私にとっての8月は祈りの月です。
今日6日は広島に原子爆弾が投下された日、9日は長崎、そして15日は終戦の日と続きます。
旧制女学校の4年生の夏は、学徒動員で、全員入寮、12時間交替の昼夜勤の勤労の日々でした。すでに戦局は切迫していて、小倉造兵廠での風船爆弾の紙貼り作業は解散となり、分散して近隣の軍需工場に配属されていました。私は炭鉱の事務所で、慣れない製図のトレスを、友人たちは鋳物工場の熱気の中でと働いていました。
6日も、15日も晴れ上がった青空の下、蝉の声が降りしきっていました。
9日は、小倉に落とされるはずの原爆が、厚い雲に遮られていたため、B29エノラ・ゲイは次の目標、長崎へと進路を採ったのでした。
夫の親友は長崎高射砲部隊で被爆死しています。女学校卒業後進学した私も、机を並べていた友人二人を失いました。1年の冬、被爆の後遺症で病床の身となり、2年への進級をすることなく不帰の人となりました。
強い夏の日射しと夾竹桃の花を目にすると、なぜか今も、あの暑い日の「広島に新型爆弾が落とされた」というラジオから流れるニュースを聞いた日のことを思い出します。
今日の秋葉広島市長の平和宣言の言葉の中で「平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきりと『ノー』というべきです」の発言に、心からの声援を送ります。
9条がねじまげられることがないことを念願してやみません。
今日6日は広島に原子爆弾が投下された日、9日は長崎、そして15日は終戦の日と続きます。
旧制女学校の4年生の夏は、学徒動員で、全員入寮、12時間交替の昼夜勤の勤労の日々でした。すでに戦局は切迫していて、小倉造兵廠での風船爆弾の紙貼り作業は解散となり、分散して近隣の軍需工場に配属されていました。私は炭鉱の事務所で、慣れない製図のトレスを、友人たちは鋳物工場の熱気の中でと働いていました。
6日も、15日も晴れ上がった青空の下、蝉の声が降りしきっていました。
9日は、小倉に落とされるはずの原爆が、厚い雲に遮られていたため、B29エノラ・ゲイは次の目標、長崎へと進路を採ったのでした。
夫の親友は長崎高射砲部隊で被爆死しています。女学校卒業後進学した私も、机を並べていた友人二人を失いました。1年の冬、被爆の後遺症で病床の身となり、2年への進級をすることなく不帰の人となりました。
強い夏の日射しと夾竹桃の花を目にすると、なぜか今も、あの暑い日の「広島に新型爆弾が落とされた」というラジオから流れるニュースを聞いた日のことを思い出します。
今日の秋葉広島市長の平和宣言の言葉の中で「平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきりと『ノー』というべきです」の発言に、心からの声援を送ります。
9条がねじまげられることがないことを念願してやみません。
朝日新聞の朝刊によりますと改憲賛成派が憲法改正の発議に必要な3/2を割り込んだのは初めて。また、9条改正については当選者の26%が賛成で、反対。は54%。新勢力全体でも賛成31%、反対50%だったとあります。一先ず6年間は改正なし安心出来そうです。また参議院選挙で惨敗したからでしょうか、原爆症の認定に「専門家の判断を元に改めて見直すことを検討させたい」と被爆者らに約束した。とあります。なぜ62年もの時間が必要だったのか疑問が残りますが一日も早く病む人達を救って上げたいものです
夏の雷が時々落ちるとか、齷齪暮らしも生あればこそ、ご健康を祈りしております。
戦争当時の生々しいお話、いたたまれない気持ちで読ませていただきました。9日の当初の目標が小倉だったことは、初めて知りました。こうして記事にすることさえ、boa!さまにとってどんなにおつらいことかしらとやりきれない気持ちでいっぱいです。このたびの広島市長の平和宣言を目の前で聞いたはずの安倍総理に、広島市民の痛みや祈りがまっすぐに伝わったと信じたいです。参院選では、改憲問題が年金問題の影に隠れてしまったことも残念でした。
昨日、こちらの町では午前8時すぎにアナウンスが入りまして、平和の鐘の音とともに合掌、黙祷をさせていただきました。わたしのように当時のことをほとんど知らない壮年の世代が、もっとも真剣にこれからの平和を考え、実行していかなくてはいけないと思いを新たにしています。
明日は立秋、夜にはもう虫の音が聞こえるころですけど、日中の暑さはこれからしばらくがピークです。ご主人さまともども、くれぐれもお大事になさってください。
強制疎開の名の下に、住み慣れた家を壊され、やむなく母の田舎に疎開した経験も、親たちの思いとは別に、子供心にも、友達、遊び場、学校と、思い出を引き裂かれた悲しみを引きずっていました。(もし、疎開していなければ最初の空爆で焼かれていましたが。)
