松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

十日町市松代ー日独意匠を融合した住宅

2014年03月13日 21時01分27秒 | 日記
新潟県十日町市松代(まつだい)に不思議な住宅群がある。写真でみて、ぜひ一度現地に行きたくなった。

そこで春3月、車を飛ばした。

まつだい駅近くのほくほく街道をゆっくり走っていると、明るい壁がいきなり目にとびこんできた。



古い民家を改修したようだ。全体として和風をのこしながら、どこか異国風なのは1階の黄色が効いているからか。このあたりでは豪雪によって1階部分は雪に埋もれてしまうこともあるから、3階建てはめずらしいことではない。二階を入口にできる地域独特の構造だ。日本は広い。

隣の切り妻・妻入りの家は落ち着いた黄色に仕上げている。重厚感のある木製ドアが新潟の古民家と調和している。ドイツ人KARL BENGSさんの事務所だ。彼が松代にドイツ趣向の住宅を持ち込んで日本家屋とアレンジした。




市職員に聞くと、町はずれの雪深い竹所集落に日独融合の住宅がいくつかあるという。これはいかなければならない。車を向けると、たしかに細い山道が続く。一面白雪だ。と思ったら、突然鮮やかな紅が目に入った。ベンガラだ。紅白の対決は白黒の予定調和に慣れた雪深い地域の人にあっては、雪を溶かす情熱の太陽を思わせる希望かもしれない。

さらに雪の回廊を走ると、異景が登場した。



ドイツのメルヒェン街道にでもありそうな建物だ。しかし市職員の説明によれば、古民家を移築再生したものだという。たしかにいわれてみれば斜めの束がない。茅葺屋根を乗せればみごとな日本民家だ。美意識には個人差があるけれども、私はこれを美しいと感じた。

道路向かいの家もまた古民家を欧風に再生したようだ。屋根は頂を押しつぶして平にしたような形状になっており、もしかしたら以前は兜屋根だったのかもしれない。暖炉をおいているようで、煙突が目についた

さて竹所の一番高くに不思議な建造物があった。屋根が白っぽい。その上にはちょこんと小さな越屋根が乗っている。越屋根は近代日本の経済を支えた養蚕業の発展とともに全国に急速にひろまったものだ。換気目的だ。おそらく群馬の伊勢崎市島村や藤岡市高山あたりが発祥地だろう。私は旅先でこの越屋根をみると、どこか懐かしさとモシャモシャという蚕の葉噛み音を思い出す。



それはともかく白っぽい屋根はよくみると、シートだった。茅葺屋根をすっぽり覆っていた。シートカバーをすれば、雪は滑り落ちるし、貴重な茅もいたみにくい。いつの時代でも、ひとはそのときどきの材料や技術をとりいれながら家屋の維持をしてきたのだから、これは現代に生きる人の知恵なのかもしれない。

日本の古民家は地域のひとびとの生きるかたちを反映するとともに懐しい。後世に引き継いでいくべきだろう。
しかし若い人たちがそこに住み生活することを考えると、デザイン、間取り、設備が昔のままではいけないと思う。漆喰の真壁で束や梁をあらわしにした昔ながらの家は「蕎麦屋の建物みたいで嫌だ」と言った若い夫婦の声を思い出す。

あらたな日本のいえづくりを考えていくためには、地域の伝統とともに新しい文化を積極的にとりいれていかなければならないだろう。松代の建物群は日独の建築意匠を融合して止揚する萌芽を持つているような気がする。今後も注目し続けていくべきだろう。

震災後の住宅

2014年03月13日 08時17分01秒 | 日記
昨年3度被災地を歩いた目的のひとつは、何もなくなってしまった更地にどのような家ができて、どのような町並みがつくられようとしているのか観ることだった。というのは、古く美しい町並みをたくさん調べてきて、いくつかのことがわかったからだ。

かつての日本家屋にオール電化はあるはずもない。すべての家庭が枯木や草を燃料にしていた。家屋の材料も草木と泥でできていたから、ひとたび火がつけばよく燃えた。火事になりやすい条件が揃っていたわけだ。全国いたるところで古い資料をみれば、江戸から昭和初期くらいにかけて「大火」があったと記録されている。

いま私たちが眼にすることができる古く美しい町並みというのは、そうした「大火」後につくられたものが少なくない。災害後に統一したコンセプトでつくられた家々が年を経て美しさを増しており、観光資源になっている。個人的資産でもある。

各地を歩いて、私はそのことに気づいた。ならば、震災後に同じような動きが生まれていないだろうか。

そこで、昨年一人で二度、ある大学の関係者たちと一度被災地をまわった。しかし一つひとつの家が自己主張をし過ぎて色も形もバラバラで、萌芽さえみつからなかった。政治、行政、建築家、ディベロッパー、だれも「景観」を考えなかったのだろうか。

