「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

夜明け

2004年12月13日 | ああ!日本語
K先生に刺激されて、久しく記憶の底に沈殿していた日本語をおもいかえしました。「かはたれ」のような雅の言葉が生きて使われているなんて驚きです。
もとはほの暗い明け方を意味していたのが、夕暮れにも使われるようになり、今では、たそがれに重ねて、こちらが主流のようです。
 ところで、朝方、夜明けをあらわす日本語の数々を思い起こすとき、「暁」(あかとき)「鶏鳴」ケイメイに始まって、「東雲」シノノメ、「曙」アケボノ「有明」アリアケと微妙な時間差を表現する名詞に恵まれた日本語の美しさ。なにしろ「言霊の幸はふ国」ですから。外国語の造詣が浅くとも、これほどの多様性は決して存在しないと言い切れます。
 かつて、ボランティアで、海外から研修に来ている人たちに日本語を教えたとき、一番に彼らが音を上げたのは、自分をさす代名詞の日本語のかずかずでした。わたくし、わたし、あたし、わし、おれ、ぼく、われ、おら、自分、わがはい、おいら、まだまだあるでしょう。男女、親疎を問わず「I」で済むというわけにはいかないのですから。その上、厄介な以心伝心という、独特の、無言の表現法も存在します。古代から伝統的にも、当然判っているときに主語を省略するのは普通ですから。心ひそかに、どうだ参ったか。とその一見論理性に欠けるかのような日本語の持つふくよかさに優越感を抱いたものです。ですが、今は雑駁な日常に流されてなんと貧しい日本語を使っていることかと、ひとしきり反省したことでした。