最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●三楽  ●将棋論

2011-03-11 09:29:24 | 日記
【弟子論】

●孔子の論語「三楽について」

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『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ )とは、孔子と
彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した
書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教
における「四書」の1つに数えられる(以上、
ウィキペディア百科事典より)

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●孔子の「三楽について」

孔子曰、益者三樂、損者三樂、樂節禮樂、樂道人之善、樂多賢友、益矣、樂驕樂、樂佚遊、樂宴樂、損矣。

孔子の曰わく、益者(えきしゃ)三楽(さんらく)、損者(そんしゃ)三楽。礼楽(れいがく)を節(せっ)せんことを楽しみ、人の善を道(い)うことを楽しみ、賢友(けんゆう)多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽(えんらく)を楽しむは、損なり。

●三楽

 「楽」といっても、内容はさまざま。

○礼楽(れいがく)を節(せっ)せんことを楽しむ。
○人の善を道(い)うことを楽しむ。
○賢友(けんゆう)多きを楽しむ。

×驕楽(きょうらく)を楽しむ。
×佚遊(いつゆう)を楽しむ。
×宴楽(えんらく)を楽しむ。

 孔子は、上記(○)を益者三楽、(×)を損者三楽と位置づけた。
田丸謙二先生が説く「弟子」とは、孔子の説いた「賢友」のことか。
釈迦も、キリストもその弟子に恵まれた。
弟子が、釈迦やキリストの教えを広めた。
もし弟子がいなかったら、釈迦もキリストも、その名すら世界に知られることはなかった。
田丸謙二先生は、この三楽を引用しながら、「孔子が論語で言いました三楽の一つは、
本当の弟子を育てることである」と説いている。

 その通りだと思う。
私たちがなぜ今、ここに生きているかといえば、子孫をつぎの時代に残すため。
肉体は生殖によって残すことができる。
が、精神は、「弟子」によって、残すことができる。
少なくともほかに伝達手段のなかった、孔子の時代にはそうだった。

 が、ここでひとつのパラドックスにぶつかる。
「弟子はどうすればいいのか」というパラドックスである。
弟子は弟子。
師にはなれない。
師になったとたん、弟子は弟子でなくなってしまう。

●師の連鎖

 孔子はそれでよい。
釈迦もキリストもそれでよい。
弟子を作り、自分の考えを教え広めることができた。
では、弟子はどうするのか。
単刀直入に言えば、弟子はただ「師」の教えを忠実に後世に伝える伝道者であれば、
それでよいのか。
たとえばキリストの弟子のマタイは、キリストの重要な教えを後世に残した。
しかしマタイ自身は、キリストを超えることはできなかった。
弟子のままだった。

 が、もちろんそうではない。
またそうであってはいけない。
弟子はつぎの段階では「師」であり、その弟子も、そのつぎの段階では「師」になる。
それを「師の連鎖」と考えるなら、師の連鎖こそが、人間の精神を高揚する。
田丸謙二先生の弟子は、今度は師となり、また自分の弟子を育てる。
たぶん田丸謙二先生も、そういう意味で、「弟子を育てなさい」と言っている。

●多元化する現代社会

 が、師はつねに、自分に忠実な、つまりは自分だけを師とするような弟子を求めやすい。
釈迦もキリストも、そうだった。
(「汝の敵を愛せよ」と教えたキリスト自身は、自分の敵を許さなかった。
これもパラドックスである。)

科学の世界と宗教の世界は、ちがうかもしれない。
しかし現代社会は、釈迦やキリスト、さらには孔子が生きていた時代とはちがう。
私自身にしても、中学、高校、大学と、それぞれの段階で、多くの師に囲まれた。
さらに今というこの時点においても、それぞれの分野に、「師」がいる。
一元的な師弟関係というのは、現実には、存在しない。
(繰り返しになるが、宗教の世界では、師はつねに1人ということになる。)

 加えてこれほどまでの情報社会になると、私たちは常に無数の情報を吸収し、
その一方で、これまた無数の情報を吐き出す。
と、考えていくと、(つまり田丸先生流に、自分の頭で、independentに考えていくと)、
師とは何か。
弟子とは何か。
さらに言えば、三楽とは何か、それがわからなくなる。
(もともと私はこういう教条的なものの考え方が好きではないのだが……。)

 つまり私はもとから、「弟子」などというもは、考えていない。
私自身が「師」になろうという野心もない。
その力もない。
言い換えると、私は(人)から(人)への一里塚。
どうせ人は死ねばおしまい。
何らかの形で、「私」の影響は残るかもしれない。
が、そこまで。
名前を残したところで、意味はない。
大切なことは、つぎの世代の人たちが、よりよい人生を歩むこと。
それでよい。

●現代という時代の中で

 コンピューターとそれにつづくインターネット。
これをさして、「第二の産業革命」と説く人は多い。
(もっともそう評価されるためには、もう少し時代の流れを見なければならないが……。)
しかしコンピューターとインターネットが、私たちの生活を根底からひっくり返し始めて
いるのは、事実。

 たとえば私はこうしてものを書く。
書いたものは、瞬時に、世界中の人たちの目に届く。
HPとBLOGの両方だけで、毎月のアクセス数が、2009年の5月、30万件を
超えた。
現在は、もっと多い。
中には、毎日、熱心に私の原稿を読んでくれる人がいる。
ときどきそういう人に出会う。
先日も、あるレストランへ入ったら、そこの店主がこう言った。
「先生(=私)の原稿を、毎日読んでますよ」と。

 が、私はそういう人たちに対して、「私は師」と思ったことはない。
また読者イコール、「弟子」と考えたこともない。
読者自身も、そうは思っていないだろう。
それに読んでくれるからといって、私の意見への賛同者とはかぎらない。
多くは、「くだらないことを書いている」と、笑っているかもしれない。

 が、それにしても、すばらしいことではないか。
地方の、浜松市にいながら、東京を通り越して、世界に向けて情報を発信することが
できる。
反対に、地方の、浜松市にいながら、世界の最新の情報を、そのまま受け取ることが
できる。
本を書くときのようなめんどうな手続き(出版社とのやり取り全般)も、必要なし。
しかも読者の反応も、これまた瞬時に届く。

 これを「第二の産業革命」と言わずして、何と言う?

