「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

恵蘇八幡宮 

2005年05月26日 | 旅の足あと
朝倉の歴史散歩
 宗像大社に始まった古代史への憧れは、甘木、朝倉へとリンクしてゆきました。朝倉の三連水車がかかる掘割にほど近く、国道386号沿いに恵蘇八幡宮があります。道路地図には木の丸殿跡と出ています。

 この裏山が斉明帝仮埋葬の場所と伝えられる所です。古木の茂る山は夏の日差の中で、昨年秋月からの帰途に立ち寄ったとき、ご陵の朽ちた注連縄や、樹木に垂れ下がる蜘蛛の糸が夕風にゆれていました。
山の端にあぢ群騒ぎ行くなれど我はさぶしゑ君にしあらねば
 帝が亡き人を悼んで歌われたものですが、68歳の高齢の女帝は卒然とこの朝倉の行宮で崩御。代わって百済救援の総指揮を執るのが皇太子中大兄ですが、皇子は丸木のままの「もがりの宮・木の丸殿」を建て亡き母の魂祀りをされました。
 
 斉明女帝は松本清張や黒岩重吾を筆頭に小説家たちの食指の動く謎の多い帝ですが、朝倉橘広庭宮に入られて僅かに75日、突如として死を迎えられます。

 日本書紀に、中大兄皇子が帝の遺体を磐瀬行宮に運ぶとき、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を着て「喪の儀を臨み視」ていて、「衆皆あやしぶ」と記されており、それは女帝の眼前で展開されたクーデターで暗殺された入鹿の怨霊であることを暗示しています。
秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ
の、百人一首冒頭の天智帝の御製はこの殯宮のときのものという説もあります。この古墳の麓には、自然石のままの墓が数基あり、殉死した従者たちの墓と伝えられています。黒くあらい石肌を苔がそっと憐れむかのように覆っていました。
 朝倉の地は古代史へのロマンの夢を駆り立ててくれます。

やがて壬申の乱へと展開する流れの中で、胸形君徳善の娘、尼子娘あまこのいらつめは大海人おおあま後の天武帝との間に第一皇子、高市皇子たけちのみこを生んでいますが、彼女たちもこの地にあったのは間違いがないところです。