最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●業(ごう)

2010-03-10 12:29:37 | 日記
●業(カルマ)(The Deepest Sin in Ourselves)

+++++++++++++++++++

仏教では、意識を、大きく、
(1)末那識(まなしき)と、
(2)阿頼那識(あらやしき)の2つに
わける。

末那識というのは、意識の総称。
阿頼那識というのは、現代心理学でいう、
「無意識」、あるいはさらにその奥深くに
ある、深層無意識と考えてよい。

その仏教では、末那識(「私である」という
自我)が、阿頼那識におりてきて、そこで
蓄積されると教える。
そして阿頼那識で蓄積された意識は、
今度は反対に、末那識の世界まであがってき、
末那識に影響を与えると、教える。

これについては、何度も書いてきたので、
ここではその先を考えてみたい。
いわゆる「業(ごう)」の問題である。

++++++++++++++++++++

●意識と無意識

 意識の世界のできごとは、常に、無意識の世界に蓄積される。
パソコンにたとえるなら、自動バックアップのようなもの。

(WINDOW7には、自動バックアップ機能というのがついている。
それを使うと、ファイルの変更などをすると、自動的に、別のディスクに
バックアップをコピーしてくれる。)

 仏教では、意識される意識を「唯識(ゆいしき)」とし、眼識、耳識、鼻識、
舌識、身識、意識の6つに分ける。
現代でいう、五感とも、ややちがう。
その唯識が、「私」を形成する。
それが「末那識」ということになる。

●末那識は一部

 この末那識は、先にも書いたように、常に阿頼那識の世界に影響を与え、
そこで業(カルマ)として、蓄積される。
が、現代の大脳生理学でも証明されているように、無意識の世界の広大さは、
意識の世界の広さとは、比較にならない。
20万倍とか、それ以上と言われている。

(数字で表現するのは、正しくない。
要するに、意識として使われている脳は、脳の中でもほんの一部に過ぎない
ということ。)

 よく「業が深い人」という言葉を耳にするが、つまりそれだけ阿頼那識に
蓄積された業は、大きく、反対に、末那識に与える影響も大きいということ。
言い替えると、私たち人間は、意識の世界だけで生きているのではないということ。
実際には、無意識の世界の命令に応じて、生きているということ。

●無意識の世界

 たとえばここに、場面かん黙児の子どもがいるとする。
入園など、はじめて集団に接したようなとき、発症することが多い。
家の中では、ごくふつうに会話ができる。
しかし集団の中に入ったとたん、貝殻を閉じたかのように、かん黙してしまう。

 そういう子どもと接していると、無意識の世界を操作するのが、いかに
むずかしいかがわかる。
あるいは子どもの、その向こうにある、無意識の世界の広さに、驚くことがある。
場面かん黙児の子どもは、その無意識の世界の命令によって行動する。
そのため意識の世界から、いくら話しかけたり、説教したりしても、意味がない。
効果もない。

●業(ごう)

 業(ごう)というのは、そういうもの。
人間がもつ本能とも直結している。
そのためそれが何であれ、またどういうものであれ、意識の世界でコントロールしよと
しても、ビクともしない。
仮にあなたが、きわめて知性的な人であっても、その知性で、コントロール
できるようなものではない。

 たとえば手鏡をもって、女性のスカートの下をのぞいていた大学の教授がいた。
超一流大学を出て、当時は、毎週のようにテレビに出演していた。
地位と名声、それに富を、順に自分のものにした。
にもかかわらず、自らの業を、コントロールすることができなかった。
今度は、電車の中で痴漢行為を働いて、逮捕された。

●ではどうするか

 仏教では、……といっても、釈迦仏教というよりは、釈迦滅後、500~600
年を経てからだが、「八正道」を説かれるようになり、さらに実践的な、「六波羅密」
が説かれるようになった。

