丹後の宮津と舞鶴。隣り合わせだ。ともに日本海からの入口をきゅっとすぼめた巾着のような湾を形成しており、近世から明治ころまでは北前船の寄港地として栄えた。どちらの町が大きかったのか、頼れる資料は手元にないが、もしかしたら宮津のほうが栄えていたかもしれない。

しかし今や差は歴然としている。舞鶴のほうが人口は4倍ほど大きい。町を歩いてみても活気がちがう。その差は何に由来するのか。かつて大きな富をもたらした北前船に注目してみよう。
北前船(弁財船)が栄えたのは、まず地域間の価格差をうまく利用したことだった。産地で安く買い取った商品を消費地に運び高く売りつける。いまとちがって地域ごとの実売価格が知られないから、うまくやれば暴利をむさぼることができた。
もうひとつは安全な航路があらたに開発されたことだった。海路を使えば、大型の弁財船
は約150トンの荷物を、コストのかからない風力だけで早く運ぶことができた。しかも乗組員はわずか10数名だった。人馬による従来の運送力は馬1頭で約135キロであるから150トン運ぶには千数百頭を要し、しかも大量の馬方も必要としたことを考えると、海の道が陸の道よりいかに低コストだったかわかるだろう。
「海はもうかる」。そうしたビジネス情報にふれたひとたちは海辺に住む者も奥山に住む者も廻船ビジネスに競うように投資した。盛期には、日本海を行き交う廻船だけでも数千隻あったのではないか。
宮津にも舞鶴にも毎日多くの北前船が寄港し、船員相手の宿・遊郭、食材や燃料卸、補修の船大工・鍛冶屋、地元産品を高く売り込み他地域産品を安く買い取ろうともくろむ問屋などが発達した。一般に、船主は投資家でありみずからも問屋でもあったから、その居宅は資金力にものをいわせた豪壮なものとなった。
しかし明治以降、海の道は急速にすたれた。鉄の道に敗れたのである。鉄道は天候に左右されずに、時間に正確に、大量の荷物を、安全に輸送できたからだった。宮津も舞鶴も北前船の寄港地としてではなく産業構造をあらたに構築する必要に迫られた。

しかし天運は舞鶴にくだった。軍港として選ばれたのである。宮津の名誉のためにいっておくと、それは宮津が軍港招致活動という人的努力においてやぶれたということではない。砂が堆積して遠浅の、天の橋立のある宮津湾は風光明媚ではあるが、竜骨を持って喫水線の深い軍艦(洋船)が出入りするには不適だった。船底が海底をこすってしまう。宮津港は水深が浅いから、深い舞鶴港には勝てなかったのである。
宮津と舞鶴が隣り合わせでともに往時は栄えながら、近代以降の経済発展が大きく分かれたのは、たんに水深の差という自然的条件にあったといってもよい。

夕刻、舞鶴にて、まずビジネスホテルをとって外にでた。どしゃ降りだ。アーケード街に駆け込み、構えのしっかりした「池屋」にとびこんだ。店主の風貌をみて思わずぎょっとした。おそるおそる注文した品はしっかり作られている。こわいがうまい。雨足が強く客は入って来ない。しだいに熱燗がまわって気も大きくなったので、店主に話しかけた。意外にも話し好きだった。笑うと目と顔がやさしい。舞鶴を、丹後を愛する人だった。うまかった、楽しかった。強雨という自然的条件で貸切状態になったのは、まさに天運ともいうべきものだった。

しかし今や差は歴然としている。舞鶴のほうが人口は4倍ほど大きい。町を歩いてみても活気がちがう。その差は何に由来するのか。かつて大きな富をもたらした北前船に注目してみよう。
北前船(弁財船)が栄えたのは、まず地域間の価格差をうまく利用したことだった。産地で安く買い取った商品を消費地に運び高く売りつける。いまとちがって地域ごとの実売価格が知られないから、うまくやれば暴利をむさぼることができた。
もうひとつは安全な航路があらたに開発されたことだった。海路を使えば、大型の弁財船
は約150トンの荷物を、コストのかからない風力だけで早く運ぶことができた。しかも乗組員はわずか10数名だった。人馬による従来の運送力は馬1頭で約135キロであるから150トン運ぶには千数百頭を要し、しかも大量の馬方も必要としたことを考えると、海の道が陸の道よりいかに低コストだったかわかるだろう。
「海はもうかる」。そうしたビジネス情報にふれたひとたちは海辺に住む者も奥山に住む者も廻船ビジネスに競うように投資した。盛期には、日本海を行き交う廻船だけでも数千隻あったのではないか。
宮津にも舞鶴にも毎日多くの北前船が寄港し、船員相手の宿・遊郭、食材や燃料卸、補修の船大工・鍛冶屋、地元産品を高く売り込み他地域産品を安く買い取ろうともくろむ問屋などが発達した。一般に、船主は投資家でありみずからも問屋でもあったから、その居宅は資金力にものをいわせた豪壮なものとなった。
しかし明治以降、海の道は急速にすたれた。鉄の道に敗れたのである。鉄道は天候に左右されずに、時間に正確に、大量の荷物を、安全に輸送できたからだった。宮津も舞鶴も北前船の寄港地としてではなく産業構造をあらたに構築する必要に迫られた。

しかし天運は舞鶴にくだった。軍港として選ばれたのである。宮津の名誉のためにいっておくと、それは宮津が軍港招致活動という人的努力においてやぶれたということではない。砂が堆積して遠浅の、天の橋立のある宮津湾は風光明媚ではあるが、竜骨を持って喫水線の深い軍艦(洋船)が出入りするには不適だった。船底が海底をこすってしまう。宮津港は水深が浅いから、深い舞鶴港には勝てなかったのである。
宮津と舞鶴が隣り合わせでともに往時は栄えながら、近代以降の経済発展が大きく分かれたのは、たんに水深の差という自然的条件にあったといってもよい。

夕刻、舞鶴にて、まずビジネスホテルをとって外にでた。どしゃ降りだ。アーケード街に駆け込み、構えのしっかりした「池屋」にとびこんだ。店主の風貌をみて思わずぎょっとした。おそるおそる注文した品はしっかり作られている。こわいがうまい。雨足が強く客は入って来ない。しだいに熱燗がまわって気も大きくなったので、店主に話しかけた。意外にも話し好きだった。笑うと目と顔がやさしい。舞鶴を、丹後を愛する人だった。うまかった、楽しかった。強雨という自然的条件で貸切状態になったのは、まさに天運ともいうべきものだった。
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