東京都交響楽団「作曲家の肖像」シリーズ Vol.102〈北欧〉
2015年4月29日(水・祝)14:00~ 東京芸術劇場コンサートホール A席 1階 B列 17番 4,800円
指揮: アイヴィン・オードラン
ソプラノ: 小林沙羅*
管弦楽: 東京都交響楽団
コンサートマスター: 四方恭子
【曲目】
アルヴェーン: 祝典序曲 作品25
ニールセン: 序曲「ヘリオス」作品17
シベリウス: 交響詩「フィンランディア」作品26
グリーグ: 劇音楽「ペール・ギュント」(抜粋)
婚礼の場で/花嫁の略奪とイングリッドの嘆き(組曲版)/山の魔王の広間にて(組曲版)/
山の魔王の娘の踊り/オーセの死(組曲版)/朝のすがすがしさ(組曲版)/アラビアの踊り/
アニトラの踊り(組曲版)/ソルヴェイグの歌*/ペール・ギュントの帰郷/難破/
小屋でソルヴェイグが歌っている*/夜の情景(冒頭のみ)/
ソルヴェイグの子守歌(独唱と管弦楽のみ)*
どういうわけか滅多に聴きに行くことがない東京都交響楽団を久しぶりに聴く。別に嫌っているわけでも拒んでいるわけでもないのだが、都響の会員にはなったことがないのである。本当に特に理由はないので、日程やプログラムの傾向など、単に相性がよくないだけなのであろう。都響には4つの定期シリーズがあるが、今日のコンサートはそのうちのひとつ「作曲家の肖像」シリーズで、ひとりの作曲家に焦点を当てたプログラムを組んで、東京芸術劇場コンサートホールで開催されている。ところがこのシリーズも2015年度をもって終了になるということだ。
今回はひとりの作曲家ではなく、「北欧」というテーマで、スウェーデンのアルヴェーン、デンマークのニールセン、フィンランドのシベリウス、ノルウェーのグリーグと、見事に北欧の作曲家を並べている。目玉となるのは、やはり後半に演奏されるグリーグの「ペール・ギュント」であろう。
実は前の週には東京フィルハーモニー交響楽団が3つの定期シリーズで「ペール・ギュント」の劇音楽の全曲版演奏を予定していて、私もけっこう楽しみにしていたのだが、指揮者のミハイル・プレトニョフさんの急病により公演自体が中止となってしまった。2週続けて「ペール・ギュント」を聴くという、かなり珍しい体験が結果的にできなくなったのはとても残念であった。その分だけ、今日のコンサートに期待することになった。今日は同時刻にN響オーチャード定期があり、どちらを聴くべきか大いに迷ったのだが、都響の会員になっている友人から2列目ソリスト正面の席を譲っていただけることになったので、小林沙羅さんのソルヴェイグを聴くことにしたという次第である。
指揮者のアイヴィン・オードランさんはノルウェーの指揮者で、聴くのは初めてだ。北欧の4人の作曲家の4作品ということなので、いずれも得意としているのだろう。
1曲目はアルヴェーンの「祝典序曲」。この作曲家の作品が日本のオーケストラの定期演奏会のプログラムに載ることは非常に稀だろう。私も記憶の中に思い当たらない。調べてみたら、2012年11月の読売日本交響楽団の名曲シリーズで、故ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス氏がバレエ組曲「山の王」から「羊飼いの少女の踊り」という曲を採り上げていた。といってもまったく覚えていない・・・・。「祝典序曲」はノーベル賞の授賞式などで演奏される5分半くらいの式典用序曲である。金管による華やかなファンファーレに始まり、主部はポロネーズ風の雄壮な曲想となり中間部は伸びやかな旋律が特徴的だ。都響は金管群も上手いし、弦楽のアンサンブルもガッチリしているので、引き締まった華やかな演奏となった。ただ。このような派手な曲でティンパニと大太鼓に活躍されてしまうと、ステージ間近で聴いていると打楽器系の音圧で持っているプログラムが共振するほど。ズシンズシンと響いて来て鼓膜を圧迫するのが気になってしまった。