 八正道についても、たびたび書いてきたが、こと、阿頼那識ということになると、
六波羅密のほうが重要ということになる。

 布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、「六波羅密」という。
これは私も最近知ったのだが、「波羅密(ハラミツ)」というのは、「徹底」を意味する
サンスクリット語の当て字だそうだ。
漢字の「波羅密」を見て意味を考えても、答は何も出てこない。

(ついでに、日蓮宗の『南無妙法蓮華経』という題目にしても、

ナム……サンスクリット語の「帰依する」を意味する語の当て字。
しかし実際には、「hello」の意で、現在でもインドでは、あいさつの言葉として、
広く使われている、

妙法……サンスクリット語の、「因果な」を意味する、当て字、

蓮華……サンスクリット語の、「物語」を意味する、当て字、

「経」の漢字は、中国に入ってから、学者たちによって、付加された。)

 「末那識」「阿頼那識」という言葉についても、無著(むじゃく)、世親(せしん)
あたりから、世に出てきたから、サンスクリット語の当て字と考えるのが妥当。
今風に言えば、「意識」「無意識」ということになる。
(不勉強で、申し訳ない。)

●六波羅密

 ここにも書いたように、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密」という。
これを実践することにより、人は涅槃(ねはん)の境地に達することができると
言われている。

 もっとも私のような凡人には、それは無理としても、しかしこの中でも「精進」の
重要さだけは、よく理解できる。
「日々に、私たちは前に向かって、邁進(まいしん)努力する」。
それは健康論と同じで、立ち止まって休んだ瞬間から、私たちは不健康に向かって、
まっしぐらに落ちていく。

 よく「私は、修行によって、悟りの境地に達した」とか、「法を取得しました」とか
言う人がいる。
しかしそういうことは、ありえない。
ありえないことは、あなた自身の健康法とからめて考えてみれば、それがわかるはず。

 で、私は、日常生活の中で、つぎのように解釈している。

布施……ボランティア活動をいうが、いつも弱者の立場でものを考えることをいう。

持戒……仏教的な「戒め」を堅持することをいうが、簡単に言えば、ウソをつかない、
ルールを守ることをいう。

忍辱……「忍辱」については、そういう場面に自分を追い込まないようにする。
「忍辱」は、ストレサーとなりやすく、心の健康によくない。
あえて言うなら、『許して、忘れる』。

精進……常に前に向かって、努力することをいう。
とくに老後は、脳みその底に穴が開いたような状態になる。
私はとくに精進を、日常の生活の中で大切にしている。

善定……善を、より確かなものすることをいう。
口先だけではなく、実行する。

知恵……「無知は罪悪」と考えることをいう。

 が、何も「6つの教え」に、縛られることはない。
そういう点で、私はこうした教条的なものの考え方は、好きではない。
まちがってはいないが、どうしてもそれだけに限定されてしまう。
その分だけ、視野が狭くなってしまう。

 要は修行あるのみ……ということになる。

●修行

 ……といっても、私は、仏教的な、どこか自虐的な修行の価値を認めない。
(釈迦だって、そうだったぞ!)
「修行」というのは、ごくふつうの人間として、ふつうの生活を、日常的に
しながら、その中で実践していくもの。
(釈迦が説いた、「中道」というのは、そういう意味だぞ!)
もし、そこに問題があるなら、真正面からぶつかっていく。

 燃えさかる炭の上を歩くとか、雪の中で滝に打たれるとか、そういうことを
したからといって、「修行」になるとは、私は思わない。
少なくとも、私は、ごめん!
またそういうことをしたからといって、「私」の中にある「業」が、消えるわけ
ではない。

●結論

 で、私なりの結論は、こうだ。

 まず業に気がつくこと。
あとはそれとうまく、つきあっていく。
業があっても、なくても、それが「私」。
個性をもった「私」。
それが「私」と認めた上で、(それが弱点であっても、また欠陥であっても)、
前向きに生きていく。

 まずいのは、そういう業があることに気づかず、それに振り回され、同じ
失敗を繰り返すこと。
そのために「知恵」があるということになるが、それについては、また別の機会に
考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 末那識 阿頼那識 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、はやし浩司 八正道 六波羅密、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵、6つの徳目 修行論)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

