コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

報恩講 振り返り ~ 今

2009-01-17 22:50:50 | 真宗
前回、報恩講の1日目終了後に書いてから約一週間。
翌2日目にもいろいろと思いを馳せることはあったのですが、疲れていたり、その後気分的に落ち込んでいたりで、なかなか言葉にまとまりませんでした。

そのうち、その時々に感じたことも薄れて、日常にまぎれてしまうんですけどね。

そんな中、断片的に心に残っていることもあります。

順番が前後するんですが、一番最後に「報恩講の歌」を全員で歌わせてもらったのですが、私の少し前で歌にならずに号泣されている方がお二人。
とても尊い姿で、その歌に込められた「恩に報いる」心一杯で味合われていたのだと思います。
しかし、それを冷めながら見ていた私がいるんですね。

それはその号泣された方を冷めてみているのではなく、私自身のそのときの気持ちの問題で、「恩に報いる」心よりも、それまでの座談会で関わってきた方に心が捉われていたんです。

”縁”というものがあって、今この時間に偶然に顔をつき合わせている数名が、座談会という形で関わりあいます。
そこにはそれぞれの歴史がありながらも、「ここに居る」という動かしがたい事実があり、自分の力では「ありえなかった」ことの結晶なんですね。
この肉体が在るためには、産んでくれた親が必要ですし、育ててくれた家族もいれば、関わり合いになって自分を形成してきた教師や仲間もいる。
また、具体的に生きつづけるために奪ってきた「食べ物」という名の多くの命もある。

それを知ったことじゃないとは言わせません。

そうしてやっとこの場で法に出会えているというのに、まだ「今の自分じゃないもの」を探したり待ったりしている。
条件が整う、変化がある、心が動く…
そういう理想や想定されたものと今の自分を比べる。

そりゃあ、葛藤は生まれますよ。
理想と現実を埋めようとすればするほど、「これが到達点じゃない」と自分の内側を問題にしますから。

それだけならまだしも、その葛藤をして「求めている」「苦しんでいる」と、渦中にある自分を護ってしまう。
あるいは、そういう自分を横において「特に何も感じません」と想定どおりの自分にならないことから距離を置いて護ってしまう。

見当違いの方向に力を入れるか、失敗を恐れてじっとしているか。
それを突き詰めて、”空”になったり”無”になったりできれば、そこにも悟りの道はあるのでしょうが…

そこを選択して、拓いてくださったのが、宗祖の”易行道”なんですけどね。
出来上がっているものをいただく。
聞かせていただく、聴かせていただく、効かせていただく。
自力は無効で、がんばって捨てるのでもない。
自力が役に立たんという”知恵”の言葉を聞く。

そういうことを伝える力の無さを痛感するとき、一方では「よくそんなものを聞かせてもらえた」という喜びもあるのですが、そう自分のことを喜んでばかりはいられない複雑なものもあります。

力の無さ…
いや最初から力があるなどとは思っていないのですが、ひがみモードに入ってしまうと、「他の人ならばうまく伝えてあげてたんじゃないか」という気持ちに引きずられます。
自分は駄目じゃないかと。

そうなるともう恩徳も報恩もふっとんでしまう。
あぁ、やはりちっぽけなやつはちっぽけなままで、何かを成し遂げようなどとおこがましいことですね。

ひとり静かに、「南無」と帰っていくこともひとつの道ではありますが…
さてどうしたものやら。