
土曜ソワレシリーズ/女神たちとの出逢い
川久保賜紀 ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会〈2〉
2015年4月25日(土)17:00~ フィリアホール S席 1階 1列 11番 3,500円(シリーズセット券)
ヴァイオリン: 川久保賜紀
ピアノ: 江口 玲
【曲目】
ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第6番 イ長調 作品30-1
ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第8番 ト長調 作品30-3
ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第7番 ハ短調 作品30-2
《アンコール》
サラサーテ: アンダルシアのロマンス
モンティ: チャールダーシュ
クライスラー: 美しきロスマリン
横浜市青葉区のフィリアホールで開催されている「土曜ソワレシリーズ/女神たちとの出逢い」。今期も充実したプログラムが用意されているが、そのスタートは昨年から続いているもので、川久保賜紀さんによる「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」の第2回に当たる。年に1回のペースで計3回のリサイタルを行い、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全10曲を演奏するというプロジェクトである。ちょうど1年前の2014年4月26日に第1回が開かれ、その際はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの第1番、第3番、第4番、第5番「春」の4曲が演奏された。第2回の今日は、第6番、第7番、第8番の3曲である。
前回の時の記事にも書いたことだが、じっくりと時間をかけてのアプローチとなるベートーヴェンの全曲演奏会は、賜紀さんにとっても今の年代における集大成を目指すものとなるだろう。都心からははずれた小さなホールでの企画コンサートだが、音楽家にとっての生涯の記憶に残るシリーズとなるはずである。

今日演奏される作品30のこの3曲は、ロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈されたことから、通称「アレキサンダー・ソナタ」と呼ばれている(あまり一般的ではないようだが)。「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれたとされる1802年頃の作品であり、後に「傑作の森」と呼ばれる中期に移行する時期のもので、モーツァルトなどの影響による古典的な作風から脱却を果たし、ベートーヴェンの個性が全面に現れている傑作である。3曲の中では第7番が最も人気があり演奏される機会も多いが、人気曲の第5番「春」や第9番「クロイツェル」に比べるといささか地味な存在になってしまっている。そのせいもあってか、今日は完売にはなっていなかったようである。
さてピアノで共演するのは、お馴染みの江口 玲さん。この人については今さら何も語る必要はないだろう。そして前回もそうだったのだが、今回使用されるピアノは、1887年製のニューヨーク・スタインウェイ、通称「ローズウッド」。カーネギーホールで長らく使用されていて、日本に渡って来て後、来日したホロヴィッツが絶賛したという名器である。今回はあらかじめ告知されていて、会場でも掲示されていた説明書きを熱心に呼んでいる人も多かった。最近の江口さんはこのピアノが大層お気に入りのようで、あちこちのコンサート会場に持ち込んでいる。後で紹介するが、賜紀さんのリリースしたばかりの新譜CD「アンコール!」の録音にもこのピアノが使用されているのだ。古色に彩られたアコースティックな独特の響きを持つこのビアノも、賜紀さんのベートーヴェンに落ち着きのある色彩を与えることになった。
