マニフェスト,もしくは共産党革命命題¬A⇒(A⇒B)は、かつて「¬Aを条件とするとA⇒Bは否定できないから真である」と論じられたものです・・・w)
それを説明するのには、まず真理値表を示してA is Tの場合だったらA⇒Bは「A is Tの場合にはB is TであればT」だが「A is TでB is FならばF」であると言い、次には「A is Fの場合にはB is TであろうとB is FであろうとT」と言い、その両者から「命題A⇒Bは¬Aが条件であればいつでもT」すなわち「恒真命題である」とやっていた。
さて、ここで「¬Aが条件」とはどういうことなのか?
それで命題A⇒Bに三段論法の大前提,もしくは十分条件として¬Aを付記したものが¬A⇒(A⇒B)だったとして計算してみると、
¬A⇒(A⇒B)
⇔
A∨(¬A∨B)
⇔
(A∨¬A)∨B
⇔
T∨B
⇔
T
めでたし、めでたし、かようにマニフェスト並びに共産党革命は共に恒真命題(どんな場面でも否定されない命題の意)だと証明されたぞ、ばんざい、とやってたのが数年前で、僕ら納得しないと腐されたもんです・・・w)
だって「A⇒Bはいつでも正しい,もしくは否定されない」ってゆー中身の証明じゃないもん!
そか、⇒で柔らかく結ぶから前提否定が出てきてややっこしくなるんだ、ならば∧で固く結んじまえば良いんではないカニ、とゆーわけで計算しなおせば、
¬A∧(A⇒B)
⇔
¬A∧(¬A∨B)
⇔
¬A
あれれっ、¬Aしか出てこないぞ、最初の式と同値だってことだったから¬A⇒¬Aが答えだ、もちろん、これを真理値表で点検しなおせばA⇒Bはその限りにおいて「いつでもT(真)」だというのは出てくる、出てくるけどなんだか物足りないもんな・・・w)
そこで「必要条件を否定できない」という意味でカリー命題性を疑ってみるとしましょう!
カリー命題というのは「この命題が真ならば,A」という意味を持った命題ですが、なんと、この種の言語を発されたとすると必要条件のAがどのような条件であろうと疑われなくなってしまうのだと聞く、もちろん「Aであろうと¬Aであろうと同じ」だということから矛盾を疑ってみるのだが、そこは文系の学問、ちゃんとアリストテレスの矛盾律に沿えば「それは矛盾ではない」で通ってしまう。
「この文が正しければ,サンタクロースが実在する」を条件付演繹という証明手段をとって考察することにすると、まず「この文を正しいと仮定する」ことから始まるので考察結果が「この文が正しければ,サンタクロースが実在する」となるのでトートロジー(同義反復)となって「この文は真であると証明された」「ゆえにサンタクロースは実在しなければならない」(証明終わり)
なお、これは自然演繹という論理学において許された正しい証明の技法を用いてこうなるのであるし、だから始末に終えません・・・w)
これを全称命題を用いて説明すれば「サンタクロースが実在しないのならば,サンタクロースが実在すると主張するのは正しい」が「恒真命題になってしまう」のと同様である、いや同様というよりはカリー命題よりももっと広い立場からの証言だと言ってくれていい。このことを論理規則によって「自己言及の禁止」「文中において命題真偽の表現を排除する」などで削いでいくのは容易いので後回しにしようと思い立ってやっているのが【UF論理学(未完)】なのだが?
そこでmodus ponens(前提を肯定するという操作を加えること)に登場していただくと、最初の話題における「¬Aを条件とする」というのは命題¬A⇒(A⇒B)にmodus ponensを施すことである!
そうしたら、確かに命題A⇒Bは否定されなくなってしまいます、しかるに、対偶命題¬(A⇒B)⇒Aの計算結果のひとつA⇒(¬B⇒A)にmodus ponensを施したら¬(A⇒B)⇔(A∧¬B)は含まれます。これは回りくどい計算による詭弁だと言われても仕方のない気もしますが、対偶命題をみたら一目瞭然とそこには前提としてA∧¬Bがあります。
UF論理学としたら、ここでこそ規則として「modus ponensを適用できない文は命題ではない」を獲得したいという運びとなりました・・・w)
そうなると¬A条件下に於けるA⇒Bという形式の文は対偶が命題ではなくなるわけです!