南下軍の歌(+北の都)金沢大学応援歌、寮歌(法科同窓会)

2010-03-10 10:18:44 | 日記
●南下軍の歌(北の都)(旧第四高等学校、応援歌、寮歌)金沢大学、応援歌

++++++++++++++++++++

●第18回、法文学部法学科卒業生、同窓会
2010年2月


<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/jS3Yp0To-l8&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>

http://www.youtube.com/watch?v=jS3Yp0To-l8

++++++++++++++++++++

●自分探し

2010-03-10 09:02:28 | 日記
●自分探し

++++++++++++++++++++++

若い人は(自分探し)に苦労する。
同じように、老いた人も、(自分探し)に苦労する。
同じ(自分探し)だが、老いた人が(自分探し)を
するのは、たいへん。
どちらがたいへんかといえば、老いた人の
ほうが、はるかにたいへん。
若い人には、どう転んだところで、未来がある。
しかし老いた人には、未来がない。
その(未来がない)という部分と、闘わねば
ならない。
まさに「負け戦」。
「消耗戦」。
そういう中での(自分探し)ということになる。

+++++++++++++++++++++++

●どうやって死ぬか

 どうやって生きるかではない。
どうやって「死」を迎えるか、である。
悲観的な見方だが、そういう問題が、(老い)を考えるときは、
いつもついて回る。
そういう中で、自分なりの生きがいを見出さなければならない。
ただじっと、死を待つわけではない。
またそんなことは、不可能。
そんな日々がつづいたら、それこそ、気が変になってしまう。

●死の待合室

 が、いつか「死の待合室」に入る。
それはしかたのないこと。
そこでひとつの方法として、その待合室に入る時期を、できるだけ遅くする。
そのためには、健康を維持し、仕事をつづける。
「生涯、現役」をめざす。
が、それができる人は、きわめて恵まれた人。
それに稀。
たいていの人は、職場を追われ、職を失う。
運が悪ければ、ボケ症状も出てくる。
体も動かなくなる。

●積み重ね

 そういう状況の中で、いかに(自分探し)をするか。
「第二の人生設計」という言葉もあるが、そんな甘いものではない。
また「定年退職をしました。明日から、ゴビの砂漠で、植林でもしてきます」
というわけにもいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、空しいだけ。
長つづきしない。

 (すべきこと)には、哲学的な裏づけがなければならない。
わかりやすく言えば、主義、主張。
長い時間をかけた、(積み重ね)。
(やるべきこと)イコール、(人生の結論)と考えてよい。

●会社人間

 ところで先日、義兄に会ったら、こう断言した。
「サラリーマン社会では、友情は育たない」と。
義兄は、日本でも最大手の楽器メーカーに勤め、付属の音楽学校の
校長まで努めている。
その義兄が、そう言った。

 「会社には、役職退職というのもあってね……。首切りや、リストラ
という段階で、それまでの友情などあっても、粉々に破壊されるよ」と。

 友情すら、育たないという。
いわんや、生きがいをや、ということか。

●無私、無欲

 仕事にもよるが、要するに、(稼ぎのためにした仕事)というのは、
老後の(生きがい)には、つながらないということ。
そう断言するのは危険なことかもしれないが、幻想をもつことは禁物。
わかりやすく言えば、(生きがい)は、個人として、長い時間をかけて、
作りあげていくもの。
しかも無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、(生きがい)は霧散する。

 もちろん地位や名誉のためであってはいけない。。
仮にそれがあるとしても、地位や名誉は、あとからついてくるもの。

●偽善

 偽善で身を飾る人は、少なくない。
たいていどこかのボランティア団体に属し、肩書きを並べる。
そしてことあるごとに、それを他人に吹聴する。
「今度、○×NPOの、理事になりましてね」と。

