「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

万葉集の恋人たち

2008年03月01日 | 歌びとたち
 万葉集の恋歌のなかには、遊宴の折の余興のようなものや、戯れの挨拶的なものもありますが、ここでは、ひたむきの思いを切実に歌い上げたものを拾いました。

 遠い記憶が蘇るような初々しい恋の歌から、切ない片恋の嘆き歌、身を切り裂くような絶唱まで、王朝の恋歌とは趣を異にしています。
 また寒さがもどった春寒の日、万葉集が炬燵のつれずれの相手をしてくれました。

 青柳の張らろ川門に汝を待つと清水は汲まず立処ならすも  (巻十四)
 張らろ(ハ)川門(カワト)清水(セミド)立処(タチド)と繰り返す東国の方言が一つのリズムを生んで、弾むような早春の日の初々しい恋の始まりがあります。
 水汲み場で、春の日差しをあびて、柳と戯れながらそわそわと落ち着かずに土を踏み平らしているいる娘、「汝」ナと呼ぶからは、待つ相手はうら若い年下の青年だったのかもしれません。東歌と呼ばれる一群はリズムがよく東国方言も活きています。
 多摩川に晒す調布さらさらに何ぞこの子のここだ愛しき も感じの良い民謡です。

 ところで万葉集では、まだ恋歌という名目はなく、“相聞歌”と呼んでいます。互いの思いを問い交わすのですから、恋歌に限定はされませんが、殆どが恋歌です。
 笠郎女はかなり達者なうた人ですが、大伴家持への片恋をせつなく詠い続けています。家持に送った二十四首の中からです。
 君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも  (巻四)
 恋焦がれる思いをどうするすべもない。奈良山の小松のもとで、むなしくため息をついて立ち続けていることです。
 夕されば物思いまさる見し人の言問ふ姿面影にして  (巻四)
 夕暮れは、今はつれないお方ながら、やさしかった日の姿が忘れられない。というのです。
 あの手この手の訴えですが、奈良山は低い丘陵の平坦な山です。家持の屋敷のある佐保の里はすぐ目の先です。屋敷のうちを見下ろされ、嘆かれている家持はどんな気持だったでしょう。ついには片思いに耐えきれず「餓鬼の後へに」とあびせかけています。家持もこの攻撃には閉口したことでしょう。
 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後へに額づくごとし  (巻四)

 印象に残る歌は中臣朝臣宅守と狭野茅上娘子の間に交わされた63首の歌です。流罪となって、旅立つ夫宅守に向かって詠いかけた歌は、一種の迫力があります。 吹き上がる情熱を勢いに任せて率直に表白していきます。
 君が行く道の長程を繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも  (巻十五)長程ナガテ
 天地の辺陲のうらに我がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ  辺陲ソコヒ
 還りける人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
 二人の恋の行方は知りません。 
 但馬皇女の許されぬ恋を詠った歌と双璧の絶唱です。
 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る  (巻二)
 天武天皇の皇女但馬皇女は異母兄高市皇子の妻の一人。高市は、天武亡き後、持統天皇の信任篤い太政大臣です。同じ異母兄の穂積皇子と恋をし、世間の噂になったときのもの。「朝川渡る」果敢な行動を、あえて恋を貫く決意として、激しい情熱で詠いあげたものです。
 後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに標結へ我が背
 世間の噂を避けてか、近江に遣わされる穂積皇子に呼びかけたものです。この二人の恋の行方もどうなったのでしょう。


磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに 大伯皇女
今年はアシビの花の盛りが半月も早いようです。