松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

山寺 立石寺

2014年03月04日 14時29分47秒 | 日記


山寺立石寺は大雪だった。社務所で長靴を借りて長い石段をのぼった。急だ。

奇岩や巨岩が連なる山の斜面にへばりつくように堂塔がいくつも建っている。



五大堂から見下ろすと、白雪に覆われた麓の集落を行き交う人の姿が小さな黒蟻に見え、水墨画のようだ。五大堂は断崖にもたせかけて建てられている。こうしたつくりは「懸け造り」と呼ばれ、山寺にはいくつかある。

山寺最古といわれる納経堂は切り立った崖の上に乗っている。




職人はたいへんだったろう。滑落事故も起きたかもしれない。いったいだれがどのような目的でこのような険地に堂宇を建てたのか。

寺伝によれば、天台座主の円仁が清和天皇の命を受けて貞観時代に創建したという。円仁の生涯をながめてすぐに気づいたのは、入唐時代の苦労ぶりだ。修行のまま行方しれずとなり、日本側では死亡説まで流れた。しかし円仁は中韓の人々に助けられながら、目的を果たして帰国した。その後は最澄に可愛がられ、天台宗の三代座主に就いた。

円仁が中国で修行したのは杭州に近い天台山だった。写真でみると、奇岩巨岩の山らしい。つまり円仁は若い修行時代、来る日もくる日も奇岩巨岩を眼にしながら宗教の核心に迫ろうとしていたわけだ。その後数十年が経つて、東北の地を歩きこの奇岩巨岩の山を観たとき、円仁はどう思ったろうか。

「似ている、ここだ、ここを開こう」そう考えたにちがいない。円仁は強い衝動をおぼえたはずだ。

ところで清和天皇の命とはどんなものだったのか。当時の為政者が仏教に求めていたのは「鎮護国家」であったから「東北の地に開山せよ」との命は庶人救済ではなく、東北平定を目的にしていたにちがいない。

そうして開かれた山寺は多くの人を集めてきた。すでに1100年以上たったいま、私たちの眼にうつる山寺は鎮護国家の拠点ではないし、庶民救済の霊場でもない。宗教的性格は希薄になりつつも、一大観光地として年間80万人くらいの人を集め、門前の集落を潤している。

それを可能にしたのは古びて美しさを増した建築物だとはいえないだろうか。