 ずいぶんと回りくどい言い方をしたが、田丸謙二先生の説く「弟子」の時代は、
すでに終ったのではないか。
それを支える「上下意識」も、すでに崩壊している。
少なくとも、一元的な師弟関係の時代は終ったのではないか。
孔子の時代とは異なり、情報の伝達方法そのものが変わった。
今の私は、そう考える。

 不特定多数の「師」が、これまた不特定多数の「弟子」をもち、その不特定多数の
「弟子」が、これまた別の世界で、不特定多数の「師」となる。
そういう関係が渾然一体となって、現代社会の人間関係を、網の目のように創りあげて
いる。
それがあえて言えば、現代版の師弟関係ということになる。

●孔子の時代

 神格化している孔子を批判すのは、たいへんなこと。
恐れ多い。
しかし孔子の時代と、現代を同一視することは危険なことでもある。
先にも書いたように、「三楽」とか、「益楽」「損楽」と、教条的に考えるのは、私は
好きではない。
あまりにも教条的である。
人間の生活は、もっと多様性に富んでいる。
それぞれがスペクトラムのように、たがいに入り混じっている。
教条のこわいところは、教条によってその人を束縛する点のみならず、それ以外の
思考性を否定するところにある。
あるいは人から考える力、そのものを奪う。
さらに言えば、「楽」とは何か、その定義もあいまい。

 孔子が生きていたころのように、情報が恐ろしく貧弱な時代(失礼!)には、それなり
に説得力はあったかもしれない。
が、今はちがう。
PETの発達とともに、人間の脳の働きを、リアルタイムに見ることもできるように
なった。
「欲望」についても、大脳生理学の分野で、科学的な説明がなされ始めている。
視床下部から発せられる信号に応じて、ドーパミンという脳間伝達物質が分泌される。
それが人間の生きる原動力となる。
(生きる)こと自体が、(欲望)の現れと考える。

 方向性こそちがうが、真理探究に向かうエネルギーも、享楽に向かうエネルギーも、
中身は同じ。
少なくとも脳内の反応としては、区別がつかない。
ときには、驕楽(きょうらく=傲慢)を楽しみ、佚遊(いつゆう=怠惰)を楽しみ、
またときには、宴楽(えんらく=酒盛り)を楽しむ。
同時に真理探究のも心がける。
それが人間ではないのか。
「悪」と決めつけてはいけない。

 ……とまあ、居直ってばかりいてはいけない。

 が、つまるところ、「教育」というのは、そういうもの。
何も期待せず、何も求めず、我が正しいと思うところを、子どもに伝えていく。
そのあとの判断は、子どもに任せればよい。
くだらないと思って去っていく子どももいれば、すばらしいと言って近づいてくる
子どももいる。
去っていく子どもも、近づいてくる子どもも、弟子は弟子。
賛同してくれないから弟子でないとか、賛同してくれるから弟子と考えてはいけない。
それこそ、「驕楽(傲慢)」と言うべき。

●はやし浩司流「弟子論」

 以上が、私が考えた「弟子論」ということになる。
ただ田丸謙二先生は、私の住む世界とは、まったく異質の世界に住んでいる。
田丸謙二先生の住んでいる世界は、学問の世界。
真理探究の世界。
そういう世界では、真理の積み重ねが必要不可欠。
つまり人間関係は師弟関係で結ばれる。
またそれがないと、「体系(=組織)」が確立しない。

 一方私が住んでいる世界は、俗世間。
そもそも「師」として残すようなものは、考えていない。
また残せるようなものは、何もない。
またそこに私の信奉者がいたとしても、私はその名前はおろか、存在すら知らない。
ゆいいつの指標は、読者がふえているということ。
が、それとて、数字の話。
YOUTUBEの動画だけでも、このところ毎日800件(インサイト)もアクセス
がある。
が、「800件」という数字があるだけで、実感はない。
つまりそれが現代流の、師弟関係(?)と考えられなくもない。

 ……ということで、このエッセーの結論。
田丸謙二先生は、「弟子を育てろ」と私に教える。
しかし今の私には、それについてどう答えたらよいのか、わからない。
ただひとつはっきりしている点がある。
それは私は、田丸謙二先生の、弟子の一部。
「1人」ではなく、あくまでも「一部」。
田丸謙二先生の書いた原稿を、できるだけ末永く残す。
教えを守り、この先、ひとつずつ考証しては、自分の考えを書き足していく。
1人のIndependent Thinkerとして……。

●弟子の一部として

 恩師、田丸謙二先生のような先生の意見に異議を唱えるのは、本当に恐れ多いこと。
このままこの原稿をボツにしようかとも考えた。
が、私は私。
Independent Thinker。
このまま保存する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 弟子論 師弟関係 はやし浩司 孔子 三楽 はやし浩司 三楽 賢友)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●将棋の話(将棋に見る独裁者)

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将棋では、相手から駒を取ったら、その駒は、
即、今度は自分の駒になる。
自分の駒となって、相手を攻撃する。
(その反対のばあいも、そうである。)
が、この忠誠心のなさ。
薄情さ。
俗世間の言葉を借りるなら、これほどまでの
裏切り行為はない。

……と考えたところで、ハタと筆が止まる。
「これは日本の武士道の精神に反する」と。

そこで将棋の歴史を調べてみる。

現在、私たちが「将棋」と読んでいるゲームは、
平安時代の昔には、すでにあったようだ。
ウィキペディア百科事典には、つぎのように
ある。

「平安時代から五角形の板に墨で字を書く
という形式を保ち、ほとんど変化していない。
現在発掘されている駒で年代が特定されて
いるもののうち、もっとも古いものは奈良県
の興福寺旧境内跡から発掘されたものである」と。

つまり武士道が確立する前から、将棋は
あった。
もしそのとき武士道が確立していたら、
ルールは大きく違っていたはず。
武士道の精神が少しでもあるなら、将棋のように
コロコロと主君を替えるなどいうことはありえない。
たとえば西洋のチェスのように、一度
取られた駒は、死んでおしまい。
「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)である。