さて前半はまず、第6番から。第1楽章はAllegroのソナタ形式だが、第1主題が明瞭でないところにこの曲が今ひとつ人気が出ない理由があるのかもしれない。賜紀さんのヴァイオリンは、角のない優しい音色で一見して優雅な装いであるが、ディテールまでしっかりと細やかな表情があり、sfのキリッとした立ち上がりや、相変わらず流れるようなレガートが美しく、適度なメリハリと豊かな表情が秀逸である。江口さんのピアノは完璧ともいえるサポートぶりだが、「ローズウッド」のフォルテピアノのような伸びない音が、流麗な賜紀さんのヴァイオリンと好対照をなしている。憧れを乗せて弾むような第2主題のの軽やかなタッチが印象的だった。
第2楽章はロンド形式の緩徐楽章。全体を通してピアノを支配する付点の付いたリズムが、穏やかな推進力を創り出している。すうーっと自然に伸びてくる賜紀さんのヴァイオリンが優しく歌い、江口さんのビアノが転がるように響く。休日の午前中のような、穏やかで心安まる演奏だ。
第3楽章は変奏曲形式。変奏曲を得意としたベートーヴェンの面目躍如である。イメージ的にはロンドの主題に相応しいような、軽快で陽性の主題が提示され、鮮やかに曲想が変化する6つの変奏が続く。ここではヴァイオリンとピアノの掛け合いが、対話するように絡みつく。曲想の変化が、対話のテーマが変わるようで、とても素敵な演奏だ。やはり賜紀さんのヴァイオリンの流れるようなリズム感と、フォルテピアノのような木を叩くような音色で転がるピアノとの対比が、古典派からロマン派へと移り変わっていく時期のイメージをうまく描き出しているように感じた(実際には時代は違うわけだが)。
続いて第8番。「アレクサンダー・ソナタ」の3曲は、第6番がイ長調、第7番がハ短調、第8番がト長調で書かれている。そのため、第6番と第8番は明るく伸びやかな曲想であるのに対して、第7番は重厚で苦悩に満ちた曲想でドラマティックだ。そこで、第7番が後半に置かれ、前半は長調の曲でまとめることになった。第8番は演奏会でも比較的採り上げられる曲である。
第1楽章はソナタ形式。ヴァイオリンとピアノがユニゾンで力強い第1主題を叩き出すように始まる。そこから第2主題に至るまでの流れるような推進力とリズム感が素晴らしい。ヴァイオリンの速いパッセージも、スタッカートが効いてキレ味鋭く回っている。第2主題はppでヴァイオリンがささやくように歌う。このあたりのさりげない繊細なタッチが賜紀さんの音楽性の深いところだ。
第2楽章は緩徐楽章に相当するが、Tempo di Minuettoとなっている。緩徐楽章と舞曲楽章を融合したような形式で、ピアノの役割が大きい楽章でもある。ピアノが刻むメヌエット風の優雅な主題にヴァイオリンが合いの手を入れるように絡みつく。ピアノが主役になれば、賜紀さんのヴァイオリンはさりげなく一歩下がるように変わるが、ピアノが休符になるとすうっと出て来て音楽を自然に組み立てている。主旋律がヴァイオリンに回ってきても、出過ぎることなく、エレガントさを崩さなかった。
第3楽章は軽快に弾むピアノが目まぐるしく駆け巡り、ヴァイオリンも同様に駆け巡る。軽やかなフィナーレだ。江口さんのピアノがリズム感良く跳ね回るが、現代の機能的なスタインウェイと違って、このピアノは立ち上がりが鋭くない。そのため、全体的にマイルドな仕上がりとなり、軽快感のなかにも落ち着きを感じさせる演奏になっていた。その上に乗る賜紀さんのヴァイオリンは明るい色彩感の音色で軽快だが、強く押し出さずにちょっと控え目なところが、曲に優しさを与えているようであった。