 しかし本気でボランティア活動をしている人は、静か。
私財を投げ打ちながらも、それを人に語ることもない。
私は生涯において、そういう人に、何人か出会っている。
一方、こんな女性(当時、60歳くらい)もいた。

●インチキ

 その女性は、こう言った。
「近所に独居老人がいて、私、見るに見かねて、そういう老人たちを
週に1度、家庭訪問しています」と。
ときには、そういった老人のために、終日、車を走らせることも
あるという。

 私は、感心した。
しかしその女性が、自分の実母の介護をすることになった。
そのとたん、化けの皮がはがれた。
どうはがれたかは、今さらここに書くまでもない。
よくあるケースである。

●悪人

 ボランティア活動に生きがいを見出す人は、多い。
しかしそういう人には、歴史というものがある。
そこにいたる、実績というものがある。
ホームレスの世話をしたとか、孤児のめんどうをみたとか。
そういう実績もないまま、いきなり王手をかけてくる。
そういう人は、偽善者とみてよい。

 中に、「何もしない人より、まし」と思う人がいるかもしれない。
しかし偽善者は、何もしない人より、悪人。
タチが悪い。
弱者を食い物にするという点で、タチが悪い。

●とにかく……!

 話が脱線したが、老いた人が、(自分探し)をするのは、
本当にたいへん。
今、それを実感しつつある。
こんなにたいへんなものだとは、予想さえしていなかった。
毎日、どう生きるか、それを考えるだけで精一杯。
「何かをしなければならない」というところまではわかるが、
その先が見えてこない。
だから結局、毎日が、毎日の繰り返しになってしまう。

 今、ふと、若いころ、シドニーのキングスクロスで見た、
ミュージカル『ヘアー』を思い出した。
それについて書いた原稿を、ここに載せる。
それを載せて、この話は、おしまい。
とにかく、私は、がんばるしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもに生きざまを教える法(懸命に生きてみせろ!)

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。

 たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

 それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。

 『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

 言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。

 あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 キングスクロス ヘアー ミュージカル) 

●マガジン(3-10)byはやし浩司

2010-03-10 08:36:53 | 日記
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm           
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ        
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/  
.        =∞=  // (奇数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 10日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page007.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【福音(神の国)の世界】

●選択

+++++++++++++++++++

私たちはそのつど、自分の人生を
選択しながら、生きている。
「あっちへ行くか?」「こっちへ行くか?」と。
映画『DR. ペルナサスの鏡』の中に出てくる
台詞(せりふ)である。
で、地獄に落ちたDR.ペルナサスは、
地獄をさまよい歩きながら、最後にこう叫ぶ。
「もう選択はいやだ!」と。
とたん、彼は地獄から解放され、現実の世界へと
引き戻される・・・。

+++++++++++++++++++

●人生論

 「私」のまま、私の人生を生きている人は、いったい、どれだけいるだろうか。
「これが私の道」と、その道だけを信じて、まっすぐ進んでいる人は、いったい、
どれだけいるだろうか。

 たいていの人は、私も含めて、そのつど角にぶつかり、選択をしながら、生きている。
「あっちの道へ行こうか、こっちの道へ行こうか?」と。
毎日が、その連続といってもよい。
そしていつの間にか、自分の意思とは無関係に、まったく別の道に入ってしまう。
そういう意味では、善人も悪人も、紙一重。
成功者も失敗者も、紙一重。
大きくちがうようで、どこもちがわない。
それが人生。
私やあなたの人生。

●運命

 私たちの心と体には、無数の糸が、からみついている。
過去の糸、生い立ちの糸、社会の糸、仕事の糸、血縁の糸、そして家族の糸などなど。
「糸」が悪いというのではない。
ときに、その糸に励まされ、生きる目的を与えられる。
心の安らぎを得ることもある。

 しかしその糸が、これまたときとして、私やあなたの体にからみつき、
私やあなたを、まったく別の世界に、導いてしまうことがある。
ばあいによっては、糸の奴隷となってしまうこともある。
それを「運命」と呼ぶなら、運命というのは、たしかにある。
「右へ行きたい」と思っていても、心と体は、左へと引っ張られてしまう。
運命というのは複雑な方程式のようなもの。
(今の私)が、その答ということになる。

