松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

和井内貞行伝説の成立・・・十和田湖

2014年09月06日 07時37分02秒 | 日記
高瀬博「われ幻の魚をみたり」が鹿角先人顕彰館から届いたので、さっそく目をとおした。和井内貞行と久原房之助との関係について記述がないのは当然としても、和井内が十和田湖での魚類養殖をこころざした動機や小坂鉱山退職の理由などを明らかにするための信頼性できる記述も、残念ながら、なかった。ただ、読みすすめると、予期していなかった別の興味深い問題が浮かび上がってきた。

和井内が郷土の偉人になった、すなわち「和井内貞行伝説」が生まれたのははなぜかという問題である。

和井内が十和田湖に放ったカバチェッポ(ヒメマス)の稚魚が3年の間に大きく育ち群れをなして帰ってきたのは明治38年の秋だった。養殖をこころざしてからじつに22年間、貞行の苦難の歩みをおもえば、さすがにこの成功には私も感動する。しかしこれだけでは和井内が「偉人」となることはありえなかった。

「やった、ついにやった」と貞行が家族とともによろこんでいたかたわらで、十和田湖畔集落の人たちはあえいでいた。この年は冷たいヤマセが吹き凶作だったため、米どころかヒエ、アワまでもとれず、飢えに苦しんでいたのだった。その窮状をみかねたカツ子は「魚をわけてあげてください」と貞行に頼みこんだ。十和田湖の漁業権を持っていた貞行も承諾し、約50の全戸に「マスをとつていい、売ったカネは自由に使ってくれ」と告げた。とったヒメマスは11771尾、その売上金およそ1300円はすべて集落民の生活費にあてられ、苦境を救った。ひとびとはどれほどありがたくおもったことだろうか。昨日まで嘲笑、中傷した相手から無償で助けられたのだ。貞行は成功して立場を逆転させながら、いわば「仇」に「仇」ではなく「恩」によって報いた。このときを境にして、貞行は「和井内さん」「旦那さん」と敬意をもって呼ばれるようになったという。ここに「和井内貞行伝説」は生まれはじめた。

翌39年11月、和井内の名前は全国に知れわたった。事業の成功が官報に紹介されたのだ。和井内もよろこんだろう。しかしここまでが明の部分であり、これからは明と暗がめまぐるしく交代する。暗はまず12月におとずれた。先祖からの田畑を切り売りしながら息子を応援しつづけた父・治郎右衛門が逝去した。さらにつづいた。まだ哀しみが癒えない翌40年5月に、今度は貞行の精神をもっとも深く支えていた妻カツ子が倒れた。のこされたのは幼子をふくむ9人の子どもだった。これでは貞行でなくても途方にくれたろう。

ただ暗ばかりではない。カツ子の亡くなったわずか10日後には緑綬褒章を授与するとの連絡が届いている(このとき真珠養殖の御木本幸吉と二人が受章している)。よろこびと哀しみ、明と暗が交互に貞行とその家族を翻弄している。

こうしたとき十和田湖畔や毛馬内のひとたちはどうみただろうか。もしも和井内がとんとん拍子に慶事を重ねていただけならば、せっかくめばえはじめた和井内貞行伝説もいずれ消えていったようにおもわれる。鹿角の人々がというのではなく、もともとひとは成功者をほめるときにもじつは足をひっぱる嫉妬など負の感情を隠しているものだ。事業に成功しただけでは「偉人」とはよばれない。

「偉人」と呼ばれるのは、人々と同じ場所に立ちながら、紙一重でそこをこえていく人である。和井内は成功して国がお墨付を与えてくれても、人々を見返そうとせず明るくはげましながらその果実を分配してあげ、さらに自身は何度も不幸にみまわれながら黙って耐えていた。同じ人間だからできそうでありながら、じつはできることではない。和井内はすぐ隣にいるのにけっして手が届かない。そのことが人々の心にしみわたり、負の感情をきれいに浄めた。ひとをこえる畏い人、和井内のことをそうとらえはじめたのだろう。

ヒメマスが帰ってきた明治38年秋から、妻・カツ子死去わずか10日後に緑綬褒章を受けた40年5月までの2年余の期間に、「和井内貞行伝説」はこのようにして成立したのだった。

むろん明治維新後の国是はあらたな産業を興すことであり、また列強国民なみの体格をつくるための「肉」の確保でもあったから、魚肉を安定的に供給する増養殖事業に成功した貞行の歩みは、ある意味政府に利用されたといえるかもしれない。しかしそうしたことを割り引いてもなお十和田湖周辺の人々の和井内称賛はなくならなかったろう。

和井内のしたことは養殖事業だけではなかった。旅館をつくり、ヒメマスの加工品を開発し、観光チラシをつくり、まず皇族・学者・官僚・政治家を十和田湖に招いてその美しさにふれてもらった。十和田湖観光開発という行政や観光協会のなすべき役割を独力でおこなったわけである。かれの胸中には、おれひとりがよくなることなどありえない、みんなで一緒によくなろうではないかという、「私」を「公」に開いていこうとする強い火種が燃えつづけていたとおもわれる。かつては厳しい自然環境のもとで零細な農業に従事するしかなかった十和田湖畔の人々は、ヒメマス養殖の成功後、しだいに漁業や観光サービス業にかかわって生きられるようになった。和井内の強い火種がみごとに地域産業を変えた。人々は感謝して余りあるだろう。

和井内貞行の伝記をよんだ小学生のときには、ヒメマスが真っ赤に湖面を染めて帰ってきた美しい場面がいちばん好きだった。しかし今ではなぜ和井内は尊敬されるにいたったのかという点に関心が移っている。それは零細とはいえ、私が経営者として「事業とは何か」と自問しつづけていることと関係しているかもしれない。もちろん事業を志す人にとっては成功こそ一番の勲章である。和井内にしても、いくら努力していても成功しなければその名前はとうに消え去って今に残っていないだろう。しかし成功さえすればほんとうに満足できるのか。私の利益を追求していきながらどこかで公の利益につながらなければいけないのではないだろうか。

十和田湖畔の人々はカツ子が亡くなると命を祭神とする神社を創り(カツ子についてはいずれふれてみたい)、貞行が逝くと合祀してずっと守ってきた。この和井内神社は、和井内貞行(カツ子も)という人を十和田湖畔の人々がどうとらえたか今に語りついでいる。


十和田湖    十和田国立公園協会HPより転載

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