松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

卯建を競う・・・・・岐阜県美濃市

2014年03月23日 18時25分50秒 | 日記
岐阜県美濃の市街地を歩きはじめてすぐに気づいたのは「卯建(うだつ)」だった。切妻屋根の妻側の壁を屋根より高くして、その上に小さな瓦屋根をかけてある。隣家からの類焼を防ぐためのものだといわれる。



卯建じたいは古い町屋などにはしばしば見られるもので、とりたてて珍しいものではない。しかしここのは規模と意匠において他にまさっている。空にむかって優雅な弧をえがく「むくり」のものもあれば、卯建の先に化粧瓦をつけたものもある。化粧瓦は鬼瓦・破風瓦その下に懸魚瓦という三段構造になっている。カネと手間をかけている。美濃の商家は競ったにちがいない。実用をこえて見栄を張りあっている。部屋の造作や中庭にもふんだんにカネをつかっている。町並みがじつに見応えある。



「このカネはどこからきたのか」ふと思った。

美濃にカネを落としたのは「紙」だった。すでに奈良時代には作りはじめており、地域には生産・流通ノウハウが豊かに蓄積されていた。江戸時代になって生活レベルが全体的にあがると、消費地も用途も増えた。「みのがみ」はとくに障子紙に使われ全国的な代名詞になった。各地の生産地間のはげしい競争に勝ち抜いて、美濃は富をたくわえた。資料によればそう読める。


美濃和紙ブランド協同組合の「武井工房」より転載


だがどこかおかしい。私はやはり1300年の伝統をもつ有名な和紙産地の職人の生活をすこし知っているが、みな貧しい家に住んでいた。家族経営の紙漉きにまではカネは分配されなかったのだ。

美濃の紙つくりの特徴は原料のコウゾやミツマタを供給する後背地を持たなかったことにある。そこで活躍したのが原料を仕入れて零細農民や職人に卸す紙問屋だった。さらに紙問屋はできあがった紙を農民や職人から買い取って流通網にのせた。資金力をもった問屋は弱い立場の農民・職人を相手に優位な商いを二度できた。



くわえて美濃の紙商人は中山道はじめ陸運にめぐまれ、豊かな水量をほこる長良川舟運にも恵まれて、運送コストをおさえることができた。自然、莫大な富を手に入れたのだった。



いま私の目に映っている「卯建」の家の多くは元紙問屋のようだ。たしかに美しい町並みだ。意匠はじめ学ぶべき点は多い。しかし、あるべき庶民の住宅をさがしている私にとっては受け入れられないこともまた多かった。