松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

飛騨高山  根づくみやこの建築文化 

2014年03月26日 23時34分11秒 | 日記
飛騨高山をたずねた。江戸期以降は城下町として、また飛騨地域の商業の中心としても栄えた。狭い通りをはさむ両側の町家は軒が低い。切妻屋根の平入りだ。2階の桁が1階のよりも前にぐっと出ているのは、2階屋根の雪をそのまま下まで落とすためだろう。おもしろいのは用水の位置だ。落雪がそのまま入るような仕組みになっている。まるでカラクリだ。桁先を白く塗るのは、高山郊外の集落や隣の飛騨市古川町にも見られ、飛騨地方の特徴になっている。洗練された意匠、手の込んだ町家が色やかたちをそろえて密集しているのは、さすがだ。



意外かもしれないが、飛騨は奥深い山間地にありながら最新の建築文化に接していた。たとえば奈良時代の757年に制定された養老令には「人頭税を免除するかわりに里ごとに10名の匠丁を都にさしだせ」とあり、はやくもこの時代に飛騨は都の建築文化の担い手であったことが知れる。かれら匠は宮殿の造営や修理を受け持ち、その技量は朝廷に保証されるものだった。

飛騨の工は絵師・百済川成との芸術対決において、まずカラクリ建築によって川成を当惑させたけれども、つぎは逆に川成の描いた生々しい死体の襖絵に仰天させられたという愉快話が、「今昔物語」にのっている。これなどは、芸術の一分野たる建築界において、飛騨匠はトップの座にあったことを物語っており、まことに興味深い。

飛騨高山の巧妙なからくりや洗練された意匠の町家は、そうした永年のすぐれた建築文化の伝統のもとにつくられたといってよい。