上級武士の屋敷町だった
和井内貞行夫妻の墓は毛馬内の仁叟寺にある。見てみたいというと、「案内しますよ」と鹿角先人顕彰館の小田嶋館長がおっしゃったので、ご厚意に甘えることにした。仁叟寺は顕彰館すなわち和井内本家からまっすぐ歩いて数分である。この通りは元は上級武士の屋敷町であった。
境内は赤や黄色の木々が美しい。寺の横が墓地になっている。斜面の一番上には立派な墓がある。藩主の墓だという。和井内家の墓地は上段にある。家老職であったからだろう。数年前にカロウトを新しくしたようだ。戒名をみると、貞行は「開湖院」。なるほど魚ではなく十和田湖を開いた偉人として、当時の住職は考えていたのだろう、絶妙だ。
私のような外部の者にはわからないが、鹿角地方のひとにとって十和田湖はアイデンティティーなのかもしれない。内藤湖南の「湖南」とは十和田湖の南部の意味であるし、その父「十湾」とはそのままずばり十和田湖のことなのである。
ところで、和井内貞行の享年をみて、はっとした。五十八歳と刻まれている。あれ、たしか六十をこえていたはずだったが。いま自宅で調べてみたら、やはり享年は六十五歳である。これは何かのまちがいではないだろうか。もうひとつ、妻のカツ子は正確にはどうも「カツ」だったようだ。
和井内家の墓のそばに内藤家のもある。これをみて気づいたのは、死者はずっと仏になっていたのに半世紀ほど前から「翁」や「大人」など神に変わっていることだった。深入りはさけるが、湖南の思想が一族に影響をおよぼしたものであろうか。そうだとすればどのようなかたちをとって影響したのだろうか。
曹洞宗仁叟寺
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