●自由

 キリスト教というと、「愛の宗教」と考える人は多い。
しかしキリストは愛だけを説いたわけではない。
もうひとつ、「自由」を説いた。
「愛」を横軸とするなら、縦軸にあるのが、「自由」ということになる。
英語では、「liberation(解放)」という。
つまり魂の解放をいう。

 その解放とは何かということになれば、「選択と運命からの解放」ということになる。
私は、キリスト教の信仰者ではない。
これ以上のことはわからない。
が、キリストの説いた哲学は、まさに核心をついている。
なぜ私たちは生きているか。
なぜ私たちはここにいるか。
その答を示している。

つまり愛を横軸、自由を縦軸にして生きる。
それこそまさにキリスト教でいう、「福音の世界」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自由 愛 愛と自由 魂の解放 福音の世界)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●兄の泣き声(改) 

+++++++++++++++++

今でも、ときどき兄の泣き声が聞こえてくる。
今日も聞こえた。
少し前も聞こえた。
兄は、父や母に叱られると、決まって二階の
一番奥の部屋にやってきて、そこで泣いた。

私とは9歳ちがうから、そのとき兄は、
20歳前後ではなかったか。
私が小学生のころである。

兄は手のひらで自分の鼻を下から、すくいあげる
ようにして泣いていた。
オーオー、オーオー、と。

「準ちゃん、何が悲しいのか?」と声をかけても、
兄は、ただ泣くばかり。
鼻水をたらたらと流しながら、ただ泣くばかり。

それは私にとっては、過去ではない。
遠い昔の話でもない。
今でも、兄は、そこにいて、泣いている。
今でも、その声が聞こえてくる。

それはつまり私の心の傷。
傷の声。
傷の泣き声。
オーオー、オーオー、と。

++++++++++++++++++

●心の傷

 私の心の傷は、いやされるのか?
それとも死ぬまで、その傷に苦しむのか?
一生、私は、それを背負って生きていかねばならないのか?
いつかは忘れることができるだろうと思っていた。
いつかは解放されるだろうと思っていた。
しかし心の傷は、そんな生やさしいものではない。
いつもそこにあって、ジワジワと私の心をむしばむ。
いつ晴れるともなく、心の壁に張りついている。

 言いようのない孤立感と焦燥感。
毎晩のように見る、悪夢。
いつも何かに追い立てられている・・・。

 だれに話すこともない、私の過去。
暗くて、ジメジメした、私の過去。
その過去が、今も、そこにあって、私を苦しめる。
今夜も、またワイフに言ってしまった。
「離婚してあげようか?」と。
ワイフはさみしそうな声で、こう答えた。
「本当に、そうしたいの?」と。

 本当は離婚など、したくない。
別れたくない。
しかし私は、自分の心をどうすることもできない。

だれにも心を許さない。
心を開かない。
そういう私で、さみしい思いをしているのは、ワイフ。
そのワイフを、私がからませている鎖から、解放してやりたい。
私がいなければ、ワイフが幸福になれる。
そんな思いから、私自身も私を解放することができない。

 心の傷というのは、そういうもの。
いつも私の中にいて、私を、裏から操る。
操りながら、私をあざ笑う。

 ああ、今日も聞こえる、兄の泣き声。
オーオー、オーオー、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心の傷 トラウマ 兄の泣き声)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●セキュリティーソフト

+++++++++++++++++++

パソコンに、セキュリティーソフトは、必需品。
そのセキュリティーソフト。
いろいろな製品が発売になっている。

以下、「Mr.PC」(vol.1、P121)に出ていた
記事を、そのまま掲載させてもらう。

+++++++++++++++++++

G DATA  ・・・99・80%(99・80%)・・・1時間に1回以上更新
avast   ・・・99・30%(98・30%)
F-Secure・・・99・20%(99・60%)
Norton  ・・・98・70%(95・40%)・・・15分おきに更新
・・・
McAfee  ・・・93・60%(94・50%)