カリー命題「この文が正しいならば,A」の対偶は「Aでないならば,この文は間違い」ですから「Aでなくてこの文は間違い」という選択肢がないとしたらカリー命題は「対偶が存在しない」という意味で論理規則違反となるでしょう。このことは、今の今まで「対偶と元の命題とを一致させない」とモットーとしてがんばってきた未完成のUF論理学にとって痛し痒しですけど、とにかく未完成の強みで今後の課題として踏み越えてがんばっていきたい所存にあります。
それを説明するのには、まず真理値表を示してA is Tの場合だったらA⇒Bは「A is Tの場合にはB is TであればT」だが「A is TでB is FならばF」であると言い、次には「A is Fの場合にはB is TであろうとB is FであろうとT」と言い、その両者から「命題A⇒Bは¬Aが条件であればいつでもT」すなわち「恒真命題である」とやっていた。
さて、ここで「¬Aが条件」とはどういうことなのか?
それで命題A⇒Bに三段論法の大前提,もしくは十分条件として¬Aを付記したものが¬A⇒(A⇒B)だったとして計算してみると、
¬A⇒(A⇒B)
⇔
A∨(¬A∨B)
⇔
(A∨¬A)∨B
⇔
T∨B
⇔
T
めでたし、めでたし、かようにマニフェスト並びに共産党革命は共に恒真命題(どんな場面でも否定されない命題の意)だと証明されたぞ、ばんざい、とやってたのが数年前で、僕ら納得しないと腐されたもんです・・・w)
だって「A⇒Bはいつでも正しい,もしくは否定されない」ってゆー中身の証明じゃないもん!
そか、⇒で柔らかく結ぶから前提否定が出てきてややっこしくなるんだ、ならば∧で固く結んじまえば良いんではないカニ、とゆーわけで計算しなおせば、
¬A∧(A⇒B)
⇔
¬A∧(¬A∨B)
⇔
¬A
あれれっ、¬Aしか出てこないぞ、最初の式と同値だってことだったから¬A⇒¬Aが答えだ、もちろん、これを真理値表で点検しなおせばA⇒Bはその限りにおいて「いつでもT(真)」だというのは出てくる、出てくるけどなんだか物足りないもんな・・・w)
そこで「必要条件を否定できない」という意味でカリー命題性を疑ってみるとしましょう!
カリー命題というのは「この命題が真ならば,A」という意味を持った命題ですが、なんと、この種の言語を発されたとすると必要条件のAがどのような条件であろうと疑われなくなってしまうのだと聞く、もちろん「Aであろうと¬Aであろうと同じ」だということから矛盾を疑ってみるのだが、そこは文系の学問、ちゃんとアリストテレスの矛盾律に沿えば「それは矛盾ではない」で通ってしまう。
「この文が正しければ,サンタクロースが実在する」を条件付演繹という証明手段をとって考察することにすると、まず「この文を正しいと仮定する」ことから始まるので考察結果が「この文が正しければ,サンタクロースが実在する」となるのでトートロジー(同義反復)となって「この文は真であると証明された」「ゆえにサンタクロースは実在しなければならない」(証明終わり)
なお、これは自然演繹という論理学において許された正しい証明の技法を用いてこうなるのであるし、だから始末に終えません・・・w)
これを全称命題を用いて説明すれば「サンタクロースが実在しないのならば,サンタクロースが実在すると主張するのは正しい」が「恒真命題になってしまう」のと同様である、いや同様というよりはカリー命題よりももっと広い立場からの証言だと言ってくれていい。このことを論理規則によって「自己言及の禁止」「文中において命題真偽の表現を排除する」などで削いでいくのは容易いので後回しにしようと思い立ってやっているのが【UF論理学(未完)】なのだが?
そこでmodus ponens(前提を肯定するという操作を加えること)に登場していただくと、最初の話題における「¬Aを条件とする」というのは命題¬A⇒(A⇒B)にmodus ponensを施すことである!
そうしたら、確かに命題A⇒Bは否定されなくなってしまいます、しかるに、対偶命題¬(A⇒B)⇒Aの計算結果のひとつA⇒(¬B⇒A)にmodus ponensを施したら¬(A⇒B)⇔(A∧¬B)は含まれます。これは回りくどい計算による詭弁だと言われても仕方のない気もしますが、対偶命題をみたら一目瞭然とそこには前提としてA∧¬Bがあります。
UF論理学としたら、ここでこそ規則として「modus ponensを適用できない文は命題ではない」を獲得したいという運びとなりました・・・w)
そうなると¬A条件下に於けるA⇒Bという形式の文は対偶が命題ではなくなるわけです!
カリー命題「この文が正しいならば,A」の対偶は「Aでないならば,この文は間違い」ですから「Aでなくてこの文は間違い」という選択肢がないとしたらカリー命題は「対偶が存在しない」という意味で論理規則違反となるでしょう。このことは、今の今まで「対偶と元の命題とを一致させない」とモットーとしてがんばってきた未完成のUF論理学にとって痛し痒しですけど、とにかく未完成の強みで今後の課題として踏み越えてがんばっていきたい所存にあります。