後半は第7番。「苦悩を通じての歓喜」という生涯を貫く思いテーマを表現する際にベートーヴェンがしばしば使ったハ短調という調性で書かれている。ご存じのように、ビアノ・ソナタ第8番「悲愴」(1798)や交響曲第5番「運命」(1808)など、初期・中期を代表する名曲もハ短調で書かれていて、第2楽章が変イ長調というところまで共通している。しかし、「悲愴」ソナタと同じくこの「第7番」ソナタも、終楽章に「歓喜」に至って解決することはない。「苦悩」に押しつぶされそうに終わるのである。1802年という時期には、ベートーヴェンの中ではまだ解決に向けての方向性は定まっていないということであろうか。
第1楽章は、この重いテーマである。序奏風にピアノが主題を提示した後、ヴァイオリンによって描き出される主題はあまりにも哀しげに聞こえた。力感を増す経過部では、賜紀さんのヴァイオリンにも怒りの表情さえ感じさせる。第2主題になると長調に転じて軽快に弾むような旋律が現れるが、その色彩の変化も鮮やかだ。相反するテーマが葛藤を繰り返しながら、曲は長調と短調を行ったり来たりしながらピアノとヴァイオリンが対話していく。時には力強く、時には優しく穏やかに・・・。ソナタ形式のガッチリした造形の中で、緊張感でピリピリする第1主題を展開する部分が多くを占めていて、賜紀さんのヴァイオリンが苦悩する心の叫びを絞り出すように、あるいは嘆きつぶやくような表情で描かれている。
第2楽章は変イ長調で、天国的な美しい主題による緩徐楽章。はじめはピアノに、続いてヴァイオリンに現れる主題は、苦悩の裏返しとなる世界観で描かれる。Adagio cantabileと指示があるように、よく聴いていると、極めて歌謡的に旋律を歌わせている。賜紀さんも江口さんも、阿吽の呼吸でフレーズを大らかに歌わせ、自由度の高い演奏をしているのが分かる。
第3楽章はスケルツォ。ハ長調である。ベートーヴェンが書いた10のヴァイオリン・ソナタの内、4楽章構成でスケルツォ楽章を持つのは、第5番「春」と第7番、そして第10番の3曲のみ。第5番と第10番のスケルツォは短く間奏曲的であるが、第7番は唯一本格的なスケルツォを持っている。江口さんのピアノが殊の外弾む。「ローズウッド」のプツプツとした伸びない音色を弾ませる江口さんに対して、同じ付点の付いたリズムでありながら賜紀さんのヴァイオリンはレガートがかかり伸びやか。その対比が見事で、古典的な三部形式のスケルツォを鮮やかに彩っていた。
第4楽章はフィナーレ。Allegroのソナタ形式である。冒頭に出てくる激しく叩き付けるような主題が楽章中の随所に現れるがこれが「運命の動機」のような働きをして主題を導く役割を果たしている。ソナタ形式の本体は、ハ短調ではあるが比較的軽い第1主題と弾むような第2主題が対比される構造になっているが、経過的な部分や展開部は激しい曲想へと変化する。速度指定がPrestoに変わるところからがコーダで、圧倒的な推進力で突き進んで曲が終わる。ここでの演奏は、リサイタルの最後を飾るのに相応しく、極めて緊張感が高く、同時にパッションが漲るような、激情的な演奏であった。普段はエレガントな賜紀さんが滅多に見せることのない熱い情熱を迸らせた。感情を外に向けるラテン系の情熱とは違い、心の内側に向かって感情を叩き付ける、そんなイメージである。この曲は、第2楽章・第3楽章で解決に向けての方向性を示しつつ、最終的には深い苦悩を残したまま終わってしまう。賜紀さんの演奏からエレガントな優しさが消えた時、屈折した感情の表現は一段と深まるようである。
やはり第7番を後半に演奏したのは成功であった。ベートーヴェンのハ短調の曲の持つ激情的なエネルギーは、もちろん曲間にたっぷりと含まれてはいるのだけれども、なかなか技術だけでは表現できるものではない。若手の演奏家では深層心理まで入っていけないことが多く、またベテランだと激情的なエネルギーが足りなくなってしまう。賜紀さんのような年代の演奏家が最も適していると思う。技術を学ぶ10代。表現を磨く20代。作品に個性で命を吹き込むことができるのは、完成に近づきつつある30代ならではのこと。賜紀さん、Braaava!!