SourcenextウィルスセキュリティーZERO・・・92・10%(94・0
0%)・・・週に6回更新

数値は、「マルウェアの検出率」、(かっこ)内は、アドウェア・スパイウェアの検出率。

++++++++++++++++++

 こうして並べてみると、一目瞭然。
しかも更新頻度にいたっては、メーカーによって、大きな差がある。
で、こう書くと、「Sourcenext社のウィルスセキュリティーZERO」の悪口に
なってしまうが、私は、7~8台のパソコンすべてに、同社の製品をインストールしてき
た。
が、あまりの低品質に驚いた。
(原稿の責任は、Mr.PCにとってもらう。)

現在12社から発売しているウィルスセキュリティーソフトの中でも、下から2番目。
しかも無料のウィルスセキュリティーソフトよりも、検出精度が低い(?)。
また「更新頻度は、無料のセキュリティーと同じ」(同誌)とか!

 この記事を読んだとき、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
「それなりにいいソフト」と思い込んでいた。
しかし検出度が、1%さがると、約10000のウィルスを見逃すことになるという。
もちろん99・99%だからといって、安心できるわけではない。
しかしそれにしても・・・。
「ZERO」の更新が、週に6回程度だったとは知らなかった。

 「更新料がいくらZERO」でも、これではZEROの意味がない。
ということで、今日、さっそく、パソコンのウィルスセキュリティーソフトを、購入。
すべて「G DATA」に乗り換えた。
かなりの出費と損失だったが、パソコンの健康には、代えられない。

●安全対策

 私のばあい、つぎのようにして、ウィルス(ボット)から、パソコンを守っている。

(1)仕事によって、パソコンを使い分けている。
(2)プロバイダーの、ウィルスチェック(有料版)を経由している。
(3)パソコン内部に、今回、「G DATA」を導入。
(4)あやしげなメールは即、削除。あやしげなサイトには、近づかない。

 とくに注意しているのが、私のウエブサイト(=ホームページ)。
ここにウィルスが仕込まれると、多くの読者に迷惑をかけることになる。
当然のことながら、頻繁に、ウィルスチェックを実行している。

 この世界でまずいのは、(知ったかぶり)。
パソコンの使い方に少し慣れてくると、あちこちに手を出す。
おかしなファイルをダウンロードしてみたり、動画サイトをのぞいてみたりする。
そのとき、つまり手を出したときに、ウィルスに感染する。
知らないなら知らないで、静かに、電気製品のひとつくらいに考えて、使う。
そうすれば、ウィルスに感染することはない。
私のワイフがそうだ。

 パソコンを立ち上げても、見るのはメールと、私や息子たちのサイト程度。
一通りみたら、そのままシャットダウン。
それでいつも、おしまい。
要するに、『触(さわ)らぬ神にたたりなし』。

(1)

2010-03-10 08:36:32 | 日記


●ウィルスへの認識

 実は、私も過去において、2度、ウィルスの侵入を許したことがある。
その人のパソコンにウィルスが侵入していて、ファイルを開いたとたん、こちらの
パソコンに感染してしまった。

 そのときのこと。

 Aさんは、私が電話でそれを報告すると、パニック状態になってしまった。
即座にパソコンを閉鎖し、パソコン自体をリカバリーした。

 Bさんは、やはり電話で連絡したのだが、まったく平気な様子だった。
罪の意識がないというか、「ぼくも被害者です」と言って、ヘラヘラと笑っていた。

 が、けっして笑ってすませられるような話ではない。
私はそのあと、1日かけて、パソコンをリカバリー(再セットアップ)した。
リカバリーが、いかにたいへんな作業であるかは、経験したことのある人なら、
みな知っている。
私はそのとき、つまりウィルスの侵入を知ったとき、体中に戦りつを覚えた。
ハラハラ、ドキドキしながら、リカバリーをした。