2曲目はニールセンの「序曲『ヘリオス』」。演奏会用序曲なので、特定の物語を描いたものではないが、ニールセンがギリシャに旅行した際にエーゲ海の太陽を見て触発されて作られた。ギリシャ神話の太陽の神にちなんで「ヘリオス」と名付けられた。静寂と暗闇の中から太陽が昇り世の中を明るく照らしてやがて海へと沈んでいく様を描いているという。12分ほどの作品なので、序曲と言うよりは交響詩に近い。澄みきった弦楽のアンサンブルを基本に、木管・金管・打楽器が乗り、ダイナミックレンジの広い、劇的な演奏となった。全体的にクセのない音質で、各楽器が純度の高い音質で演奏することによって、北欧風の透明感も感じられたし、またエーゲ海の眩しい陽光の煌めきも感じられるなど、質感の高い演奏であったと思う。
3曲目はシベリウスの交響詩「フィンランディア」。ことさら劇的な表現を狙ったような演奏ではなかったと思うが、曲が曲だけに、自然に盛り上がってしまう。
序奏部分は淡々とテンポを崩さず、主部に入ると推進力を強く押し出した演奏に変わった。打楽器系がやや強めに感じられたが、これは曲を劇的に盛り上げるのと、推進力を高めるのに効果的だった。中間部の「平和の賛歌」の部分もインテンポで比較的サラリと流しているようにも感じられたが、前後の部分がダイナミックレンジの広い劇的な仕立て方(とくに打楽器の活躍)であったために、対比の効果は明瞭になっていた。この曲は、北欧の指揮者の方がむしろ普通に演奏するようである。日本の指揮者の方が意識して劇的な仕上がりを求めているようにも感じられるのである。
後半は、グリーグの劇音楽「ペール・ギュント」を抜粋で。ご存じのように、この曲は、ノルウェーの大劇作家イプセンの戯曲『ペール・ギュント』のために作られた劇付随音楽であり、全曲を通すと85分ほどになる。グリーグ自身は出来上がりに不満があったらしく、改訂を繰り返すことになる。その課程で「組曲第1番 作品46(1891年)」と「組曲第2番 作品55(1892年)」が生まれている。組曲はそれぞれ4曲ずつで構成され、いずれも非常に有名な楽曲となっていて、誰でもどこかで聴いたことがあるに違いない。今日の演奏では、ソプラノ独唱の小林沙羅さんが加わる形になり、劇音楽版と組曲版のスコアを取り混ぜて行われた。これは指揮者のオードランさんによる編曲で、過去にも同じ形で演奏しているのだという。
「婚礼の場で」は劇音楽版で第1幕への前奏曲に当たる。劇への導入効果のある活気溢れる主部、中間部ではヴィオラのソロがあり、また「ソルヴェイグの歌」の旋律も現れる。「ペール・ギュント」は「朝」から始まると勘違いしていたがそれは組曲第1番である。
「花嫁の略奪とイングリッドの嘆き」は第2幕への前奏曲。今日は組曲版での演奏だ。「イングリッドの嘆き」の主題はベートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章を想起させる旋律。
「山の魔王の広間にて」は誰でも知っている有名な曲だ。組曲版での演奏なので、私たちもいつも聴いているものだ。徐々にテンポが速くなっていき管弦楽も次第に盛り上がっていく。
「山の魔王の娘の踊り」は第2幕の中の曲で、組曲版には入っていない。シロフォンが活躍する。
「オーセの死」も有名な曲だ。第3幕の前奏曲に当たる弦楽合奏曲。今日は組曲版での演奏。微妙な不協和音を含んだ和声が重苦しい雰囲気を生み出している。オーセはペール・ギュントの老いた母。
「朝のすがすがしさ」も誰でも知っている名曲だ。第4幕への前奏曲に当たり、原作ではサハラ砂漠の朝の雰囲気を描いたものである。この朝のイメージは普遍性を持っているようで、テレビ等でも朝の場面でいやというほど使われている。今日は組曲版の演奏による。