アンコールは3曲も。もちろん最新CD『アンコール!』に納められているアンコール・ピースの名曲たちの中からである。
サラサーテの「アンダルシアのロマンス」は、1年前の前回もアンコールで聴かせていただいた。アンダルシア地方の暑い夏の夜、大人のロマンスが熱く繰り広げられているような曲だが・・・・賜紀さんが弾くとちょっと上品になり、貴婦人のロマンスのようになってしまう(?)。
モンティの「チャールダーシュ」はご存じ超絶技巧曲。アンコールでは定番だが、盛り上がること必至である(もちろん上手ければのお話し)。満面の笑みでのフィニッシュに、会場は大喝采。
クライスラーの「美しきロスマリン」は、最近の賜紀さんの一番のお気に入りではないだろうか。ウィーンのワルツのリズムに乗って、粋で洒脱で、エレガントに踊る。ところで・・・ロスマリンって何だろう。いまだに分からない、クライスラーの謎である。
終演後は恒例のサイン会。既に伝えたように、3日前の4月22日に、賜紀さんの新しいCDがリリースされたばかり。ほとんど本日発売のような状態で会場で販売され、随分売れていたようであった。この新譜『アンコール!』では、江口さんがピアノで共演しているので、お二人によるサイン会は大いに盛り上がったという次第である。私はジャケットの中面に賜紀さんにサインをいただいた。それと今回は、珍しくも予習用に買った楽譜を持ち込み、お二人にサインをいただいた。「アレクサンダー・ソナタ」3曲が収録されている楽譜なので、まさに本日用だったのである。
サイン会の後はまたまた恒例の写真撮影会。お二人並んでのツーショットは、なかなか絵になる。


今日のリサイタルは、ベートーヴェンの「ソナタ全曲演奏会」の一環であったために、かなり重厚なプログラムとなったわけだが、この後はCD発売記念ということもあり、賜紀さんと江口さんの演奏会が増えそうである。2週間後の5月9日には、越谷市でお二人のリサイタルがある。そこではベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」に加えてCDに収録されているアンコール・ピースなどがプログラムされている。また、その1週間後の5月16日には、東京ニューシティ管弦楽団の定期演奏会に客演して、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲を演奏することになっている。こうして色々な演奏会に出演していただくのはファンとしては嬉しい限り。もちろんチケットは確保してある。
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【お勧めCDのご紹介】
もちろん川久保賜紀さんの新譜『アンコール!』です。2015年4月22日発売。CDの内容については、その日の記事に詳細を書いてありますので、ご参照下さい。ヴァイオリンが好きな人にならどなたにもお勧めできる1枚です。
【お勧めスコアのご紹介】
「ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全集 第2巻」全音楽譜出版社。
1998年発行。校訂・解説: 浦川宣也、ピアノ・パート校訂: 岡本美智子。「アレクサンダー・ソナタ」と呼ばれる、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第6番・第7番・第8番 作品30-1~3 の3曲を収録。スコアとヴァイオリン譜がセットになっています。
川久保賜紀 ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会〈2〉
2015年4月25日(土)17:00~ フィリアホール S席 1階 1列 11番 3,500円(シリーズセット券)
ヴァイオリン: 川久保賜紀
ピアノ: 江口 玲
【曲目】
ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第6番 イ長調 作品30-1
ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第8番 ト長調 作品30-3
ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第7番 ハ短調 作品30-2
《アンコール》
サラサーテ: アンダルシアのロマンス
モンティ: チャールダーシュ
クライスラー: 美しきロスマリン
横浜市青葉区のフィリアホールで開催されている「土曜ソワレシリーズ/女神たちとの出逢い」。今期も充実したプログラムが用意されているが、そのスタートは昨年から続いているもので、川久保賜紀さんによる「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」の第2回に当たる。年に1回のペースで計3回のリサイタルを行い、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全10曲を演奏するというプロジェクトである。ちょうど1年前の2014年4月26日に第1回が開かれ、その際はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの第1番、第3番、第4番、第5番「春」の4曲が演奏された。第2回の今日は、第6番、第7番、第8番の3曲である。
