1月6日が小寒で20日が大寒だから、暦の上では今が寒さの真っ盛り。
寒中見舞いを出すなら今だが、そんな時代もあったっけ、というのが実際だ。
私の記憶では、寒中見舞いを書いて出した覚えはない。
当世の使われ方としては、
喪中で年始の挨拶を欠礼し、寒中見舞いを兼ねて返礼する、という程度だろう。
生活から浮いて離れて、いつしか死語になるのだろう。
似た運命は暑中見舞い (残暑見舞い) にもある。
とんでもない時期に立秋があるものだから、
これから夏本番というときに <残暑> と書かなければならない不自然さ。
私が暑中見舞いを書かなくなって、もう40年近くなる。
底流には、文字離れ、手紙離れもあろうが。
今となっては手遅れだが、
太陽暦を採用した段階で、旧暦との差を調整する動きはなかったのだろうか。
古来の日本の文化は旧暦をベースにしており、
太陽暦と整合させようとすれば、一年間の戸惑いですんだのに。
姉妹ブログの 「季節のつぶやき」 は二十四節気を追いかけて書いているが、
丸一年 (今年の7月) を過ぎたら二十四節気の呪縛から放たれて(?)、
実際の季節の移ろいに即した葡萄舎歳時記になることだろう。
それにつけても、寒中見舞いが恥ずかしくなるような今冬の暖かさよ。
当ブログの親サイト 「葡萄舎彩々」 へもお越しください。
寒中見舞いを出すなら今だが、そんな時代もあったっけ、というのが実際だ。
私の記憶では、寒中見舞いを書いて出した覚えはない。
当世の使われ方としては、
喪中で年始の挨拶を欠礼し、寒中見舞いを兼ねて返礼する、という程度だろう。
生活から浮いて離れて、いつしか死語になるのだろう。
似た運命は暑中見舞い (残暑見舞い) にもある。
とんでもない時期に立秋があるものだから、
これから夏本番というときに <残暑> と書かなければならない不自然さ。
私が暑中見舞いを書かなくなって、もう40年近くなる。
底流には、文字離れ、手紙離れもあろうが。
今となっては手遅れだが、
太陽暦を採用した段階で、旧暦との差を調整する動きはなかったのだろうか。
古来の日本の文化は旧暦をベースにしており、
太陽暦と整合させようとすれば、一年間の戸惑いですんだのに。
姉妹ブログの 「季節のつぶやき」 は二十四節気を追いかけて書いているが、
丸一年 (今年の7月) を過ぎたら二十四節気の呪縛から放たれて(?)、
実際の季節の移ろいに即した葡萄舎歳時記になることだろう。
それにつけても、寒中見舞いが恥ずかしくなるような今冬の暖かさよ。
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