「アラビアの踊り」は第4幕の中の1曲で、女声二部合唱と独唱(アニトラ)が加わる。今日は組曲版なのでもちろん管弦楽のみ。
「アニトラの踊り」も第4幕で前曲に続く1曲でこれもまた有名な曲だ。アニトラが踊る妖艶な舞曲である。組曲版を使用。
「ソルヴェイグの歌」も第4幕の曲。今日はソプラノ独唱付きなので、劇音楽版を使用している。ノルウェー語の歌詞についてはまったく分からないし、発音についても同様だ。「朝」に次いで有名な曲だろうか。演奏会でもソプラノ独唱曲としてしばしば採り上げられるので、お馴染みでもある。
「ペール・ギュントの帰郷」は第5幕への前奏曲に当たり、海で船が嵐に翻弄される様子を描いている。組曲版にはない部分で、劇音楽版を使用している。
「難破」も第5幕で前曲に続く場面を描いている。
「小屋でソルヴェイグが歌っている」も第5幕で、ペールの帰りを待つソルヴェイグが歌う場面。同じ旋律(ソルヴェイグの主題)である。もちろん劇音楽版から。
「夜の情景」も第5幕で、合唱や台詞が加わる曲だが、今日はそれらの登場しない冒頭のみが演奏された。
「ソルヴェイグの子守歌」は第5幕、この劇音楽の終曲で、本来は合唱や台詞も入るが、今日はソプラノ独唱と管弦楽のみの演奏であった。
そもそもクラシック音楽分野での「劇付随音楽」というものを、「劇」を観ながら聴いたことがないので、なかなかイメージが掴みにくいものである。純粋に音楽として聴くなら、演奏会形式のオペラやオラトリオに近いイメージだろうか。東京フィルで『ペール・ギュント』全曲版を聴いていたら、また別の理解の仕方のあったのだろうと思う。
今日の『ペール・ギュント』は、劇音楽をおよそ半分の長さに抜粋して50分弱の演奏であった。それだけでもあまり聴けない体験である。組曲版は何度も聴いたことはあるが・・・。演奏自体は、技術的には定評のある都響であるし、オードランさんは全体的には緻密に音楽を組み立てつつも、クライマックスの場面では、打楽器を豪快に鳴らせるなど、劇的な効果を盛り上げるのが堂に入っている。また歌唱が加わる部分での弱音のコントロールも丁寧で、細部まできちんと創り上げられていたようである。
さて、最後に今日の演奏でソプラノ独唱を受け持った小林沙羅さんについても触れておこう。結局、『ペール・ギュント』の後半からの登場で、純白のドレスは花嫁衣装のように、清楚でいて艶やか。ステージでの所作も上品で清々しい印象であった。歌ったのは「ソルヴェイグの歌」「小屋でソルヴェイグが歌っている」「ソルヴェイグの子守歌」の3曲である。いずれも哀しく切なげな情感に満ちた曲であるが、沙羅さんの歌唱は透明感のある美しい声が切々とした情感を描き出していた。その歌唱には清潔感があり、聴く者の心が洗われるようである。とくに有名な「ソルヴェイグの歌」では、ノルウェー語の主部の嘆き・哀しみの情感と、中間部の母音唱法の爽やかな明るさとの対比が、素直で優しい雰囲気を醸し出していて素晴らしかったと思う。また「ソルヴェイグの子守歌」も哀しみを秘めて優しく歌う曲であり、しっとりとした情感が込められていて、秀逸であった。
久しぶりに聴いた都響であったが、やはり演奏の水準は高く、とくに弦楽のアンサンブルがピタリと合っているのはさすがである。ホルンが時折揺れていたのがちょっと気になったが、管楽器群も水準は高く素晴らしい質感を出している。大変上手いとは思うし、本来ならもっと聴くべきオーケストラなのだが、どういうわけか今後もあまり予定に入っていない。まあ、私の場合は(自分にとっての)良い席が取れなければ聴きたくならないので、熱烈なファンの多い都響の定期シリーズにはなかなか食い込めないようである。