前回の時の記事にも書いたことだが、じっくりと時間をかけてのアプローチとなるベートーヴェンの全曲演奏会は、賜紀さんにとっても今の年代における集大成を目指すものとなるだろう。都心からははずれた小さなホールでの企画コンサートだが、音楽家にとっての生涯の記憶に残るシリーズとなるはずである。

今日演奏される作品30のこの3曲は、ロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈されたことから、通称「アレキサンダー・ソナタ」と呼ばれている(あまり一般的ではないようだが)。「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれたとされる1802年頃の作品であり、後に「傑作の森」と呼ばれる中期に移行する時期のもので、モーツァルトなどの影響による古典的な作風から脱却を果たし、ベートーヴェンの個性が全面に現れている傑作である。3曲の中では第7番が最も人気があり演奏される機会も多いが、人気曲の第5番「春」や第9番「クロイツェル」に比べるといささか地味な存在になってしまっている。そのせいもあってか、今日は完売にはなっていなかったようである。
さてピアノで共演するのは、お馴染みの江口 玲さん。この人については今さら何も語る必要はないだろう。そして前回もそうだったのだが、今回使用されるピアノは、1887年製のニューヨーク・スタインウェイ、通称「ローズウッド」。カーネギーホールで長らく使用されていて、日本に渡って来て後、来日したホロヴィッツが絶賛したという名器である。今回はあらかじめ告知されていて、会場でも掲示されていた説明書きを熱心に呼んでいる人も多かった。最近の江口さんはこのピアノが大層お気に入りのようで、あちこちのコンサート会場に持ち込んでいる。後で紹介するが、賜紀さんのリリースしたばかりの新譜CD「アンコール!」の録音にもこのピアノが使用されているのだ。古色に彩られたアコースティックな独特の響きを持つこのビアノも、賜紀さんのベートーヴェンに落ち着きのある色彩を与えることになった。
さて前半はまず、第6番から。第1楽章はAllegroのソナタ形式だが、第1主題が明瞭でないところにこの曲が今ひとつ人気が出ない理由があるのかもしれない。賜紀さんのヴァイオリンは、角のない優しい音色で一見して優雅な装いであるが、ディテールまでしっかりと細やかな表情があり、sfのキリッとした立ち上がりや、相変わらず流れるようなレガートが美しく、適度なメリハリと豊かな表情が秀逸である。江口さんのピアノは完璧ともいえるサポートぶりだが、「ローズウッド」のフォルテピアノのような伸びない音が、流麗な賜紀さんのヴァイオリンと好対照をなしている。憧れを乗せて弾むような第2主題のの軽やかなタッチが印象的だった。
第2楽章はロンド形式の緩徐楽章。全体を通してピアノを支配する付点の付いたリズムが、穏やかな推進力を創り出している。すうーっと自然に伸びてくる賜紀さんのヴァイオリンが優しく歌い、江口さんのビアノが転がるように響く。休日の午前中のような、穏やかで心安まる演奏だ。
第3楽章は変奏曲形式。変奏曲を得意としたベートーヴェンの面目躍如である。イメージ的にはロンドの主題に相応しいような、軽快で陽性の主題が提示され、鮮やかに曲想が変化する6つの変奏が続く。ここではヴァイオリンとピアノの掛け合いが、対話するように絡みつく。曲想の変化が、対話のテーマが変わるようで、とても素敵な演奏だ。やはり賜紀さんのヴァイオリンの流れるようなリズム感と、フォルテピアノのような木を叩くような音色で転がるピアノとの対比が、古典派からロマン派へと移り変わっていく時期のイメージをうまく描き出しているように感じた(実際には時代は違うわけだが)。
続いて第8番。「アレクサンダー・ソナタ」の3曲は、第6番がイ長調、第7番がハ短調、第8番がト長調で書かれている。そのため、第6番と第8番は明るく伸びやかな曲想であるのに対して、第7番は重厚で苦悩に満ちた曲想でドラマティックだ。そこで、第7番が後半に置かれ、前半は長調の曲でまとめることになった。第8番は演奏会でも比較的採り上げられる曲である。
第1楽章はソナタ形式。ヴァイオリンとピアノがユニゾンで力強い第1主題を叩き出すように始まる。そこから第2主題に至るまでの流れるような推進力とリズム感が素晴らしい。ヴァイオリンの速いパッセージも、スタッカートが効いてキレ味鋭く回っている。第2主題はppでヴァイオリンがささやくように歌う。このあたりのさりげない繊細なタッチが賜紀さんの音楽性の深いところだ。
