「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

いづれ菖蒲か杜若

2006年05月07日 | ああ!日本語


 暦の上では、八十八夜も過ぎ、はや立夏です。五日の「こどもの日」は、長く男の子の節供とされてきました。
軒端に菖蒲を挿すところから、菖蒲の節供とも言い、尚武の語呂合わせから、男の子の節供になったと聞いています。

 ところで、あやめ、花菖蒲、かきつばたの区別は、ものの本で読んで理解したつもりでも、実物を前にしたとき、やはり区別に迷ってしまいます。「いづれあやめか、かきつばた」とはよく言ったものです。

 こんなことを書き出したのも、今朝、花の終わった皐月の花柄を摘みとっていて、水引草の陰にひっそりと一輪の「戸畑あやめ」が咲いているのを見つけたからです。友人にもらって、何気なく植えたものですが、珍しい品種だとか。身の丈15cmほどです。当初の濃紫より色が褪せてきています。

 枕草子の「めでたきもの」の段のように、「なにもなにも 紫なるものはめでたくこそあれ」で、この季節の紫に咲く花は野の小さな花もすべてゆかしい美しさです。
紫の花のなかには かきつばたすこし憎き。」といっているのは、この花の背後にある伊勢物語,東下りの八橋の条、例の「カキツハタ」を各句の頭に置いて詠み込んだ、折句の有名な歌へのやっかみを含んだ称賛でしょう。

 この花の汁を衣に摺りつける染色があったようで、「花摺り」と呼ばれています。一説には、かきつばたの異名、「書き付け花」からの転ともいわれています。
 
 さて、本題の「いづれあやめか、かきつばた」は、ぬえ退治の源三位頼政以来、区別しがたい美しさで、選択に迷う。の意味で用いられていますが、単に美しさの比較を超えて、どちらもすぐれているので、優劣を決めがたいといった全体的な価値にまで広がりをみせています。

 初夏を彩る濃紫のかきつばたは、万葉の昔から、美しい女性の面影を重ねて歌に詠われてきました。
 吾のみや かく恋すらむ かきつばた 丹つらふ妹は いかにかあらむ  巻10・1986
 「丹頬合」赤い頬をした乙女への恋の歌です。すこし赤っぽい色の花なのでしょう。
 一方、伊勢物語の、昔男が恋焦がれた「かきつばたの女」は「なれにし妻」で、気品と落ち着きのある色の濃紫でしょうか。

 多くの歌の中で、やはり、古今集 恋歌一の巻頭、よみ人知らずの古歌をあげたいと思います、
 ほととぎす 鳴くや五月のあやめ草 あやめも知らぬ恋もするかな  
 長い序詞をひきずって、ものの筋道をいう「あやめ」を引き出している歌です。耳にしているホトトギスの声音に自分の切ない思いを、目前の濃紫の花に恋人の姿を重ねて歌っています。あやめも、かきつばたも美しい女人の姿に擬えるのががふさわしいようです。