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2015年4月29日(水・祝)14:00~ 東京芸術劇場コンサートホール A席 1階 B列 17番 4,800円
指揮: アイヴィン・オードラン
ソプラノ: 小林沙羅*
管弦楽: 東京都交響楽団
コンサートマスター: 四方恭子
【曲目】
アルヴェーン: 祝典序曲 作品25
ニールセン: 序曲「ヘリオス」作品17
シベリウス: 交響詩「フィンランディア」作品26
グリーグ: 劇音楽「ペール・ギュント」(抜粋)
婚礼の場で/花嫁の略奪とイングリッドの嘆き(組曲版)/山の魔王の広間にて(組曲版)/
山の魔王の娘の踊り/オーセの死(組曲版)/朝のすがすがしさ(組曲版)/アラビアの踊り/
アニトラの踊り(組曲版)/ソルヴェイグの歌*/ペール・ギュントの帰郷/難破/
小屋でソルヴェイグが歌っている*/夜の情景(冒頭のみ)/
ソルヴェイグの子守歌(独唱と管弦楽のみ)*
どういうわけか滅多に聴きに行くことがない東京都交響楽団を久しぶりに聴く。別に嫌っているわけでも拒んでいるわけでもないのだが、都響の会員にはなったことがないのである。本当に特に理由はないので、日程やプログラムの傾向など、単に相性がよくないだけなのであろう。都響には4つの定期シリーズがあるが、今日のコンサートはそのうちのひとつ「作曲家の肖像」シリーズで、ひとりの作曲家に焦点を当てたプログラムを組んで、東京芸術劇場コンサートホールで開催されている。ところがこのシリーズも2015年度をもって終了になるということだ。
今回はひとりの作曲家ではなく、「北欧」というテーマで、スウェーデンのアルヴェーン、デンマークのニールセン、フィンランドのシベリウス、ノルウェーのグリーグと、見事に北欧の作曲家を並べている。目玉となるのは、やはり後半に演奏されるグリーグの「ペール・ギュント」であろう。
実は前の週には東京フィルハーモニー交響楽団が3つの定期シリーズで「ペール・ギュント」の劇音楽の全曲版演奏を予定していて、私もけっこう楽しみにしていたのだが、指揮者のミハイル・プレトニョフさんの急病により公演自体が中止となってしまった。2週続けて「ペール・ギュント」を聴くという、かなり珍しい体験が結果的にできなくなったのはとても残念であった。その分だけ、今日のコンサートに期待することになった。今日は同時刻にN響オーチャード定期があり、どちらを聴くべきか大いに迷ったのだが、都響の会員になっている友人から2列目ソリスト正面の席を譲っていただけることになったので、小林沙羅さんのソルヴェイグを聴くことにしたという次第である。
指揮者のアイヴィン・オードランさんはノルウェーの指揮者で、聴くのは初めてだ。北欧の4人の作曲家の4作品ということなので、いずれも得意としているのだろう。
1曲目はアルヴェーンの「祝典序曲」。この作曲家の作品が日本のオーケストラの定期演奏会のプログラムに載ることは非常に稀だろう。私も記憶の中に思い当たらない。調べてみたら、2012年11月の読売日本交響楽団の名曲シリーズで、故ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス氏がバレエ組曲「山の王」から「羊飼いの少女の踊り」という曲を採り上げていた。といってもまったく覚えていない・・・・。「祝典序曲」はノーベル賞の授賞式などで演奏される5分半くらいの式典用序曲である。金管による華やかなファンファーレに始まり、主部はポロネーズ風の雄壮な曲想となり中間部は伸びやかな旋律が特徴的だ。都響は金管群も上手いし、弦楽のアンサンブルもガッチリしているので、引き締まった華やかな演奏となった。ただ。このような派手な曲でティンパニと大太鼓に活躍されてしまうと、ステージ間近で聴いていると打楽器系の音圧で持っているプログラムが共振するほど。ズシンズシンと響いて来て鼓膜を圧迫するのが気になってしまった。