言い換えると、平安時代の昔には、
主従関係も、江戸時代のそれよりは、
はるかに緩(ゆる)やかで、いいかげんなもので
あったということになる。

主君など、だれでもよい。
そのときメシを食わせてくれるのが、主君。
その主君にために働く。

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●独裁者

 ご存知のように将棋では「王(おう)」もしくは「玉(ぎょく)」が取られたら、
おしまい。
そのため金将、銀将以下みな、ときとばあいに応じて、どんどんと自爆攻撃を
しかけていく。……犠牲になっていく。
おとりになることもある。……犠牲になっていく。

 つまり将棋の世界に見る「王」「玉」は、まったくの独裁者。
自分の身代わり、もしくは後継者の存在すら許さない。
つまり将棋の差し手は、ゲームをしている間、完全な独裁者になる。
独裁者になりきって、将棋を指す。
ほかの駒への情け容赦は、無用。

自爆攻撃を命令するのも、指し手。
おとりに駒を差し出すのも、指し手。
自分という「王」を守ることだけを考えて、将棋を指す。
相手の「王」を殺すことだけを考えて、将棋を指す。

 将棋を指していると、ときどき自分が独裁者になったような気分になるのはそのためか。
あるいは独裁者の気持ちがよく理解できる。

●ルールの変更

 そこでルールを変更してみたら、どうだろう。
いろいろ考えられる。

(1)駒の置き方は自由にする。(「歩」の位置はそのままで、試合の直前まで、相手に
見せないようにする。)
(2)駒の上下関係はなくす。(ただし、動きは今まで通りでよい。)
(3)相手の駒を取ったら、自分の駒として使うことができる。(このルールは従来通り。)
(4)相手の駒をすべて取ったら、勝ち。(「王」を取ったら、勝ちというのではない。)

 こうすれば、将棋も、ずっと民主的になる。
言うなれば「民主将棋」。

……というか、私はときどきこのルールで、学生時代から将棋を指している。
最初は、将棋盤の上に、ついたてを立てておく。
「歩」だけは、従来通りに置き、そのほかの駒は、1段目、2段目に自由に並べる。
ついたてを取った瞬間、ゲームが始まる。
結構、このルールはおもしろいので、もし将棋を指すのが好きな人がいたら、一度、
ためしてみたらよい。

●独裁者論

 将棋は独裁者vs独裁者のゲームである。
あとの駒は、すべてその独裁者のためにある。
が、将棋がおもしろいのは、策略、謀略、罠、おとりが、一手ごとに、複雑に交錯
するところにある。
囲碁やチェスもおもしろいが、「奥深さ」という点では、将棋にはかなわない。
が、将棋のおもしろさは、それにとどまらない。

 将棋の世界を通して見ると、独裁者と呼ばれる人たちの心の動きが、よくわかる。
つまり独裁者の立場を、模擬体験できる。

 たとえば北朝鮮の金xx。
リビアのカダフィなどなど。

(1)独裁者はまず、身辺を親衛隊で固める。
忠誠心だけの、脳なし(能ではなく「脳」)の親衛隊であればあるほど、よい。
あるいは特別に優遇する。

(2)独裁者がいちばん恐れるのは、クーデター。
軍部の反乱。
そのため軍の中枢部には、親族を配置する。
あるいは判断力のない老兵を、象徴的に配置する。

(3)自分をかぎりなく神格化し、絶対化する。
が、ここで誤解してはいけないのは、独裁者自身が、それを望んでいるのではないと
いうこと。
独裁者を取り囲む、取り巻きが、それを望み、独裁者を神格化、絶対化する。
国全体を宗教国家化するという方法もある。
あるいは既存の宗教を利用する。
少し前に亡くなった、F氏(北朝鮮から亡命してきた政府高官)は、こう言っていた。
「金xxを支えているのは、取り巻きの20人程度。
多くても100人程度」と。

 つまりそういう人たちが「王の世界」を構成する。

(4)警戒すべきは、知識階級。
独裁者がもっとも恐れるのは、知識階級。
『庶民は宗教を信じ、知識階級は宗教を疑う。が、独裁者は宗教を利用する』
(西洋の格言)と。
知識階級が、独裁者の神格性、絶対性を疑う。

 そこで、つまり知識階級を抑え込むためには、2つの方法がある。
ひとつは物理的な方法で、抑え込む。
粛正という手段で、闇から闇に葬る。
ポルポトの大虐殺は、こうして始まった。

もうひとつは、知識階級そのものを独裁者の権威で、権威付けする。
その権威で、知識階級を懐柔する。
独裁者名で、「~~賞」を授与する。

●されど、おもしろい

 私の寝床の枕もとには、SONYのPSPが置いてある。
このところ毎朝、床から起き上がる前に、PSPを相手に将棋を指す。
それが日課になっている。
ぼやけた頭を覚醒させるには、この方法は、たいへんよい。

 プラス、私のような凡人でも、独裁者の気分を楽しむことができる。
とくに相手の王を追い込み、グサリととどめの一発!……そのとき覚える快感は、
ほかのゲームでは味わえない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 将棋論 独裁者論 独裁者の論理 将棋の論理)


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2011-03-11 07:32:20 | 日記
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 3月 11日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【山荘にて】(はやし浩司 2011-01-21)

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今夜は、8時過ぎになって、山荘へやってきた。
途中、コンビニで菓子類を買った。
山荘へ着いたのが、午後9時、少し前。

途中、車の中でワイフとあれこれ話す。

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●苦労論

 よく「私は苦労しました」と言う人がいる。
「苦痛に耐えること」。
それを「苦労」という。
それはそれで、よくわかる。
しかし「苦労」というときには、2つの意味がある。

(1)自分のための苦労。つまり私利私欲のための苦労。
(2)他人のための苦労。つまり無私無欲に根ざした苦労。

その中間にあるのが、(3)家族(配偶者、子ども、親)のための苦労ということ
になる。

 たとえば1人の学生が、受験勉強で苦労したとする。
夜遅くまで勉強した。
進学塾にも通った。
しかしこれは自分のための苦労。
上の分類法によれば、(1)の苦労ということになる。
(中には、将来、家族を支えるためにと考え、受験勉強にいそしむ学生もいるかも
しれない。
しかし今どき、そんな学生は、探さなければならないほど、少ない。)

 一方、世話好きで、いつも他人の心配ばかりしている人がいる。
あれこれ仕事を引き受けて、忙しい毎日を送っている。
自分の時間は、ほとんどない。
残ったお金も、あまりない。
明けても暮れても、ボランティア。
そういう人もいないわけではない。
上の分類法によれば、(2)の苦労ということになる。