 ・・・ということで、ウィルス対策には、万全を期している。
先にも書いたように、パソコンの使い分けはもちろん、データ、ファイルは、そのつど、
コピーを取って保存している。
最悪のばあいをいつも想定し、いつでもリカバリーできる状態にしている。
ソフトを使って、ウィルス駆除という方法もあるが、私はこの方法を、信頼していない。
リカバリーが最善ということになる。
 
 要するに「安いからいい」と思って、値段の安いソフトを使ってはいけない。
(一方、値段が高いから安心ということでもない。
ちなみに、検出度1位の「G DATA」は、1年(1台分)で、4000円弱。
中には1万円以上もするソフトもある。

 「Mr.PC」誌は、こう書いている。
「結局な話、現時点での最強ソフトは、G DATA」(P122)と。
G DATAは、2本分のソフトの能力をもっている。
つまりソフト2本で、独立して、ウィルスをチェックする。
で、その乗り換え作業が先ほど、終了したところ。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●壊れる日本語

 今日、ある店で、たいやきを2枚買った。
1枚は、あずき。
これは私用。
もう1枚は、カスタード。
これはワイフ用。
そのときのこと、店の若い女性が、袋の詰めながら、こう言った。
「シタアンです」と。

 私は2度も聞き返した。
「シタアン?」
「どういう意味ですか?」と。
瞬間、ポルトガル語かとも思った。

 つまり「2枚重なっているが、下のたいやきが、あずきです」と。
私はそれを知ったとき、日本語そのものが、携端末機化していると感じた。
もちろん文章になっていない。
そればかりか、省略につづく省略。
つまりメチャメチャ。

 しかしこれも時の流れか?
携帯端末機世代がつぎの日本を背負うようになると、私がここに書いているような
文章は、消えてなくなるかもしれない。
たとえば、こうなる。

「・・・夕食まだ。おかず焼きそば。腹へった。油少し願う。ワイフ同意。私待つ」と。

 「それでいいのかなあ・・・?」と、かなり強い疑問を感じながら、たいやきを食べた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日の講演(歴史の生き証人)

+++++++++++++++++++

これからN市の保険医師会主催の、講演会で
講師をすることになっている。

ドクターたちの集まりだから、その道の
専門家も多い。
だからというわけでもないが、今、ひとつの
ことを考えている。

この21世紀に入ってから、教育の世界が
大きく変わってきたということ。
「変わった」といっても、制度的な変化を
いうのではない。

現在、(教育)と(心理学)と(大脳生理学)の、
この3つの分野が、融合されつつあるということ。
私たちは今、たいへんおもしろい時代に、
遭遇しつつある。

今はまだわからないかもしれない。
しかしこのあと、20年とか、30年とか過ぎたあと、
「あの時代に、この3つの分野が融合した」という
ことが、わかるはず。

たとえば子どものやる気にしても、教育の世界では、
(弱化の原理)(強化の原理)という言葉を使う。
しかし大脳生理学の世界では、辺縁系にある帯状回という
組織が、どうやらそのやる気を司っていることが
わかってきた。
さらにカテコールアミンというホルモンが、やる気に
関係していることもわかってきた。

さらに言えば、フロイトが説いた「性的エネルギー」についても、
根源は、どうやら視床下部あたりが、それを司って
いることもわかってきた。
そこから発せられる信号が、ドーパミンの分泌を促し、
もろもろの欲望も、そこから生まれる。

さらに善悪感覚にしても、ホルモンの作用によるという
ことまでわかってきた。

「悪」については、まだ未解明な部分も多いが、
「善」については、同じく辺縁系にある、扁桃核が
司っている。

何かよいことをすると、大脳の皮質部のほうから
信号が送られ、それに反応して、扁桃核が
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンである。
それが大脳全体を、甘い陶酔感で満たす。