生き残った命をいつくしんで、自分にできる限りの反戦の誓いを貫いていきたいと思っています。請われれば中学生たちを前に『あなたたちの年のころ』を話すことにしています。
歴史を眺める時、あの時、ああだったら・・、こうだったらと考える事、そうです、タラの話です。
人類史上、最大の汚点"2発のピカドン”を防ぐチャンスは何度もあったのではないか?と思うのです。
4月7日の大和の沈没・米軍の沖縄上陸等々、
早く決断をしておれば・・と。
もう、昔のこととして、遠い存在に感じている人が多い中で、戦争を知らない世代の雪月花さんが、真摯に向き合おうとなさる姿勢をありがたいものに思い感動を覚えます。
宣言にあった「都市が立ち上がり、市民が国際政治を動かそうとしている」を信じて、実行への足元をしっかり見定めて生きてゆかねばと思っています。
誠実に積み上げてこられた7年間のブログ”雪月花”の歩みを、ゆっくり拝読したいと思っています。
持ち主同様、身動きもままならぬ重さだったXPが、見違える動きで、今度は勝手が違って戸惑っています。Meで、使い手の腕さえあればあのような画面構成ができるのですか。驚きです。
庭の草花は咲きはじめた水引草を筆頭に、鬼灯が色づき、秋海棠もつぼみが形を見せています。季節は確実に、進んでいるようです。
「人類の歴史を二つに分けるなら、核を人類の頭上に放った45年8月6日が境目」といった広島の人がいましたね。
過去の歴史の命をかけた教えを、おろそかにしてはならないでしょう。あやまちはくりかえしません。を虚しいものにさせないために、何ができるかを見極める叡智がほしいと切望します。
偶然訪れた「もののあはれ」の物語を時々拝見しています。同年代の方かなあすごいなあ、と思いながら。
で、「祈りの月」で、またびっくり、旧制女学校、なんとなつかしい、それもすぐ近く、私は対岸の下関高女でしたから、同級の友人と昨日電話でおしゃべりして、8月は気が重い、どうしてもあの夏が思い出されるから、と、
学徒動員、私などはなぜか貯金局でしたが、ある日突然の空襲、夜中で逃げ迷い家は焼かれませんでしたが、貯金局は全焼、翌朝駆けつける私の目に留まったのは、道端で亡くなった方の白い亡き骸、あの光景は忘れられません。
広島の赤十字に行った友人、やはり重い、重い記憶です。
今日は9日、長崎の日、どうしても語り継ぐべき日です。いろいろ考えさせていただきました。
「祈りの月」ありがとうございました。
コメントをいただきながらうっかり、見落としていました。心より失礼をお詫びします。
多分、同じ年齢か、もう少し後、あまり違わないと思います。小倉造兵廠では、防空壕が2つ離れていて、私たちは命を拾いました。長く機銃掃射の米兵の笑っているような顔を忘れることができずにいました。
お互いに8月は重い月ですね。
地道に私たちの「平和宣言」を語り継いでゆくのが、理不尽に倒れた人たちへの鎮魂になると信じています。
あの9日も、前日の八幡空襲の余燼がくすぶっていました。照りつける真昼の太陽の下で、終戦の詔勅に呆然自失した日がすぐやってきます。
私たち世代が、犠牲にした青春の時間を注いで築いてきたこの国の平和、それだけはなんとしても守っていきましょうね。
この失礼に懲りたりなさらず、時にはご訪問をお待ちします。共有できる想いを述べ合う心強いお方にめぐり合えて仕合せです。
すばらしいブログも拝見しました。もしや、下関から上京して清川先生の講座に参加される方かもしれないなど、はてしもない空想を逞しくしています。
ありがとうございました。
また8月15日がやってきますね。
逃げ惑う私の目に飛行機から覗いているような米兵を見たのが焼きついていますが、人はそんな見えたはずないといいます。でも…。
私は下関は父の転勤先だったので、戦後は4年ぐらい、後は殆ど東京近辺です。出身地は大分県中津市ですが、もう私が最後で誰もいません。
清川教室には月2回通ってますが、そうこちらのブログを知るきっかけになった、蛙さんとはお教室が違うので、実際には存じ上げないのです。
まあ時間だけはゆっくりあるので、マイペースでやっています。これからもどうぞよろしくお願いします。
低空でくるB25の前頭部は、ガラスで覆われていて、両足の間の機銃を握っている両手も、動くものを見かけると容赦なくダダッ、ダダダッと撃ってきたのも。
グラマンや、B27も目をつぶるとはっきり描けるような気がします。
明日は15日、どこにも出かけることなく、祈りの灯をともします。
ブログで拝見しましたが、7日は、がん手術1周年だったのですね。ご無事な経過をおよろこび申し上げます。
夫も、昨年9月胃がんの全摘出手術を受けました。
現代医学の恩恵に感謝して暮らしています。
暑さ厳しい折、お体をおいといください。