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平安朝の昔から数知れぬ和歌に、咲くを待ち、散るを惜しむ歌が詠い続けられてきました。
したがって、花にまつわる言葉もゆかしい言葉が数多く紡ぎだされています。
古典における「花」は、特に櫻の花の代名詞として使われたと教わりました。古今集や後撰集では、梅の花を指すこともありますが、時代が下るにつれて花といえばもっぱら櫻を指すようになります。
「花の兄」は、多くの花に先駆けて咲く梅、「花の弟」は遅れて咲く秋の菊。「立てば芍薬、・・・」と花にたとえられる女性ですが、なぜか花の姉、妹はいないようです。
花の雲、花の雪、花の笠、花筏、花の浮橋、花の笑みと際限もなくみやびな比喩を生み、花衣 花の雫も多くの歌や伝説を誘い出しました。
さくらがり雨は降りきぬおなじくは濡るとも花の蔭にかくれむ よみびと知らず
“どうせ濡れるなら花の雫に“という風雅の心意気です。説話では実方の歌とされて、行成との確執になった歌とされています。
また、同じ争いでも、花合せや、花軍(はないくさ)で、花の優劣を競う優雅な遊びもありました。
「花ごころ」は、今は陽気な、花を咲かせようとする華やいだ気持ちで用いることが多いようですが、古くはやがて散ってしまう移ろい易い心という意味で使われていました。
「花心におはする宮なれば」源氏・宿木
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鎌倉時代には、しばしば「花の下(もと)連歌」が行われています。
櫻色に空さへとづる梢かな
花に洩りくる鶯の声 無生法師
花鎮めの祭りは花の散るころ、「のどかなる春の祭りの花しづめ風おさまれと猶祈るらし」二条良基
この季節は、徒然草にいうように、「青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます」もの。しばらくは、花に引き回されて、「世の中に絶えて櫻のなかりせば」と、のどかに過ごしがたい落ち着かぬ日が続きます。
女性の美しい声での朗読でより味わい深くなりますね。
さー、今年は何処の櫻を見に行きましょうか?醍醐か・円山公園か?
団地の桜並木も開花へ、来週半ばには爺ちゃん・婆ちゃんで賑わうでしょう。当方もその一人。
”はかなくて 過ぎにしかたを かぞふれば 花にもの思ふ・・・・・”名歌の様な心境となるや?
いやいや、過ぎ去った事は忘れ、前を向いて lets go といきたい。
”またや見ん 交野のみ野の 桜狩・・・”、も有名ですが、
交野カントリークラブの風呂場から眺める桜は最高です。
ところで、膝・腰に違和感がおこると、”またや見ん”と詠まねばなりませんが。
なんとか今年は、”又見ること”が出来そうで幸せでございます。
交野のみ野、渚の院、櫻の名所にお住まいで羨ましい限りです。
人後に落ちない桜好きですが、記憶に残る桜は、吉野山、近江八幡の八幡堀の落花、、弘前城、です。櫻を追って、「心は身にも添はずなりにき」と酔狂な旅を青森まで続けた若い日がありました。
我が家の一番の景観もお風呂から見る櫻でした。
間近の古木の櫻が、遠景の谷の低い櫻の古木の借景で覆い尽くされる眺めは格別でしたが、等間隔に植えられていた谷のへりの櫻がすべて伐り払われて、先週以来、無惨な姿をさらしています。妙に風通しがよくなった気がします。
「同じからず」は、人だったはずですが、花も同様で「年年歳歳花相似たり」とはまいらぬご時世です。
お互いに”またも見む”と体をいたわりながら、世に”はばかって”生き抜きましょう。
雀来て障子にうごく花の影 漱石
春の宵 お湯につかりながらご覧になる櫻はいかばかりかと想像します。 月も朧に覗くでしょうね。
花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに 小野小町
お嘆きもひとしほ…
程なく 別所の櫻、「花の粧ヨソオイ)」などお届けいたしますから お気持ちを晴らしてくださいね。 それにしてもこちらは手強い風、 「花嵐」が吹き荒れて 「花埃」で眼も開けられません。
お慰みに、 せめて「花の香」なりと… えっ? 沼の匂いではありませんよ。
「花の門」をくぐりながら 知恵を絞りました。 お元気になって下さいませ。
浅草の鐘も聞こえました。
「花尽くし」のコメント、ありがとうございました。今頃は花疲れで、花の雨を眺めておいででしょうか。
「桜川」を共に謡った友も、認知症が進んで、訪ねても識別できませんが、彼女の好きだった一節を小声で口ずさむとにっこり微笑みました。
春は艶に、そしてどこか物悲しいものがありますね。春愁とはよくいったものです。
花衣ぬぐや纏わる紐いろいろ 久女