2曲目はニールセンの「序曲『ヘリオス』」。演奏会用序曲なので、特定の物語を描いたものではないが、ニールセンがギリシャに旅行した際にエーゲ海の太陽を見て触発されて作られた。ギリシャ神話の太陽の神にちなんで「ヘリオス」と名付けられた。静寂と暗闇の中から太陽が昇り世の中を明るく照らしてやがて海へと沈んでいく様を描いているという。12分ほどの作品なので、序曲と言うよりは交響詩に近い。澄みきった弦楽のアンサンブルを基本に、木管・金管・打楽器が乗り、ダイナミックレンジの広い、劇的な演奏となった。全体的にクセのない音質で、各楽器が純度の高い音質で演奏することによって、北欧風の透明感も感じられたし、またエーゲ海の眩しい陽光の煌めきも感じられるなど、質感の高い演奏であったと思う。
3曲目はシベリウスの交響詩「フィンランディア」。ことさら劇的な表現を狙ったような演奏ではなかったと思うが、曲が曲だけに、自然に盛り上がってしまう。
序奏部分は淡々とテンポを崩さず、主部に入ると推進力を強く押し出した演奏に変わった。打楽器系がやや強めに感じられたが、これは曲を劇的に盛り上げるのと、推進力を高めるのに効果的だった。中間部の「平和の賛歌」の部分もインテンポで比較的サラリと流しているようにも感じられたが、前後の部分がダイナミックレンジの広い劇的な仕立て方(とくに打楽器の活躍)であったために、対比の効果は明瞭になっていた。この曲は、北欧の指揮者の方がむしろ普通に演奏するようである。日本の指揮者の方が意識して劇的な仕上がりを求めているようにも感じられるのである。
後半は、グリーグの劇音楽「ペール・ギュント」を抜粋で。ご存じのように、この曲は、ノルウェーの大劇作家イプセンの戯曲『ペール・ギュント』のために作られた劇付随音楽であり、全曲を通すと85分ほどになる。グリーグ自身は出来上がりに不満があったらしく、改訂を繰り返すことになる。その課程で「組曲第1番 作品46(1891年)」と「組曲第2番 作品55(1892年)」が生まれている。組曲はそれぞれ4曲ずつで構成され、いずれも非常に有名な楽曲となっていて、誰でもどこかで聴いたことがあるに違いない。今日の演奏では、ソプラノ独唱の小林沙羅さんが加わる形になり、劇音楽版と組曲版のスコアを取り混ぜて行われた。これは指揮者のオードランさんによる編曲で、過去にも同じ形で演奏しているのだという。
「婚礼の場で」は劇音楽版で第1幕への前奏曲に当たる。劇への導入効果のある活気溢れる主部、中間部ではヴィオラのソロがあり、また「ソルヴェイグの歌」の旋律も現れる。「ペール・ギュント」は「朝」から始まると勘違いしていたがそれは組曲第1番である。
「花嫁の略奪とイングリッドの嘆き」は第2幕への前奏曲。今日は組曲版での演奏だ。「イングリッドの嘆き」の主題はベートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章を想起させる旋律。
「山の魔王の広間にて」は誰でも知っている有名な曲だ。組曲版での演奏なので、私たちもいつも聴いているものだ。徐々にテンポが速くなっていき管弦楽も次第に盛り上がっていく。
「山の魔王の娘の踊り」は第2幕の中の曲で、組曲版には入っていない。シロフォンが活躍する。
「オーセの死」も有名な曲だ。第3幕の前奏曲に当たる弦楽合奏曲。今日は組曲版での演奏。微妙な不協和音を含んだ和声が重苦しい雰囲気を生み出している。オーセはペール・ギュントの老いた母。
「朝のすがすがしさ」も誰でも知っている名曲だ。第4幕への前奏曲に当たり、原作ではサハラ砂漠の朝の雰囲気を描いたものである。この朝のイメージは普遍性を持っているようで、テレビ等でも朝の場面でいやというほど使われている。今日は組曲版の演奏による。