 その間にあって、(3)子育てで苦労している人がいる。
子どもの学資を稼ぐために、パートに出て働く母親を想像すればよい。
子どもは「他人」ではない。
しかし「自分」でもない。
入れ込みの程度にもよるが、他人にかぎりなく近い子どももいれば、自分に
かぎりなく近い子どももいる。
どうであるにせよ、「自分」ではない。
「他人」でもない。

 そこであなたのばあいは、どうだろうか。
「私は苦労しました」と言うときのあなたを考えてみてほしい。
そのときあなたは、どういう苦労を、「苦労」と言うだろうか。
たとえば私のワイフは、いつもこう言う。

「私は、あなたで苦労したわ」と。

 が、これは(1)の苦労だろうか。
それとも(2)の苦労だろうか。
あるいは(3)の苦労だろうか。

●「私は苦労した」

 それを話すと、ワイフはこう言った。
「『私は苦労した』と言う人は、たいてい(1)の自分のことで苦労した人よ。
(2)の他人のために苦労した人は、『苦労した』とは言わないわよ。
むしろ楽しんで、そうしているのだから」と。

 ナルホド!

 ということは、「私は子育てで苦労しました」と言う人ほど、どこかで
私利私欲が、からんでいる。……ということになる。
無私無欲で子育てをした人ほど、「苦労した」とは言わない。
つまりその言葉を聞けば、親と子どもの関係がわかるということになる。

●私のばあい

 私のばあい、苦労したといえば、介護ということになる。
しかし介護そのものは、さしたる苦労ではなかった。
あるとき、兄や母の介護をしながら、こう思った。
「子どもの世話より、楽」と。

 苦労というより、苦痛だったのは、実姉からの電話。
何がどうということは、ここには書けないが、実姉から電話があるたびに、
心臓が踊った。
手が震えた。

 つぎに苦労と言えば、実家への仕送り。
が、その仕送りについても、ある時期までは、むしろ楽しんでしていた。
ワイフも協力的だった。
実母を助ける。
実兄を助ける。
それが楽しかった。

 その(楽しさ)が失われたのは、たがいの間の信頼関係が消えたとき。
以後、金銭的な負担というよりは、社会的な負担に苦しんだ。
「それでも仕送りをしなければならない」という思いが、そのまま重圧感となり、
私を押しつぶした。

 言い換えると、自分が納得しているばあいには、苦労は苦労ではない。
納得できないときに、「苦痛」は「苦労」に変わる。
その逆でもよい。

●問題は子育て

 サイトカイン。
カテコールアミン。
私は脳内ホルモンについては、名前しか知らない。
見たこともない。
手にしても、ただの液体にしか見えないだろう。

 が、この2つは、対照的な脳内ホルモンと考えている。
ストレスが慢性的につづくと、脳内は、サイトカインで満たされる。
一方、前向きに生き生きと活動していると、脳内は、カテコールアミンで満たされる。
あるいはその逆でもよい。
それぞれが悪循環、あるいは良循環となって、その人を後ろ向きに引っ張たり、反対に
前向きに引っ張ったりする。
このことは子どもの学習態度を見ていると、よくわかる。

 いやな科目を、いやいや学習している子どもは、表情が暗い。
苦労がとたんに、苦痛に変わる。
その逆でもよい。
好きな科目を、前向きに学習している子どもは、表情が明るい。
苦労を苦労とも思わない。
むしろそれを楽しんでしている。

 となると、自ずと結論が出てくる。
それが苦労であるかどうかは、その人の(心構え)で決まるということ。
子育てについても、しかり。
いやいや子育てをしていれば、苦労は苦労になる。
楽しく子育てをしていれば、苦労はそのまま霧散する。
で、そのちがいは何かといえば、「愛情」の問題ということになる。

●私とワイフ

 ワイフはこう言う。
「私の子育ては楽だった」と。
私はこう言う。
「ぼくは苦労ばかりしていた」と。

 つまりワイフは、3人の息子たちを愛情でくるんでいた。
一方、私は、生活の心配ばかりしていた。
自営業というのは、そういう職種をいう。
(たぶんに、弁解がましいが……。)
今日、病気か事故で倒れれば、万事休す。
明日からは、路頭に迷うことになる。
毎日が、そういうきびしさとの闘いだった。

 そう言えば、私の母はいつもこう言っていた。
「サラリーマンの人たちは、気が楽でいいわねえ」と。
サラリーマンの人たちは、そうは思っていないかもしれない。
サラリーマンの人たちには、サラリーマンの人たちの苦労がある。
しかし自営業の人たちから見ると、たしかにそう見える。
上り坂のときはよいが、下り坂になると、とたんに苦労が倍加する。

 話がそれたが、親子についても、そこに細くても一本の絆があれば、救われる。
しかしそれが消えたとき、苦労は苦痛に変わる。
その逆でもよいが……。
私には息子たちを愛情でくるむような、心の余裕はなかった。

●苦労

 ところで義兄は、いつもこう言う。
「今の若い人たちは、苦労をしていないからねエ」と。
つまり「だから、今の生活のありがたさがわからない」と。
けっして若い人たちを責めているのではない。
むしろ逆。
「……だから、かわいそう」と。

 「幸福」というのが、そこにあるのが当たり前と考える。
だから不幸に対する、耐性というものがない。
たとえば便器。

私たちの世代は、ボットン便所から出発している。
尻を拭く紙も、ザラザラの再生紙。
それ以前は、新聞紙。
だから最近の便器を見ると、臭いがしないというだけで、夢のように感ずる。

 が、今の若い世代は、それを知らない。
少しでも汚れていると、「生理的な嫌悪感を覚える」と言う。
生理的な嫌悪感?
いったい、それは何?
私はそういう言葉を聞くと、人間的な嫌悪感を覚える。
で、ときどき、こう思う。
「今のような豊かさが持続できれば、それでよし。
そうでなければ、この先、苦労の連続だろうな」と。

●耐性

 そんな話をしていると、ワイフがこう言った。
「私ね、父の酒を買いにいくのが、私の仕事だった」と。

 ワイフの父親は酒豪だった。
で、ワイフは子どものころ、一升瓶をもって、いつも酒屋へ酒を買いに行ったという。
一升瓶をもっていくと、酒屋がそれに酒を注いでくれた。
その一升瓶を、また家にもって帰る。

