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進歩の触手

2005-06-26 21:43:05 | BOOKS
D.R.ヘッドリク 「進歩の触手」 日本経済評論社 2005.02.25. 

西欧技術に対する非西欧政府の反応はさまざまで、近代化の選択の仕方によっては、19世紀のエジプトや中国の清王朝からイランの王に至るまで多くの体制が没落した。 
西欧の技術は熱帯地方に、鉄道、プランテーション、電信網などのように別々の事業の形で伝わった。しかし、産業革命のきっかけとはならなかった。なぜ西欧の技術が限られた結果しかもたらさなかったのか。 
鉄道時代はほぼ一世紀にわたり、1830年からの最初の30年間は実験の時期で、イギリス、西ヨーロッパ、およびアメリカ合衆国東部で急速な発展がみられた。鉄道に対する需要は、多くのヨーロッパ人が植民している諸国でもっとも大きく、非ヨーロッパ人で、鉄道に熱狂していたのは日本人だけであった。1914年まで、鉄道は植民のための新天地を開発し、通商を発展させるものと期待された。
インドは二つの理由で特殊なケースだ。第一に主権国家にあってインドだけが植民地であり、第二に、鉄道ブーム期の工業化に失敗した唯一の国であった。インドの鉄道には、イギリスとインドの二つの政府が関係し、イギリスがインドの掌塩を強めるのに役立った。 鉄道は、予期に反してインドの人々が熱狂的に飛びついた。乗客数は、1880年の8000万人から1904年には2億人、1920~21年には5億人、そして1945~46年までに10億人に増加した。その一つの理由はおそらく世界でもっとも低い運賃であった。 鉄道旅行はカーストの障壁を侵食しながら、何百万人という乗客の目の前で、その障壁に代わるより単純な社会区分を示した。三等単には最底辺の仕事に従事するヒンドゥー教徒やイスラーム教徒、一等尊には管理的地位にあるヨーロッパ人、二等車にはインド生まれのイギリス人が乗るという社会区分であった。亜大陸の新しい国民を形成する宗教・民族意識の覚醒に、鉄道は知らず知らずのうちに役割を果たしていたのである。 
日本では、鉄道建設の着想と資本は国内にあった。最初の路線である東京-横浜間19キロメートルは、政府の事業で、1872年に天皇の臨席のもとで開業した。初期の鉄道建設において、日本人はイギリス人技師長を含む多くのヨーロッパ人を雇用したが、鉄道時代が始まってからわずか7年後の1877年に、京都-大津間の路線が外国の援助なしに建設された。当初から、日本の産業発展に貢献するものとして国会で討議され、海外から押し付けられたものではなかった。 
中国は鉄道時代を通して理論上は統一国家、独立国家であった。しかし、実際には分割され、外国の干渉に従属していた。干渉の一つに、ヨーロッパ人の利益に供するためのヨーロッパ企業による鉄道建設があった。鉄道は、中国の支配階級の抵抗を受け、民衆の怒りをかい、動乱の中で破壊され、損害を被り、放置された。結果的に、中国は1942年にわずか1万9300キロメートルの線路を有するだけで、それはインドのおよそ4分の1、一人当たりでは5分の1であった。 
第3の事例は、マラヤ、インドシナ、アフリカ植民地のような、さらに小さな熱帯の従属国にあった。これらの地域は19世紀の終わりにほとんど植民地化されたので、鉄道は1890年代以降、純粋に原料を輸出するために建設された。
「インドの経済生活が外国に方向づけられ限られた資源を浪費していたのと、日本経済が国内的な方向づけをし日本人が利用し得る限られた資本を用意周到に倹約していたのとは、鋭い対照をなしている。鉄道政策の相違は、自国の問題を処理している国と、外部の列強によって問題を管理されている従属国との方向性と強調点の差異を示している」
結局、インドにおけるイギリスの鉄道政策の主要な関心事はインドをイギリスに役立つようにすることであった。

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