「アラビアの踊り」は第4幕の中の1曲で、女声二部合唱と独唱(アニトラ)が加わる。今日は組曲版なのでもちろん管弦楽のみ。
「アニトラの踊り」も第4幕で前曲に続く1曲でこれもまた有名な曲だ。アニトラが踊る妖艶な舞曲である。組曲版を使用。
「ソルヴェイグの歌」も第4幕の曲。今日はソプラノ独唱付きなので、劇音楽版を使用している。ノルウェー語の歌詞についてはまったく分からないし、発音についても同様だ。「朝」に次いで有名な曲だろうか。演奏会でもソプラノ独唱曲としてしばしば採り上げられるので、お馴染みでもある。
「ペール・ギュントの帰郷」は第5幕への前奏曲に当たり、海で船が嵐に翻弄される様子を描いている。組曲版にはない部分で、劇音楽版を使用している。
「難破」も第5幕で前曲に続く場面を描いている。
「小屋でソルヴェイグが歌っている」も第5幕で、ペールの帰りを待つソルヴェイグが歌う場面。同じ旋律(ソルヴェイグの主題)である。もちろん劇音楽版から。
「夜の情景」も第5幕で、合唱や台詞が加わる曲だが、今日はそれらの登場しない冒頭のみが演奏された。
「ソルヴェイグの子守歌」は第5幕、この劇音楽の終曲で、本来は合唱や台詞も入るが、今日はソプラノ独唱と管弦楽のみの演奏であった。
そもそもクラシック音楽分野での「劇付随音楽」というものを、「劇」を観ながら聴いたことがないので、なかなかイメージが掴みにくいものである。純粋に音楽として聴くなら、演奏会形式のオペラやオラトリオに近いイメージだろうか。東京フィルで『ペール・ギュント』全曲版を聴いていたら、また別の理解の仕方のあったのだろうと思う。
今日の『ペール・ギュント』は、劇音楽をおよそ半分の長さに抜粋して50分弱の演奏であった。それだけでもあまり聴けない体験である。組曲版は何度も聴いたことはあるが・・・。演奏自体は、技術的には定評のある都響であるし、オードランさんは全体的には緻密に音楽を組み立てつつも、クライマックスの場面では、打楽器を豪快に鳴らせるなど、劇的な効果を盛り上げるのが堂に入っている。また歌唱が加わる部分での弱音のコントロールも丁寧で、細部まできちんと創り上げられていたようである。
さて、最後に今日の演奏でソプラノ独唱を受け持った小林沙羅さんについても触れておこう。結局、『ペール・ギュント』の後半からの登場で、純白のドレスは花嫁衣装のように、清楚でいて艶やか。ステージでの所作も上品で清々しい印象であった。歌ったのは「ソルヴェイグの歌」「小屋でソルヴェイグが歌っている」「ソルヴェイグの子守歌」の3曲である。いずれも哀しく切なげな情感に満ちた曲であるが、沙羅さんの歌唱は透明感のある美しい声が切々とした情感を描き出していた。その歌唱には清潔感があり、聴く者の心が洗われるようである。とくに有名な「ソルヴェイグの歌」では、ノルウェー語の主部の嘆き・哀しみの情感と、中間部の母音唱法の爽やかな明るさとの対比が、素直で優しい雰囲気を醸し出していて素晴らしかったと思う。また「ソルヴェイグの子守歌」も哀しみを秘めて優しく歌う曲であり、しっとりとした情感が込められていて、秀逸であった。
久しぶりに聴いた都響であったが、やはり演奏の水準は高く、とくに弦楽のアンサンブルがピタリと合っているのはさすがである。ホルンが時折揺れていたのがちょっと気になったが、管楽器群も水準は高く素晴らしい質感を出している。大変上手いとは思うし、本来ならもっと聴くべきオーケストラなのだが、どういうわけか今後もあまり予定に入っていない。まあ、私の場合は(自分にとっての)良い席が取れなければ聴きたくならないので、熱烈なファンの多い都響の定期シリーズにはなかなか食い込めないようである。
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