震災の後に

2014年03月10日 21時11分37秒 | 日記
震災後しばらく間をおいてから仙台湾の沿岸部を中心に何度か歩いた。北は南三陸から南は亘理町までだ。

仙台空港の東に真新しい寺があった。もしやと思い、墓地に立ち入ると、「平成二十三年三月十一日没」と刻まれた墓誌が多い。こんなに多くの人が亡くなったのか。

なかに七名の戒名を記した墓誌があった。年齢と名前からみると、祖父母、父母、子供三人らしい。全滅だったにちがいない。津波にさらわれた七人は辛かったろう。だが、それよりも生き残って、七人の供養をした身内の方はもっと辛かったのではないだろうか。

この寺の周りやもっと海よりのほうは、家の基礎がたくさん残っている。相当大きな集落だったようだ。しかし今は何もない。根こそぎ津波に持っていかれたのだ。一家全滅もあれば、子を失くした親もあるだろう。老人だけ、あるいは父親のみ残された家もあっただろう。

残された者はこれから耐えながらまだ長い日常を生きていかなければならない。そうした人たちのことを私は思う。

私はある必要から近代日本思想史に長く取り組んできた。そうした視角からは、震災は戦争と似通った側面があるような気がする。生死を分けたのは何か。それを単なる偶然ととらえ、生者は死者の志を受け継ぎ、平和的手段である経済活動に邁進したのが戦後日本だった。その結果が今日の繁栄だ。

震災後に生きる私たちもまた、戦後の先人たちと同様に、亡くなった二万有余の方々の志を引き継いでいくべきではないのだろうか。そうした思いにとらわれている。



磯崎新と山寺

2014年03月09日 21時40分15秒 | 日記
山寺立石寺の階段を上り詰めた。奥の院があった。これより上には堂はない。

あれ、おかしい。たしか岩壁にあいた窪みに放り込んだようなお堂があったはずなんだが。



すぐに記憶違いに気づいた。鳥取県の三仏寺投入堂と間違ったのだ。直前に、磯崎新の「語りなおし日本建築史」を読んだので、それにひきずられてしまったのだ。苦笑しなければならなかった。


山寺 立石寺

2014年03月04日 14時29分47秒 | 日記


山寺立石寺は大雪だった。社務所で長靴を借りて長い石段をのぼった。急だ。

奇岩や巨岩が連なる山の斜面にへばりつくように堂塔がいくつも建っている。



五大堂から見下ろすと、白雪に覆われた麓の集落を行き交う人の姿が小さな黒蟻に見え、水墨画のようだ。五大堂は断崖にもたせかけて建てられている。こうしたつくりは「懸け造り」と呼ばれ、山寺にはいくつかある。

山寺最古といわれる納経堂は切り立った崖の上に乗っている。




職人はたいへんだったろう。滑落事故も起きたかもしれない。いったいだれがどのような目的でこのような険地に堂宇を建てたのか。

寺伝によれば、天台座主の円仁が清和天皇の命を受けて貞観時代に創建したという。円仁の生涯をながめてすぐに気づいたのは、入唐時代の苦労ぶりだ。修行のまま行方しれずとなり、日本側では死亡説まで流れた。しかし円仁は中韓の人々に助けられながら、目的を果たして帰国した。その後は最澄に可愛がられ、天台宗の三代座主に就いた。

円仁が中国で修行したのは杭州に近い天台山だった。写真でみると、奇岩巨岩の山らしい。つまり円仁は若い修行時代、来る日もくる日も奇岩巨岩を眼にしながら宗教の核心に迫ろうとしていたわけだ。その後数十年が経つて、東北の地を歩きこの奇岩巨岩の山を観たとき、円仁はどう思ったろうか。

「似ている、ここだ、ここを開こう」そう考えたにちがいない。円仁は強い衝動をおぼえたはずだ。

ところで清和天皇の命とはどんなものだったのか。当時の為政者が仏教に求めていたのは「鎮護国家」であったから「東北の地に開山せよ」との命は庶人救済ではなく、東北平定を目的にしていたにちがいない。

そうして開かれた山寺は多くの人を集めてきた。すでに1100年以上たったいま、私たちの眼にうつる山寺は鎮護国家の拠点ではないし、庶民救済の霊場でもない。宗教的性格は希薄になりつつも、一大観光地として年間80万人くらいの人を集め、門前の集落を潤している。

それを可能にしたのは古びて美しさを増した建築物だとはいえないだろうか。