「いいことをすると、気持ちよい」というのは、
そういう原理による。
先にも書いたように、やる気については、カテコールアミン
というホルモンが関係している。
もっとも私自身は、それがどういうホルモンであるかは
知らない。
知らないが、生き生きと活動している子どもは、
表情も輝いている。
その(輝き)こそが、カテコールアミンと、考えてよい。
私は勝手にそう解釈している。

さらに近年の大脳生理学の発達には、驚くべきものがある。
最近になって、「敏感期」「臨界期」という言葉を
よく聞くようになった。

人間の基本中の基本は、実は、0歳から7か月前後までの
間に決定されるという考え方である。
従来、「乳幼児には記憶がない」と考えられていた。
しかしこれもとんでもないまちがいであることがわかってきた。
今から10年ほど前、ワシントン大学のメルツォフ教授がそれを発表した。
むしろこの時期、怒涛のごとく、記憶が蓄積されていることがわかった。

まだある。
今度は、それまで愛着行動は、親の側からの一方的なものと
考えられていた。
しかしこれについても、実は、乳幼児のほうからも、愛着行動が
発せられていることがわかってきた。
もちろん無意識のうち・・・というか、本能的なものだが、
あの乳幼児が育ててもらえるよう、自ら親に向かって働きかけを
している。
親に向かって、(赤ちゃんらしいかわいさ)を、子どものほうからも
発信する。
それを受けて、母親は、子どもに乳をくれる。

相互に愛着行動を繰り返すので、「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」
という。

さらに、たとえば(人間性)にしても、この時期に、その基礎が
形成される。
反対にこの時期をのがすと、人間性の基礎もままならなくなる。

野生児をその例にあげるまでもない。

また人間にも、ある種の鳥類に似た、「刷り込み」が
あることがわかってきた。
この時期を、「敏感期」と、心理学の世界では呼んでいる。

一方、大脳生理学の分野では、重に、脳の神経細胞の
研究の分野から、この時期の(刺激)が、重要な意味を
もつことがわかってきた。

これはモルモットでの実験だが、(というのも、人体で
人体実験をすることはできないので)、たとえば生後
直後から、モルモットの片目を何かで塞いでしまうと、
そのモルモットの視覚を司る神経細胞は、機能を停止
してしまうという。
停止するばかりか、その塞いだものを取り除いても、
神経細胞が再生するということはない。
(一部、輪郭だけは見えるようになるという説もあるが・・・。)

神経細胞の完成しているおとなであれば、一時的に
目を塞いだからといって、目が見えなくなるということはない。
しばらくすると、機能は回復してくる。

こうした事実から、乳幼児期における早期教育の重要性を、
説く人も多い。
この時期に適切な刺激を与えることによって、子どもが
本来的にもつ「力」を、外に引き出すことができる。
そうでなければ、ここに書いたように、脳の神経細胞そのものが、
そのまま退化(「退化」という言い方が適切かどうかは
知らないが・・・)してしまう。

この時期に音楽的な刺激を受けた子どもは、音感にすぐれた
才能を発揮するようになる。
そうでなければ、神経細胞そのものが、退化してしまう(?)。

こうした現象がもっとも顕著に現れたのが、「野生児」である。
インドで見つかったオオカミ少女を、今さら例にあげるまでもない。
その後、2人の少女は、死ぬまでインド政府によって手厚く
保護され、教育を受けたが、最後まで人間らしい心を
取り戻すことはなかった。

腹が減ったときだけ、動物的な声を張り上げて、「怒った」と
いうような記録は残っている。

大脳生理学の分野では、この時期を、「臨界期」と
呼んでいる。
教育の世界でいう「敏感期」と同じに考えてよいのでは
ないだろうか。

こうして(教育)と、(心理学)と、(大脳生理学)が、
今、三つ巴になって融合し始めている。

考えてみれば、これはものすごいことではないか。
それぞれの分野で、未解明だったり、経験的にわかって
いたにすぎなかったことが、今、解明されようとして
いる。
私たちはその歴史の生き証人として、まさにその
時代の中で、それを目撃していることになる。

+++++++++++++++++++++++