決めてはいけない。皆で話しあえ。

 全体に、役人の心構えを説いたもの。
(かなり荒っぽい要約で、ごめん。)
その点では、旧約聖書の十戒、仏教の五戒とは、基本的な部分で内容を異(こと)にする。
(「異にする」などと書いてしまった。
しばらく古文を読んでいると、脳みそが古文モードになる。
今の私の脳みそは、古文モード。
だからこういう古い言い方が出てくる。
どうでもよいことだが……。)

○常識の文章化

 当時としては革新的な憲法であったにちがいない。
情報量も極端に少なかった。
もちろん参考になるような書物も少なかった。
そういう時代の中での、十七条憲法。
内容は常識的なことばかりだが、常識を文章化することほど、むずかしいことはない。
常識というのは、そういうもの。
ものを書くということは、そういうもの。

 十七条憲法を書いた人は、聖徳太子であるにせよ、そうでないにせよ、かなり文章を書きなれた人とみてよい。
プラス、相当頭のよい人とみてよい。

○1日1作

 「1日、1作」。
つまり1日、かならず1本のビデオを作る。
そうでも決めなければ、すぐだらける。
自分に負けてしまう。

 で、気になるのは、まちがい。
かなり荒っぽい作り方をしているので、随所にまちがいがある。
が、いちいちそれを気にしていたのでは、先に進めない。
まちがいはまちがいのまま……というのも、そのときはそう思ったのは事実。
だからそのまま残している。

 そのかわり、あとで作ったビデオほど、正しい(?)ということになる。
前に作ったビデオと矛盾するようなところがあれば、そういうわけで、あとに作ったビデオのほうを、優先してほしい。
たとえばこんなまちがい(?)。

 少し前、ビデオの中で、こう書いた。
「敦煌と雲崗を結んだ線は、出雲大社の近くを通る。誤差は、わずか」と。

 しかし今日、正確に敦煌(莫高窟)と雲崗(石窟)を、正確に線で結んでみた。
作業は慎重に、かつていねいにしてみた。
そのあと、その線をさらに東へ延長してみた。
(実際には、機首角を100分の1の単位まで正確に守りながら、延長した。)
するとその線は、寸部、たがわず、伊勢神宮へつながった。
正しくは「敦煌と雲崗を結んだ直線は、伊勢神宮とつながっている」となる。
 
 ただし一言。

 点といっても、場所によっては、かなり広い部分を示すときがある。
以前、カッパドキアについて調べていたときも、そうだ。
「点」が定まらなかった。
それもそのはず、カッパドキアといっても、数10~50キロの範囲にわたって、広がっている。
北の端をとるか、南の端をとるかで、位置がかなりずれてくる。
一方、中央だからといって、中心とはかぎらない。
たとえば仁徳陵(大仙陵古墳)のときは、どこに(中心)を求めるかで、苦労した。
結果的に、真東に、位置を示す緑地公園が残っていた。
その緑地公園を基準に、仁徳陵(前方後円墳)の中心を求めた。
……などなど。
気楽に作っているように思う人もいるかもしれない。
しかし実際には、結構、神経をつかう。

○明日の予定

 で、今は、すでに明日の謎解きのことを考えている。
今の時点では、聖徳太子。
しかしこの分野は、すでに研究されつくしている。
私のような素人の出番は、ない。
となると、やはり点と線で攻めていくしかない。

 もっとも、こんなことを調べているのは、私だけ。
先駆者もいない。
仲間もいない。
それだけに気楽。
一方で、きびしい。
が、楽しい、
今までだれも気がつかなかったことを、つぎつぎと発見していくのは、おもしろい。
本当におもしろい。

 で、明日は……。

○就寝

 ワイフが風呂から出てきた。
私は明日の朝、入ることにした。
で、しばらくこのままパソコンを叩きつづける。

 昨日、こんな話を聞いた。
その家には、3人の兄弟がいた。
上から長男、4歳年下の長女、さらに5歳年下の二男。

 まず長男氏が、65歳くらいのとき、うつ病から認知症になった。
3~4年、あれこれと闘病生活を繰り返したあと、他界。
享年69歳。
一方、妹氏(長女)は、たいへんシャキシャキした人だった。
よくしゃべり、人前では快活に振る舞った。
かなり多動性があったという。
私も数回会ったことがあるが、落ち着かない人だった。
が、同じように65歳ごろから、認知症を発症。
アルツハイマー型痴呆症だった。

 ……という話を二男氏がしながら、こう心配している。
現在、私と同年齢の64歳。
「兄、姉とやられましたからね。順番でいけば、つぎは私です」と。

○ボケ

 こういうケースは少なくない。
遺伝子が同じだから、老後になると、同じような経緯を経て、同じような病気になる。
その人の努力ではどうにもならないような重病であればあるほど、そうだ。
つまり老後には、そういう問題も潜んでいる。

 で、私も、体よりも、脳みそが老化するのを、何よりも心配している。
だから久しぶりに親類の人たちに会ったりすると、こう聞く。
「ぼくは、だいじょうぶですか?」と。

 というのも、これは脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、ボケても、それに自分で気がつく人は少ない。
「私はだいじょうぶ」と思っているうちに、ボケていく。
また「私はだいじょうぶ」と思っている人ほど、あぶない。
しかも1~2年単位という、短期間に。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法としては、(これは私のばあいだが……)、以前書いた文章と、現在書いた文章を読み比べてみるが、ある。
たまたま先に、10年前に書いた文章をあげた。
その文章を読んでみる。
「仏教の五戒とユダヤ教の十戒」である。

 今、その文を読みながら、こう思った。
「私もあぶないかな?」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 法隆寺 藤ノ木古墳 謎の法隆寺 謎の聖徳太子 謎の藤ノ木古墳)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2012++++++はやし浩司・林浩司