第2楽章は緩徐楽章に相当するが、Tempo di Minuettoとなっている。緩徐楽章と舞曲楽章を融合したような形式で、ピアノの役割が大きい楽章でもある。ピアノが刻むメヌエット風の優雅な主題にヴァイオリンが合いの手を入れるように絡みつく。ピアノが主役になれば、賜紀さんのヴァイオリンはさりげなく一歩下がるように変わるが、ピアノが休符になるとすうっと出て来て音楽を自然に組み立てている。主旋律がヴァイオリンに回ってきても、出過ぎることなく、エレガントさを崩さなかった。
第3楽章は軽快に弾むピアノが目まぐるしく駆け巡り、ヴァイオリンも同様に駆け巡る。軽やかなフィナーレだ。江口さんのピアノがリズム感良く跳ね回るが、現代の機能的なスタインウェイと違って、このピアノは立ち上がりが鋭くない。そのため、全体的にマイルドな仕上がりとなり、軽快感のなかにも落ち着きを感じさせる演奏になっていた。その上に乗る賜紀さんのヴァイオリンは明るい色彩感の音色で軽快だが、強く押し出さずにちょっと控え目なところが、曲に優しさを与えているようであった。
後半は第7番。「苦悩を通じての歓喜」という生涯を貫く思いテーマを表現する際にベートーヴェンがしばしば使ったハ短調という調性で書かれている。ご存じのように、ビアノ・ソナタ第8番「悲愴」(1798)や交響曲第5番「運命」(1808)など、初期・中期を代表する名曲もハ短調で書かれていて、第2楽章が変イ長調というところまで共通している。しかし、「悲愴」ソナタと同じくこの「第7番」ソナタも、終楽章に「歓喜」に至って解決することはない。「苦悩」に押しつぶされそうに終わるのである。1802年という時期には、ベートーヴェンの中ではまだ解決に向けての方向性は定まっていないということであろうか。
第1楽章は、この重いテーマである。序奏風にピアノが主題を提示した後、ヴァイオリンによって描き出される主題はあまりにも哀しげに聞こえた。力感を増す経過部では、賜紀さんのヴァイオリンにも怒りの表情さえ感じさせる。第2主題になると長調に転じて軽快に弾むような旋律が現れるが、その色彩の変化も鮮やかだ。相反するテーマが葛藤を繰り返しながら、曲は長調と短調を行ったり来たりしながらピアノとヴァイオリンが対話していく。時には力強く、時には優しく穏やかに・・・。ソナタ形式のガッチリした造形の中で、緊張感でピリピリする第1主題を展開する部分が多くを占めていて、賜紀さんのヴァイオリンが苦悩する心の叫びを絞り出すように、あるいは嘆きつぶやくような表情で描かれている。
第2楽章は変イ長調で、天国的な美しい主題による緩徐楽章。はじめはピアノに、続いてヴァイオリンに現れる主題は、苦悩の裏返しとなる世界観で描かれる。Adagio cantabileと指示があるように、よく聴いていると、極めて歌謡的に旋律を歌わせている。賜紀さんも江口さんも、阿吽の呼吸でフレーズを大らかに歌わせ、自由度の高い演奏をしているのが分かる。
第3楽章はスケルツォ。ハ長調である。ベートーヴェンが書いた10のヴァイオリン・ソナタの内、4楽章構成でスケルツォ楽章を持つのは、第5番「春」と第7番、そして第10番の3曲のみ。第5番と第10番のスケルツォは短く間奏曲的であるが、第7番は唯一本格的なスケルツォを持っている。江口さんのピアノが殊の外弾む。「ローズウッド」のプツプツとした伸びない音色を弾ませる江口さんに対して、同じ付点の付いたリズムでありながら賜紀さんのヴァイオリンはレガートがかかり伸びやか。その対比が見事で、古典的な三部形式のスケルツォを鮮やかに彩っていた。
第4楽章はフィナーレ。Allegroのソナタ形式である。冒頭に出てくる激しく叩き付けるような主題が楽章中の随所に現れるがこれが「運命の動機」のような働きをして主題を導く役割を果たしている。ソナタ形式の本体は、ハ短調ではあるが比較的軽い第1主題と弾むような第2主題が対比される構造になっているが、経過的な部分や展開部は激しい曲想へと変化する。速度指定がPrestoに変わるところからがコーダで、圧倒的な推進力で突き進んで曲が終わる。ここでの演奏は、リサイタルの最後を飾るのに相応しく、極めて緊張感が高く、同時にパッションが漲るような、激情的な演奏であった。普段はエレガントな賜紀さんが滅多に見せることのない熱い情熱を迸らせた。感情を外に向けるラテン系の情熱とは違い、心の内側に向かって感情を叩き付ける、そんなイメージである。この曲は、第2楽章・第3楽章で解決に向けての方向性を示しつつ、最終的には深い苦悩を残したまま終わってしまう。賜紀さんの演奏からエレガントな優しさが消えた時、屈折した感情の表現は一段と深まるようである。
やはり第7番を後半に演奏したのは成功であった。ベートーヴェンのハ短調の曲の持つ激情的なエネルギーは、もちろん曲間にたっぷりと含まれてはいるのだけれども、なかなか技術だけでは表現できるものではない。若手の演奏家では深層心理まで入っていけないことが多く、またベテランだと激情的なエネルギーが足りなくなってしまう。賜紀さんのような年代の演奏家が最も適していると思う。技術を学ぶ10代。表現を磨く20代。作品に個性で命を吹き込むことができるのは、完成に近づきつつある30代ならではのこと。賜紀さん、Braaava!!