 当時の日本では、どこにでも見られた光景である。
それについて、私が「今の若い人は、それをしないね」と。

私「しないとうか、親がさせないね」
ワ「そんなことをさせたら、虐待と騒ぐ人もいるかもね」
私「……そうだろうな。ぼくでも、そこまではしなかった」
ワ「そういう生活感が、子どもの世界から消えたのよ」
私「そうだね」と。

 あくまでも比較の問題だが、私のワイフには、そういう耐性がある。
私よりはるかに、ある。
耐性のある人は、苦労をしながらも、苦痛を減少させることができる。
耐性のない人は、多少の苦労をしただけでも、大げさに騒ぐ。
私とワイフのちがいには、この耐性が大きくからんでいる。
言い換えると、「苦労」について考えるとき、「耐性の問題」も無視できないということ。

●結論

 このあたりでひとつの結論が出てくる。
こと、子育てにおいては、「子どもには苦労をさせろ」と。
その苦労が耐性を生む。
苦痛を乗り越える力となる。

しかしその苦労といっても、冒頭に書いた(1)のような苦労では意味がない。
(2)のような苦労をいう。

 たとえば受験勉強を熱心にして、有名大学(こういう言葉は本当に不愉快だが)に
入学したとしよう。
子ども自身は、自分では苦労したと思っているかもしれないが、それはここでいう
苦労ではない。
平たく言えば、自分の欲望を満足させただけ。

だから当然のことながら、そこからは感謝の念は生まれない。
それ以後、親が爪に灯をともしながら学資を送ったとしても、その子どもにとっては、
当たり前。
中には、「親のために大学へ行ってやっている」と豪語(?)する子どもさえいる。
(これは本当の話だぞ!)

 それもそのはず。
幼児のときから、「ほら、英語教室!」「ほら、ピアノ教室!」と。
中には、七五三の祝いに、親戚中を呼び集め、披露宴を開く親さえいる。
子どもをかえって不幸にしながら、その事実にすら気がついていない。

 最後に、こんな話。
これから書くことは、事実。
「事実」と断らなければならないほど、そうでない人には信じられないような話。
こういう話。

 毎週のように、嫁が、夫の実家にやってくる。
(嫁が、夫の実家にやってくるのだぞ!)
そして夫の両親から、小遣いをせびる。
「夫の給料だけでは、生活が苦しい」と訴える。
「夫の給料だけでは、子どもを進学塾へ通わせることもできない」と訴える。
で、最近、こんなことがあったという。

 いつものように、嫁が夫の実家にやってきた。
こう言った。
「100万円が必要。100万円、出してほしい」と。
が、両親といっても、80歳を過ぎている。
義父は元薬剤師。
義母は元看護士。
財産があるといっても、無限にあるわけではない。
そこで母親(=夫の母親)が、5万円を渡すと、その嫁は、「それでは足りない!」と言い、
その5万円を机の上に置いたまま、家に帰ってしまったという。

 ドラ娘も、ここに極まれり!、というような話である。
苦労を知らない人間というのは、そうなる。
そんな人間には、死ぬまで「幸福」は訪れない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 苦労論 苦労 苦労について)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2011++++++はやし浩司・林浩司

2/2マガジン3-11

2011-03-11 07:31:42 | 日記

【滋賀県・O市のY先生(小学校教諭)より、はやし浩司へ】

●代償的過保護

+++++++++++++++++++++++++++

滋賀県のY先生より、こんなメールが届いている。
以下、要約。

「……私のクラスにKさん(女児、小4)という子がいるが、家に帰りたがりません。
いつもみなが帰ったあとも真っ暗になるまで、校舎の裏庭(小さな山になっていて、
ふだんは児童の遊び場になっている)で、時間を過ごしています。
近くに住むEさん(女児、小4)に話を聞くと、母親がたいへんきびしい人らしく、
おおまかに言えば、つぎのようだそうです。

(1)毎日、1時間の漢字の書き取りと、計算練習が義務づけられている。
(2)そのあと母親にテストされ、満点でないと、夕食が食べられない。
(3)友だちにもらった遊び道具などは、すべて捨てられる。
(4)家の前まではいっしょに帰るが、いつも裏の勝手口から家に入る。
(5)ほかに毎日プリント学習を2枚することになっていて、それがしてないと、
ベッドから引きずり出され、それをさせられる。
(6)「成績がさがったら、お弁当を作らない」と、母親に言われている。

 学校でも、ときどき「おなかが急に痛くなった」「足が痛い」と言って、保健室
で横になっています。
小学2年生ごろまで、授業中に、おもらしをすることがあったそうです」と。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++

●代償的過保護と帰宅拒否

+++++++++++++++

典型的な代償的過保護である。
親の支配下におき、子どもを
親の思い通りにする。
一見、過保護だが、過保護に
ともなう(愛情)が希薄。
「代償的過保護」という。
過保護もどきの過保護。
そう考えるとわかりやすい。

+++++++++++++++

●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思い
どおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味で
は、代償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴が
みられるようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(し
てよいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、
親に追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその
温和性は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のも
のである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする
……といったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」
と誤解する傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価してい
る。臆面もなく、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の
前では、借りてきたネコの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題
は、そのことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その
呪縛性に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であ
るかわからないまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別
として、その重圧感は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に
気がつくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生ま
れてはじめて、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画も
あった。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、ま
ず、あなたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あ
なた自身の中の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにし
てきた。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことが
ある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見
せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ず
る。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と
考えてよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に
分析してみるとよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子ども
のため」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子
どもを利用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用す
る。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力
的、威圧的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするな
ら、お涙ちょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見
せつけながら、子どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、
操られているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、
異常なまでに依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生
まれながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子
ども自身が、かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。
そして子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔
の表情とが一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒
っているときは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。
そういう子どもを、すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 代償的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッ
シャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというの
は、現実にいた男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばか
りしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で
病院へ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミ
ュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン
症候群」と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)
に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい
嫁)を、演じていた人がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたっ
た一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長
女(当時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当
然のことながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる
女性(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、
子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見
せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面と
いうより、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そう
でないのか、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子ど
ものほうが萎縮してしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、
だれか他人に訴える気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判する
ことさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 仮面をかぶる母
親)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子ども
がふえている。
S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。
「幼稚園で帰る時刻になると、うちの子は、どこかへ行ってしまうのです。
それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにきてほしいと。
どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、
園舎の裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。
そこで皆でさがすのですが、おかげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうので
す」と。
私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言え
ば、家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。
まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。
幼児のばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつ
れて、当然、家庭の役割も変わってくる。
また変わらねばならない。
子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。

つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。
が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。
「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(随筆家・ソロー)とい
うのがある。
つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座っ
たほうが、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチ
ャの頭のようでなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこで
こんな簡単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみ
てほしい。
もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間
関係にある。
しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃
げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。
もう少しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれ
ない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不
自然に遅い。
毎日のように寄り道や回り道をしてくる。
あるいは外出や外泊が多いということであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。
家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、い
やなことを避けるための行動をする。
帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という思いが、回りまわって、
帰宅拒否につながる。
裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰ってく
るだけでも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということになる。

(はやし浩司 子供の帰宅拒否 帰宅拒否 家に帰りたがらない子ども 帰宅を拒否する
子供)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Y先生へ】

 メール、ありがとうございました。
いろいろな母親がいますね。
まさに典型的な代償的過保護と言うべき母親ですね。
まず「子どもはこうあるべき」という設計図を頭の中で作り、その設計図どおりの
子どもにしようする。

 疑うべきは、まず母親の情緒問題です。
自分の情緒的欠陥、つまり穴をふさぐために子どもを利用しているだけ。
何かの精神的な問題をもった女性と考えます。

一見、過保護に見えますが、過保護には愛情があります。
その愛情(=「許して忘れる」)がありません。
先にも書いたように、過保護もどきの過保護。
だから代償的過保護と言います。
発達心理学の用語にもなっています。
それが過度になれば、「虐待」ということになります。
「食事を与えない」「眠らせない」というのは、立派な虐待です。

 が、母親には、その自覚がない。
「私は子どものためにそうしている」と確信しています。
だから余計にやっかいですね。
説得しても、その母親には理解できないでしょう。

 ……私も子どものころ、帰宅拒否児だったと思います。
(いろいろな思い出をつなぎあわせると、そういう「私」が浮かびあがってきます。)
いつも学校帰りには、道草を食って遊んでいました。
夏でも、毎日真っ暗になるまで、近くの寺で遊んで時間をつぶしました。
今、思い出しても、暗くて、つらい毎日でした。

 もしKさん(小4)も、同じようであるとするなら、同情します。
恐らく一生、その傷が癒されることはないでしょう。
今の私が、そうです。
63歳になろうというのに、いまだに心の中に暗い影を落としています。

 やはりこの問題は、先生が指摘しておられるように、児童相談所が介入
すべき問題ですね。
先にも書いたように、「食事を与えない」「眠らせない」というのは、虐待です。
また無理な勉強を強制するのも、虐待と考えてよいでしょう。
一応、報告だけは、きちんとしておかれることを、お勧めします。

 なお小4と言えば、思春期前夜。
この先、Kさんには、いろいろな試練が待ちかまえています。
非行に走らなければよいと心配しています。
(あるいは、引きこもり(マイマス型)、家庭内暴力(プラス型)へと進むことも
多いです。)

 父親はどういう人なのか。
またどのように考えているのか。
それがわかったら、どうかまたメールをください。
では、今日は、これで失礼します。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【合理化】(合理化という非合理)

+++++++++++++++++

自分の中にある失敗や挫折。
それから生まれる憎しみや怒り。
それを相手のせいにしてしまう。
つまり相手が、自分に対して、
憎しみや怒りをもっているから、
自分もそれに反応しているだけ、と。
これを心理学の世界では、「投影」という。
自分の心を、相手の心にそのまま
投影し、自分の感情を合理化する。

夫婦の間、親子の間、友人や近隣の
人たちの間で起こりやすい。
さらには教師と生徒の間でも、よく見られる。
国際外交の場でも、よく見られる。

が、この投影のこわいところは、
それにとどまらない。
いわば妄想のひとつ。
妄想が強ければ強いほど、ときとばあいに
よっては、それが思わぬ事件へと発展
してしまう。

「あいつが悪いから、オレはこうなった
のだ!」と。
思い込みがはげしければはげしいほど、
敵意と攻撃心も大きくなる。
国際外交の場では、それが戦争につながることも
珍しくない。

その投影についてはたびたび書いてきたので、
ここではその先。
「合理化」について、考えてみたい。

++++++++++++++++++

●合理化

 たとえば買った宝くじの券をなくしたとする。
カバンに入れておいたはずなのに、ない。
どこにもない。
そういうとき心は、それから発する不快感を消すために、たとえばこう言って、
自分をなぐさめる。
「どうせハズレに決まっている。今まででも、当たったためしがない」と。

 こうして(紛失したという失敗)を合理化する。
自分に対する怒りを、収める。
これが心理学でいうところの「合理化」である。

 こうした合理化は、日常生活の中でよく経験する。
で、ここではもう一歩、話を先に進めてみたい。

●子育ての失敗

 こと子育てについては、「失敗」という言葉ほど無意味なものはない。
失敗の連続。
それが子育て。
が、それでも「失敗」と思うようなことがあったとしよう。
そういうとき、親は、こう思う。
「私が子育てで失敗したのは、私の両親(祖父母)が悪いからだ。
私はちゃんとした家庭で育っていない。それが原因だ」と。

 実は、私も、若いころ、よくそう思った。
わかりやすく言えば、よく親を恨んだ。
そしてそれから生まれる敵意や攻撃心を、親(私の両親)に向けた。
「どうして、ちゃんと私を育ててくれなかったのだ」と。

たとえば私の父は、2、3日おきに酒を飲んで暴れた。
それが私には、つらかった。

●私の父

 が、当時は、そういう時代だった。
戦後直後ということもあった。
みな、食べていくだけで、精一杯。
家庭教育の「カ」の字もない時代だった。

 たとえば私などは、家族旅行などといったものは、小学6年生までに、ただの1度
しか経験していない。
(ただの1度だぞ!)
その1度も、父が旅行先(伊勢参り)で酒を飲んでしまい、そのままパー。
私と母は、その夜のうちに実家へ戻ってしまった。

 が、その原因といえば、あの「戦争」だった。
さらに言えば、父が酒に溺れるようになったのも、あの「戦争」だった。
父は、台湾で貫通銃創を受けている。
傷痍(しょうい)軍人として帰国。
今で言う、PTSDになっていたとしても、おかしくない。

が、それ以上に、価値観の変化に、父はついていけなかったのかもしれない。
それまでは、天皇を神と仰いでいた。
その神国日本が敗れ、天皇は「人」に戻った。
今にして思えば、父が受けた落胆感には、相当なものがあったはず。

●合理化の修正

 が、それがわかるようになったのは、私が40歳を過ぎてからのこと。
それまではわからなかった。
わからなかったから、子育てで行き詰まるたびに、私は両親を恨んだ。
恨んで、自分の失敗を、合理化しようとした。

 といっても、その程度のことは、みなしている。
「私の親はすばらしかった」と思っている人は、まず、いない。
みな、どの人も自分の親を踏み台にし、さらにそのつぎの親を目指そうとする。
私だけが特別だったとは、思っていない。

 先に「子育ては失敗の連続」と書いたが、それ以上に、親にはその余裕がない。
毎日の生活に追われる。
仕事に追われる。
家族を支えるだけで、精一杯。
私にしても、そうだった。
それがわかったとき、私の私の親たちに対するものの考え方が変わった。
「私の親たちも、戦後のあの時代の中で、生きていくだけで精一杯だった」と。

●国際社会では

 要するに、人は自分にとって不愉快なものからは、目を遠ざけようとする。
自分にとって都合のよいものだけで、見ようとする。
さらに自分にとって都合の悪いものがあったとしても、それを合理化によって、
自分のつごうのよいものに、作り替えようとする。
こうして人は、自分の「心」を防衛する。

 たとえば視点を大きく広げてみよう。

 現在、アメリカと中国は、(そして日本も)、印刷機をフル回転させて「札」を印刷
している。
すでに世界のあちこちで、(この日本でも)、インフレの兆候が見えだした。
が、こうしたインフレで、そのしわ寄せ的打撃を被るのは、中進国以下の国々。
政情も不安定化する。
アメリカやEU、それに日本のような先進国は、そういうインフレを乗り越える力が
ある。
世界の資金が、ドル、ユーロ、円、ほかに金やプラチナに集約される。

 が、日本は、そういう「事実」を知っていながら、あえて目をつぶる。
知らぬフリをする。
これも合理化といえば、合理化ということになる。
「悪いのは、それだけの努力をしていない、中進国以下の国々」と。

●合理化の恐ろしさ

 合理化がはげしければはげしいほど、人は、自分の姿が見えなくなる。
ばあいによっては、それが妄想を引き起こし、先にも書いたように、敵意や攻撃心に
変化することもある。
実際に行動に移せば、たいていのばあい、取り返しのつかない結果を招く。

 たとえばあの北朝鮮は、韓国に対して軍事攻撃をしかけたのは、韓国の責任と
主張している。
韓国内部にも、そう主張して、北朝鮮を擁護する勢力がある。
「そこまで北朝鮮を追い込んだ、韓国のほうが悪い」と。

 もしこんな論理が正当化されるなら、あらゆる強盗が正当化されてしまう。
「私は強盗などしたくなかった。しかし私に強盗をさせた社会が悪い」と。
合理化の恐ろしさは、ここにある。

●反省

 そこで大切なことは、心が本来的にもつ、そうした弱点というか盲点を、何らかの
形でカバーするということ。
「自分を知る」ためのひとつの方法ということになる。

たとえば何か、自分にとって不都合なことが起きたら、即座に「相手が悪い」と
決めつけてはいけない。
何かを見落としていないかを、反省する。
つまり人は、その瞬間、瞬間に、つねに自分を合理化しながら生きている。
程度の差もあるだろう。
が、つねに合理化しながら生きている。
そういう前提で、そのつど、自分を見直してみる。

 で、最後に一言。

 この合理化が一度進むと、その相手とは、会話ができなくなる。
たとえばあなたの息子(娘)が、「自分が不幸なのは、親のせいだ」と言ったとする。
あなたの息子(娘)は、自分を合理化しているだけ。
が、その合理化には、つねに狂信性がともなう。
先にも書いたように妄想性が強ければ強いほど、そうなる。
つまりその時点で「合理」は「非合理」に変身する。

 一度、そうなったら、夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、あるいは近隣の人や
親類の人であるにせよ、遠ざかるのがベスト。
たがいに時間をかけ、頭を冷やす。
相手の非合理性を指摘しても意味がないばかりか、かえって火に油を注ぐことに
なりかねない。

 ご注意!

(注)何とも中途半端な原稿です。
書き足りないところもありますが、後日推敲し直すことにし、ここではそのままBLOG
に載せます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 合理化 合理化の恐ろしさ 防衛規制 投影 敵意 攻撃心 合理化
という非合理)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●格安ホテル

++++++++++++++++++

今日は、日曜日。
といっても、今朝は、何と朝帰り。
昨夜は、近くの浜名湖ロイヤルホテルに一泊。
ワイフと息子と、それに私の3人で
泊まった。

1名、1泊、3000円+入湯税。
ただし食事なし。
が、20畳以上もある広い部屋。
洋室。

当日の朝、旅行会社のHPを、チェック。
部屋に空きがあると、格安で泊めてくれる。
この方式は、あのLCC(格安航空会社)の
それと似ている。

EUでは、みな、こうして飛行機に乗っている。
ネットをチェックしながら、格安航空をさがす。
離陸直前ほど、料金が安くなる。
ばあいによっては、パリから地方空港まで、
300円で乗れることもあるという(Sさん)。
ただし満席になると、そこでストップ。

飛行機にしても、ホテルにしても、空席や
空き室をつくるよりは、そのほうがよい。
平たく言えば、従業員を遊ばせておくよりは、
よい。

一方、私たちには、あの豪華な料理は必要ない。
簡単な食事でよい。
のんびりと温泉に入れれば、それでよい。
それで満足。
ホテルに泊まれば、食事前、就寝前、それに早朝の
3回、温泉に入れる。