アンコールは3曲も。もちろん最新CD『アンコール!』に納められているアンコール・ピースの名曲たちの中からである。
サラサーテの「アンダルシアのロマンス」は、1年前の前回もアンコールで聴かせていただいた。アンダルシア地方の暑い夏の夜、大人のロマンスが熱く繰り広げられているような曲だが・・・・賜紀さんが弾くとちょっと上品になり、貴婦人のロマンスのようになってしまう(?)。
モンティの「チャールダーシュ」はご存じ超絶技巧曲。アンコールでは定番だが、盛り上がること必至である(もちろん上手ければのお話し)。満面の笑みでのフィニッシュに、会場は大喝采。
クライスラーの「美しきロスマリン」は、最近の賜紀さんの一番のお気に入りではないだろうか。ウィーンのワルツのリズムに乗って、粋で洒脱で、エレガントに踊る。ところで・・・ロスマリンって何だろう。いまだに分からない、クライスラーの謎である。
終演後は恒例のサイン会。既に伝えたように、3日前の4月22日に、賜紀さんの新しいCDがリリースされたばかり。ほとんど本日発売のような状態で会場で販売され、随分売れていたようであった。この新譜『アンコール!』では、江口さんがピアノで共演しているので、お二人によるサイン会は大いに盛り上がったという次第である。私はジャケットの中面に賜紀さんにサインをいただいた。それと今回は、珍しくも予習用に買った楽譜を持ち込み、お二人にサインをいただいた。「アレクサンダー・ソナタ」3曲が収録されている楽譜なので、まさに本日用だったのである。
サイン会の後はまたまた恒例の写真撮影会。お二人並んでのツーショットは、なかなか絵になる。


今日のリサイタルは、ベートーヴェンの「ソナタ全曲演奏会」の一環であったために、かなり重厚なプログラムとなったわけだが、この後はCD発売記念ということもあり、賜紀さんと江口さんの演奏会が増えそうである。2週間後の5月9日には、越谷市でお二人のリサイタルがある。そこではベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」に加えてCDに収録されているアンコール・ピースなどがプログラムされている。また、その1週間後の5月16日には、東京ニューシティ管弦楽団の定期演奏会に客演して、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲を演奏することになっている。こうして色々な演奏会に出演していただくのはファンとしては嬉しい限り。もちろんチケットは確保してある。

【お勧めCDのご紹介】
もちろん川久保賜紀さんの新譜『アンコール!』です。2015年4月22日発売。CDの内容については、その日の記事に詳細を書いてありますので、ご参照下さい。ヴァイオリンが好きな人にならどなたにもお勧めできる1枚です。
![]() | アンコール! |
avex CLASSICS | |
avex CLASSICS |
【お勧めスコアのご紹介】
「ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全集 第2巻」全音楽譜出版社。
1998年発行。校訂・解説: 浦川宣也、ピアノ・パート校訂: 岡本美智子。「アレクサンダー・ソナタ」と呼ばれる、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第6番・第7番・第8番 作品30-1~3 の3曲を収録。スコアとヴァイオリン譜がセットになっています。
![]() | ベートーヴェン ヴァイオリンソナタ全集 第2巻 (Violin library) |
浦川 宜也,岡本 美智子 | |
全音楽譜出版社 |