++++++++++++++++++

●ホテルにて

 いつもなら私はパソコン相手に、キーボードを叩く。
が、このところ、(……といっても、この数日のことだが)、どうも気が重い。
書きたいことはいくつかあるのだが、頭の中が整理できない。
整理できないというより、ぼんやりとしていて、「形」にならない。

 ……というわけで、昨日は、数年ぶりにプラモデル屋を訪れてみた。
ドイツのタイガー戦車の模型を買ってみた。
子どものころは、よく作って遊んだ。
あとはPSP(ソニーのポータブル・ゲーム機)。
現在は、「将棋・ゲーム」にハマっている。

 クラス分けのリーグ戦があり、現在S1クラスの15位。
Cクラスから始まり、Bクラス、Aクラス、S1へと勝ち進む。
今のS1クラスを制覇すると、つぎは……?
何かあるはず。
ワイフは、「ボケ防止にはよいかもね」と言う。
私も、そう思う。

 が、たかがPSPとあなどってはいけない。
結構、強い。(=私が、弱い?)
昨夜は、そんなわけで私はベッドの上で、PSPと格闘していた。
ワイフはDVDを観ていた。
息子は、タイガー戦車を組み立てていた。

 それぞれの土曜日。
土曜日の夜。

●将棋

 将棋というのは、集中力のゲーム。
集中力が途切れたとき、スキを作る。
そのスキを、すかさず、相手(コンピューター)が突いてくる。

 おもしろくないのは、ヘマをしないこと。
相手が人間のときは、ヘマをしてくれる。
それがおもしろい。
が、コンピューターはヘマをしない。
だからおもしろくない。

 もちろん弱点もある。
負け戦になると、自滅的な戦法に出てくる。
相手が人間なら、途中で投了ということもある。
コンピューターは、投了するとしても、最後の最後。

 それに思考ルーチンが同じなのか、繰り返し、同じ手を使ってくることがある。
それを繰り返していると、相手方(コンピューター)に、駒がなくなってしまうことが
ある。
こういうとき人間なら、1回でやめ、別の手を考える。
同じ手を使って、駒を失うのは、まずい。
が、コンピューターには、そういう判断ができない。

 また「王将」を左右交互に動かしていると、つまり時間稼ぎをしていると、
やはり思考ルーチンに従って、どんどんと駒を前に進めてくる。
そのとき相手方(コンピューター)に、スキが生まれる。
私はそこを突けばよい。

 が、クラスがあがるごとに、たしかに強くなっていく。
Cクラスのときは、こちらが駒を動かすと、すかさず相手方(コンピューター)も
駒を動かした。
ほとんど考えていない。
が、Aクラスになると、反応が鈍くなる。
S1クラスになると、さらに鈍くなる。
時に10~15秒ほど考えてから、駒を動かしてくる。
つまりそれだけコンピューター側も、考えているということ。

 ワイフは「囲碁もしたら?」と言ってくれる。
Sクラスをクリアしたら、つぎに囲碁に挑戦してみる。
学生時代は、下宿で囲碁ばかりしていた。
楽しみ。

●HD(ハーディスク)交換

 またまたHD交換に挑戦している。
数か月前、何度目かに挑戦し、失敗した。
で、昨日、新しい交換ソフトを購入。
しかしそれでも途中で、STOP。

 原因がわからない。
理由もわからない。
で、このあと、つまり今日の午後、もう一度、挑戦してみる。
うまくできても、4~5時間はかかる。
やってみるしかない。

 で、なぜ今、HD交換か?
ご存知の方も多いと思うが、HDも、時として故障する。
寿命もある。
そこで古いHDを、新しいHDに丸ごとコピー。
そのあとHDを交換する。
古いHDをそのまま保管しておけば、(新しいHDでもよいが……)、
HDに何かトラブルが起きたようなとき、ハードディスクを取り替えることで、
トラブルを回避することができる。
つまり安全策。

 パソコンとつきあうときは、いつもファイルの保存に心がける。
いつ何時、何があるかわからない。
それがパソコンの世界。

●今日(日曜日)の予定

 今日の予定は、とくになし。
書きたいテーマはあるが、どうも気が進まない。
が、これではいけない。
たとえば昨日、こんな原稿を書いた。
もう一度、ここにその一部を掲載する。

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 ……最後に、こんな話。
これから書くことは、事実。
「事実」と断らなければならないほど、そうでない人には信じられないような話。
こういう話。

 毎週のように、嫁が、夫の実家にやってくる。
(嫁が、夫の実家にやってくるのだぞ!)
そして夫の両親から、小遣いをせびる。
「夫の給料だけでは、生活が苦しい」と訴える。
「夫の給料だけでは、子どもを進学塾へ通わせることもできない」と訴える。
で、最近、こんなことがあったという。

 いつものように、嫁が夫の実家にやってきた。
こう言った。
「100万円が必要。100万円、出してほしい」と。
が、両親といっても、80歳を過ぎている。
義父は元薬剤師。
義母は元看護士。
財産があるといっても、無限にあるわけではない。
そこで母親(=夫の母親)が、5万円を渡すと、その嫁は、「それでは足りない!」と言い、
その5万円を机の上に置いたまま、家に帰ってしまったという。

 ドラ娘も、ここに極まれり!、というような話である。
苦労を知らない人間というのは、そうなる。

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 繰り返しになるが、この話は事実。
直接、その「義父」から聞いた。
(もちろんその人とわかるような部分は、変えてあるが……。)
その「義父」が、「うちの嫁さんはねえ……」と言って、この話をしてくれた。

 ワイフもその席にいた。
その嫁については、あれこれ聞いていたので、ワイフも私もさほど、驚かなかった。
しかし今回の話は、明らかに度を越している。
「エスカレートしてきた」と書くべきか。
年老いた義父母。
ともに80歳近い。
判断力も鈍ってきた。
それをよいことに、義父母を手玉にとって、もてあそぶ。

 つまりこの話には、いくつかの問題点が隠されている。

(1)老夫婦の財産管理は、どうすべきか。
(2)「嫁」とのつきあいは、どうすべきか。

 で、この話にはもうひとつ伏線がある。
嫁は、そのつど3人の孫を連れてくる。
つまり孫をダシに、義母から、小遣いをせびる。

 いろいろ考えさせられる。
が、今朝はこれまで。
このつづきは、またあとで!
では、みなさん。

おはようございます!

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